第一次世界大戦時に,英国内の窮乏に陥った敵国のドイツ人を助ける

hikokumin_kairakutei-black 第一次大戦の期間中,クリスマスを迎えるごとに,私は,発作的な暗い絶望感に襲われた。それは,ただ無為に椅子に坐っているだけで,何もすることができず,人類が何かの役に立つものかどうか疑うほどの,(一抹の光もないような)完璧な絶望(感)であった。1914年のクリスマスの時期に,オットリンの助言で,この絶望感を堪え難いものにしない方法を見つけた。(すなわち)私は,慈善委負会を代表して,ひどく貧しいドイツ人を訪問し,その境遇を調査し,必要があれば彼らを窮地から救済する,という仕事にとりかかった。この仕事をしているうちに,激しい戦争の最中に,注目すべき思いやり(親切)のいろいろな実例に遭遇した。稀なことではないが,貧しい人たちの住んでいる近隣で,女家主たちは --自分たち自身もけっして裕福ではないが-- まったく家賃をとらずに,彼らを住まわせてあげていた。なぜなら,彼女たちは,(英国と戦争状態にある)ドイツ人が職を見つけることは不可能である,ということがわかっていたからである。この問題は--ドイツ人がことごとく拘禁されてしまったので,その後まもなく消えてしまった。しかし,第一次大戦の最初の数ケ月間は,ドイツ人の境遇は非常に惨めなものであった。

Every Christmas throughout the War I had a fit of black despair, such complete despair that I could do nothing except sit idle in my chair and wonder whether the human race served any purpose. At Christmas time in 1914, by Ottoline’s advice. I found a way of making despair not unendurable. I took to visiting destitute Germans on behalf of a charitable committee to investigate their circumstances and to relieve their distress if they deserved it. In the course of this work, I came upon remarkable instances of kindness in the middle of the fury of war. Not infrequently in the poor neighbourhoods landladies, themselves poor, had allowed Germans to stay on without paying any rent, because they knew it was impossible for Germans to find work. This problem ceased to exist soon afterwards, as the Germans were all interned, but during the first months of the War their condition was pitiable.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 1:The First War, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB21-070.HTM

[寸言}
戦争が始まると,たまたま自国に住んでいて迫害されている敵国人を助けると非国民として糾弾される。しかし、それが逆の場合(敵国にいる同邦人が敵国人に助けられる場合)は戦後に褒めたたえられる。まったく身勝手だ。
多くの人間は、戦争になればたやすく「集団的狂気」に陥入る。
ラッセルは、この時の経験,「幸福論」の執筆に反映することになる。即ち、「絶望に陥った時はくよくよ考えても救われない,何か有益だと思われるような「行動」をしてみることが一番である」と。

人間性の名誉のために-非国民と罵られても抗議の声をあげる

BRAINS-B  このような最中,私は自分の愛国心によってひどく苦しめられたマルヌの戦い(第一次世界大戦初期の1914年9月5~12日,フランスのマルヌ河畔で行われた独仏の戦いでフランスが勝利した。)以前の,ドイツの数々の成功(勝利)は,私にとって,大変恐ろしいものであった。私は,いかなる退役した陸軍大佐にもおとらないくらい熱烈にドイツの敗北を願った。(母国)英国に対する愛情,私のもっている感情のなかで最も強いものであるといってよいが,そのため,そのような時期において,愛国心が沸いてきたらそれをわきに追いやるという,困難な自制の努力をしていた。それにもかかわらず,私は何をなさなければならないかということについて,一瞬たりとも疑いを持たなかった。私は,大戦以前には,時々懐疑主義に陥って無力になったり,時々冷笑的になったり,それ以外の時には無関心になったりしたが,第一次大戦が勃発した時には,あたかも神の声を聞いたかのように感じた。
私の抗議がどんなに無益なものであろうとも,戦争に抗議することは私の役割(責務)であると理解していた。私の人間としての全ての本質が関係していた。
(第一に)真理を愛するものとして,全交戦国の(自国本位の)国家宣伝にむかむかさせられた。
(第二に)文明を愛するものとして,野蛮への復帰にぞっとさせられた。
(第三に)若者たちに対する親としての感情を損なわれたものとして,青年に対する大虐殺に心を苦しめた。(第一次)大戦に反対しても,自分にとって良いこと(自分の利益になること)はほとんど出てこないだろうと思ったが,★人間性の名誉のために★,少なくとも足下をすくわれていない人々は,しっかりと(自分の足で)立っていることを示すべきであると思った。

[寸言}
非国民と言われ孤立することは非常に辛い。そこで、どうしても、戦争に賛成しないまでも、黙認することになりやすい。国民みんながそう思うようになれば、「愛国無罪」ということになり、歯止めが無くなってしまう。ラッセルには、それは「人間性に対する屈辱」に映る。「人間は本来残酷なんだよ」と’大人の態度’で対処しても、戦争に勝利すれば反省することなく(うぬぼれを強くし)、また、負ければ、自分の責任は最小限にして国家(指導者)だけの責任にしようとする(のが人間性!?)

