保育園の重要性 - 一番上の子は・・・

 1歳児にとっては,(大人よりも)3歳児のほうがよいお手本になる。その理由は,3歳児のすることはいっそう1歳児がやりたいことであるとともに,3歳児の能力はそれほど超人的には見えないからである。子供(たち)には,大人よりも,ほかの子供(たち)のほうが自分に似ているように感じられる。そのために,彼らの野心は,ほかの子供(たち)のすることでいっそう強く刺激されるのである。こういう,年上の子供たちによる教育の機会は,その子供の家庭にしか提供できない。(訳注:ただし,独りっ子が多い核家族の現代にあっては,家庭においてさえも難しい。)友達を選べる子供は,大部分,自分よりも年上の子供と遊びたがるが,それは自分が「偉くなった (grand)」ような気がするからである。しかし,年上の子供は,さらに年上の子供と遊びたがる。その結果,学校とか,スラム街とか,その他どこでも,大ぜいの中から友達を選べるところでは,子供たちは,ほとんどと言ってよいほど,同年輩の子供と遊んでいる。なぜなら,年上の子供は,年下の子供と遊ぼうとしないからである。こうして,年上の子供から学ぶべきことは主に家庭で学ぶほかない,ということになるのである。これには,いずれの家庭にも,この方法の恩恵にあずかれない一番年上の子供が必ずいるという欠点がある。しかも,家族内の子供の数が少なくなるにつれて(核家族化が進むにつれて),一番年上の子供の比率も高くなるにつれて,この欠点はしだいに大きくなっていく。小家族は,保育園によって補完されない限り,いくつかの面で,子供たちにとって,不利である。

A child of three years old is a better model for a child one year old, both because the things it does are more what the younger child would wish to do, and because its powers do not seem so super-human. Children feel that other children are more akin to them than adults are, and therefore their ambition is more stimulated by what other children do. Only the family provides the opportunity for this education by older children. Most children who have a choice wish to play with children rather older than themselves, because then they feel “grand” ; but these older children wish to play with still older children, and so on. The consequence is that, in a school, or in the streets of a slum, or anywhere else where a large choice is possible, children play almost entirely with their contemporaries, because the older ones will not play with the younger ones. In this way it comes about that what is to be learnt from older children must be learnt mainly in the home. This has the drawback that in every family there must be one oldest child, who fails to get the benefits of the method. And as families grow smaller the percentage of oldest children grows larger, so that the drawback is an increasing one. Small families are in some ways a disadvantage to children, unless supplemented by nursery schools.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 10: Importance of Other Children
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE10-010.HTM

<寸言>
同じ年齢の子供と遊ぶことが大事であり、また、少し上の年齢の子供と遊ぶことも大事。毎日、家庭で大人とばかり顔を突き合わせているだけではダメ。

聞き分けのない子に「穏やかな」形の罰をあたえる効果

 ・・・。(息子が)たまに,私たち(夫婦)がだめだと言ったものを要求し続けたり,しっこく妹の遊びのじゃまをした時など穏やかな形の罰に訴えた(罰を与えた)。そういう場合,理性的な説明も説得もうまくいかなかった時には,私たち(夫婦)は彼をびとりきりの部屋へ連れていき,★ドアはあけたままにしておき,良い子になり次第戻って来てよい,と告げる。ほんのちょっとして,大泣きした後,彼は私たちのところに戻ってくる。そして,ずっと良い子でいる。つまり,戻ってくる以上は良い子になることを約束したことになる,ということを完全に理解しているのである。これまでのところ,私たちは,これよりも厳しい処罰の必要を一度も見出していない。

On a few occasions we have resorted to mild forms of punishment when he has persisted in demanding things we had refused him, or in interfering with his sister’s play. In such cases, When reason and exhortation have failed, we take him to a room by himself, leave the door open, and tell him he can come back as soon as he is good. In a very few minutes, after crying vigorously, he comes back, and is invariably good : he perfectly understands that in coming back he has undertaken to be good. So far, we have never found any need of severer penalties.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 9: Punishmnet
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE09-020.HTM

