ペットのように子どもをかわいがってはいけない!

 以上を要約しよう。生まれたばかりの赤ん坊でも,将来この世でしかるべき位置を占める人間として,尊敬をもって扱おう。あなたの現在の都合のために,あるいは,赤ん坊を甘やかして楽しむために,赤ん坊の未来を犠牲にしてはならない。どちらも,負けず劣らず有害である。他の場合と同様,この場合も,正しいやり方に従おうとするのであれば,愛情と知識の結びつき(組み合わせ)が不可欠である。

To sum up: Treat even the youngest baby with respect, as a person who will have to take his place in the world. Do not sacrifice his future to your present convenience, or to your pleasure in making much of him : the one is as harmful as the other. Here, as elsewhere, a combination of love and knowledge is necessary if the right way is to be followed.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 3: the first years.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE03-080.HTM

<寸言>
ペットとして動物のように可愛がるのも,稚すぎる頃から厳しく独立した個人として躾けるのも、どちらも好ましくない。

子どもの躾や教育のための武器としての「飴と鞭」

 生後二,三ケ月頃,赤ん坊(親の表情をまねして)微笑むようになり,また,物に対する感情とは異なった感情を人間に対して持つようになる。この時期に,母と子(赤ん坊)の間に社会的な関係が可能になりはじめる。即ち,赤ん坊は,母親を見ると喜びを表すことができ、また、実際に喜びを表し,単に動物的ではないいろいろな反応を発達させる。すぐに,褒められたり認められたりしたいという欲望が発達する。私の息子(注:1921年に生まれたラッセルの初めての子どもジョン)の場合,その欲望は,生後五ケ月の時,初めてはっきりと示された。彼はいろいろ試みたあげく,テーブルからいくらか重い鈴を持ち上げ,それを鳴らしながら,得意そうな微笑みを浮かべて,みんなの顔を見回したのである。この瞬間から,教育者は,新しい武器を手にしたことになる。即ち,褒めること(注:飴)と,叱ること(注:鞭)である。

At about the age of two to three months, the child leans to smile, and to have feelings about persons which are different from its feelings about things. At this age a social relation between mother and child begins to be possible : the child can and does show pleasure at the sight of the mother, and develops responses which are not merely animal. Very soon a desire for praise and approval grows up; in my own boy, it was first shown unmistakably at the age of five months, when he succeeded, after many attempts, in lifting a somewhat heavy bell off the table, and ringing it while he looked round at everybody with a proud smile. From this moment, the educator has a new weapon: praise and blame.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 3: the first years.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE03-070.HTM

<寸言>
褒めることと叱ること(飴と鞭)は、上手に使えばよいが、悪い使い方をすると、人間をスポイルすることになる。

幼児期に良い習慣を身につけることの重要さ

 ごく早くから身につけた習慣は,後年,まるで本能のように感じられる。(良い習慣も悪い習慣も)いずれの習慣も深く体に刻み込まれる。その後に新しく,前のとは反対の習慣を身につけたとしても,同じような力を持つことはできない。この理由からも,生後最初の習慣(形成)は重大な関心事でなければならない。

Habits acquired very early feel, in later life, just like instincts; they have the same profound grip. New contrary habits acquired afterwards cannot have the same force; for this reason, also, the first habits should be a matter of grave concern.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 3: the first years.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE03-020.HTM

<寸言>
「身につけた悪い習慣は全て,後によりよい習慣を身につける妨げになる。幼年期初期における最初の習慣形成が非常に重要なのは,このためである。」に続く文章。

証拠がなくても信じてしまう?ー 思い込みは冤罪発生の原因の一つ

 隣人の犯した罪は,宗教の慰めと同様,(噂話の種としては)とても心地よいものなので,私たちは立ち止まって,その証拠を詳しく吟味するようなことはしない。

Our neighbour’s sins, like the consolations of religion, are so agreeable that we do not stop to scrutinize the evidence closely.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 1: Postulates of Modern Educational Theory
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE02-190.HTM

<寸言>
冤罪(えんざい)がなくならない原因の一つ思い込み,先入観、悪い人間を罰したいという強い感情

自分も無関係ではない残酷な出来事を、無知を理由に自分を無罪放免できる人

 個人的な交際においては常に非常に思いやりのある人も,戦争を扇動したり,「後進国」の子供たちを虐待することによって,収入を得ているかもしれない。このようなお馴染みの現象はすべて,大部分の人は単なる抽象的な刺激では共感(同情)をかきたてられない,という事実によっている。

A man who is full of kindliness in all personal dealings may derive his income from incitement to war or from the torture of children in ‘backward’ countries. All these familiar phenomena are due to the fact that sympathy is not stirred, in most people, by a merely abstract stimulus.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2: The Aims of Education
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE02-170.HTM

<寸言>
弁解できない残酷さが明らかになると,(無意識の日和見主義により)見て見ぬふりをしていた人は,無作為による残虐行為への加担を非難されると,「知らなかった」と言って,自らを無罪放免する。

(「意志の塊」の) 政治家に感受性を求めても無駄?

