同じことを言っても,時代により、非難されたり賞賛されたり・・・

私の講演(や講義)が聴衆の受けがよかったということで驚いたことは,間違っていたと思う。大学の若い聴衆の大部分は自由主義的(リベラル)であり,自由主義的かつ一見革命的にさえ思われる意見が誰か権威ある人間によって述べられるのを聴くことを好むものである。彼らは,また,正統主義的であろうとなかろうと,一般の通念として受け入れられているいかなる見解も嘲笑することを好む
logicomix_br-lecture たとえば,私は,(講演のなかで)アリストテレスをからかうことでしばらく時間を費やし,「馬がトガリネズミに噛みつかれるのは危険なことだ、特に,トガリネズミが妊娠しているときはなおさらそうである」と言った。聴衆は不遜な連中であり,私自身もまたそうであった。そのことが,彼らが私の講義を好んだ主な基礎をなしていたと思う。
私が一般の通説(正統主義)に従わないのは政治問題に限ったことではなかった。1940年に私の身に起こったニューヨークでの性道徳の問題に関する揉め事(ゴタゴタ)は忘れ去られていたが,(1951年のコロンビア大学での講演においては)どの聴衆の心の中にも,年寄りや一般の通説を重んずる人たち(正統主義者たち)がショックを受けそうな事を私が話すの聞けるだろうという期待があった。人間の科学的繁殖(品種改良)に関する議論のなかにはそのような要素がたくさんあった。だいたいにおいて私は,以前(1940年のニューヨークにおける事件の時)には非難排斥される結果となった話とまったく同じことを言って拍手喝采を受けるという愉快な経験をしたのである。

tpj-wic ロンビア大学での最後の講義の末尾で私の言った一節(くだり)でトラブルに巻き込まれてしまった。私はその一節のなかで,「世界が必要としているのは,愛(love),キリストの愛(Christian love),即ち,思いやり(compassion)です」と言った。私がこの「キリストの」という言葉を使ったことで,自由思想家たちからは一般通説の考え方(正統主義)に従ったといって嘆く手紙が,また,キリスト教徒の側からは彼らの教会に歓迎するという手紙が,殺到した。それから10年後に,(反核デモ行進のために収監された)ブリクストン刑務所でそこの教戒師から「あなたが光明を見いだされたことをうれしく思います。」といって歓迎された時,私は彼に,それはまったくの誤解であること,私の考えはまったく変っていないこと,また私なら’暗中模索している’と言うべきところをあなたは’光明を見いだしている’と言っているということを,説明しなければならなかった。あの時の講義で私が「キリストの愛」(Christian love)と言ったのは,その「愛」を普通の’性的な愛’から区別する意味で「キリストの」という形容詞をつけたのであるが,それはまったく自明のことと考えていた。前後の関係(文脈)からしてこれはまったくあきらかであると本当に想っていた。
(松下注:ラッセルは1929年に出版した Marriage and Morals 第9章(p.96)で次のように書いている。Love, when the word is properly used, does not denote any and every relation between the sexes, but only one involving considerable emotion, and a relation which is psychological as well as physical. つまり ‘love’ は。‘love'(男女間の愛情) は,正しく使われた場合は,男女間のどんな関係でも全て指すのではなく,肉体的であると同時に心理的である関係のみを意味する。しかし,誤解をする人もいると思われるために,コロンビア大学の講義では,男女間の愛をいうのではないことを明確にするために ‘Christian’ という形容詞をつけた,ということである。従って,Love を単に「愛情」と訳すと誤解を与えることがあり、「恋愛(感情)」と訳したほうがよい場合がかなりある。

私は続けて,次のように言っている。

「もしこの愛を感じるならば,それは生きる目的(動機),行動の指針,勇気の理由,知的誠実のための不可欠の要素をもつことになります。もしこの愛を感じるならば,それは,誰もが宗教において必要とされる一切を持つことになります。」

tp-wic2上記の発言を,キリスト教について述べていると考える者が誰かいたとしたら,私にはまったく不可解である。キリスト教徒の中には記憶している人もいるだろうが,キリスト教徒がキリストの愛を示してきたのはごく稀にしかなかったということを考えてみればなおさらのことである。私は,うかつにも疑わしい形容詞を使って不測の苦痛を非キリスト教徒たちに与えることになったので,彼らを慰めるために最善を尽くした。この問題に関する私のエッセイや講演(講義)が,ポール・エドワード教授によって,教授自身が1940年のニューヨークにおける私の事件について書いたエッセイととともに,1957年に,『なぜ私はキリスト教徒ではないか』という書名のもと,編集され,出版されている。

I think I was mistaken in being surprised that my lectures were liked by the audience. Almost any young academic audience is liberal and likes to hear liberal and even quasi-revolutionary opinions expressed by someone in authority. They like, also any jibe at any received opinion, whether orthodox or not: for instance, I spent some time making fun of Aristotle for saying that the bite of the shrewmouse is dangerous to a horse, especially if the shrewmouse is pregnant. My audience was irreverent and so was I. I think this was the main basis of their liking of my lectures. My unorthodoxy was not confined to politics. My trouble in New York in 1940 on sexual morals had blown over but had left in any audience of mine an expectation that they would hear something that the old and orthodox would consider shocking. There were plenty of such items in my discussion of scientific breeding. Generally, I had the pleasant experience of being applauded on the very same remarks which had caused me to be ostracized on the earlier occasion.
I got into trouble with a passage at the tail end of my last Columbia lecture. In this passage, I said that what the world needs is ‘love, Christian love, or compassion’. The result of my use of the word ‘Christian’ was a deluge of letters from, Free-thinkers deploring my adoption of orthodoxy, and from Christians welcoming me to the fold. When, ten years later, I was welcomed by the Chaplain to Brixton Prison with the words, ‘I am glad that you have seen the light’, I had to explain to him that this was an entire misconception, that my views were completely unchanged and that what he called seeing the light I should call groping in darkness. I had thought it obvious that, when I spoke of Christian love, I put in the adjective ‘Christian’ to distinguish it from sexual love, and I should certainly have supposed that the context made this completely clear. I go on to say that,
‘If you feel this you have a motive for existence, a guide in action, a reason for courage, and an imperative necessity for intellectual honesty. If you feel this, you have all that anybody should need in the way of religion.’
It seems to me totally inexplicable that anybody should think the above words a description of Christianity, especially in view, as some Christians will remember, of how very rarely Christians have shown Christian love. I have done my best to console those who are not Christians for the pain that I unwittingly caused them by a lax use of the suspect adjective. My essays and lectures on the subject have been edited and published in 1957 by Professor Paul Edwards along with an essay by him on my New York difficulties of 1940, under the title Why I am not a Christian.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 1: Return to England, 1969]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB31-220.HTM

[寸言]
ラッセルは、あるエッセイで「面白ければそれだけで真実だと信じられてしまうきらいがある」と書いているが、このような軽信性は、若い人に対してだけあてはまるだけでなく、時代や国や地域をこえて(ただし、日本人にはより)見られる。それをマスコミが助長している。

なお,岩波文庫版の安藤訳でも Love は「愛情」と訳しており、多分誤解して読んでいる人が少なくないと思われる。ラッセル『結婚論』においては,「恋愛(感情)」あるいは「男女間の愛情」と訳さないと誤解を与えそうなところがけっこうある。