<寸言>
「ドアはあけたままにしておき」というのが肝かも知れない。ドアをしめたら、よけいにこじれて、強情になるかも知れない。子供によるが・・・。

その場しのぎの説明ではなく,合理的な説明をする習慣が大事

 子供に対しいつも変わらずに正直(誠実)であれば,子供の(親に対する)信頼が増すという褒美がある。子供は,あなたの言うことを信じようとする自然な傾向を持っている。ただし,先に述べた復活祭のたまごの場合のように,あなたの言うことが子供の強い欲求に反するときは除かれる(例外である)。(子供の欲求とぶつかる)そのような場合でも,あなたの言うことは本当である(正しい)ことを少しでも経験すれば,あなたは,容易に,特別強調しなくても,信頼を勝ちとることができる。しかし,もしあなたが脅かすだけでそれを実行しない習慣があれば,ますますしつこく,怖がらせるようにしなければならなくなり,ついには,神経的な不安な状態を生み出すようになるだろう。
ある日,私の息子は川の中で水遊びをしたがったが,私はだめだと言った。というのは,割れた陶器の破片があって足を切るだろうと思ったからである。息子の欲求は強かったので,陶器(の破片)については疑いをいだいていた。しかし,私が破片(かけら)を見つけて,その鋭い端を見せてやると,息子はすっかりおとなしくなった。もし私が自分の都合で陶器の話を捏造していたならば,息子の信頼を失っていたことだろう。破片(かけら)が一つも見つからなかったならば,私は,息子に水遊びをさせてやったはずである。この種の経験を何度も繰り返した結果,息子は,私の挙げる理由を疑うようなことは,ほとんどまったくなくなった。

Invariable truthfulness to a child reaps its reward in increased trust. The child has a natural tendency to believe what you say, except when it runs counter to a strong desire, as in the case of the Easter eggs which I mentioned just now. A little experience of the truth of your remarks even in these cases enables you to win belief easily and without emphasis. But if you have been in the habit of threatening consequences which did not happen, you will have to become more and more insistent and terrifying, and in the end you will only produce a state of nervous uncertainty. One day my boy wanted to paddle in a stream, but I told him not to, because I thought there were bits of broken crockery which would cut his feet. His desire was keen, so he was sceptical about the crockery ; but after I had found a piece and shown him the sharp edge, he became entirely acquiescent. If I had invented the crockery for my own convenience I should have lost his confidence. If I had not found any I should have let him paddle. In consequence of repeated experiences of this sort he has almost entirely ceased to be sceptical of my reasons.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 8: Truthfulness
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE08-080.HTM

<寸言>
子供の親に対する信頼はこのようにして形作られる。親が不合理な理由で子供に対応すれば逆の結果(親に対する不信)を招く。

「テーブルのおバカさん」と物のせいにする大人(特に母親)

もう一つ別の望ましくない形のごまかし(誤魔化し)は,無生物(生命のないもの)をあたかも生きているかのように扱うことである。子供が椅子やテーブルにぶつかって怪我をしたような場合,保母はときどき,子供に,その腹ただしいものをぴしゃりとたたき,「椅子のおバカさん」とか「テーブルのおバカさん」とか言うように教えることがある。これでは,せっかくの最も有益な自然なしつけの源(機会)をとりのぞいてしまう(ことになる)。(子供にかまわずに)子供をそのままにしておけば,生命のないものは技術によって操作するほかないもので,怒ったりおだてたりしてもどうしようもないと,すぐに理解する。これは,技術を身につけるための刺激となり,個人の力の限界を自覚する上で助けとなる。

Another undesirable form of humbug is to treat inanimate objects as if they were alive. Nurses sometimes teach children, when they have hurt themselves by bumping into a chair or table, to smack the  offending  object and say, “naughty chair “, or’ ” naughty table “. This removes a most useful source of natural discipline. Left to himself, the child soon realizes that inanimate objects can only be  manipulated by skill, not by anger or cajolery. This is a stimulus to the acquisition of  skill, and a help in realizing the limits of personal power.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:
Education of character, chap. 8: Truthfulness
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE08-060.HTM

