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恐怖(心)は憎しみを生みやすい- 勇気が必要な理由

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◆祝、500号!◆
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GREEDY-S 恐怖(心)は,意識的であれ,無意識的であれ,憎しみを生みやすい。なぜなら,他人は,自分に危害を加えることができる者(可能性のある者)とみなされているからである。
大部分の人の場合,現状では,ねたみが広い愛情の妨げになっている。ねたみを防ぐには,幸福による(幸福になる)ほかないと思われる。即ち,道徳的な躾けも,意識下のねたみに触れる力はない。逆に,幸福は,恐怖(心)のために大いに妨げられる。幸福になる機会をつかんだ若者は,親や「友人」から妨げられる。それは,名目上は道徳的な理由からであるが,実際はねたみからである。若者に十分な勇気があれば,こういう,不吉な予言をする人々を無視するだろう。そうでなければ,自らを不幸にし,ねたみ深い道徳家の仲間に加わることになる。
私たちがこれまで考察してきた性格の教育は,幸福と勇気を生み出すことをねらいとしている。それゆえ,性格の教育は,愛情の源泉を解放することを可能にすることを(いろいろ)為すであろう,と私は考える。それ以上のことを為すことはできない。もしあなたが子供たちに向かって,愛情深くなくてはいけないと言えば,あなたは空念仏と誤魔化しを生み出す危険を冒すことになる。しかし,もしあなたが子供たちを幸福で自由にしてあげ,また,子供たちを親切で包みこんであげるならば,子供たちは自発的にすべての人と仲良くなり,また,ほとんどすべての人は,それに応えて子供たちと仲良くなるだろう。人を信頼する愛情深い性質は,おのずとその正しさを証明する。なぜなら,それは,抵抗しがたい魅力をその持ち主に与え,期待通りの反応を呼び起こすからである。これこそ,正しい性格の教育から期待される最も重要な結果の一つである。

Fears, conscious or unconscious, are very apt to produce hatred, because other people are regarded as capable of inflicting injuries. With most people, as things are, envy is a barrier to widespread affection. I do not think envy can be prevented except by happiness; moral discipline is powerless to touch its sub-conscious forms. Happiness, in turn, is largely prevented by fear. Young people who have a chance of happiness are deterred by parents and “friends”, nominally on moral grounds, but really from envy. If the young people have enough fearlessness they will ignore the croakers; otherwise they will allow themselves to be made miserable, and join the company of envious moralists. The education of character that we have been considering is designed to produce happiness and courage; I think, therefore, that it does what is possible to liberate the springs of affection. More than this cannot be done. If you tell children that they ought to be affectionate, you run the risk of producing cant and humbug. But if you make them happy and free, if you surround them with kindness, you will find that they become spontaneously friendly with everybody, and that almost everybody responds by being friendly with them. A trustful affectionate disposition justifies itself, because it gives irresistible charm, and creates the response which it expects. This is one of the most important results to be expected from the right education of character.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE11-180.HTM

[寸言]
いずれの独裁主義的な政府も(日本も例外にあらず)も、独裁主義的であること(非民主主義的であること/あるいは権力主義的であること)を隠す(カモフラージュする)ために、敵対国(仮想敵国)の危険性を強調し、国民に恐怖心を起こさせて、自分たちの政権に頼るようにさせようとする。
abe_japan's-media_quailing 特に、汚職や嘘などの権力者の腐敗が明らかになり、政権基盤があやうくなった時には必ずといってよいほど、その傾向が強くなる。
過去にそのような経験をした(政権崩壊の危機を招いた)権力者は,再度そのようなことが起こらないように、マスコミ(特にその政治担当部門)をコントロールし、自分たちに都合の悪いことは「偏った報道をするな」と圧力をかけるとともに、御用記者などを通じて、政権のイメージアップにつながる報道をさせようと画策する。そのためには、露骨に金銭を贈ることもあるが、それ以上に多いのは、地位や役職を与えることであり、それには役職手当という「隠れた金銭授受」が存在している。
これは共産主義国だけでなく、民主主義国でも一般的なことである。つまり、これは経済体制や社会体制の問題ではなく、「権力者は腐敗する、全体的権力は絶対的に腐敗する」という、独裁的権力共通の問題である。

