若者は全員、自衛隊の体験をしたほうがよいと言う稲田防衛大臣

(国民のためというより,国家のためにとるに足らない理由で喜んで人を殺したり殺されたりする男を作ることが男子教育の目的の一つだと考えている人びと(注:愛国心教育や国防教育を最重要視する人々は、明らかに、拡散した形での親の愛情に欠けている。

Those who regard it as one of the purposes of male education to produce men willing to kill and be killed for frivolous reasons are clearly deficient in diffused parental feeling;
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2: The Aims of Education
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE02-090.HTM

[寸言]
inada_kokumin-minna-jieitai-keiken 戦場においては上官の命令は絶対であり,敵国人を躊躇なく殺害しなければならない。兵士は、そのような状況において上官の命令に従っただけであり、たとえ敗戦となっても、自分には責任はないと主張する人が少なくない。
官もより上の上官の命令に従っただけである。太平洋戦争は「聖戦」であり、天皇が最高司令官であった。A級戦犯だけは死刑になったが、米国が「使える」と思った(故)岸(安倍総理の祖父)は、釈放され、後に総理大臣にまでなっている。

つまり、戦争においては「愛国無罪」であり、国(国民ではない!)のために闘った兵士は「英霊」として称えられ、敵国人をたくさん殺せば殺すほど評価される。それならば、「愛国無罪」をさけぶ中国人をどうして非難できようか?
(実際は「無駄死であるので、自国に攻め入って来ないかぎり戦争はすべきではないが,戦争指導者はそれでは困るので、多数の敵国人を殺害したものも「英霊」として称えて誤魔化す。)

どこの国においても、為政者(国家指導者)は、兵士は国(=実際は、国家指導者たち)のために自分の命のことなど気にしないで敵国人と闘ってもらいたいと望む兵士だけでなく、国民の多くが従順であることを望むだから、稲田国防大臣のように、国民はみんな若い時に自衛隊を体験したほうがよいなどと言い出す人間が少なくない。

独断論者と懐疑論者 - どちらも社会に災難を引き起こす

logical_paradox (確実かつ有益な)知識は、他の良いものと同じく、困難ではあっても、獲得不可能なものではない。独断論者は(確実な)知識獲得の難しさを忘れ、懐疑論者は(確実な)知識獲得の可能性を否定する。両者は、ともに誤っている。そして、その誤りが世のなかに蔓延すれば、社会的な災難が引き起こされる。

Knowledge, like other good things, is difficult, but not impossible; the dogmatist forgets the difficulty, the sceptic denies the possibility. Both are mistaken, and their errors, when widespread, produce social disaster.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2: The Aims of Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE02-050.HTM

[寸言]
人は自分の好みにあった情報をより求め、それらの「大量の情報」で自らの偏見をより強固に信じることになる。逆にこれまで提供されてきた「大量の情報」の多くが不十分であったり、嘘であったりしたことを強く感じるものは、全てに疑ってかかることになりやすい。
labelling_retteruhari 両者とも「知識」は正しいか間違っているか、どちらかであると思い込んでいるという点で間違っている。また両者とも、自らが独自に(論理的推論を駆使して)確からしい情報を蓄積する努力をしていない。提供される「大量の情報」について、確信を抱けない場合は、「判断停止」をしておけばよいだけのことであるが、多くの人はそれができず、色をつけてしまう。つまり、レッテル貼りが好きな人が多い自分がレッテル貼りをされるのは極度にいやがるくせに、他人にレッテル貼りをすることはなんとも思わない人が多い。

教育の第一の役割 - 知識への愛や自ら考える力を育むこと

教育が生み出すべきものは、1)知識は、困難ではあるが、ある程度獲得できるものであり、2)いかなる時代においても、知識として通用しているものは多かれ少なかれ誤っている可能性があるが、3)しかしその誤りは’注意’と’勤勉’によって正すことができる、という’信念‘である。

What it (education) should produce is a belief that knowledge is attainable in a measure, though with difficulty; that much of what passes for knowledge at any given time is likely to be more or less mistaken, but that the mistakes can be rectified by care and industry.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2: The Aims of Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE02-050.HTM
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[寸言]
教育の第一の役割は、国家にとって都合のよいことを「絶対的真理」として子どもに教えることであってはならない。どのような知識もー自然科学の知識も含め-間違う(間違っている)可能性があり、その自覚のもと、より広くかつより正しい知識を自ら身につけたいという心性を育むことが、教育の非常に重要な役割である。

abe_rekisi-netuzo_self-deception そのような視点で考えれば、教科書検定制度などは好ましくない制度であり、正しい,あるいは間違っているという判断は,子ども自らができるようにすることが重要であり、そのためには、間違っていると言われている意見も子どもに知らせ、どこが間違っているか、あるいは本当は間違っていないかについて、子ども自らに考えさせる授業にする必要がある。

