性について子供に話す適切な時期

 思春期のどれくらい前にこういう(性に関する)知識を与えられるべきかは,(子どもの)状況による(状況・事情によって異なる)。好奇心の強い,知的に活発な子供は不活発な子供よりも早めに教えてあげなければならない。いかなる時期においても,好奇心が満たされないままの状態にしてはならない。どれほどその子どもが幼いとしても,子どもが質問すれば答えてあげなければならない。また,両親の態度は,子どもが知りたいと望むならば(ちゅうちょしないでいつでも)質問する(質問できる)といったものでなければならない。しかし,もし子供が性について自発的に質問しない時には,いかなる場合でも,10歳になる前に話してあげなければならない。最初に,他の子どもたちからまずい仕方で教えられてはいけないからである。従って,動植物の生殖について教えてあげることで,子供の好奇心を刺激してあげることが望ましいかもしれない。咳ばらいをして(a clearing of the throat),「さて,そろそろおまえも知っておいたほうがいいから,話しておこう」などと前置きをするような,もったいぶった(まじめくさった)特別な機会を作ってはいけない。性教育に関することは全て,あたりまえで日常的なものでなければならない。だからこそ,問に答える形が一番うまくいくのである。

How long before this the information should be given depends upon circumstances. An inquisitive and intellectually active child must be told sooner than a sluggish child. There must at no time be unsatisfied curiosity. However young the child may be, he must be told if he asks. And his parents’ manner must be such that he will ask if he wants to know. But if he does not ask spontaneously, he must in any case be told before the age of ten, for fear of being first told by others in a bad way. It may therefore be desirable to stimulate his curiosity by instruction about generation in plants and animals. There must not be a solemn occasion, a clearing of the throat, and an exordium : “Now, my boy, I am going to tell you something that it is time for you to know.” The whole thing must be ordinary and every-day. That is why it comes best in answer to questions.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 12: Sex Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE12-090.HTM

<寸言>
学校においては,一律に,標準的に,性教育がなされる。ここでは,家庭において何をどのように何時教えるべきかということであるが,個々の子供によって多少の違いがあるということ。

性教育は思春期以前にほとんど終えておく必要がある

 についてほかの子供からまずく教えられる恐れがないのであれば,この(性教育の)問題は,子供の好奇心が自然に働くままにまかせて置き,両親はただ質問に答えるだけにとどめてもおくことも可能であろう。
ただし,子どもに性について思春期以前に必ず全て理解させるとの条件付きである。もちろん,これは必須条件である。少年や少女がなんの準備もなしに,思春期の身体的・情緒的な変化に襲われ,もしかすると何か恐ろしい病気にかかったのではないかという感情を持たせることは,残酷な仕うちである。その上,性の題目は全て,思春期以後ではとても刺激的なものであるため,少年少女は,科学的な精神でそれを聞くことができない。
もっと幼い頃であれば,それは完全に可能である。それゆえ,みだらな話を耳にする恐れがあるからということとはまったく関係なく,少年少女は,思春期に達する前に性行為の本質を知るべきである。

If there were no likelihood of being taught badly about sex by other children, the matter could be left to the natural operation of the child’s curiosity, and parents could confine themselves to answering questions–always provided that everything became known before puberty. This, of course, is absolutely essential. It is a cruel thing to let a boy or girl be overtaken by the physical and emotional changes of that time without preparation, and possibly with the feeling of being attacked by some dreadful disease. Moreover, the whole subject of sex, after puberty, is so electric that a boy or girl cannot listen in a scientific spirit, which is perfectly possible at an earlier age. Therefore, quite apart from the possibility of nasty talk, a boy or girl should know the nature of the sexual act before attaining puberty.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 12: Sex Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE12-080.HTM

<寸言>
北欧のように社会福祉が整っていてかつ民主化されている社会においては進んだ性教育が行われているが、そうでない社会にあっては、どうしても性教育に多少の歪みができてしまうのは必然かも知れない。