「知性の鍛錬」を疎かにする者の同情心には限界あり

follow-blindly (同情心の)本能的な芽ばえがあれば,広い同情心を養うことは主に知的な事柄である。それ(広い同情心を養えるかどうか)は,子供の注意を正しい方向へ向けてあげて,軍国主義者や権威主義者が隠蔽しているいろいろな事実を真に理解できるようにしてあげられるかどうかにかかっている。
たとえば,ナポレオンが勝利した後に,アウステルリッツの戦場(注:アウステルリッツの戦い)を歩きまわるナポレオンを,トルストイが描いている箇所をとりあげてみるとよい。大部分の歴史書は,戦いが終わるとただちに戦場をあとにする(それ以上その戦争についての記述は終えてしまう)。即ち,あと12時間,戦場に留まるという簡単な処置で,まったく異なった戦争の様相が見えてくるのである。これは,事実を隠すことでなされるのではなく,より多くの事実を教えることでなされる
そうして,戦争にあてはまることは,他の形の残酷さにも、同様に,あてはまる。どの場合においても,道徳(教訓)を指し示す必要はまったくない。即ち,物語を正しく語るだけで十分である。お説教をしないで,事実が子供の心におのずと道徳観念を生み出すようにすればよい。
(松下注:つまり,歴史教育のなかで道徳心や愛国心を強調しなくても,(同情心の)本能的な芽生えさえ生じていれば、事実をありのままに示せば,そのような道徳観念は子どもの心に自然に生じるであろう,との趣旨。)

just-doing-others-do_fuwaraidoThe cultivation of wide sympathies, given the instinctive germ, is mainly an intellectual matter : it depends upon the right direction of attention, and the realization of facts which militarists and authoritarians suppress. Take, for example, Tolstoy’s description of Napoleon going round the battlefield of Austerlitz after the victory. Most histories leave the battlefield as soon as the battle is over ; by the simple expedient of lingering on it for another twelve hours a completely different picture of war is produced. This is done, not by suppressing facts, but by giving more facts. And what applies to battles applies equally to other forms of cruelty. In all cases it should be quite unnecessary to point the moral ; the right telling of the story should be sufficient. Do not moralize, but let the facts produce their own moral in the child’s mind.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE11-170.HTM

[寸言]
まず「同情心の本能的な芽生え」を元にして(てこにして)幅広い同情心を養うことが大切
しかし、そこで留まってはならない。それ以上の同情心の拡大は主として「知的な事柄」となる。
しかし、そのことは必ずしも理解されているとは言えない。なぜなら、同情心にあふれている人が、無知のために、世界に残酷さをもたらす助けをしていることがどれだけ多いか(歴史上多かったか)を振り返って反省してみるだけでわかるはずである。
たとえば、abe_nihonchinbotu海外から輸入した安い品物を入手できることは有り難い。しかし、それが海外の人々を搾取した結果(成果)だとしたら・・・!? (しかし、ここで気をつけなければならないのは、自社ではそのようなことはしなくても、子会社や関連会社が不正を働き、本社の経営陣はそれを知っていても見てみぬするやり方である。ユニクロの中国の関連会社がやっていたことがそれであり、それが明らかになるとユニクロは「まったく知らなかった,今後そのようなことがないように気をつける。」と声明をだし、ユニクロの創業者のファンはそれで納得してしまう。)

その事実を知らなかったからということで自分を許してしまってよいだろうか? 確かにまったく知り得ないことであればそういう感想や態度も仕方ない面はあるだろう。しかし、小さな記事であってもけっこう日本人に知らされている。ただそういう記事は興味を惹かないから読まれることはほとんどない(埋草記事)となる。

また、忙しいからという弁解もよくなされる。しかし、多忙だとよく弁解する人も、ポケモンGOをやったり、(商業資本や政府などによって)次々と提供される目新しいもの(オリンピックもその一例)を追いかける時間はあるようである。そういうものに釣られて追いかけてばかりいれば、立ち止まって考える時間はなくなってしまう。

若い時にそれではいけないと気づき、自分なりに考える習慣を身につける人も少なくないはずだが、いつの間にか、流行に従ったほうが楽だということで流されていき、体制維持的かつ権力志向あるいは権力に従順な態度が身についていくことになる。「浮動層」であることが一番楽なのであろう。いつも多数者の中に身をおいておけば、間違った時も、みんな間違ったのだからと「罪一等を自ら減ずる」ことができるのである。「多数決に従うのが民主主義だ」、と自らに言い聞かせ・・・。

