開かれた精神・知性(と思想の自由)-知識への欲求が本物であれば・・・

開かれた精神・知性(偏見がないこと)は,知識への欲求が本物である場合必ず存在しているはずの資質である。この性質が欠けるのは,知識欲とは別の欲求が,自分(we)はすでに真理を知っているのだという信念とからみあっている場合に限られる。これが,偏見がないという性質がおとなよりも若者においてずっと普通にみられる理由である。
人間の行動は,知的に疑わしい事柄に対する何らかの決断と,ほとんど必然的に結びついている。牧師は,神学について公平(利害関係なし)でいることはできないし,軍人は戦争について公平でいることはできない。弁護士(注:事務弁護士ではなく法廷弁護士)は 犯罪者が最高(高額の)の弁護料を支払える場合は別として 犯罪者が罰せられるのは当然だと考えるに決まっている。教師は,自分の受けた訓練と経験からして自分に向いている特定の教育制度を支持するだろう。政治家は,自分を一番役職(任務)につかせてくれそうな政党の主義主張を信じないわけにはいかない。
人間は,ひとたび自分の一生の職業を選んだからには,別の道を選んだほうがよかったのではないか(本当により良いという可能性はなかったかどうか)と始終考えているわけにはいかない。だから,おとなの生活においては,偏見のなさという資質は,-制約はなるべく少ないほうがよいけれども- 種々の制約を受けることになる。
LIBERTY しかし,若い時には,ウィリアム・ジェームズが言ういわゆる「強制された選択」ははるかに少ないので,「信じようとする意志」(注:W.ジェームズの著書のタイトル/一方,ラッセルには Will to Doubt という編集物がある。)を持つ機会も少ない。若い人たちは,あらゆる問題は未解決(open)であるとみなすように,また議論の結果,いかなる意見でも放棄することができるように、励ましてあげるべきである。こうした思想の自由の中には,行動については完全に自由であってはならない,ということが含意されている。カリブ海の冒険物語に刺激されて,(幼い)少年(boy)が海に乗り出すような自由は与えるべきではない。しかし,この少年の教育が続くかぎり,大学教授になるよりも海賊になるほうがいい,と考える自由は許されなければならない。(イラスト出典: Bertrand Russell’s Good Citizen’s Alphabet, 1953))

Open-mindedness is a quality which will always exist where desire for knowledge is genuine. It only fails where other desires have become entangled with the belief that we already know the truth. That is why it is so much commoner in youth than in later life. A man’s activities are almost necessarily bound up with some decision on an intellectually doubtful matter. A clergyman cannot be disinterested about theology, nor a soldier about war. A lawyer is bound to hold that criminals ought to be punished–unless they can afford a leading barrister’s fee. A schoolmaster will favour the particular system of education for which he is fitted by his training and experience. A politician can hardly help believing in the principles of the party which is most likely to give him office. When once a man has chosen his career he cannot be expected to be perpetually considering whether some other choice might not have been better. In later life, therefore, open-mindedness has its limitations, though they ought to be as few as possible. But in youth there are far fewer of what William James called “forced options”, and therefore there is less occasion for the “will to believe”. Young people ought to be encouraged to regard every question as open, and to be able to throw over any opinion as the result of an argument. It is implied in this freedom of thought that there should not be complete freedom of action. A boy must not be free to run off to sea under the influence of some story of adventure in the Spanish Main. But so long as his education continues he should be free to think that it is better to be a pirate than a professor.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principles
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE14-050.HTM

[寸言]
本当のことを知りたいという欲求が強ければ、人は自然に「オープンな態度」をとることができる。だが、知識への欲求よりも、たとえば、権力を維持し続けたいとか(政権側)、既得権を守りたいとかいう欲求(大手マスコミ側)のほうが強ければ、「オープンな態度」はとれなくなる。

tokuteihimitu_definition 政権側は,マスコミを支配下に置き、自分たちに都合の悪い情報はできるだけ流させないようにいろいろな手を打つ。一つには、「客観的な報道をすべきだ」という言い方で、権力を批判するマスコミおよびジャーナリストは、「偏向している」と批判したり、報道にあたるジャーナリストのスキャンダルを利用したり,時にはでっちあげたりして,マスコミの国民に対する影響力を削ごうとする。
ただし、マスコミに対する直接的なコントロールは政権を失うことにもなりかねないのでで、マスコミ自らが自己規制するように仕向ける。その一つは放送法の活用である。本来、放送法は、権力者を牽制するものでなければならないが、日本の放送法は、大手マスコミに総務省が電波利用権を与えること(即ち、既得権を与えること)によって、マスコミ自らが権力者(政府や総務省)の意向を忖度して、自己規制にはげむように仕向けている。