子供の時に,下品な冗談で性に接することの弊害

 子供が農園(注:通常家畜も飼育している。)で生活しているのでないかぎり,父親が生殖(生命の発生=誕生)において果たす役割は質問に対する答えの形で,自然な話題になる(注目される)ことはなさそうである。しかし,このことについては,子供がまず父母や教師から教えられることが非常に重要であり,悪い教育によってみだらになっている(他の)子供たちから教えられるということであってはならない。
私は自分が12歳の時,(同い年の)別のある少年から,性に関する全てについて話して聞かされたことを,(今でも)生き生きと覚えている。即ち,性にまつわる事柄全体が猥褻な冗談に使うための話の種として,下品な精神で語られていた(のである)。それは,私の世代の少年たちの普通の経験であった。
当然,大多数の人は,生涯を通じて,を滑稽かつ汚ならしいものと考え続け,その結果,彼らは自分が肉体関係を持つ女性を(注:安藤訳では intercourse を「交際する」と訳されているが,ここは性交=肉体関係を持つと訳すべきであろう。),たとえ自分たちの子供の母親(注:通常は妻)であっても,尊敬することができなかった。父親(の方)は,性に関する知識を最初どのようにして手に入れたか覚えているはずなのに,両親とも,(子どもによる性に関する知識の獲得を)運にまかせるという臆病なやり方に従った。このような方法が,なぜ健全な精神や健全な道徳に役立つなどと考えられたのか,私には想像もつかない。
性は,最初から,自然なものであり,楽しく,見苦しくないものとしてとり扱われるべきである。そうでないと,男女関係を,また,親と子供の関係を,毒することになる。最上の性は,互いに愛しあいかつ子供(たち)を愛する父親と母親の間に見いだされる。子供たちは,性に関する最初の印象を下品な冗談から受けるよりも,まず両親の関係から性について知るほぅがはるかによい。子供たちが,両親の間の性を,自分たちには隠されてきた罪深い秘密として発見することは,特によくないことである。

The share of the father in generation is less likely to come up naturally in answer to questions, unless the child lives on a farm. But it is very important that the child should know of this first from parents or teacher, not from children whom bad education has made nasty. I remember vividly being told all about it by another boy when I was twelve years old ; the whole thing was treated in a ribald spirit, as a topic for obscene jokes. That was the normal experience of boys in my generation. It followed naturally that the vast majority continued through life to think sex comic and nasty, with the result that they could not respect a woman with whom they had intercourse, even though she were the mother of their children. Parents pursued a cowardly policy of trusting to luck, although fathers must have remembered how they gained their first knowledge. How it can have been supposed that such a system helped sanity or sound morals, I cannot imagine. Sex must be treated from the first as natural, delightful, and decent. To do otherwis is to poison the relations of men and women , parents and children. Sex is at its best between a father and mother who love each other and their children. It is far better that children should first know of sex in the relations of their parents than that they should derive their first impressions from ribaldry. It is particularly bad that they should discover sex between their parents as a guilty secret which has been concealed from them.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 12: Sex Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE12-070.HTM

<寸言>
普段、動物性の肉は、断片化されたものしかみたことがなく、ましてや、家畜が子供を生むところをみたこともない都会の子どもたち。ずっと昔のように産婆さんによって自宅で子供を生むようなことは皆無の先進国。そういった社会にあっては、どうしても、性教育はややもすると抽象的なものになってしまう危険がある。
北欧のような進んだ性教育は、高度な福祉社会の特徴の一つでもあろう。日本のように進んだ産業社会【国家)であっても、古い道徳観や倫理観が残っているところでは、どうしてもオブラートに包んでしまうところがある。たとえば、多くの与党の国会議員が加わっている日本会議の家族間や道徳観をみたら、まともな性教育なんかは不可能に見える。