人間性についての見方の修正 - 人間性に潜む残酷さ

JOLLY2 戦争がもたらす惨禍の予想で,私は,恐怖でいっぱいになった。しかし,私をより恐怖で満たしたのは,戦争による大虐殺の予想は,英国民のほぼ90パーセントにとって,快いものであるという事実であった。(*注参照)
私は,人間性についての見方を修正しなければならなかった。当時,私は,精神分析については全く無知であったが,,人間の’情念’(様々な感情)について,精神分析家の考えに似通った見方に,独力で到達した。私は,第一次大戦に対する大衆(一般の人々)の感情を理解しようと努力しているうちに,このような見解に到達したのである。それまで私は,親が自分の子供を愛するのは,まったくありふれたことであると思っていたが,第一次大戦により,これはごくまれな例外であると思うようになった。大部分の人は,他の何よりもお金を好むと思っていたが,お金よりも破壊の方をより好むということがわかった。★知識人というものはしばしば真理を愛するものと想像していたが,人気よりも真理の方を選ぶものはその一割にも満たないことがわかった。
(イラスト出典:Bertrand Russell’s The Good Citizen’s Alphabet, 1953)

The prospect filled me with horror, but what filled me with even more horror was the fact that the anticipation of carnage was delightful to something like ninety per cent of the population. I had to revise my views on human nature. At that time I was wholly ignorant of psycho-analysis, but I arrived for myself at a view of human passions not unlike that of the psycho-analysts. I arrived at this view in an endeavour to understand popular feeling about the War. I had supposed until that time that it was quite common for parents to love their children, but the War persuaded me that it is a rare exception. I had supposed that most people liked money better than almost anything else, but I discovered that they liked destruction even better. I had supposed that intellectuals frequently loved truth, but I found here again that not ten per cent of them prefer truth to popularity.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 1:The First War, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB21-040.HTM

[寸言}
(*注)世界大戦になれば,大量殺戮が起こることは,理屈では理解していながら,’非道な’敵国の侵略を防ぐためにはちゅうちょしてはならないと,いずれの国々の人々も,無意識下に’雑念’を追い払おうとする。戦争が終わり,戦争の実体があきらかになると,このように大変なことになるとは予想していなかったと,戦後初めて気づいたかのごとく,自己欺瞞に陥る,というのがラッセルの言いたいことであろう。/ベトナム戦争も,イラク戦争も・・・。)

政府は必ず嘘をつく- 人のよい(?)国民はそれに気づかず・・・

chomsky_uso-minshushugi (翌日の)月曜の朝(1914年8月3日),私はロンドンに行くことに決めた。私は,モレル夫妻とロンドンのベッドフォード・スクエアで昼食を共にした。そうして,オットリン・モレルが,私の考え方と全く同じであることがわかった。彼女は,下院で平和演説をするという夫フィリップの決意に賛成した。私は,エドワード・グレイ卿(注:第一次世界大戦勃発時の英国外相)の評判の演説を聞きたいと思い,下院まで出かけたが,群衆があまりに多く,院内に入れなかった。けれども,私は,フィリップ・モレルが,演説をうまくやりとげたことがわかった。
私は,その日のタ方,ロンドンのいろいろな通りを -特にトラファルガー広場の近辺を- 歩きまわり,陽気な群衆に注目し,通りすぎる人々の感情に対し自分の感性を敏感にして(感性を研ぎ澄ませて),過ごした。この日とそれに続く何日間,驚いたことに,一般の(平均的な)男女が,戦争が起こりそうなことを喜んでいるのを発見した。私は愚かにも,ほとんどの平和主義者が主張するように,戦争は,専制的かつ権謀術数に長けた政府によって,嫌がる(気の進まない)民衆に押しつけられるものである,と想像していた。
Edward_Grey エドワード・グレイ卿は,戦争が起こったら,我々英国民にフランスを支援させるべく,ひそかに手を打っており,そのことを一般国民に知られないようにするため,用意周到に嘘をついてきたことを,私は,戦争が起こる何年も前から気がついていた。グレイ卿がいかに国民をだましてきたか,国民が知ったら,さぞかし立腹するだろうと,素朴に想像していた。しかし怒るかわりに,国民は自分たちにも倫理的責任の一端を担わせてくれたグレイ卿に,感謝したのである(注:言うまでもなく,皮肉)