過度な懐疑も独断もともにさけるべき

Chinese-eyes_Japanese-eys このように、近代日本は、古代中国と正反対の欠点がある。中国の知識階級(文人)があまりにも懐疑主義的で怠惰であったのに対し、日本の教育の成果は、過度に独断的かつ精力的になる可能性がある。懐疑に黙従することも、独断に黙従することも、教育の生み出すべきものではない。

We have thus in modern Japan a defect opposite to that of ancient China. Whereas the Chinese literati were too sceptical and lazy, the products of Japanese education are likely to be too dogmatic and energetic. Neither acquiescence in scepticism nor acquiescence in dogma is what education should produce.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2: The Aims of Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE02-050.HTM

[寸言]
共産党政権が成立する前の中国,第二次世界大戦前の日本のことをいっていますが,次のラッセルの言葉に表された中国と日本の国民性の違いは今でもしっかりと残っています。

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abe_under-control「中国と違い、日本は宗教的な国である。中国人は証明されない限り人の言うことを信用しないが、日本人は嘘と証明されるまで信用する
Japan, unlike China, is a religious country. The Chinese doubt a proposition until it is proved to be true; the Japanese believe until it is proved to be false.
出典: The Problem of China 1922, p169 (George Allen and Unwin ed.)]
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「習慣は第二の天性である」 Habit is second nature!

fat-kid-eating-chips-watching-tv 子供たちは,概して,その置かれている状況に応じて,良い方向にも悪い方向にも展開可能な衝動を有している。さらに,子供たちは,新しい習憤を身につけることがいまだ容易な年頃にある。そして,よい習慣は,’徳’のほとんどを自動的なものとする(良い習慣を身に着ければ,良い行いをしようと意識的に努力しなくても,良い行いを自動的・無意識的にするようになる。)。

They (children) have, as a rule, impulses which can be developed in good or bad directions according to the situations in which they find themselves. Moreover, they are at an age at which the formation of new habits is still easy; and good habits can make a great part of virtue almost automatic.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 1: Postulates of Modern Educational Theory
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE01-130.HTM
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[寸言]
「悪い行い」をする大人が多いということは、子どもの時に悪い習慣を身につけた人が多いということですね。
習慣は「第二の天性」だと言われます。子どもは、親や親しい人のまねをする(同じような習慣を身につける)ものですので,大人は相手が子どもだからと甘く見ていると、好ましからぬ大人を再生産することになってしまいます。

「教育の推進力」を個々人の「自発的願望」に置きたいのだが・・・

VIRTUE-238x300 歩いたり話したりしようとする努力において示されているように,正常な子供が皆持っている’学びたいという自発的な願望’が,教育の推進力とならなければならない。この推進力を’むち’に代替させたことは,現代の大きな進歩の一つである。

The spontaneous wish to learn, which every normal child possesses, as shown in its efforts to walk and talk, should be the driving-force in education. The substitution of this driving-force for the rod is one of the great advances of our time.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 1: Postulates of Modern Educational Theory
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE01-120.HTM

[寸言]
empathy-good-manners 現代の国家は,「鞭」による教育はほとんどの国でやめ,「飴と鞭」の教育政策に移行している。外から「飴や鞭」を与えるのではなく、「個人の自発性をのばす」教育政策をとっている国は、残念ながらほどんど存在していない。主権国家がなくなり(廃藩置県にならって、「廃」主権国家「置」世界連邦政府」を断行しない限り、それは「絵に描いた餅」にすぎないかもしれない。

「高潔な」人々-自分を高潔だ(悪を懲らしめている)と思っている人々

Statue-of-Liberty_with-gun 高潔な人たちが,自分は正当にも「道徳的な悪」を懲らしめているのだと思いこんで行ってきた’戦争’や’拷問’や’虐待’のことを考えると,私は身震いする。

I shudder when I think of the wars, the tortures, the oppressions, of which upright men have been guilty, under the impression that they were righteously castigating ‘moral evil’.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 1: Postulates of Modern Educational Theory
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE01-110.HTM

[寸言]
aikoku-onna_seijikatachi 思うだけであれば個人の勝手(自由)であるが、権力者が「悪」(だとみなすもの)を懲らしめる時に、しばしば世界に不幸をもたらす。また、まともに抵抗できない者は,それ(強大な権力)に対抗するための新たな悪(自爆テロもその一つ)を持って対抗する。