悪者とは幸福が何にあるかを知らない不器用な人間だと教え・・・

chimimouryo_gosei 不親切や残酷さの実例が子供の目にとまった場合は,おとな自身がその出来事を道徳的にどう評価するかを話すとともに,残酷なふるまいをした人はおろかであり育てられ方が悪かったからそういう思慮のないことをしたのだと常に示唆しつつ,十分に話しあわなければならない。
しかし,子供が歴史や物語(お話)の中で不親切や残酷さの事例をよく知るようになるまでは,子供が自然に(自発的)に目撃したのでない限り,私は,現実世界の中にあるそういう事例に子供の注意を喚起するようなことはしたくない。
そのあとで(歴史や物語の中で不親切や残酷さの事例をよく知った後で)子供の身の回りの環境の中にある悪について,徐々に教えていきたい。しかし,そうした悪は,戦うことができるし,無知と自制の欠如と悪い教育から生じるのだという感情を常に子供に植えつけたい私は,子供が悪者(悪人)に対して憤慨するように仕向けるのではなく,むしろ,悪者は幸福が何にあるかを知らない不器用な人間だ,と考えるように仕向けたい。

If any actual instance of unkindness or cruelty comes under the child’s notice it should be fully discussed, with all the moral values which the adult himself attaches to the incident, and always with the suggestion that the people who acted cruelly were foolish, and did not know any better because they had not been well brought up. But I should not call the child’s attention to such things in his real world, if they were not spontaneously observed by him, until after he had grown familiar with them in history and stories. Then I should gradually introduce him to a knowledge of evil in his surroundings. But I should always give him the feeling that the evil can be combated, and results from ignorance and lack of self-control and bad education. I should not encourage him to be indignant with malefactors, but rather to regard them as bunglers, who do not know in what happiness consists.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE11-160.HTM

[寸言] ・
abe_rekisi-netuzo_self-deception 教育や躾は子供の心身の成長にあわせて行われなければならない。親や教師がこれは正しいことだからと子供の成長の度合いを考慮しないで「教え込む」ようなことをしてはいけない。
また、「この世の悪は、無知と自制の欠如と悪い教育から生まれる」ということを教えるほうがよく、悪者をこらしめる必要があるとか、憎むべきだといった感情を生み出すことを目指して行われてはならない。

子供には,敗けた側に自然に味方したくなるような戦いからまず教えるとよい

yaeno-sakura それから,(子どもに)歴史を教えるときには,戦争のことについて全て話してもよい。しかし,戦争について話をするときには,最初は,敗者に対し同情がまず寄せられなければならない。私なら,負けた側に自然に味方したくなるような戦い--たとえば,イギリスの少年に教える場合は,ヘイスティングズの戦い--から始めたい。私は常に,戦争によってもたらされた負傷や苦痛を強調したい(強調して話したい)。
私は,子供たちを,戦争の話を読んでも,まったく党派根性を感じないで,また,どちらの側も平静さを失った愚かな人間集団であり,良い子になるまで保母によってベッドに寝かしつけられなければならないと考えるように,除々にもっていきたい。私は,戦争を子供部屋における子供同士のけんかと同質化したい(同じものと感じさせたい)。
このようにすれば,子供たちに戦争の真相(実相)を悟らせ,戦争が馬鹿げたものであることをわからせることができる,と私は信じている。

Then history may be taught, with all its wars. But in telling about wars, sympathy, at first, should be with the defeated. I should begin with battles in which it is natural to feel on the side of the beaten party–for instance, the battle of Hastings in teaching an English boy. I should emphasize always the wounds and suffering produced. I should gradually lead the child to feel no partisanship in reading about wars, and to regard both sides as silly men who had lost their tempers, and ought to have had nurses to put them to bed till they were good. I should assimilate wars to quarrels among the children in the nursery. In this way I believe children could be made to see the truth about war, and to realize that it is silly.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE11-150.HTM

[寸言]
oichinokata_rakujo 子供には,敗けた側に自然に味方したくなるような戦いからまず教えるとよい,というラッセルのアドバイス。

日本の戦争については、会津白虎隊の話とか、信長に滅ぼされた浅井長政の話などから始めるとよいかも知れない。ちなみに、浅井長政は(信長の妹である)妻のお市の方(豊臣秀吉の側室茶々の母親)に落城寸前の城から子どもを連れて逃げて生き延びるように言ってから自害している。戦争の残酷さ、不条理、無意味さを子どもに理解させるのに最適か?