幼児期における性教育の原則

 (いろいろな)質問に答えてあげることが,性教育の主要な部分である。その場合,二つの原則が性教育全体にあてはまる。第一の原則は,(性に関する)質問には常に本当の答え(正直な回答)を与えよう(ということ)。第二の原則は,性に関する知識を他の知識とまったく同様に考えよう(ということである)。もしも,子供が太陽や月や雲について,あるいは自動車や蒸気機関について知的な質問をすれば,あなたは喜んで,子供に理解できる限り多くのことを話して聞かせる(だろう)。(このように)(いろいろな)質問に答えてあげることは,幼児教育の非常に大きな部分をなしている。しかし,もしも,子供が性に関する質問をすると,あなたは「しいっ,しいっ(静かにして)」と言いたくなるだろう。そういうやり方はよくないと理解していても,(注: IF = Even if たとえ~としても),なお,あなたは,簡単に,そっけなく(drily = dryly),ことによると(perhaps),少し動揺して答えることであろう。子供は,ただちにそのニュアンスに気づく。そして,あなたは好色の基礎(土台)を築いたことになる。あなたは,何か他の事柄に関する質問に答えるのとまったく同じように,十分に,かつ自然に,性の質問に答えてあげなければならない。たとえ無意識的にでも,性には何か忌まわしく不潔なものがある,とあなた自身が感じるようであってはならない。もしそれを許せば,あなたの感情は自然に子供に伝わるであろう。子供は,必ず,父母(両親)の関係には何か汚らしいものがある,と思うだろう。即ち,後年大きくなると,父母は自分が生まれるようになった行為をよくないものと思っている,と結論するだろう。幼いころにそのような感情を持てば,幼いころだけではなく,おとなになっても,幸福な本能的な情緒を持つことを,不可能にしてしまう。

Answering questions is a major part of sex education. Two rules cover the ground. First, always give a truthful answer to a question ‘, secondly, regard sex-knowledge as exactly like any other knowledge. If the child asks you an intelligent question about the sun or the moon or the clouds, or about motor-cars or steam-engines, you are pleased, and you tell him as much as he can take in. This answering of questions is a very large part of early education. But if he asks you a question connected with sex, you will be tempted to say “Hush, hush”. If you have learnt not to do that, you will still answer briefly and drily, perhaps with a trifle of embarrassment in your manner. The child at once notices the nuance, and you have laid the foundations of prurience. You must answer with just the same fulness and naturalness as if the question had been about something else. Do not allow yourself to feel, even unconsciously, that there is something horrid and dirty about sex. If you do, your feeling will communicate itself to him. He will think, necessarily, that there is something nasty in the relations of his parents ; later on he will conclude that they think ill of the behaviour which led to his existence. Such feelings in youth make happy instinctive emotions almost impossible, not only in youth, but in adult life also.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 12: Sex Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE12-040.HTM

<寸言>
あくまでも科学的に取り扱ったほうがよいということ。後ろめたいという印象を子供に与えると、ひと目をさけてコソコソと快楽にふけるという悪い習慣を身につけ、自分では克服したと思っても、大人になってもその悪い影響が(意識下に)残りがちになるとのこと。

フロイト主義者の功績と不十分あるいは間違っている点

He claims to be a Freudian, but he’s Jung at heart.’

タブーであるということとまったく関係なく,性が特有(特別)なものである点が一つある。それは,この本能が(他の本能と比べて)遅れて成熟するということである。精神分析学者(精神分析医)たちが指摘したように(ただし,かなりの誇張があるが),確かに,性本能は幼年期に見られないわけではない。しかし,幼児における性本能の現れは,おとなの生活に現れる場合とは異なっており,その強さもずっと弱く,男の子がおとなのように性本能を満足させることは肉体的に不可能である。思春期は,(現在においても)重大な情緒的な危機であり続けており,(これまでの情緒教育中心から)知識教育の真ん中に投げこまれ、教育者にいろいろな難問を差し出すところの種々の混乱を引き起こす。
こういう問題の多くについて,私は(本書『教育論』においては)論じるつもりはない即ち,私が(本書で)考察しようとするのは,主に思春期以前になすべき事柄である。教育上の改革が,とりわけ幼年期初期に最も必要とされるは,まさにこの点(思春期以前になすべき事柄)に関してである。
私は,多くの細部の個別事項についてフロイト主義者と意見を異にしているが,性にかかわる事柄で幼い子供の取り扱い方が間違えば,大きくなってから,いろいろな神経障害を引き起こすということを指摘した点で,彼らはとても貴重な寄与をしたと考えている。彼らの仕事は,この点で既に広範囲にわたって有益な結果をもたらしているが,まだ克服しなければならない非常に多くの偏見が残っている。もちろん,子供たちを生後一年間は,大部分,まったく無教育な女性の手に委ねておくという慣行のために --こういう女性たちは,猥褻罪で告訴されないために学識者がやむなく長々と(わかりにくい言葉で)述べている事柄を知っているとは思えないし,それ以上にそれらの事柄を信じることなど期待できないために-- その困難は非常に増しているのである。