特権階級しか享受できな教育(及び教育機関)は時代遅れ

tokken-kaikyu たとえば,両者(注:ロックとルソー)とも,自由主義民主主義に導いた傾向に属している。しかし,それにもかかわらず,両者とも,一人の人間の全ての時間がささげられるような,貴族の少年(息子)の教育しか考察していない。そのような方式(教育法)の結果がいかに優れていたとしても,近代的な物の見方をする人であれば,誰もそのような方式について,真剣に考察しないだろう。なぜなら,すべての子供におとなの個人教師が一人ずつ専念することなど,算術的に不可能だからである。それゆえ,そのようなシステム(やり方)は,特権階級によってのみ採用可能なものであり,公平な世界では存在不可能であろう。

tokken-kaikyu_nisei-giinBoth, for example, belong to the tendency which led to liberalism and democracy; yet both consider only the education of an aristocratic boy, to which one man’s whole time is devoted. However excellent might be the results of such a system, no man with a modern outlook would give it serious consideration, because it is arithmetically impossible for every child to absorb the whole time of an adult tutor. The system is therefore one which can only be employed by a privileged caste; in a just world, its existence would be impossible.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 1:Postulates of Modern Educational Theory
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE01-010.HTM

[寸言]
私的に大金を払って我が子に優秀な家庭教師をつけるのなら悪くはないであろうが、公的教育機関が経済的に豊かな家庭の師弟しか入学できないようなものであってはならない、ということ。

ルソーの教育論を賞賛する人が少なくないが,当時においてはすばらしくても、一部の富裕層や社会的地位が高い親の師弟しかその恩恵を享受できないような教育(及び公的教育機関)は、現代においては望ましくない。才能にめぐまれたごく小数の子供に対するエリート教育は必要であろうが,それはあくまでも例外的なものであり、社会を分断する(人間をグループ分けする)ような教育は,公的教育機関が行ってはならない

現代の日本では、経済的格差(貧困)教育格差を生んでおり,その教育格差経済的格差を再生産するような状況をもたらしている。だから医者や弁護士になるためには、親が医者や弁護士か、あるいは、親が資産家か、子供が(貸与型ではなく)給付型奨学金をもらえるように抜きん出て優秀である必要がある。

教化(善導)と迫害本能

chimimouryo_gosei 心の道徳律は,主に思いやりの感情と気だての良さからなると,私は思う。しかしこれらの性質はお説教によっては生み出されず,十分な消化力と健全な分泌腺と恵まれた環境によって生みだされる。 「関係者がみな不愉快な思いをしたとしても,自らの義務を果たせ」というのは教化(善導)であり,迫害本能に訴えるものである。
出典:ラッセル『アメリカン・エッセイ集』の中の「教化・善導について」
詳細情報:http://russell-j.com/EDIFY.HTM

The morality of the heart, as I see it, consists in the main of kindly feelings and good nature. But these cannot be produced by sermons: they are produced by good digestion, sound glands, and fortunate circumstances. “Do your duty, however unpleasant it may be for all concerned” is edifying and appeals to your sadistic instincts.

[寸言]
aikoku-onna_seijikatachi 我が子の教育にあたる教師は,高い道徳的な感性を持っていてほしいと多くの親が望みますが,ラッセルが言うように,「正しいことを教える(あるいは説教する)」ことばかりに力をいれる教師は余り良い教師とは言えません。現代日本ではむしろ,受験を意識した「知識の詰め込み」教育をしている教師の方が多いかもしれませんが,ラッセルがこのエッセイでのべているような ,教化(善導)を主張する教育関係者の悪意や迫害性を自覚している人はどれだけいるでしょうか?

「意識的な自己否定」によって自意識過剰に陥らず興味・関心を外に向けよう

utopia_creating 幸福な人生は,驚くほど,善い人生と同じである。職業的な道徳家は,これまで,自己否定を重視しすぎてきた。そして,それを重視しすぎることによって,強調すべきところを間違えてきた。意識的な自己否定は,人を自己に没入させ,自分が犠牲にしたものをまざまざと意識させる。その結果,自己否定は,しばしばその当面の目的を達成しないばかりか,必ずといってよいほど究極の目的も達成しない。必要なのは,自己否定ではなく --自分の美徳の追求に没頭している人なら意識的な自己否定によってのみ実行できるような行為を自発的かつ自然に可能とするように-- 興味を外へ向けること’である。

The happy life is to an extraordinary extent the same as the good life. Professional moralists have made too much of self-denial, and in so doing have put the emphasis in the wrong place. Conscious self-denial leaves a man self-absorbed and vividly aware of what he has sacrificed; in consequence it fails often of its immediate object and almost always of its ultimate purpose. What is needed is not self-denial, but that kind of direction of interest outward which will lead spontaneously and naturally to the same acts that a person absorbed in the pursuit of his own virtue could only perform by means of conscious self-denial.
出典: The Conquest of Happiness, 1930, chap. 17: Th Happy Man.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/HA28-030.HTM

[寸言]
chimimouryo_gosei 自分を過大評価することはよくないが,「自己否定」はもっとよくない。「自己否定」は謙虚なようでいて,「自意識過剰」に陥り危険が大きく,人を不幸にする。