親としての(3種類の)感情-49歳にして初めて子どもを持ったラッセル

1921年11月(注:ラッセル49歳の時),初めての子供が生まれると,それまでこらえていた感情が一気に解放されたのを感じ,それに続く10年間は,私の主たる目標は’親たること’であった。親としての感情‘は,私も自分で体験してわかったことであるが,非常に複雑である。
FAM-1924 まず第一に,そして最も主要なのは,全く動物的な愛情であり,幼い子供の振る舞いで魅力的なものを見守る喜びである。
第二に,どうしても逃れることのできない責任感であり,それは懐疑論が容易に異議を唱えることができない日常活動(日常生活)に,一つの目標を与えてくれるものである。
第三に,非常に危険な,利己主義的な要素がある。即ち,(1)自分が失敗したことを自分の子供は成功するかもしれない,(2)自分自身の努力が死や老衰の故に終止符を打たれた時,自分の子供たちがその仕事を引き継いでくれるかもしれない,それから,ともかくも(3)子供を持つことによって生物学的死滅をまぬがれ,自分の生命を大きな生命体の流れの一部とし,自分の生命が未来に向かって流れていかない単なる水溜りにしない,といった希望である。
こうした気持ちを私はことごとく経験した。そして数年の間(松下注:ドーラとの関係が’複雑になる’までの間)それは,私の人生を幸福と平和で満たしたのである。

When my first child was born, in November 1921, I felt an immense release of pent-up emotion, and during the next ten years my main purposes were parental. Parental feeling, as I have experienced it, is very complex. There is, first and foremost, sheer animal affection, and delight in watching what is charming in the ways of the young. Next, there is the sense of inescapable responsibility, providing a purpose for daily activities which scepticism does not easily question. Then there is an egoistic element, which is very dangerous: the hope that one’s children may succeed where one has failed, that they may carry on one’s work when death or senility puts an end to one’s own efforts, and, in any case, that they will supply a biological escape from death, making one’s own life part of the whole stream, and not a mere stagnant puddle without any overflow into the future. All this I experienced, and for some years it filled my life with happiness and peace.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 4:Second Marriage, 1968
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB24-010.HTM

[寸言]
ラッセルは、最初の結婚に失敗したが、その時の妻アリスは子どもを産めない身体であった。そこで、ラッセルは一生子どもを持つことはあきらめようと決意するが、やはり自分の子どもを持ちたいという気持ちは消えていなかった。
ラッセルは1920年から1921年の約1年間、愛人のドーラとともに、中国の北京大学客員教授として中国に滞在した。そうして、その終わり頃にインフルエンザにかかってしまったが、九死に一生を得ることができた。その回復期(ベッドに横たわっている時)に、ドーラの妊娠を知り、まだ病気が治っていないにもかかわらず、この上ない幸福感にひたることができた。
BEACON-2 1921年秋に英国に帰国すると長男が生まれ、ドーラと正式に再婚する。その後、長女も生まれたことから、1921年から約10年間は子どもの教育がラッセルの最大の関心事となる。そうして(自分たちの子どもを入れる適当な幼児学校がないことから)ドーラとともに、幼児学校(Beacon Hill School)の経営にも乗り出すことになる。ラッセル『教育論-特に幼児期における』はそのような背景で生まれた著書であった。

並外れた「親切行為」によって愛情を獲得しようと努力する者

gizen_aida-mituo 自分は愛されていないと感じる人は,その結果,さまざまな態度をとる可能性がある。彼(彼女)は,愛情を得るために,多分,並みはずれた親切な行為によって,必死の(絶望的な)努力をするかもしれない。しかし,そのようなことをしても,失敗する可能性が非常に高い。なぜなら,親切な行為の動機は,その親切を受ける者(恩恵を受ける人)に感得されるからであり,また,人間性は,愛情を最も要求しないように思われる人に最も進んで与える,というようにできているからである。それゆえ,親切行為によって愛情を獲得しようと努力する人は,人間の’忘恩’を経験して,幻滅することになる。
出典:ラッセル『幸福論』第12章「愛情」
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/HA23-010.HTM

