肉体労働に従事しない現代人の運動量は,肉体そのものを健康に保つために必要な運動量をどうしても下回る。また,我々のとる食事も豊かではあるが栄養がないものになりがちである。
これらが有している日常的な原因が,世界についての絶望感や信仰の衰微といったいかなる形態よりも,現代人の欲求不満と一層深く関係している,と私は信じている。もしも私の考えが正しいのならば,現代人の絶望を直す仕事は医者の任務であって,哲学者の任務ではない。残念ながら,私は哲学者であって,医者ではない。
出典:ラッセル『アメリカン・エッセイ集』の中の「なぜ我々は欲求不満か?」
詳細情報:https://russell-j.com/YOKKYU.HTM
Those of us whose work is not manual are apt to have far less physical exercise than the health of the body demands; or diet also tends to be rich without being nourishing.
Such homely reasons as these have, I believe, much more to do with the discontent of moderns than has any form of cosmic despair or decay of faith. If I am right, the cure for modern despair is a matter for the physician, not for the philosopher.
I, alas, am a philosopher, not a physician.
[寸言]
「栄養がない」というのは,「滋養が少なかったり,栄養のバランスがとれていない」,と言う意味でしょう。野菜に限定してみても,高級野菜は別として,日々の食事用の野菜の多くのものが昔の野菜に比べて栄養価が数分の一になってしまっています。昔と同じ栄養価の野菜も売られていますが,そういったものに限定すると,エンゲル係数がずっとアップしてしまい,高所得者しかその恩恵を受けることができません。
ラッセルがここで言いたいのは,もちろんどんなに健康であっても厭世主義的になってしまうような不幸はあるけれども,非常に多くの不幸が,運動不足や栄養不足による不健康が原因と思われる,ということです。(もちろん,毎日厳しい肉体労働をしなければいけない人のことはここでは含んでいません。)
不健康であれば医者のお世話になる必要があり,哲学や哲学者に救いを求めてはいけない,との警句です。