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集中力は非常に貴重な資質

集中力は,非常に貴重な資質であり,教育によるほかはほとんどの人はこれを身につけることができない。確かに,集中力は若い人たちが大きくなるにつれて,かなりな程度まで自然に発達する。たとえば,ごく幼い子供は,一つのことを数分間以上考えることはめったにできないが,彼らの注意力は,おとなになるまで年ごとに散漫でなくなっていく。にもかかわらず,長期間の知育なしには,十分な集中力を身につける見込みはほとんどない
power_of_concentration 完全な集中力を見分ける(区別する)性質は,三つある。すなわち,それは強烈で,持続的で,自発的でなければならない。・・・中略・・・。
かなり長いこと同じ事柄に注意を集中できることは,困難な事柄を達成するために,また,複雑または難解な問題を理解するためにも,不可欠である。強い自発的な興味があれば,その興味の対象に関するかぎり,このような集中力はおのずともたらされる。大部分の人は,機械的なパズルには長時間注意を集中することができる。しかし,この種の集中力は,それ自体ではあまり有益ではない。
集中力が真に価値あるものになるためには,それはまた,意志によってコントロールされるものでなければならない。・・・中略・・・。
高等教育が授けてくれるものは,とりわけ意志による注意力のコントロール(能力)である、と私は考える。この一点に関しては,旧式の教育は称賛に値する。近代的な教育法が,進んで退屈に耐えることを人に教える点で同様に成功しているかどうか疑わしい。

Power of concentration is a very valuable quality, which few people acquire except through education. It is true that it grows naturally, to a considerable extent, as young people get older; very young infants seldom think of any one thing for more than a few minutes, but with every year that passes their attention grows less volatile until they are adult. Nevertheless, they are hardly likely to acquire enough concentration without a long period of intellectual education. There are three qualities which distinguish perfect concentration : it should be intense, prolonged, and voluntary. … To be able to concentrate on the same matter for a considerable time is essential to difficult achievement, and even to the understanding of any complicated or abstruse subject. A profound spontaneous interest brings this about naturally, so far as the object of interest is concerned. Most people can concentrate on a mechanical puzzle for a long time ; but this is not in itself very useful. To be really valuable, the concentration must also be within the control of the will. By this I mean that, even where some piece of knowledge is uninteresting in itself, a man can force himself to acquire it if he has an adequate motive for doing so. I think it is above all the control of attention by the will that is conferred by higher education. In this one respect an old-fashioned education is admirable ; I doubt whether modern methods are as successful in teaching a man to endure voluntary boredom. However, if this defect does exist in modern educational practice it is by no means irremediable. The matter is one to which I shall return later.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principles
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE14-060.HTM

[寸言]
集中力は誰にとっても必要な能力であるが、1)強烈さ(強さ),2)持続性,3)自発性の3つの要素がある。
企業経営者にとっては、社員が仕事に熱心で、集中し、指示しなくても、どんどん仕事をこなしてほしいと思う。
ichioku-sozange 政治家は、国民「一億総活躍」してくれることを望むしかし、閣僚や与党関係者の腐敗や権力乱用に対し、持続的にしつこく追求することを望まず、政府に従順であることを期待する。(そのような集中力は望まない。)
国民は個人の立場では、自分の興味のあることについては、集中できる機会や時間が多くあることを望むが、政府権力者や財界人(経営者)は、サービス残業などを国民や社員が自主的にして、安い給料でまじめに働く人間を好む。
まり、集中してほしい対象が立場によって異なるということ。

開かれた精神・知性(と思想の自由)-知識への欲求が本物であれば・・・

開かれた精神・知性(偏見がないこと)は,知識への欲求が本物である場合必ず存在しているはずの資質である。この性質が欠けるのは,知識欲とは別の欲求が,自分(we)はすでに真理を知っているのだという信念とからみあっている場合に限られる。これが,偏見がないという性質がおとなよりも若者においてずっと普通にみられる理由である。
人間の行動は,知的に疑わしい事柄に対する何らかの決断と,ほとんど必然的に結びついている。牧師は,神学について公平(利害関係なし)でいることはできないし,軍人は戦争について公平でいることはできない。弁護士(注:事務弁護士ではなく法廷弁護士)は 犯罪者が最高(高額の)の弁護料を支払える場合は別として 犯罪者が罰せられるのは当然だと考えるに決まっている。教師は,自分の受けた訓練と経験からして自分に向いている特定の教育制度を支持するだろう。政治家は,自分を一番役職(任務)につかせてくれそうな政党の主義主張を信じないわけにはいかない。
人間は,ひとたび自分の一生の職業を選んだからには,別の道を選んだほうがよかったのではないか(本当により良いという可能性はなかったかどうか)と始終考えているわけにはいかない。だから,おとなの生活においては,偏見のなさという資質は,-制約はなるべく少ないほうがよいけれども- 種々の制約を受けることになる。
LIBERTY しかし,若い時には,ウィリアム・ジェームズが言ういわゆる「強制された選択」ははるかに少ないので,「信じようとする意志」(注:W.ジェームズの著書のタイトル/一方,ラッセルには Will to Doubt という編集物がある。)を持つ機会も少ない。若い人たちは,あらゆる問題は未解決(open)であるとみなすように,また議論の結果,いかなる意見でも放棄することができるように、励ましてあげるべきである。こうした思想の自由の中には,行動については完全に自由であってはならない,ということが含意されている。カリブ海の冒険物語に刺激されて,(幼い)少年(boy)が海に乗り出すような自由は与えるべきではない。しかし,この少年の教育が続くかぎり,大学教授になるよりも海賊になるほうがいい,と考える自由は許されなければならない。(イラスト出典: Bertrand Russell’s Good Citizen’s Alphabet, 1953))