The man who feels himself unloved may take various attitudes as a result. He may make desperate efforts to win affection, probably by means of exceptional acts of kindness. In this, however, he is very likely to be unsuccessful, since the motive of the kindnesses is easily perceived by their beneficiaries, and human nature is so constructed that it gives affection most readily to those who seem least to demand it. The man, therefore, who endeavours to purchase affection by benevolent actions becomes disillusioned by experience of human ingratitude.

[寸言] 24-hour_shogaishaha-kirai_gizen.png
「親切な行い」はもちろんこの世に多くあってほしい。感謝を求めない日常的なささいな親切行為の積み重ねはすがすがしい。しかし,感謝されることを期待して行われる「親切行為」はうとましい。

24-hour_shogaishaha-kirai_gizen だから、たとえば、1年のほとんどは弱者のことは見捨てているのに年に数回だけ「24時間愛は地球を救う」といった番組を放送するマスコミに対しては違和感を覚える人も少なくない(のではないか?)。実際、「24時間テレビ」は健常者には評判が良くても障害者には評判は良くない(右図参照)。どれだけの人がそのことを知っているのか!?
いや、こういった番組は障害者のためというより、日頃,障害者を無視している健常者が自分は本当は心が清いのだと思いたいためのカタルシス番組だと考えれば納得できるかも知れない。そういえば、「24時間愛は地球を救う」を放送しているのは(弱者切り捨ての政策を推し進める安倍政権のヨイショばかりしている)日本テレビや読売テレビでしたね。

「蛮勇」-危険を感知できない人間や無知な人間の危険性及び愚かさ

abe_sanakunin 我々のリストの3番目の性質(注:好ましい人間の特質)としてあげた感受性は,ある意味では,単に勇気を’矯正するものにすぎない。危険を感知することのできない人間にとっては,勇敢な行為は容易であるが,そういった勇気は愚かである場合が多い。無知や怠慢(=忘れっぽさ)に基づく行動(様式)は,いかなるものも満足すべきものと見なすことはできない。なぜなら,最大限充分に知り理解することは,望ましいもの全てにとって不可欠の要素だからである。

Sensitiveness, the third quality in our list, is in a sense a corrective of mere courage. Courageous behaviour is easier for a man who fails to apprehend dangers, but such courage may often be foolish. We cannot regard as satisfactory any way of acting which is dependent upon ignorance or forgetfulness: the fullest possible knowledge and realisation are an essential part of what is desirable.
出典:On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2 The Aims of Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE02-160.HTM

[寸言]
4-chara ラッセルは、合わさって「人間の理想的な性格」の基礎を形作ると思われる特質として、活力(Vitality),勇気(Courage),感受性(Sensitiveness),知性(Intelligence)の4つをあげている。
人間にとって不合理・非合理な恐怖心を持たずに「勇気」を持つことは、男女とも必要なものである。しかし,「蛮勇」はそうではない。後先を考えずに、国の為政者が「蛮勇」をふるって国民に大きな犠牲を強いた実例は、歴史上非常にたくさん存在している。ただし、(ドイツなど一部の国を除いて)どの国の為政者も、過去の古傷をさわられたくないために、「未来に目を向けよう」と一見もっともらしい美辞麗句で誤魔化そうとする。少なからぬ国民もそれに騙される人がおり、なげかわしい。

「恐怖」と「激怒」とは,非常に類似した感情

masuzoe_ganmenhoukai-kujyu 心理学や生理学の観点から見ると,恐怖と激怒は,非常に類似した感情である。激怒を感じる人は,最高の勇気を持っていない。黒人暴動,共産主義者の反乱,その他,貴族制度(特権階級)に対する脅威を鎮圧する際に必ず顕になる残酷さは,臆病(な心)から出たものであり,もっと明確な形の臆病に与えられるのと同様の軽蔑に値する。