On the Monday morning I decided to go to London. I lunched with the Morrells at Bedford Square, and found Ottoline entirely of my way of thinking. She agreed with Philip’s determination to make a pacifist speech in the House. I went down to the House in the hope of hearing Sir Edward Grey’s famous statement, but the crowd was too great, and I failed to get in. I learned, however, that Philip had duly made his speech. I spent the evening walking round the streets, especially in the neighbourhood of Trafalgar Square, noticing cheering crowds, and making myself sensitive to the emotions of passers-by. During this and the following days I discovered to my amazement that average men and women were delighted at the prospect of war. I had fondly imagined, what most pacifists contended, that wars were forced upon a reluctant population by despotic and Machiavellian governments. I had noticed during previous years how carefully Sir Edward Grey lied in order to prevent the public from knowing the methods by which he was committing us to the support of France in the event of war. I naively imagined that when the public discovered how he had lied to them, they would be annoyed; instead of which, they were grateful to him for having spared them the moral responsibility.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 1:Tje First War, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB21-020.HTM

[寸言}
人間性の嫌な側面。それを情報操作や宣伝や教育(愛国心教育ほか)で利用する政府。「ナチスの手口」をまねればよいと(半分冗談、半分本気)で言ったとしても副総理(アッソウ? 麻生)を続けていられる日本社会。日本社会の民度(民主主義のレベル)はそんなものか!? 某国は非民主的だと威張って(軽蔑して)いられないのではないか?

回春(愛人のオットリンと第一次世界大戦)

Ottoline_Seymour 1910年から1914年までの期間は,(私にとって)過渡期であった。私の人生は,1910年以前と1914年以後とでは,メフィストフェレスに会う前と後のファゥストの生涯(人生)と同様,はっきり区別されるものであった。私は,オットリン・モレル夫人によって始められ,第一次世界大戦によって継続された,若返り(回春)の過程’を経験した。’戦争が人を若返らせる’とは奇妙に思われるかもしれないが,事実,第一次世界大戦は,私の偏見を振り落とし,多くの根本的な問題についてあらためて考え直させてくれた。第一次大戦は,また,私に新しい種類の活動も与えてくれた。この新しい活動に対しては,数理論理学の世界に戻ろうとするときに何時も私につきまとった,あの新鮮みのなさ(味気なさ)を感じなかった。それゆえ私は,いつも自分自身を,超自然的存在でないファウスト博士であり,(ファウスト博士にとっての)メフィストフェレスに相当するものは(自分にとっては)第一次世界犬戦である,と考える習癖(習償)が身に付いた。

The period from 1910 to 1914 was a time of transition. My life before 1910 and my life after 1914 were as sharply separated as Faust’s life before and after he met Mephistopheles. I underwent a process of rejuvenation, inaugurated by Ottoline Morrell and continued by the War. It may seem curious that the War should rejuvenate anybody, but in fact it shook me out of my prejudices and made me think afresh on a number of fundamental questions. It also provided me with a new kind of activity, for which I did not feel the staleness that beset me whenever I tried to return to mathematical logic. I have therefore got into the habit of thinking of myself as a non-supernatural Faust for whom Mephistopheles was represented by the Great War.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 1:Tje First War, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB21-010.HTM

[寸言}
ラッセルとオットリン夫人との恋愛をオットリンの伝記(『オットリン、ある貴婦人の破天荒な生涯』)から見ると・・・。
http://russell-j.com/cool/kankei-bunken_shokai2013.html#br2013-3