愛国心教育をまず思い浮かべる政治家といかに発想が異なることか。

至る所で敵を打ち負かし・・・ 加害行為の正当化はよくない

KONICA MINOLTA DIGITAL CAMERA
KONICA MINOLTA DIGITAL CAMERA

・・・。しかし,現実の世界の残酷さを子供に初めて教える時には,子供が自分を加害者ではなく,被害者(犠牲者)と同一視するような事件を選ぶように配慮しなければならない。子供が自分を暴君と同一視するお話(物語)においては,子供の中にある野蛮性が大喜びするであろう。この種のおはなし(物語)は,帝国主義者を生み出しがちである。(松下注:たとえば,第二次世界大戦において外国の軍隊をいたるところで打ち負かしている話を子どもに聞かせるなどする・・・。) しかし,アブラハムがイサクを犠牲にしようとする話(物語)とか,エリシャ(Elisha)が呪った子供たちを雌グマが殺す話(物語)は,自然に他の子供に対する同情を引き起こす。そういう話をするときには,人間が遠いむかしに身を落とした深刻な残酷さを示すものとして,話さなければならない。

nikudan-sanjyusi_dozoBut when the child is first introduced to cruelty as a thing in the real world, care must be taken to choose incidents in which he will identify himself with the victim, not with the torturer. Something savage in him will exult in a story in which he identifies himself with the tyrant ; a story of this kind tends to produce an imperialist. But the story of Abraham preparing to sacrifice Isaac, or of the she-bears killing the children whom Elisha cursed, naturally rouses the child’s sympathy for another child. If such stories are told, they should be told as showing the depths of cruelty to which men could descend long ago.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE11-140.HTM

[寸言]
今は漫画はほとんど読まないのでわからないが、昔は漫画においても、戦記物がはやっていた時期があった。太平洋戦争などで、日本軍のゼロ戦などが、敵国アメリカの戦闘機を次々に撃ち落とす姿が意気揚々と描かれていた。そういった漫画を読む少年の脳裏には戦争によって苦しみながら死んでいく兵士の姿はほとんど浮かんでこない。「かっこよい」という気持ちがわきあがってくるだけであり、それが大人になっても基調的な気持ち(気分)となって残っていくことになる。

Tokyo-Genpatu いつの時代においても、どこの国においても、自分(や家族などの近親者や友人など)が苦しむことにならない限り、他人の苦しみは「ひとごと」であり、大部分の人は「自分のこと」として考えることはない。
原発や米軍基地のことも同様。両方とも必要だと主張するのであれば、たとえば、原発なら、(40年経過した原発を延長使用などしないで)一番電力を使う地域(東京や大坂など)の地盤のしっかりした場所に新しい原発を建設すべきであろう。また、米軍基地も、日本の防衛のために必須のものだと考える国会議員が多い地区(選挙区)に移転するようにするとよいであろう。それがいやなら、それを支持する/推進する国会議員を落選させればよい。

自分や自分の家族などに影響がない限り、危険なものであっても日本には必要だから「現状維持」しようという発想はやめたほうがよい。是非必要だと思うのであれば、是非進んで自らもその責務を平等に負担しよう。まずそこから始めるべきであろう。

子どもに世の中の悪について教える時期及び適切な方法

そうは言っても,子供に悪についての知識を与える適切な方法は,簡単には見つからない。もちろん,大都会のスラムに住んでいる子供たちは,酔っぱらいや,けんかや,妻をなぐることなど全てについて,早くから知るようになる。このことも,ほかの影響を与える人やもの(注:influences 複数形)によって(反作用で)中和されるならば,あるいはまったく害を与えないかもしれない。
しかし,注意深い親なら,ごく幼い子供にわざわざこのような光景を見せつける(光景に晒す)ようなことはしないだろう。そういう光景は,その子供のその後の人生全体を色づけてしまうほどなまなましい恐怖を起こさせる,というのが大きな反対理由であると思われる。子供は,無防備なので,子供に対しても残酷な仕うちが行なわれる可能性があることを初めて知ったときには,恐怖を感じないではいられない。
oliver-twist_hungry 私が初めて(ディケンズの)『オリヴァー・トゥイスト』(Oliver Twist)を読んだのは,十四歳の頃であったが,その小説は,もっと幼いころなら到底耐えられなかったような恐怖感で私の心を満たした。恐ろしい事柄は,ある程度の平静さをもって直面できるほどの年頃になるまでは,幼い子供に知らせるべきではないだろう。この時期は,一部の子供の場合,他の子供よりも早く訪れるであろう。(それゆえ)想像力に富む子供や臆病な子供は,鈍感な子供や生まれつき勇気に恵まれた子供よりも,長い間保護してあげなければならない。子供が不親切の存在に直面しないうちに,親切を期待するために恐怖(心)を持たないという心の習慣をしっかりと確立してあげなければならない。
その(子供に悪についての知識を与える)時期と方法を選ぶには,臨機応変と(子供の)理解力が必要である。即ち,それは杓子定規で決められることではない。