Open-mindedness is a quality which will always exist where desire for knowledge is genuine. It only fails where other desires have become entangled with the belief that we already know the truth. That is why it is so much commoner in youth than in later life. A man’s activities are almost necessarily bound up with some decision on an intellectually doubtful matter. A clergyman cannot be disinterested about theology, nor a soldier about war. A lawyer is bound to hold that criminals ought to be punished–unless they can afford a leading barrister’s fee. A schoolmaster will favour the particular system of education for which he is fitted by his training and experience. A politician can hardly help believing in the principles of the party which is most likely to give him office. When once a man has chosen his career he cannot be expected to be perpetually considering whether some other choice might not have been better. In later life, therefore, open-mindedness has its limitations, though they ought to be as few as possible. But in youth there are far fewer of what William James called “forced options”, and therefore there is less occasion for the “will to believe”. Young people ought to be encouraged to regard every question as open, and to be able to throw over any opinion as the result of an argument. It is implied in this freedom of thought that there should not be complete freedom of action. A boy must not be free to run off to sea under the influence of some story of adventure in the Spanish Main. But so long as his education continues he should be free to think that it is better to be a pirate than a professor.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principles
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE14-050.HTM

[寸言]
本当のことを知りたいという欲求が強ければ、人は自然に「オープンな態度」をとることができる。だが、知識への欲求よりも、たとえば、権力を維持し続けたいとか(政権側)、既得権を守りたいとかいう欲求(大手マスコミ側)のほうが強ければ、「オープンな態度」はとれなくなる。

tokuteihimitu_definition 政権側は,マスコミを支配下に置き、自分たちに都合の悪い情報はできるだけ流させないようにいろいろな手を打つ。一つには、「客観的な報道をすべきだ」という言い方で、権力を批判するマスコミおよびジャーナリストは、「偏向している」と批判したり、報道にあたるジャーナリストのスキャンダルを利用したり,時にはでっちあげたりして,マスコミの国民に対する影響力を削ごうとする。
ただし、マスコミに対する直接的なコントロールは政権を失うことにもなりかねないのでで、マスコミ自らが自己規制するように仕向ける。その一つは放送法の活用である。本来、放送法は、権力者を牽制するものでなければならないが、日本の放送法は、大手マスコミに総務省が電波利用権を与えること(即ち、既得権を与えること)によって、マスコミ自らが権力者(政府や総務省)の意向を忖度して、自己規制にはげむように仕向けている。

病的なあるいは倒錯的な「好奇心」

DOKUSH57 しかし,ここで私は,最初に直面しなければならない議論にぷつかる。子供の好奇心が病的あるいは倒錯的なときにはどうするのか? 子供が猥褻なことや,虐待に関する記事に興味を持っている場合はどうするのか? 子供が他人の行為を詮索することだけに興味を示すとすれば,どうするのか? このような形の好奇心(まで)を奨励すべきなのか?
この問いに答えるにあたっては,一つの区別をしなければならない。最も強調すべき点は,私たちは,子供の好奇心がこういった方向にのみ向かうように振る舞ってはいけない,ということである。しかし,だからといって,そういう事柄を知りたがることを邪悪なことだと子供に感じさせるべきだとか,子供をそういう知識から遠ざけておくように努めるべきだとか,ということにはならない。そういう(禁じられた事柄に関する)知識の魅力は,ほとんど常にと言ってよいほど,それが禁止されているからにほかならない。ある程度の事例においては,そういう知識の魅力は医学的な治療が必要な病的な精神状態と結びついている。しかし,禁止や道徳的な恐怖に訴えることは,いかなる場合においても正しい治療ではない。

