自分の情熱という歪んだ媒介物を通して事実を見る

 けれども(知識の)包括性(comprehensiveness)だけでは知恵を構成するに十分ではない。そこには人生の目的に対する一定の自覚もなければならない。このことは,歴史を研究することによって例示されよう。多くの著名な歴史家は,自らの情熱というゆがんだ媒介物を通して事実を見ることによって,益よりも害を多くなしてきた。ヘーゲルは(知識の)包括性の欠如によって傷つくことがまったくない歴史哲学をもっていた。なぜなら,ヘーゲルの歴史哲学は太古の時代から出発して不明確な未来にまで続いたものであったからである。しかし,ヘーゲルが教えこもうとした歴史の主要な試練は,西歴紀元四百年からドイツがもっとも重要な国家であり世界における進歩の旗手であった彼が生きていた時代までのことであった(注:つまり,ドイツが世界をリードする最重要な国であるという前提でしか歴史を考えなかった,ということ)。おそらく,知恵を形づくっている包括性を,知性だけでなく感性も含めるように拡張することはできるであろう。知識は広いが感情は狭い人間をみつけるのは決してまれなことではない。このような人は私の言うところの知恵に欠けているのである。

Comprehensiveness alone, however, is not enough to constitute wisdom. There must be, also, a certain awareness of the ends of human life. This may be illustrated by the study of history. Many eminent historians have done more harm than good because they viewed facts through the distorting medium of their own passions. Hegel had a philosophy of history which did not suffer from any lack of comprehensiveness, since it started from the earliest times and continued into an indefinite future. But the chief lesson of history which he sought to inculcate was that from the year 400AD down to his own time Germany had been the most important nation and the standard-bearer of progress in the world. Perhaps one could stretch the comprehensiveness that constitutes wisdom to include not only intellect but also feeling. It is by no means uncommon to find men whose knowledge is wide but whose feelings are narrow. Such men lack what I call wisdom.
出典: Knowledge and Wisdom (1952).
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1073_KW-020.HTM

<寸言>
自国を特別視するような歴史哲学や歴史観はゆがんだものであり、事実や真実を偏見なしでみることはできない。従って,歴史の教科書は,国際的な委員会を作って編纂したほうがよい。そういった客観的な世界史のなかに位置づけて、各国が地域史として自国の歴史をまとめるとよいであろう。