There is one respect in which, quite independently of taboos, sex is peculiar, and that is the late ripening of the instinct. It is true, as the psycho-analysts have pointed out (though with considerable exaggeration), that the instinct is not absent in childhood. But its childish manifestations are different from those of adult life, and its strength is much less, and it is physically impossible for a boy to indulge it in the adult manner. Puberty remains an important emotional crisis, thrust into the middle of intellectual education, and causing disturbances which raise difficult problems for the educator. Many of these problems I shall not attempt to discuss; it is chiefly what should be done before puberty that I propose to consider. It is in this respect that educational reform is most needed, especially in very early childhood. Although I disagree with the Freudians in many particulars, I think they have done a very valuable service in pointing out the nervous disorders produced in later life by wrong handling of young children in matters connected with sex. Their work has already produced widespread beneficial results in this respect, but there is still a mass of prejudice to be overcome. The difficulty is, of course, greatly increased by the practice of leaving children, during their first years, largely in the hands of totally uneducated women, who cannot be expected to know, still less to believe, what has been said by learned men in the long words necessary to escape prosecution for obscenity.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 12: Sex Education
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE12-010.HTM

<寸言>
フロイト及びフロイト主義者の功績は大であるが、何もかも性で説明しようとしたことで、行き過ぎがあった。ラッセルは『教育論』の中で、彼らの功績と誤りを、具体的に述べている。

(幼い)子供を扱うのに適切な女性?

 女性は,性的に満たされていないと,完璧な母親になることも,幼い子供の完璧な先生(教師)になることも,きわめて難しい。精神分析医(精神分析学者)がなんと言おうと,親として本能は,性本能とは本質的に異なるものであり,性にとって適切な情緒が親としての本能(の領域)に侵入してくると,損なわれてしまう。
独身の女性の先生を雇う習慣(注:こういった慣例があるのは,若い人は賃金が安くてすむからか?)は,心理学的にはまったくまちがっている。(幼い)子供を扱うのに適切な女性は,子供に期待してはいけない(←子供に対して期待されるべきでない)満足を,自分のために求めることをしない本能の持ち主である。幸福な結婚をしている女性は,努力しなくてもこのタイプに属する。しかし,それ以外の女性の場合は,ほとんど不可能なまでの微妙な自制心が必要となるであろう。
もちろん,同じことが,同様の状況(環境)にある男性にもあてはまる。だが,そういう状況は,男性の場合はずっと少ない。それは,男性の親としての本能は通常あまり強くないからであり,また,男性が性的に飢えていることはめったにないからである(注:公娼などがある場合が少なくないため)。

It is very difficult for a woman to be a perfect mother, or a perfect teacher of young children, unless she is sexually satisfied. Whatever psycho-analysts may say, the parental instinct is essentially different from the sex instinct, and is damaged by the intrusion of emotions appropriate to sex. The habit of employing celibate female teachers is quite wrong psychologically. The right woman to deal with children is a woman whose instinct is not seeking from them satisfactions for herself which they ought not to be expected to provide. A woman who is happily married will belong to this type without effort ; but any other woman will need an almost impossible subtlety of self-control. Of course, the same thing applies to men in the same circumstances, but the circumstances are far less frequent with men, both because their parental instincts are usually not very strong, and because they are seldom sexually starved.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE11-070.HTM

<寸言>
もちろん個人差はありますが、一般的に言えば、独身の女性を幼い子供の教師に雇うのは「心理学的見地からは」好ましいとは言えないという主張です。
子供をわけへだてなく扱うには「自制心」が必要ですが、自分の子供がいる女性であればそれは比較的難しくないけれども、独身で子供を持ったことのない女性の場合はそうしようとしたら「かなりの自制心」が必要となり、自覚が足りないと失敗しやすいということです。