<寸言>
他人のせいではなく、物のせいにすることはあまり害を及ぼさないとかんがえやすいが、子どもが現実を理解する、あるいは、立ち向かう心性や態度を育てる障害となることから、好ましくない。

誤魔化しと偽善を見抜く幼児の洞察力

 親(たち)は,子供(たち)には驚くほど洞察力があることを悟っていない。子供(たち(は,誤魔化すためのまじめくさった政治的理由を全て理解しているわけではなく,誤魔化しを直截かつ単純に軽蔑するのである。あなた(親)が気づいていない自分の嫉妬(心)や妬みは,子供の目にはあきらかであり,これらの情念の対象(相手)の邪悪さについて,あなた(親)がどれだけ道徳的なお話をしたとしても,子供はそれら全てを割り引いて考えるであろう。決して完全無欠な超人であるようなふりをしてはならない。子供はあなたの言うことを信じないだろうし,そのような態度をとったとしても,あなたをより好きになることはないだろう。私は,ごく幼いころ,私をとりまいていたヴィクトリア朝時代の誤魔化しと偽善を見抜いており,もし将来子供を持ったら,私に対してなされているような誤りを繰り返さないと誓ったことを,生き生きと覚えている。いま私は,力の及ぶかぎり,この誓いを守っている

they (= parents) do not understand all the solemn political reasons for humbug, but despise it straightforwardly and simply. Jealousies and envies, of which you are unconscious, will be evident to your child, who will discount all your fine moral talk about the wickedness of the objects of these passions. Never pretend to be faultless and inhuman ; the child will not believe you, and would not like you any the better if he did. I remember vividly how, at a very early age, I saw through the Victorian humbug and hypocrisy with which I was surrounded, and vowed that, if I ever had children, I would not repeat the mistakes that were being made with me. To the best of my ability I am keeping this vow.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 8: Truthfulness
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE08-040.HTM

<寸言>
子どもは親をいつもよく見ている。こんなことは気が付かないだろうと適当に言ったりやったりすると、子どもはなぜ親が嘘やとりつくろったりするかはわからなくても、けっこうその誤魔化しや偽善を見抜く。もちろん、勘違いも多いだろうが・・・。

公平(正義)を遊びを通して子供に教えること

 一度に一人しか楽しめないような遊び,たとえば,手押し一輪車に乗るというような遊び,のために争うような場合には,子供たちは,公平(正義)ということを容易に理解することがわかるだろう。子供の衝動は,もちろん,他の子供を押しのけて自分だけ楽しむことを要求するものである。しかし,おとなが,かわりばんこ(に遊ぶ)制度をもうけてやると,この衝動がいかに速く克服されるか,驚くほどである。私は,公平の感覚が生得的なものであるとは信じないが,それがどんなに速く創りだされるか(育まれるか)かを知り,驚いている。もちろん,それは,本物の公平でなければならない。いかなる内密の偏りがあってはならない。もし,あなたがある子供を特に好きであるとすれば,愛情が楽しみ(娯楽)の分配に影響を与えないように,用心しなければならない。おもちゃは平等に与えるべきだというのは,むろん,広く認められている原則である。

公平への要求を,道徳的な躾けでうまく対処しようとしても,まったく無益である。-公平以上のもの(ルール)を与える必要はないが,子供が公平でないことを受け入れること(不公平を甘受すること)を期待してはいけない(注:岩波文庫版の安藤訳では「公平以上のものを与える必要はないが,子供は公平などを求めないと考えてはいけない」となっているがずれているのではないか?)