From the point of view of psychology and physiology, fear and rage are closely analogous emotions; the man who feels rage is not possessed of the highest kind of courage. The cruelty invariably displayed in suppressing Negro insurrections, communist rebellions and other threats to aristocracy, is an offshoot of cowardice, and deserves the same contempt as it bestowed upon the more obvious forms of that vice.
(23)On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2 The Aims of Education
https://russell-j.com/beginner/OE02-140.HTM

[寸言]
ishihara-shintaro_gekido (不都合な事実を暴かれないかと心配する)臆病や恐怖心からくる残酷さは非常に多く見られる。

戦前の不敬罪,治安維持法,思想弾圧,非国民呼ばわり,テロ根絶の名のもとの残虐行為,人種差別,ヘイトスピーチ,天安門事件,イスラム国の問題・・・。

自分の責任を問われそうになった時の石原慎太郎,舛添要一,不都合な事実を指摘された時の橋本徹や安倍総理・・・

女性を従属的な地位に置くことでなされた害悪-親の因果が子に報い・・・

how-to-meet-and-date-a-shy-girl しかし,こういう男性(注:臆病な女性を好む男性)の息子たちは,母親から恐怖心 を受け継ぎ, --もしも,父親が母親を(臆病なものと)見くびりたいと望まなければ,決して失う必要がなかった-- 勇気を取り戻すために,あとから訓練を受けなければならなくなってしまった。女性を従属的な地位に置くことでなされた害悪は,はかり知れない。こうした恐怖の問題は,その害悪のありがちな一例を提供しているにすぎない。

But the sons of these men have acquired the terrors from their mothers, and have had to be afterwards trained to regain a courage which they need never have lost if their fathers had not desired to despise their mothers. The harm that has been done by the subjection of women is incalculable; this matter of fear affords only one incidental illustration.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2: The Aims of Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE02-120.HTM

[寸言] How-to-Meet-and-Date-a-Shy-Girl.jpg
手痛いしっぺ返し
か弱い女性を保護したいという優越感がまわりまわって自分の息子に気の弱さや恐怖心を植え付け・・・。
母親も謂れ無き(不合理・非合理な)恐怖心を持つべきでなく、女性にも勇気が必要だというラッセルの主張

「女は弱しされど母は強し」(Les Miserable ビクトル・ユーゴー)という名言を引いて、だから大丈夫だと言っているあなた、甘すぎませんか?

年をとっても活力を失わないようにしたいもの

play_with_older-chidren 活力(Vitality)があれば,何ら特別に楽しい事情がまったくなくても,生きていると感じることの中に喜びが存在する。‘活力’は喜びを高め,苦痛を減少させる。‘活力’は,どんな出来事にも興味を持つことを容易にし,しかも,興味を持つことによって,精神の健全さ(正気であること)のために不可欠であるところの客観性を促進する。

Where it(vitality) exists, there is pleasure in feeling alive, quite apart from any specific pleasant circumstances. It heightens pleasures and diminishes pains. It makes it easy to take an interest in whatever occurs, and thus promotes objectivity, which is an essential of sanity.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2: The Aims of Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE02-110.HTM

[寸言]
活力にあふれた子どもは幸福そう。
大人も同じであろうが・・・。(他人を苦しめるような権力者の活力は不要

ラッセル『幸福論(幸福の獲得)』(1930年刊)に対する世間の評価

tp-coh 翌年の1930年には,『幸福の獲得』The Conquest of Happiness/いわゆる『幸福論』)という本を出版した。それは,不幸の気質的な原因を克服するために,社会的・経済的制度の変革によってなしうることに対照する(向かい合っている)ものとして,各個人が何をなしうるかということに関する常識的な助言から成っている本であった。