若い時に、帝国主義者(ボーア戦争支持)から平和主義者に転向

Boer-War_Churchill 1899年の秋,ボーア戦争が勃発した。当時私は,自由主義的帝国主義者(a Liberal Imperialist)であり,当初はまったくボーア人(ブール人)に味方しなかった(注:Liberal Imperialism:19世紀イギリスの’自由主義的帝国主義’。市場を開かない国は,力によって開国させ,自由と文明を世界に広める。ブッシュ大統領とブレア首相は,現代における新自由主義的帝国主義者と揶揄されていた)。英国の敗戦が大変心配であり,そのために,戦争のニュース以外は何も考えることができなかった。私たち(注:ラッセル夫妻)は,ミルハンガー(注:英国の田舎)で碁らしていたので,大ていの午後,夕刊を手に入れるために,私はいつも4マイルの距離を駅まで歩いた。アリス(注:初婚の相手)は,アメリカ人であったので,この問題について,私と同じ感情を共有しておらず,私が夢中になっているのでかなりいらいらしていた。ボーア人が負けはじめると,私の関心はしだいに薄くなっていき,そうして1901年の初め(ラッセル28歳の時)には,私は,ボーア人の味方になっていた(注:つまり、帝国主義者ではなく、平和主義者に変わっていた)。

In the autumn of 1899 the Boer War broke out. I was at that time a Liberal Imperialist, and at first by no means a pro-Boer. British defeats caused me much anxiety, and I could think of nothing else but the war news. We were living at The Millhanger, and I used most afternoons to walk the four miles to the station in order to get an evening paper. Alys, being American, did not have the same feelings in the matter, and was rather annoyed by my absorption in it. When the Boers began to be defeated, my interest grew less, and early in 1901 I became a pro-Boer.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 5: First marriage, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB15-220.HTM

[寸言}
* Bore War, 1899-1902:ブール戦争とも言う.アフリカ大陸南部にあったトランスヴァール共和国とオレンジ自由国に対するイギリスの侵略戦争後にイギリス首相となるウィンストン・チャーチル(1874-1965)も捕虜となったが脱走(添付写真参照)。英国はボーア人の住む両国を占領して植民地とし, 1910年に,’南アフリカ連邦’を建国

戦争犯罪国際法廷(ラッセル法廷)の準備-資本主義と共産主義の違いを越えて

DOKUSH49 1966年の夏,広範囲にわたる調査研究及び企画立案のもと,私は全世界の多くの人々に手紙を書き,ヴェトナム戦争犯罪国際法廷への参加を要請した。私はその反応に元気づけられ,間もなく18人前後の人々から受諾の返事をもらった。特にうれしかったのは,ジャンポール・サルトルが参加してくれたことであった。なぜならば,哲学上の問題では私たちは意見を異にしていたけれども,私は彼の勇気を大いに称賛していたからである。ユーゴースラヴィアの作家,ヴラディミル・デディイエル(Vladimir Dedijer, 1914-1990.11.30:ユーゴスラビアの政治家,歴史家/ウラジミール・デディエ(?))はだいぶ前に,ウェールズに私を訪ねて来たことがあった。彼の西側世界と共産世界との両方の世界に関する幅広い知識から,彼は貴重な盟友であることがわかった。私はまた,随筆家で政治関係の著作家でもあるアイザック・ドイッチャー(Isaac Deutscher,1907-1967.8.19:イギリスの歴史学者,ジャーナリストで,トロツキー伝で有名) -彼とは10年間会っていなかった- をかなり頼みとするようになっていた。国際法廷に関してあまりに多くのテレビやテレビ以外のインタービューの申し込みがあるときはいつも,ロンドンにいるドイッチャーに頼んで記者会見を開いてもらい,世界的な問題やわれわれ自身の活動について,詳しい情報に基づいた,説得力のある評価を与えてもらうことができた。
私は1966年11月,国際法廷のメンバー全員を予備的な議論をするためにロンドンに招き,そして(ラッセル『ベトナムにおける戦争犯罪』の)章末に掲げてあるスピーチをかわきりに議事を開始した。ヴェトナムで現に起こっていることを細心の注意を払って調査することは不可欠のことであると思われた。それで私は,疑いもなく’誠実だと思われる人たちだけを招聘した。その会合は大成功であった。そして私たちは,翌年に何週間も長期にわたって国際法廷の公開セッションを開催する準備を行った。

In the summer of 1966, after extensive study and planning, I wrote to a number of people around the world, inviting them to join an International War Crimes Tribunal. The response heartened me, and soon I had received about eighteen acceptances. I was especially pleased to be joined by Jean-Paul Sartre, for despite our differences on philosophical questions I much admired his courage. Vladimir Dedijer, the Yugoslav writer, had visited me earlier in Wales, and through his wide knowledge of both the Western and Communist worlds proved a valuable ally. I also came to rely heavily on Isaac Deutscher, the essayist and political writers whom I had not seen for ten years. Whenever there were too many requests for television and other interviews about the Tribunal, I could rely on Deutscher in London to meet the press and give an informed and convincing assessment of world affairs and of our own work. I invited all the members to London for preliminary discussions in November, 1966, and opened the proceedings with a speech to be found at the end of this chapter. It seemed to me essential that what happening in Vietnam should be examined with scrupulous care, and I had invited only people whose integrity was beyond question. The meeting was highly successful, and we arranged to hold the public sessions of the Tribunal over many weeks in the following year, after first sending a series of international teams to Indo-China on behalf of the Tribunal itself.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap4:The Foundation,(1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB34-280.HTM