Nevertheless, the right way of giving children a knowledge of evil is not easily found. Of course, those who live in the slums of big cities get to know early all about drunkenness, quarrels, wife-beating, and so on. Perhaps this does them no harm, if it is counteracted by other influences; but no careful parent would deliberately expose a very young child to such sights. I think the great objection is that they rouse fear so vividly as to colour the whole of the rest of life. A child, being defenceless, cannot help feeling terror when it first understands that cruelty to children is possible. I was about fourteen when I first read Oliver Twist, but it filled me with emotions of horror which I could scarcely have borne at an earlier age. Dreadful things should not be known to young people until they are old enough to face them with a certain poise. This moment will come sooner with some children than with others : those who are imaginative or timid must be sheltered longer than those who are stolid or endowed with natural courage. A mental habit of fearlessness due to expectation of kindness should be firmly established before the child is made to face the existence of unkindness. To choose the moment and the manner requires tact and understanding; it is not a matter which can be decided by a rule.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE11-130.HTM

[寸言]
高校生になっても、世の中の悪の存在及びそれによって苦しんでいる多くの人々がいることについて知らないというのではなさけない。かといって、まだ冷静に自分の頭で考えられない時期にそういった諸悪について多量の情報を与えるのもよくない。

幸か不幸か現代においてはマスコミが発達しており、(時の政権さえ批判しなければ、また支配層に不都合な事実を報道しなければ)民主主義国においては「報道の自由」がそこそこあるので、子どもたちにも、大量の、諸悪に関する情報が日々与えられている。そういった意味では、子どもたちは、悪に関する情報を大量に浴びている。

critical-thinking_build-your-brain 従って、そういった情報の受け止め方、処理の仕方を学ぶこと(いわゆるメディアリテラシー教育)がとても重要となっている(ただし、日本では「メディアリテラシーといっても、PCのハードとソフトの使い方の教育に堕している)。しかし、日本では、(機械的/形式的に)「客観性」にこだわる学校教育マスコミに対する不当な監督及びマスコミ関係者側の(政府を始めとした支配層に対する)忖度によって、そういった教育ができない状況となっている。「客観的な」報道に形式的にこだわるのではなく、正反対の意見を紹介し、恣意的な判断を加えずに、情報の受け手が適切な判断をすることができるような論理的な思考能力を身につけるための訓練をすればよいのであるが・・・。

不都合な真実(歴史的事実など)は隠すべきだとする「道徳的な」人間

rekisi_wo_shusei_abe-sinzo 私の知っている平和主義者の中には,戦争に言及しないで歴史を子供に教えたいと望み,できるだけ長い間,この世の残酷さについて子供を無知にしておくほうがよいと考える者がいたし今でもいる。しかし,私は,知識の欠如(無知)に依存するような「逃避的かつ遁世的な美徳」を賛美することはできない。
歴史教育が少しでも始めるやいなや,隠さずにありのままの歴史を教えるべきである。★真実の歴史が私たちの与えたいと思っている道徳と矛盾するならば,我々の道徳はまちがっているにちがいないのであり,そのような道徳(倫理)は捨ててしまうほうがよいであろう。
abe_japan's-media_quailing 私は,この上なく有徳ないくらかの人たちも含めて,多くの人が,事実(というもの)は不都合なものであると気づいていることを十分認める。しかし,そのように思うのは,それらの人たちの美徳のある種のひ弱さのせいである。真にたくましい倫理は,世の中で実際に起こっていることを全て知ったとしても,ただ強化されるだけのものである。
私たちは,無知のままに教育した若者が,世の中にはこんな悪(徳)があるのだということを発見すると,たちまち喜んで悪に走るというような危険を冒してはならない。★若い人たちに残酷さへの嫌悪感を植えつけないかぎり,彼らは残酷なことを慎むことはしないだろうし,残酷さが世の中にあるということを知らないかぎり,残酷さへの嫌悪感を持つことはできないのである.