この本は,3つの異なった階層の読者によって異なった評価を受けた。素朴な読者は -本書はそれらの人向けに執筆されたものだが- 本書を愛読した。その結果,大変な売れ行きを示した。これと反対に,インテリぶる連中は,この本を軽蔑すべき金儲けのための,現実逃避の本であり,政治以外になされるべきあるいは言われるべき有益なことがあるのだという虚偽(みせかけ)を支持する本だと見なした。しかしながら,またさらに別の階層,即ち専門的な精神科医のレベルにおいては,この本は非常に高い評価を勝ち得た。

いずれの評価が正しいのか,私にはわからない。はっきりしていることは,この本が書かれたのは,もし自分が我慢できる程度のいかなる幸福を維持しようとしても,大変な’自制心’や’苦い経験から学んだ多くのことを必要とした,そういった時期だったということである。

In the following year, 1930, I published The Conquest of Happiness, a book consisting of common-sense advice as to what an individual can do to overcome temperamental causes of unhappiness, as opposed to what can be done by changes in social and economic systems. This book was differently estimated by readers of three different levels. Unsophisticated readers, for whom it was intended, liked it, with the result that it had a very large sale. Highbrows, on the contrary, regarded it as a contemptible pot-boiler, an escapist book, bolstering up the pretence that there were useful things to be done and said outside politics. But at yet another level, that of professional psychiatrists, the book won very high praise. I do not know which estimate was right; what I do know is that the book was written at a time when I needed much self-command and much that I had learned by painful experience if I was to maintain any endurable level of happiness.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 4: Second Marriage, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB24-100.HTM
quote_secret-of-happiness-is-this-let-your-interests-be-as-wide-as-possible_bertrand-russell

[寸言]
そういった意味で,ラッセルにとって,また多くの人にとっても,「幸福」とは向こうから(「棚からぼた餅」のように)やってくるものではなく,努力して’獲得’するものであった(である)。そこで,ラッセルは書名を The Conquest of Happiness (幸福の克服=獲得して得ること)としたのである。

人生の幸福の総量?

man_eats 善い生活においては,諸活動の間にバランスがなければならず,そうした諸活動は,どれ1つとして,その他の活動が不可能になるまで押し進められてはならない。(たとえば)大食漢‘(暴飲暴食をする人)は,食べる楽しみのためにその他の楽しみをすべて犠牲にし,そうすることによって,彼の人生の幸福の総量を減らしている。
出典:ラッセル『幸福論』第11章「熱意」
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/HA22-050.HTM

In the good life these must be a balance between different activities, and no one of them must be carried so far as to make the others impossible. The gormandiser sacrifices all other pleasures to that of eating, and by so doing diminishes the total happiness of his life.
From:The Conquest of Happiness, 1930, chap.11:Zest

[寸言]
TV(マスコミ)では,「大食い選手権」などの,’大食漢’を褒めたたえるような娯楽番組をかなりの頻度放送します。私はそういった「大食自慢の人」も,それをはやし立てるTV(マスコミ)も,そういった番組を好んでみる視聴者にもあまり良い印象をもてません(はっきり言えば嫌いです)。
若いうちは暴飲暴食をしても具合が悪くなることはないかも知れないですが,過去の暴飲暴食が年をとってから大きな影響を与えます。後悔先に立たず。
暴飲暴食者の一食でアフリカの飢餓者がどれだけ救われるかなどと言えば,せっかく人(多くの人)が楽しんでいるのに無粋な奴だと思うかも知れませんが,やはり,「小人閑居して不善をなす」という思いが強くなります。

狭い範囲のものや事柄にのみ強い興味・関心を抱くことの危険性

are-you-a-fanatic 何がその人の興味・関心を起こさせるか,事前に推測することはできないが,大部分の人は,何らかのものに強い興味を持つことができるし,いったんそういう興味が呼び起こされれば,その人たちの人生は退屈から解放される。しかし,非常に’特殊化された興味‘は,人生に対する一般的な熱意ほどには幸福の満足すべき源泉にならない。なぜなら,そういった興味で,ある人の時間のすべてを満たすことは可能ではなく,また,彼の趣味となった特定の事柄について知るべきことはすべて知り尽くしてしまう,という危険が常にあるからである。
出典:ラッセル『幸福論』第11章「熱意」
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/HA22-040.HTM