[寸言}
「戦争犯罪」を政治的に扱うのではなく,あくまでも「人道的な見地」から扱うことから,ラッセル法廷の各メンバーの政治的立場によって、自分たちの都合のよい事実だけをつなぎあわせることがあってはならない。従って、審理にはかなり時間がかかることになり、忍耐心が必要になる。そのような努力を払ってたとしても、被告となっている戦争当事国や関係者は必ず,法廷メンバーは「彼らは共産主義者だ」とか、」事実誤認だ」とか言って、裁判を行う権利や資格などないと言って侮蔑した上で無視する(無視することを国民に訴える)であろうが・・・。

強国はどこも過去に大量破壊兵器を使用していた

731butai_bookcover この国際法廷(ラッセル法廷)は, --これについてはヴェトナムに関する私の著書に書いてあるが--, 全世界にわたって広く一般の関心をひきつけた。南ヴェトナムを服従させようとするその不当な(不正な)企てにおける米国の信じられないほどの残酷さを広く世界に知らせる助けとなる何らかの効果的な手段はないか,私は4年間にわたって探し求めていた。朝鮮戦争当時,私は,アメリカ人が大量破壊の新しい生物・化学兵器の試験場(実験場)として朝鮮戦争を利用したといって米国を非難したジョセフ・ニーダム教授(Joseph Terence Montgomery Needham, 1900-1995:英国の生化学者で中国科学史の権威)やその他の人々の主張(申し立て)を信ずることができなかった。私は,そのような非難を極端すぎると考えていたことに対して,ジョセフ・ニーダム教授およびその他の方々に心からお詫びをしなければならない。1963年にいたって,私はそれらの主張が正しかったことを確信するようになった。というのは,それと同様の主張(申し立て)が,ヴェトナム(戦争)における米国(の行為)に対してなされなければならないことが明らかだったからである。

The Tribunal, of which my Vietnam book told, caught the imagination of a wide public the world over. For four years I had been searching for some effective means to help make known to the world the unbelievable cruelty of the United States in its unjust attempt to subjugate South Vietnam. At the time of the Korean War I had been unable to believe in the allegations brought by Professor Joseph Needham and others charging the Americans with having used that war as a proving-ground for new biological and chemical weapons of mass destruction. I owe Professor Neednam and the others my sincere apologies for thinking these charges too extreme. By 1963, I had become convinced of the justice of these allegations since it was clear that similar ones must be brought against the United States in Vietnam.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap4:The Foundation,(1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB34-270.HTM

[寸言}
いかなる国も(民主主義/自由主義国も)戦争になると戦争犯罪を犯す。しかし、自国だけは、そのような残虐行為はしない(したとしても一部の、上官の命令に従わない不良軍人だけだ)と言い張る。
日本の石井中将が率いる731部隊による大規模な人体事件などは、証拠がそろいすぎているので否定しようがないが、米ソが石井部隊の実験結果を入手したくて、いわゆる司法取引をもちかけ、極東軍事裁判でも裁かれないことになってしまった。最近では、極東軍事裁判は「戦勝国が敗戦国を裁いた一方的な裁判であった」という取り上げ方はよくされるが、戦勝国の立場からではない、人類の立場から見なおした、本来裁かれるべき戦争犯罪人のことをなぜもっと取り上げないのだろうか?
「戦後レジュームからの脱却」を(仲間内にさかんに)言う安倍総理に取り上げてもらいたいものだが・・・。え? 「未来志向」だからそんなことはしないって・・・!?
https://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A

米国政府を批判したためにピューリッツァー賞を得る機会を逃す!?