親や教師の過度の影響の望ましくない点

 子供がいつも接触している大人は,たやすく子供の生活の支配者となり,子供が大きくなってからさえも,精神的な奴隷にしてしまいがちである。そうした(精神的)服従は,知的な場合もあれば,情緒的な場合もあるし,その両方である場合もある。知的奴隷(前者)の好い例は,ジョン・スチュアート・ミルであり,結局彼は,父親がまちがっていたのかもしれないということを,どうしても認める気にはなれなかった。幼年期の環境に知的に隷属するのは,ある程度,正常である。親や教師に教わったのとは異なる意見を受け入れることのできる大人は --彼らを一緒に押し流してしまうほどの(強い)一般的な世間の圧力(風潮)がある場合は話は別であるが-- きわめて少ない。けれども,知的奴隷(隷属状態)は自然でありかつ正常である,と言われるかもしれない。私も,どちらかと言えば,特別な教育によらないかぎり,それは避けることはできない,と言いたい。こういう形の親や教師の過度の影響は,慎重に避けなければならない。なぜなら,急速に変化しつつある世界では,過去の世代の意見を持ち続けることはなはだ危険だからである。

An adult with whom a child is in constant contact may easily become so dominant in the child’s life as to make the child, even in later life, a mental slave. The slavery may be intellectual, or emotional, or both. A good example of the former is John Stuart Mill, who could never bring himself, in the last resort, to admit that his father might have been mistaken. To some degree intellectual slavery to early environment is normal; very few adults are capable of opinions other than those taught by parents or teachers, except where there is some general drift that carries them along. It may be maintained, however, that intellectual slavery is natural and normal ; I am inclined to admit that it can only be avoided by an education ad hoc. This form of excessive parental and scholastic influence ought to be avoided carefully, since, in a rapidly changing world, it is exceedingly dangerous to retain the opinions of a bygone generation.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE11-040.HTM

<寸言>
親や教師の影響が過度であることは,親や教師にとって心地よいかも知れないが、影響を受ける子供にとっては良くない面も少なくなく、進歩が必要な社会にとっても好ましくない面が多々ある。

「エディプス・コンプレックス」なんて存在しない、と思う

 精神分析学者によって前面に持ち出されてきた,もうひと組の危険がある。ただし,私は,彼らの事実解釈には疑問があると考えている。私が考えている危険は,父親か母親のどちらかに対する度を越した愛着に結びついた危険である。大人(成人した者)は,いや青年でさえ,自分(ひとり)で考えたり感じたりできなくなるほど,父親あるいは母親によって,保護を受けすぎるようなことがあってはならない。こういったことは,親の個性が子供の個性よりも強い場合には,容易に起こる可能性がある。私は,稀な病的な事例は別として,息子が母親に,娘が父親に,特別に惹きつけられるという意味での「エディプス・コンプレックス」がある(普通に存在する)とは信じない。親の過度の影響は,それが存在する場合は,性別にかかわらず,子供と一番多くのかかわりを持ってきた - 通例,母親 - によるものである。もちろん,母親を嫌っていて,(父親があまり家におらず)父親の姿をあまり見ない娘が,父親を理想化することはあるかもしれない。しかし,その場合,影響は夢(の中の父親)によってであり,現実の父親によってではない理想化とは,さまざまな希望を一つの口実に託することだ。つまり,口実は,ただ便宜的なものであって,希望の性質とはなんの関係もない。度を過ごした親の影響は,これとはまったく異なる。なぜなら,親の影響は,空想上の肖像ではなく,現実の人間と結びついているからだ。

There is another set of dangers which has been brought to the fore by the psycho-analysts, though I think their interpretation of the facts may be questioned. The dangers I am thinking of are those connected with undue devotion to one or other parent. An adult, and even an adolescent, ought not to be so overshadowed by either father or mother as to be unable to think or feel independently. This may easily happen if the personality of the parent is stronger than that of the child. I do not believe that there is, except in rare morbid cases, an “Oedipus Complex”, in the sense of a special attraction of sons to mothers and daughters to fathers. The excessive influence of the parent, where it exists, will belong to the parent who has had most to do with the child –generally the mother– without regard to difference of sex. Of course, it may happen that a daughter who dislikes her mother and sees little of her father will idealize the latter; but in that case the influence is exerted by dreams, not by the actual father. Idealization consists of hanging hopes to a peg: the peg is merely convenient and has nothing to do with the nature of the hopes. Undue parental influence is quite a different thing from this, since it is connected with the actual person, not with an imaginary portrait.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE11-030.HTM

<寸言>
通俗的なフロイト主義者は、すべての人がエディプス・コンプレックスを生まれつきもっているかのごとく言うが、そんなことはない、とラッセルは主張する。病的な場合を除いて、子供が母親または父親に異常な愛着を持つことはないはずであり、もし持っているとしたら、親子関係夫婦関係に問題がある場合だろう、とのラッセルの主張。