I have known some pacifists who wished history taught without reference to wars, and thought that children should be kept as long as possible ignorant of the cruelty in the world. But I cannot praise the “fugitive and cloistered virtue” that depends upon absence of knowledge. As soon as history is taught at all, it should be taught truthfully. If true history contradicts any moral we wish to teach, our moral must be wrong, and we had better abandon it. I quite admit that many people, including some of the most virtuous, find facts inconvenient, but that is due to a certain feebleness in their virtue. A truly robust morality can only be strengthened by the fullest knowledge of what really happens in the world. We must not run the risk that the young people whom we have educated in ignorance will turn to wickedness with delight as soon as they discover that there is such a thing. Unless we can give them an aversion from cruelty they will not abstain from it; and they cannot have an aversion from it if they do not know that it exists.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE11-120.HTM

[寸言]
権力者が権力を強めるにつれて自分(たち)の行為に甘くなり、ほとんどと言ってよいほど、圧政を行ったり、腐敗したりするようになるのは、歴史が証明している。
しかし、世間から権力批判を受けるようになると、自分たち(の政権)は民主的であり、独裁などという非難はあたらないと必ず弁解するが、そう言わなければならない事態こそ、すでに為政者が民衆から離れてしまっている証拠である。

XENOPHOB そういう事態に危機感が強まり、国民の批判が強まり政権が崩壊すればよいが、そういう場合、多くの政府(国家)が行ってきたことは、海外(外国政府の横暴さなど)に目を向けさせることであった。仮想敵国を想定し危機を煽り、あるいは大規模な自然災害から国民の命を守るために、即ち、緊急事態に為政者が全権(指揮権)をふるえるようにするために必要だとし、非常事態措置法(緊急事態措置法)を通したり、必要なら憲法を改正するなどして、なし崩し的に、(結果として)国民が自分たちをしばる法律や社会体制をつくるという悲劇や喜劇が起こったことは忘れてはならない(あるいは知らなければならない)。
ナチス(ヒトラー)による政権掌握も、民主主義的な手続き(議会による賛成多数)によって、いわば「お試し改憲」によって、そういう事態が実現したのである。
現代日本においては、「客観的」で「不偏不党」の歴史教育や報道の名目で、政府批判につながるような学校教育や報道を規制する措置がいろいろ行われている。こういった政府のやり方を国民は許してはならないが、マスコミが政府のコントロール化にある限り、そういった動きをとめることは大変困難だと言わざるをえない
ラッセルの次の言葉を日頃反芻する必要があるであろう。

「我々の時代において新しいこと(の一つ)は,権力者たち(政府その他大きな権力を持っている人たち)が,自分たちの(様々な)偏見を民衆に押し付けることができる力が増したことである。」
( What is new in our time is the increased power of the authorities to enforce their prejudices.
出典: Bertrand Russell: Symptoms of George Orwell’s 1984 (1954執筆). Also quoted on Who Said That? BBC TV, Aug. 8, 1958)

思いやりや同情心の芽生え -「共感」が築かれる土台となるもの

子供に同情や愛情をむりやりに感じさせる方法はない。同情や愛情を感じさせる唯一可能な方法は,これらの感情が自発的(自然に)生じる条件を観察し,ついで,その条件を生み出すように努めることである。
CompassionKids同情は,疑いもなく,いくぶん本能的なものである。子供は,兄弟や姉妹が泣くと心配し(気をもみ),しばしば自分も泣き出す。兄弟や姉妹が(親によって)不愉快な目にあっていると,はげしく大人に反抗(敵対)する。私の息子がひじにケガをして(包帯や膏薬などで)手当をしなければならなくなったとき,彼の妹(生後18か月)は,別な部屋で兄が泣いているのを聞き,ひどく取り乱した。手当てという痛々しい仕事が終わるまで,彼女は,「ジョニーが泣いてる,ジョニーが泣いてる」と言いつづけた(注:ラッセルの長男の名前は John)。
息子は,母親が足にささったとげを針で抜いているのを見たとき,心配そうに「痛くないよね,ママ」と言った。母親は,大騒ぎしないことを教えようと思って(注:少しぐらい痛くても大人は騒がないということを教えたくて),’痛い’と言った。息子は’痛くない’と言い張った。それに対し,母親は’痛い’と言い張った。すると息子は,まるで自分の足が痛いかのように,はげしく泣きだした。
empathy-good-manners このような出来事は,本能的な身体的な同情から起こるにちがいない。これこそ,その上にもっと洗練された共感が築かれるに相違ない基礎(土台)である。