TPJ-WCV 時々私は,北ヴェトナムの人々から,ヴェトナム戦争における多様な展開について意見を言うよう求められてきた。彼らは,ニューヨーク・タイムズ紙の副主幹であるハリソン・ソールズベリー氏(Harrison Evans Salisbury,1908-1993)が新聞記者としてハノイを訪問することを許可することは好ましいかどうか,私の助言を求めてきた。
ソールズベリー氏はかつて,ウォーレン委員会報告書(注:ケネディ暗殺に関する調査委員会の報告書)の紹介記事のなかで私を攻撃したことがあり,彼はその紹介記事の中で,同委員会は「委員会が発見し得るあらゆる微細な証拠をも網羅的に調べあげた」と書いていた。これらのコメントはその後間もなく馬鹿げたものであることがわかった。
しかし,北ヴェトムの一般市民に対する広範にわたる爆撃の証拠を無視することには相当な困難を彼は感じているのではないかと疑った。(そこで)私は,彼のハノイ訪問は引き受ける価値のあるリスクである,と勧めた。そうして,それから何週間かして彼のハノイ報告(記事)を読んでうれしく思った。彼のハノイからの報告はワシントン政府(当局)を狼狽させた。多分それは彼がピューリッツァー賞を得る機会を失わせたであろう.

Occasionally I have been invited by the North Vietnamese to give my opinion about various developments in the war. They asked my advice as to the desirability of permitting Mr Harrison Salisbury, Assistant Managing Editor of the New York Times, to visit Hanoi as a journalist. Mr Salisbury had previously attacked me in his introduction to the Warren Commission’s Report, in which he wrote of the Commission’s ‘exhaustive examination of every particle of evidence it could discover’. These comments were soon seen to be ridiculous, but I suspected that he would have great difficulty in ignoring the evidence of widespread bombardment of civilians in North Vietnam. I recommended that his visit was a risk worth taking, and was pleased to read, some weeks later, his reports from Hanoi, which caused consternation in Washington and probably lost him a Pulitzer Prize.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap4:The Foundation,(1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB34-250.HTM

[寸言}
(注)ソールズベリー(報告)が2回目のピューリッツァー賞の受賞を逃したのは,北ヴェトムの一般市民に対するアメリカによる無差別の爆撃について新聞に書いてアメリカ政府を批判したため(またアメリカの愛国者たちを刺激したため)であろう,という意味。
なお,ソールズベリーは,1955年に1回目のピューリッツァー賞を,1963年にジョージ・ポーク賞を受賞している。

戦争犯罪-爆撃の巻き添え死した人からみれば爆撃はテロ

TP-WCV2・・・。私がヴェトナム戦争に関する自分の態度や声明の根拠としたのは,他の専門の調査員たちの報告書と同様,一部はこうしたシェーンマン(ラッセルの秘書)の報告書や,また1964年11月に現地で直接の印象を得るために平和財団(=ラッセル平和財団)のメンバーとして最初にヴェトナムに赴いたクリストファー・ファーレ(後に、ラッセルの秘書)の報告書のような,いくつかの報告書であった。
けれども,私が自分の意見の主たる根拠としているのは,日々の新聞,特に米国の新聞に報道されてきた事実である。これらの報道(記事)は,新聞の編集方針に影響を与えないように見えたということで,たまたま公表されてきたように思われる。

lt was in part upon such reports as Schoenman’s and of those of Christopher Farley who, in November, 1964, was the first member of the foundation to go to Vietnam to obtain first-hand impressions, that I base my attitude and statements in regard to the Vietnam war, as well as upon reports of other special investigators. Chiefly, however, I base my opinions upon the facts reported in the daily newspapers, especially those of the United States. These reports seem to have been published almost by chance since they appear not to have affected editorial policy.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap4:The Foundation,(1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB34-240.HTM

[寸言}
つまり、他国のマスコミの情報であれば、米国は「偏見に満ちている」とか「事実ではない(客観的な報道ではない)」といって無視するであろうが、米国の「信頼できる」報道機関による記事を積み上げたものであれば、簡単には反論できないであろう、との思いから、米国の報道機関によるベトナム戦争報道をラッセルは重視したのである。

現在のイラクやシリアにおける米軍やイラク軍や有志連合による爆撃によって巻き添えで死んだ民間人は膨大な数に登っている。
たとえば、これはアメリカの報道機関ではないが、日々の死亡者数が記載されている下記のページによれば、2014年1月10日から2015年5月11日までの間に、イラク軍による爆撃等によって死亡した民間人は少なくとも2,156人(負傷者は3,747人)いると言われている。イラクやシリアにおいて、米軍やロシア軍を含めた有志連合の兵士によって巻き添えで殺害された民間人は膨大な数に登ることが容易に想像される。
http://web.econ.keio.ac.jp/staff/nobu/iraq/chrono/chrono15/indiscriminate_attack_iraq.htm