学校に行かないほうがよい少数の少年少女の存在

 これまでいろいろ論じてきたけれども,私は,世の中には学校へ行かないほうがよい少年少女が一定の数存在し,その中には非常に重要な人物も存在することを認めるにやぶさかではない。もし,ある少年が,ある方面で並みはずれた知的能力に恵まれているが,身体が貧弱で,とても神経質であるならば,多数の正常な(知的能力が普通の)少年たちの中にうまく溶けこむことはまったくできないかもしれないし,気が狂うまでいじめられるかもしれない。
 異常な才能が不安定な精神(精神の不安定)と結びついていることは,めずらしいことではない。そういう場合は,正常な(普通の)少年にとってはよくない方法をとることが望ましい。異常な感受性に何かはっきりした原因があるのかどうか,見きわめるように配慮しなければならないし,また,それを治すために忍耐強い努力がなされなければならない。しかし,そういう努力も,決して,恐ろしい苦しみ--たとえば,異常な少年が野蛮な仲間からとかく耐えなければならないような苦しみ--を伴うものであってはならない。
そういう感受性は,通例,幼年期の間違った(子どもの)取り扱いに原因があり,それが子供の消化作用や神経を台無しにしてしまったのではないかと,私は考える。幼児を扱う際に賢明であれば,すべての幼児は正常な少年少女に成長し,ほかの少年少女との付きあいを十分楽しめるようになる,と私は考えている
それでも,いくらか例外が生じるであろうし,また,何らかの天与の才能の持ち主の間に容易に生じるかもしれない。こういう稀な場合には,学校は望ましくなく,青少年時代の(学校以外の)より保護された環境(を確保してあげること)が望ましい。

In spite of all the above arguments, I am prepared to admit that there are a certain number of boys and girls who ought not to go to school, and that some of them are very important individuals. If a boy has abnormal mental powers in some direction, combined with poor physique and great nervousness, he may be quite incapable of fitting into a crowd of normal boys, and may be so persecuted as to be driven mad. Exceptional capacities are not infrequently associated with mental instability, and in such cases it is desirable to adopt methods which would be bad for the normal boy. Care should be taken to find out if abnormal sensitiveness has some definite cause, and patient efforts should be made to cure it. But these efforts should never involve terrible suffering, such as an abnormal boy may easily have to endure from brutal companions. I think such sensitiveness generally has its source in mistakes during infancy, which have upset the child’s digestion or its nerves. Given wisdom in handling infants, I think almost all of them would grow into boys and girls suffciently normal to enjoy the company of other boys and girls. Nevertheless, some exceptions will occur, and they may easily occur among those who have some form of genius. In these rare cases, school is undesirable, and a more sheltered youth is to be preferred.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 10: Importance of Other Children
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE10-070.HTM