But at this point I shall be met by an argument which must be faced at the outset. What if a boy’s curiosity is morbid or perverted? What if he is interested in obscenity, or in accounts of tortures? What if he is only interested in prying into other people’s doings? Are such forms of curiosity to be encouraged? In answering this question we must make a distinction. Most emphatically, we are not to behave so that the boy’s curiosity shall continue to be limited to these directions. But it does not follow that we are to make him feel wicked for wishing to know about such things, or that we are to struggle to keep knowledge of them away from him. Almost always, the whole attraction of such knowledge consists in the fact that it is forbidden; in a certain number of cases it is connected with some pathological mental condition which needs medical treatment. But in no case is prohibition and moral horror the right treatment.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principles
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE14-030.HTM

tokuteihimitu_abe[寸言]
見ては/読んではいけないといわれれば,余計に好奇心が刺激されて見たい/読みたいと思うもの。通常は一度(あるいは2,3回見ればそれほど関心を持たなくなるもの。
「禁断の果実」の言葉があるがごとく、禁止の命令が強ければ強いほど・・・。

知育や知性を道徳的配慮によってスポイルしてはならない

知育が道徳的な配慮によって左右されることは,知性のためにも,またひいては(最終的には)性格のためにも,良くないことである。ある種の知識は有害で,ある種の無知は有益だと考えるぺきではない。教授される知識は,知的な目的のために教授されるべきであり,道徳的または政治的な結論を立証するために教授されるべきではない。
Albert-Einstein-Quote-Reads-too-Much 教育の目的は,生徒の観点からすればひとつには子どもの好奇心を満たしてあげること,ひとつには生徒が自ら好奇心を満たすために必要な技術を子どもに与えることにあるべきである。教師の観点からすれば子どものある種の実りある好奇心を刺激してあげることでもなければならない。
しかし,たとえ子どもの好奇心が学校のカリキュラムからまったくはずれた方向に向かうとしても,決して子どもの好奇心をくじいてはならない。カリキュラムを中断すべきだと言っているのではなく、その子どもの好奇心は賞賛すべきものとみなすべきだと言いたいのであり、また,少年少女には,たとえば図書室の本などによって,放課後に好奇心を満たす方法を教えてあげなければならない

It is a bad thing for intelligence, and ultimately for character, to let instruction be influenced by moral considerations. It should not be thought that some knowledge is harmful and some ignorance is good. The knowledge which is imparted should be imparted for an intellectual purpose, not to prove some moral or political conclusion. The purpose of the teaching should be, from the pupil’s point of view, partly to satisfy his curiosity, partly to give him the skill required in order that he may be able to satisfy his curiosity for himself. From the teacher’s point of view there must also be the stimulation of certain fruitful kinds of curiosity. But there must never be discouragement of curiosity, even if it takes directions which lie outside the school curriculum altogether. I do not mean that the curriculum should be interrupted, but that the curiosity should be regarded as laudable, and the boy or girl should be told how to satisfy it after school hours, by means of books in the library, for example.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principle.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE14-020.HTM

[寸言]
tumekomi-kyoiku 学習指導要領やカリキュラムで決められたことだけを教えるとか、正解のあるものだけ教えるということであってはならない。特に日本では、正解がなく、自分でいろいろ考えさせる教育が貧弱である。上位の学校へあがるための受験教育や受験勉強も大きく影響している。また、教科書検定制度の弊害も大きい。日本は科学技術は世界一流であっても、教育哲学や教育方法においては二流となっている。たとえITを駆使した授業・学習が増加していったとしても(「教育技術」が発達しても)、国家のための人材養成や論理的思考能力を養わない(いわば知性を軽視する)教育のままであるならば、日本国民の人間力は向上しないであろう。そうして、「日本スゴイですね」と自画自賛する国民を量産しかねない。

科学(の活用)と人類愛 - 科学は「善用」も「誤用」もできる

人間にかかわる他の事柄と同様に,教育においても,進歩への道はただ一つしかなく,それは,即ち,愛に支配された(掌握された)科学である。科学がなければ,愛は無力である。(また)愛がなければ,科学は破壊的なものとなる。・・・中略・・・。

abe_under-control 科学によって現在私たちが手に入れつつある幼児の心を形成する力は,とても恐ろしい力を有しており,致命的な誤用(悪用)の可能性があるものである。もしも,その力が悪人の手に落ちたとしたら,気まぐれな(人間が制御できない)自然界よりもさらに残忍で残酷な世界を生み出すかもしれない。子供たちに宗教や愛国心や勇気,あるいは,共産主義やプロレタリア主義や革命的情熱を教えているとかの見せかけのもとに,子供たちは,頑迷で好戦的で残忍であるように教えこまれるかもしれない。教育は,愛によって鼓舞されなければならず,子供たちの中にある愛を解放することを目指さなければならない。さもなければ,教育は,科学的な技術の進歩とともに,より効果的に有害になっていくであろう(有害さを効率的に増していくだろう)。