Where there is competition for a pleasure which can only be enjoyed by one at a time, such as a ride in a wheelbarrow, it will be found that the children readily understand justice. Their impulse, of course, is to demand the pleasure for themselves to the exclusion of the others, but it is surprising how quickly this impulse is overcome when the grown-ups institute the system of a turn for each. I do not believe that a sense of justice is innate, but I have been astonished to see how quickly it can be created. Of course, it must be real justice ; there must not be any secret bias. If you are fonder of some of the children than of others, you must be on your guard to prevent your affections from having any influence on your distribution of pleasures. It is, of course, a generally recognized principle that toys must be equal.
It is quite useless to attempt to cope with the demand for justice by any kind of moral training. Do not give more than justice, but do not expect the child to accept less.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 7: Selfishness and property.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE07-030.HTM

<寸言>
 だから同じ年齢の子供と遊ぶことは重要。年齢が違う子供といつも遊んでいると、力関係で譲られたり、譲ったりすることが多くなり、平等の立場で調整する精神が育たない。

社会的に無害な唯一の私有財産の源泉-不労所得ではなく・・・

 多くの美徳の第一歩は,建設的な喜び経験することから生じる子供が自分の作ったものを壊さないでおいてほしいと頼むとき,他の人が作ったものを壊してはいけないということを,子どもに容易に理解させることができる。このようにして,労働から生み出されたもの - 即ち,社会的に無害な唯一の私有財産の源泉 - を敬う心を育てることができる。同時に,子供に忍耐・根気・観察への刺激も与えることになる。こういう性質がなければ,子供は,自分の(積み木の)塔を,心に決めていた高さに積み上げることに成功しないであろう。子供と遊ぶときには,子供の野心を十分に刺激し,どのようにすればよいかを示すために,まず(親が)自分で作ってみせるだけでよい。その後は,建設は子供みずからの努力にまかせなければならない。

The first beginnings of many virtues arise out of experiencing the joys of construction. When a child begs you to leave his constructions undestroyed, you can easily make him understand that he must not destroy other people’s. In this way you can create respect for the produce of labour, the only socially innocuous source of private property. You also give the child an incentive to patience, persistence and observation; without these qualities, he will not succeed in building his tower to the height upon which he had set his heart. In play with children, you should only construct yourself sufficiently to stimulate ambition and to show how the thing is done; after that, construction should be left to their own efforts.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 6: Constructiveness.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE06-030.HTM

<寸言>
努力して得たものに対しては誰も非難したり,奪い取ったりすることも少ない。しかし、不労所得やあくどいやり方や地位を利用して不当に得たものに対しては人(国民など)は非難し、剥奪しようとする。しかし、現代においては国民の財産をかすめとる巧妙な方法を考えつく「利口な人」がけっこういて、「現行の」法の抜け穴を利用して、合法的な搾取が行われている。

危険に対する合理的な理解は必要だが,「蛮勇」も「恐怖心」もどちらも不要

 息子は今では(彼は三歳九ケ月であるが)6フィートの高さから躊躇なく飛び降りるし,放っておけば20フィートの高さ(注:約6メートル/因みに1フィートは約30センチ)からでも飛びおりることだろう。このようにして,危険性を把握することを教えたことは,確かに,行きすぎた結果をもたらすことはなかった。それは,暗示によるのではなく,知識を授けたためだ,と私は考えている。
知識を授けている時,私も息子も恐怖を感じていなかった。このことは,教育上非常に重要であると考える。危険に対して合理的な理解は必要である。(しかし)恐怖心は必要ではない。子供は,恐怖の要素がいくらかないと危険を把握することができない。しかし,教える側にこの要素が存在しない場合は,恐怖心という要素を大幅に減らすことができる。子供の世話をしている大人は,決して恐怖心を感じてはいけない。女性も,男性と同様に勇気を養わなければいけない一つの理由は,ここにある。

He now (three years and nine months) jumps from heights of six feet without hesitation, and would jump twenty feet if we would let him. Thus the instruction in apprehension certainly did not produce excessive results. I attribute this to the fact that it was instruction, not suggestion ; neither of us was feeling fear when the instruction wag given. I regard this as very important in education. Rational apprehension of dangers is necessary ; fear is not. A child cannot apprehend dangers without some element of fear, but this element is very much diminished when it is not present in the instructor. A grown-up person in charge of a child should never feel fear. That is one reason why courage should be cultivated in women just as much as in men.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 4: Fear.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE04-050.HTM