<寸言>
見極めが難しいが、例外的に扱ったほうが良い子供がごく少数だがいるであろう。

子供の心と身体には大量の遊びが必要

 これらの問題のほかに,検討すべき事柄がもう一つあり,もしかするとこのほうがより重要な問題かもしれない。子供の心と身体は,大量の遊びが必要であり,2,3歳を過ぎると,ほかの男の子や女の子といっしょでなければ,遊びはほとんど満足すべきもとならない。遊びをしなければ,子供は,神経が張り詰め,神経質になる。(即ち)生きる喜びを失い,不安が募ってくる。
もちろん,ジョン・スチュアート・ミルが育てられたような,3歳でギリシア語の学習をはじめ,普通の子供らしい楽しみは何も知らない,というふうなやり方で育てることは可能である。単に知識を身につけるという観点だけからすればその結果はよいかもしれないが,全体的見地から見れば,私はその結果を賞賛することはできない。ミル『自伝』の中で語っているところによると。彼は思春期に,あらゆる音符の組み合せはいつの日にか(いつか必ず)使い果たされ,そうして新しい作曲は不可能となるだろう,と考えて,自殺しかけたことがあった,とのことである。
(訳注:岩波文庫の安藤訳も,みすず書房版の魚津訳も,角川文庫版の堀訳も全て「あらゆる音符の組み合わせは一日で使い果たすことができるので,新しい作曲が不可能になると考えて,自殺しかけたことがあった」と訳されている。「あらゆる音符の組み合わせが一日で使い果たすことができる」なんてことは,常識的に考えてありえないことであることから,誤訳だと思わなかったのだろうか? また can be used up ではなく would be used up と書かれていることにも注意が必要だろう。結論を言うと one dey は前置詞がついていないことから,副詞的用法であり「いつの日にか(いつか必ず)」ということであり,論理学者でもあったミルらしく,音符の組み合わせは膨大かもしれないが,その組み合わせは’有限’なものであるから,いずれ新しい曲など作れなくなってしまうという「強迫観念」にかかってしまった,というのが正解であろう。)
この種の強迫観念神経衰弱の症状であることは,明らかである。後年彼は,父親の哲学が間違っていたかもしれないということをあきらかにしそうな論拠を思いつくたびに,まるでおびえた馬のように後ずさりし(注:shied away from / shay の過去形),それによって,彼の推論能力の価値を大いに減少させてしまった。もっ普通の青年時代を過ごしていれば,おそらく,もっと柔軟な知性の持ち主になっていたであろうし,彼の思索ももっと独創的なものになっていたことであろう。それはともかくとして,もっと人生を楽しむ能力を身につけただろうことは確かであろう。
私自身も,16歳までは - ミルの場合よりはいくらかひどいものではなかったが- 個人教育によって育てられた 。しかし,それでも,若者の普通の喜びに欠けるところが非常に多かった。ミルが言っているのとまったく同様に,私も思春期に自殺したいという気持ちにかられた経験がある。私の場合は,力学の法則が私の身体の運動を規制しており,意志は単なる幻影にすぎない(自分にはまったく自由意志はない),と考えたからであった。同年輩の友達と付きあうようになってから,私は,自分が堅苦しい気取り屋であることがわかった。その後いつまでそうであったかは,私の言うべきことではない(注:なぜなら、この本を出した1926年でも,他人はラッセルのことを「堅苦しい奴だ」と思うかもしれないから。ラッセルらしい物の言い方。因みに,魚津氏は「その後いつまでそうであったか,私は知らない」と訳されている)。

Apart from these considerations there is another, perhaps even more important. The mind and body of a child demand a great deal of play, and after the first years play can hardly be satisfactory except with other boys and girls. Without play a child becomes strained and nervous ; it loses the joy of life, and develops anxieties. It is, of course, possible to bring up a child as John Stuart Mill was brought up, to begin Greek at the age of three, and never know any ordinary childish fun. From the mere standpoint of acquiring knowledge the results may be good, but taken all round I cannot admire them. Mill relates in his Autobiography that during adolescence he nearly committed suicide from the thought that all combinations of musical notes would one day be used up, and then new musical composition would become impossible. It is obvious that an obsession of this sort is a symptom of nervous exhaustion. In later life, whenever he came upon an argument tending to show that his father’s philosophy might have been mistaken, he shied away from it like a frightened horse, thereby greatly diminishing the value of his reasoning powers. It seems probable that a more normal youth would have given him more intellectual resilience, and enabled him to be more original in his thinking. However that may be, it would certainly have given him more capacity for enjoying life. I was myself the product of a solitary education up to the age of sixteen–somewhat less fierce than Mill’s, but still too destitute of the ordinary joys of youth. I experienced in adolescence just the same tendency to suicide as Mill describes–in my case, because I thought the laws of dynamics regulated the movements of my body, making the will a mere delusion. When I began to associate with contemporaries I found myself an angular prig. How far I have remained so it is not for me to say.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 10: Importance of Other Children
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE10-060.HTM

<寸言>
上記の私の解釈を補強するよい説明がweb上にないかと,Googleで検索したところ、日米ハーフの Jun Seenesac 氏の「one day と someday の違いと使い分け」という文章があった。「英語学習コラム」の記事のひとつですが,お勧めです。
http://hapaeikaiwa.com/2014/07/09/%E3%80%8Cone-day%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8Csomeday%E3%80%8D%E3%81%AE%E9%81%95%E3%81%84%E3%81%A8%E4%BD%BF%E3%81%84%E5%88%86%E3%81%91/ 

2022年はラッセル生誕150年