There is no possible method of compelling a child to feel sympathy or affection; the only possible method is to observe the conditions under which these feelings arise spontaneously, and then endeavour to produce the conditions. Sympathy, undoubtedly, is partly instinctive. Children are worried when their brothers or sisters cry, and often cry too. They will take their part vehemently against the grown-ups when disagreeable things are being done to them. When my boy had a wound on his elbow which had to be dressed, his sister (aged eighteen months) could hear him crying in another room, and was very much upset. She kept on repeating “Jonny crying, Jonny crying”, until the painful business was finished. When my boy saw his mother extracting a thorn with a needle from her foot, he said anxiously, “It doesn’t hurt, mummy.” She said it did, wishing to give him a lesson in not making a fuss. He insisted that it didn’t hurt, whereupon she insisted that it did. He then burst into sobs, just as vehement as if it had been his own foot. Such occurrences must spring from instinctive physical sympathy. This is the basis upon which more elaborate forms of sympathy must be built. It is clear that nothing further is heeded in the way of positive education except to bring home to the child the fact that people and animals can feel pain, and do feel it under certain circumstances. There is, however, a further negative condition: the child must not see people he respects committing unkind or cruel actions. If the father shoots, or the mother speaks rudely to the maids, the child will catch these vices.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE11-110.HTM

[寸言]
良き本能と悪しき(あるいは社会生活においては)望ましくなく本能
良い本能を土台に様々なよい感情を築いていくことができる。本能を助けにして他人に対する思いやりや同情の心を身につけることができる。そうして、それらを土台にして、知識の助けを得て、共感能力を育むことができる。
望ましい感情と望ましくない感情望ましい感情を多く身につけることによって、望ましくない感情はしだいにめだたなくなり、ほとんど消してしまうことも可能であろう。

幼児の「おしゃべりのお稽古」(まず家族に対して何かを説明する)

息子が2歳4ケ月のとき,私はアメリカヘ行って,3ケ月間不在であった(自宅を留守にした)。彼は今か今かと庭の入口のところで待っていた。即ち,(私が到着するやいなや)私の手を握り,特に彼の関心を引いたことをすべて私に説明し始めた。
(注:began showing 安藤訳では「見せ始めた」と訳されているが,日本語としておかしい。たとえば、「 Please show me the way.」は「 どうしたらよいか教えて=説明してください。」)
inner_voice_how-to-speak 私は(留守中のことを)聞きたかったし,彼は話したかった。私には話したい気持ちはまったくなかったし,息子には聞きたい気持ちは少しもなかった。この二つの衝動は,異なっていたが,調和していた。お話(物語り)ということになると(注:comes to ~になると/ come to that そのことになると・・・),息子は聞きたがり,私は話したがるので,そこにもまた調和がある(のである)。
たった一度だけ,この状況が逆転したことがあった。息子が3歳半のとき,私の誕生祝いがあった。母親は息子に,私が喜ぶようなことをなんでもしなければいけないと言った。お話は,息子の最高の喜びである。私たちが驚いたことに,お話の時間になると,今日はパパの誕生日だから,僕がお話をしてあげる,とアナウンスした(告げた)。息子は,お話を1ダース(ほど)したあとで,椅子からぴょんと飛び下りて,こう言った。「きょうのお話は,これでおしまい。」 それは,(この本を執筆している今から)3ケ月前のことであるが,それ以降これまでに,二度と息子はお話をしてくれたことはない。