It is quite impossible to guess in advance what will interest a man, but most men are capable of a keen interest in something or other, and when once such an interest has been aroused their life becomes free from tedium. Very specialised interests are, however, a less satisfactory source of happiness than a general zest for life, since they can hardly fill the whole of a man’s time, and there is always the danger that he may come to know all there is to know about the particular matter that has become his hobby.

[寸言]
funny-pictures-cat-cancels-today_out-of-interest 興味が持てるものがない,全てが虚しいという心境になっている人でも,やはり どのような状況においても,興味を持てるものはなにかあるだろう。そういった興味・関心を持てるものが増えていくにつれて,つらい境遇にある人も生きづらさへっていくだろう。 ただし,サッカー「しか」興味が持てないとかいうように,◯◯「しか」興味が持てない,というように「特殊化された」興味は非常に危険なものとなりうる。何らかの原因でそういったものにさえも興味が持てなくなったら最悪となる。・・・。

老人だけでなく、若い人でも活力が衰えると外界に興味を持てなくなり・・・

depression_in-the-elderly 人間は,(しだいに活力の衰えとともに)自分のことに注意を奪われ,見たり聞いたりすることや自分に直接関係のないものに興味を抱くことができなくなるこれは,人間にとって非常に不幸なことである。なぜなら,それは,よくて退屈を,悪くすれば憂鬱症を伴うからである。

Human beings are prone to become absorbed in themselves, unable to be interested in what they see and hear or in anything outside their own skins. This is a great misfortune to themselves, since it entails at best boredom and at worst melancholia;
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2: The Aims of Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE02-110.HTM

[寸言]
官庁で高い役職についていた人の中には、定年退職後に、結局部下が自分に従っていたのは(自分の実力というより)ただ役職(権限)のおかげだったのだと気づき、定年後の暮らしが在職中とあまりにもかけ離れていることに「気落ちする」人が少なくないようである。(ひどい場合は「定年うつ病」あるいは「高齢者うつ病」になる人もいる。ただし、かわいい孫がいてその世話をできる人はあまり病気にかからない。)

その事を予想する者のなかで抜け目のない人間は、定年になるだいぶ前から、定年後も関連機関や監督企業などの理事ポストなどになんとか天下りできるように、その人事権をもっている人間(あるいはその上司)に働きかける。しかし、天下りポストは数が限られているので、多くの人の場合は、監督下にあった企業に「お荷物」として受け入れてもらい、環境や仕事があわずに数年でやめていく。(人事系の官僚で最も評価されるのは,天下りポストを新たに創ることに成功した者であるらしい。ある組織が古くなったので廃止するように勧告が出されると、その組織の人間を別の組織が吸収したり、別の組織から人を移して新しい組織を創ったりして、結局は、旧い組織よりもより大きな組織にして役職ポストを増やすことに成功することは稀ではない。いわゆる「焼け太り」いや、彼らにとっては「災い転じて福となす」である。)

天下りはできそうもない人でも、職場の仕事だけでなく、自分のライフワークを持つことができれば、そのような老人性憂鬱症にかからないようにすることができるであろう。ただし、定年退職が近づいてからでは遅すぎる。少なくとも、定年より10年以上前から準備する必要がある。

neet_hikikomori しかし、外界に関心が持てなくなるという問題は,現代においては、年配の人間だけのものでなく、ごく小数とは言えない一部の若い人の問題ともなっており、「ひきこもり」とか、NEET(ニート)とか呼ばれている。これは社会との関係だけでなく、親との関係においても起こりうることであり、結局は、自分ができることで本当にやりたいことを見つけれらないということが大きな原因となっている。