<寸言>
つまり,母親の臆病さや恐怖心は幼い子供に伝染することから,勇気は男性だけでなく女性にも必要である。
 危険に対する合理的な理解を持つことと恐怖心を持つことは同じではなく,過度な恐怖心を持つことは望ましくない。「蛮勇」を「勇気(があること)」と混同する人が少なくない。

未知のもの,見慣れないものは不安や希望を与える

 息子を怯えさせた影は,通りを通り過ぎた見えない対象物(たとえばバスなど)によって部屋の中に投げかけられた,ぼんやりした,迅速に動くであった。私は,自分の指で壁や床の上に影を作ってみせ,息子にも私のまねをさせて,彼の恐怖心を治してあげた。まもなく息子,影というものを理解したように感じて,影を面白がるようになった。同じ原理が,機械じかけのおもちゃにもあてはまった。息子は,仕組み(メカニズム)を理解すると,もう怖がらなくなった。しかし,仕組みが目に見えない場合は,慣れるのに時間がかかった。(たとえば)息子は,その上に座ったり押えたりすると,陰気な音が長く出るクッションを誰かにもらったことがあった。このクッションは,長いこと彼をビクビクさせた。私たちは,この息子を怖がらせるものを完全に撤去するようなことは,断じてしなかった。私たちは,それをやや離れたところに置いた。そこなら,少し怖いだけであった。このようにして,しだいに慣れるようにした。そして,恐怖心がまったくなくなるまで続けた。一般的に,最初は恐怖心を起こさせる神秘的な性質も,恐怖心が克服されれば,喜びを生み出すものとなった。私の考えでは,合理的でない恐怖心(恐れる客観的な理由のないもの)は,決してただ放っておくべきではなく,弱い形でそれに慣れるようにして,しだいに克服しなければならない。

The shadows that frightened him were vague, quickly-moving shadows thrown into a room by unseen objects (such as omnibuses) passing in the street. I cured him by making shadows on the wall and the floor with my fingers, and getting him to imitate me; before long, he felt that he understood shadows and began to enjoy them. The same principle applied to mechanical toys ; when he had seen the mechanism he was no longer frightened. But when the mechanism was invisible the process was slow. Someone gave him a cushion which emitted a long melancholy whine after being sat upon or pressed. This alarmed him for a long time. In no case did we entirely remove the terrifying object: we put it at a distance, where it was only slightly alarming ; we produced gradual familiarity, and we persisted till the fear completely ceased. Generally the same mysterious quality which caused fear at first produced delight when the fear had been overcome. I think an irrational fear should never be simply let alone, but should be gradually overcome by familiarity with its fainter forms.
* whine (名):すすり泣きの声;ヒューという音
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 4: Fear.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE04-040.HTM

<寸言>
恐れる合理的な理由がないものに対する恐怖心は、幼いころから徹底的に除去すべき。

「本能」といっても,生まれてすぐに現れるとは限らず・・・

 生後2年目及び3年目には,新しい恐怖心が出てくる。こういった恐怖心がどこまで暗示によるものか,どこまで本能によるものかは,議論の余地のある問題である。生後一年目に恐怖心が存在しないとしても,そのことは,恐怖心は本能的なものではないという決定的な証拠にはならない。なぜなら,本能は何歳のときに成熟するかも知れないからである。最も極端なフロイト主義者でさえ,性本能は生まれたときから成熟していると主張する者はいないであろう。

During the second and third year, new fears develop. It is a moot point how far this is due to suggestion, and how far it is instinctive. The fact that the fears do not exist during the first year is not conclusive against their instinctive character, since an instinct may ripen at any age. Not even the most extreme Freudian would maintain that the sex-instinct is mature at birth.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 4: Fear.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE04-020.HTM

<寸言>
ある性質が遺伝や本能によるものか,あるいは、生まれた後の環境や躾や教育によるものか、よくわからないものがある。通常、その両方の影響だとする場合が多いが、それならどちらの要素が強いかで、人の意見は様々となる。

2022年はラッセル生誕150年