When my boy was two years and four months old I went to America, and was absent three months. He was perfectly happy in my absence, but was wild with joy when I returned. I found him waiting impatiently by the garden gate ; he seized my hand, and began showing me everything that specially interested him. I wanted to hear, and he wanted to tell; I had no wish to tell, and he had none to hear. The two impulses were different, but harmonious. When it comes to stories, he wishes to hear and I wish to tell, so that again there is harmony. Only once has this situation been reversed. When he was three years and six months old, I had a birthday, and his mother told him that everything was to be done to please me. Stories are his supreme delight ; to our surprise when the time for them came, he announced that he was going to tell me stories, as it was my birthday. He told about a dozen, then jumped down, saying, “No more stories to-day.” That was three months ago, but he has never told stories again.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE11-100.HTM

[寸言]
HowtoSpeakHorse 幼児は成長して早く独り立ちできるようになるためには、いろいろなこと(知識及び技能)を身につけなければならないおしゃべりすること(相手に何かを伝えること、説明すること)もその一つ。子どもはまず身近な家族(母親あるいは父親、兄弟がいれば兄や姉に)に何かを伝えたり、説明し対するやりかたを身につけようとする。母親とは常にそういった練習をしているので、次には、父親や兄や姉に対して同じことをしようとする。
いずれも、生物全体に備わっている本能であろう。もちろん、他の生物は人間のように言葉をあやつることはできないが、「叫び声」の高さ・強さ・抑揚をいろいろ変えることによって、様々なコミニケーションをしようとする。。

“All You Need is Love!” と簡単にいうが、愛情にもいろいろあり・・・

mothertheresa_love 私が言おうとしているのは,愛情にはいろいろ異なる種類がある,ということである。夫婦の愛情,親の子に対する愛情,子供の親に対する愛情は,それぞれ,別種の愛情である。弊害が生じるのは,これらの種類の異なる自然な愛情が混同されるときである。フロイト主義者が真理に到達していると思えないが,そう思うのは,彼らがこれらの間にある本能上の違いを認めない(認識していない)からである。そして、このために彼らは、ある意味で,親と子に関しては,禁欲主義的になっている。なぜなら、彼らは、親子間のいかなる愛情も不十分な性愛の一種と見るからである。
私は、特別な不幸な事情がある場合を除いて、根本的な自己否定が必要だとはまったく思わない。互いに愛しあい、我が子を愛している男女は、自分の心が命ずるままに,自発的にふるまうことができるべきである。彼ら(親)は、多くの思索と知識を必要とするであろうが、それらは、親としての愛情から獲得するであろう。
彼らは、お互いから(夫婦の間で)得られるものを子供に要求してはならないが、彼ら夫婦がめいめいにおいて幸せであれば、そのようなことをしたいという衝動を感じないであろう。子供たちは、(親に)適切に世話をしてもらっていれば、両親に対して自然な愛情をいだくであろうが、それは、独立心の妨げとはならないだろう。必要なのは、禁欲的な自己否定ではなく、知性と知識によって十分に啓発された本能をのびのびと豊かなものにすることである。

What I do mean is that there are different kinds of affection.  The affection of husband and wife is one thing, that of parents for children is another, and that of children for parents is yet another. The harm comes when these different kinds of natural affection are  confused. I do not think the Freudians have arrived at the truth, because they do not recognize these instinctive differences. And this  makes them, in a sense, ascetic as regards parents and children,  because they view any love between them as a sort of inadequate sex love. I do not believe in the need of any fundamental self-denial,  provided there are no special unfortunate circumstances. A man and woman who love each other and their children ought to be able to act spontaneously as the heart dictates. They will need much thought and knowledge, but these they will acquire out of parental affection. They must not demand from their children what they get from each other, but if they are happy in each other they will feel no impulse to do so. If the children are properly cared for, they will feel for their parents a natural affection which will be no barrier to independence. What is needed is not ascetic self-denial, but freedom and expansiveness of instinct, adequately informed by intelligence  and knowledge.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:
Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE11-090.HTM

[寸言]
All_You_Need_is_Love ビートルズの歌う All You Need Is Love という表現があるが(注:「愛こそすべて」は誤訳。「あなたが必要とする全て→ あなたが足りないものは愛だけだ!)、フロイトなどが子供の欲求(口唇期)も含めて、人間はすべて libido (リビドー)で駆られていると考えるのは行き過ぎであり,愛情にもいろいろなタイプがある(必要な区別はすべきである)というラッセルの指摘。
日本でフロイトがもてはやされていた時期のように、何でもリビドーやエス(イド=動物的本能)から説明しようとする人は今ではほとんどいないと思われるが・・・?