 感受性の望ましい形次の発達段階は、共感(同情)である。・・・。必要なのは、次の2つの方向への拡大である。その第1は、苦しんでいる人が特別な愛情の対象でない場合でも共感を覚えること。その第2は、その苦しみが感覚でとらえられる形では現存していなくても、いま起こっているのだと知るだけで共感を覚えることである。

The next stage in the development of a desirable form of sensitiveness is sympathy. .. The two enlargements that are needed are: first, to feel sympathy even when the sufferer is not an object of special affection; secondly, to feel it when the suffering is merely known to be occurring, not sensibly present.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2: The Aims of Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE02-170.HTM

<寸言>
 「感受性」には「想像力」が必要。「意志の強さ」ばかりを強調する政治家に感受性を求めても無駄な努力に終わるであろう。また,他人に対する思いやりが大事だという政治家も、可能なのは(ラッセルの言う)第1の方向だけであり,第2の方向、即ち,「その苦しみが感覚でとらえられる形では現存していなくても、いま起こっているのだと知るだけで共感を覚えること」などは,知性も,想像力も乏しい政治家には所詮無理なこと。

「感受性豊かな」悪人?

 純粋に理論的な定義では、多くの刺激がある人の中に多くの感情を生じさせれば、(それだけで)その人は情緒的に感受性に富む、ということになるだろう。しかし、このように広義にとった場合は、この性質は必ずしも善いものではない。感受性がよいものであるためには、情緒的な反応は、ある意味で、適切なものでなければならない。単に感受性が強いということだけが必要なのではない。

A purely theoretical definition would be that a person is emotionally sensitive when many stimuli produce emotions in him; but taken thus broadly the quality is not necessarily a good one. If sensitiveness is to be good, the emotional reaction must be in some sense appropriate: mere intensity is not what is needed.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2: The Aims of Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE02-160.HTM

<寸言>
当たり前と言えば当たり前のことですが,感受性の良さ・悪さは必ずしもはっきり判断できるとは限りません。特に芸術家の場合などは・・・。

老若男女が「記憶にありません」で許される日本は無責任大国?

 無知健忘症(大事なことをすぐに忘れること)に基づく行動(様式)は、いかなるものも満足すべきものと見なすことはできない.即ち、最大限充分に知り理解することは、望ましいもの全てにとって、不可欠の要素である。

We cannot regard as satisfactory any way of acting which is dependent upon ignorance or forgetfulness: the fullest possible knowledge and realisation are an essential part of what is desirable.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2: The Aims of Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE02-160.HTM

<寸言>
政治家官僚企業経営者も,都合が悪い事態になるとみんな「記憶にありません」を連発。これを多用したので有名なのは、ロッキード事件発覚の時に,(右翼で有名な)国会で追求された小佐野賢治国際航業社主。
右翼は,戦後ずっと今日まで,天皇を利用し、愛国と保守と自主憲法制定を看板に様々な利益や権益や既得権を確保してきた。現在、日本会議は日本最大の右翼+保守の組織となっており、与党の国会議員のほとんど及び野党の一部の議員が加入する有様となっている。森友学園問題及び(今後脚光を浴びそうな)加計学園問題により、分裂することになればよいが・・・?

博愛・人類愛 対 国家主義

 人間性の中には、努力なしで自我を超越させてくれるものがいくつかある。そのなかで最もありふれたものは、愛(情)であり、とりわけ親の(子供に対する)愛である。それは、一部の人においては、(その対象が)人類全体を包含するくらい一般化されている。

There are certain things in human nature which take us beyond Self without effort. The commonest of these is love, more particularly parental love, which in some is so generalised as to embrace the whole human race.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2: The Aims of Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE02-150.HTM

<寸言> ★自衛隊に全国民が
 マザー・テレサのように,慈愛に溢れた人もいれば、◯◯のように,(支配層の子弟以外の)国民は国家のための道具にすぎない(そういって悪ければ、国家につくすことが国民の第一の使命だ)と考える権力者(特に政治家)が少なくない。

偽善の温床であり本能に対する裏切り行為である「卑下(へりくだり)」

 「卑下(へりくだること)」は,自尊心を抑圧したが,他人から尊敬されたいという欲望を抑圧しはしなかった。卑下は,形だけの謙遜を,他人から信用を得るための手段としたにすぎない。こうして,卑下は偽善と本能に対する裏切りを生み出した。

‘Humility’ suppressed self-respect, but not the desire for the respect of others, it merely made nominal self-abasement the means of acquiring credit. Thus it produced hypocrisy and falsification of instinct.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, chap. 2: The Aims of Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE02-140.HTM

<寸言>
 謙遜卑下とは異なる。過信行き過ぎた謙遜もどちらもよい結果を産まない。努力に裏付けられた自尊心は大事であり、先見性をもった大胆さも必要である。
相互理解に基づかない尊敬や追従は,偽善の温床であり,本能に対する裏切り行為である。

2022年はラッセル生誕150年