子供への愛情は,有効な力として社会の中に存在している。このことは,幼児死亡率の低下や,教育の改善によって示されている。この愛情は,いまなお,あまりにも非力である。そうでないとしたら(子どもたちに対する愛情が強ければ),我が国の政治家たちは,彼らの流血と抑圧という非道な計画のために,無数の子供たちの人生と幸福をあえて犠牲にするようなまねはしないだろう。しかし,子どもへの愛情は,確かに存在しており,また,増しつもある。

aikoku-yochien だが,おかしなことに,別の形の愛情は欠けている。(即ち)子供たちのために面倒(世話)を惜しまない当の人びとが,その同じ子供たちを,大きくなった時に,集団的な狂気にほかならない戦争において死にさらそうとする情熱を育んでいるのである。子供のときから大人になるまで,愛情がしだいに広がっていくように願うのは,あまりにも多くを望むことになるのだろうか? 子供を愛する人びとは,子供が大人になっていく様子を,変わらない親としての配慮をもって見守ることを学ぶであろうか? 子供たちに強い体と活発な精神を与えたあとで,私たちは,彼らがこの強さと活力を使って,より良い世界を創り出せるようにしてあげるだろうか。それとも,彼らがこの仕事にとりかかるとき,私たちは,怖がってしりごみし,彼らを(昔のように)再び,隷属と(軍隊の)教練の中に陥れるのだろうか。

科学は,そのどちらの道にも利用できる。(即ち)愛を選ぶか,憎しみを選ぶか,である。ただし,憎しみは,職業的な道徳家たちが敬意を表しているあらゆる美辞麗句の裏に隠されている

There is only one road to progress, in education as in other human affairs, and that is : Science wielded by love. Without science, love is powerless; without love, science is destructive. …
The power of moulding young minds which science is placing in our possession is a very terrible power, capable of deadly misuse; if it falls into the wrong hands, it may produce a world even more ruthless and cruel than the haphazard world of nature. Children may be taught to be bigoted, bellicose, and brutal, under the pretence that they are being taught religion, patriotism, and courage, or communism, proletarianism, and revolutionary ardour. The teaching must be inspired by love, and must aim at liberating love in the children. If not, it will become more efficiently harmful with every improvement in scientific technique. Love for children exists in the community as an effective force; this is shown by the lowering of the infant death-rate and the improvement of education. It is still far too weak, or our politicians, would not dare to sacrifice the life and happiness of innumerable children to their nefarious schemes of bloodshed and oppression ; but it exists and is increasing. Other forms of love, however, are strangely lacking. The very individuals who lavish care on children cherish passions which expose those same children, in later life, to death in wars which are mere collective insanities. Is it too much to hope that love may gradually be extended from the child to the man he will become? Will the lovers of children learn to follow their later years with something of the same parental solicitude? Having given them strong bodies and vigorous minds, shall we let them use their strength and vigour to create a better world? Or, when they turn to this work, shall we recoil in terror, and plunge them back into slavery and drill? Science is ready for either alternative ; the choice is between love and hate, though hate is disguised beneath all the fine phrases to which professional moralists do homage.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 13: Nursery School
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE13-080.HTM

[寸言]
科学の現代社会に対する影響は非常に大きなものとなっている。しかし、科学は「善用」できるとともに「誤用」の恐れもある。科学は価値や目的については何も語らない。人間が、地球や自分たちのことをどんなにすぐれている(例:神が人間を創造した)と思ったとしても,科学(特に宇宙論)の視点から見れば,地球は宇宙の中のひとつのかけらにすぎず、個々の人間は塵の一つにすぎない。地球が50億年後に太陽に飲み込まれ燃え尽きようとも、それは良いとも悪いとも、何も語らない。

しかし、善い悪いは別にして、我々人類は、自分たちがどうなろうとも(どんなに苦しもうと)たいしたことではないと考えることはできない。これは科学の問題ではなく、我々人類の感情の問題である。

abe_rekisi-netuzo_self-deception 即ち、人間にとって、愛なき科学も、科学(合理的思考)なき愛も、(人類にとって)どちらも危険である。狭量な国家主義の立場に立って、愛国主義を子供たちに吹き込み、子供を国家のためにつくす一兵卒としてはならない。

その人(たとえば政治家)がどのような人間観国家観をもっているかは、教育に対する考え方によく現れる。「正しいこと」を子供に吹き込み、国家(実際は少数支配層)に尽くす国民に育てたいと思うか、「自分の頭で考える」「個性をもった」人間(従って、簡単に代替できない価値をそれぞれが保有している者)を育てたいと思っているかで、その人(政治家)の人間観や国家観を推し量ることができる。
また、「国民のため」「国民の生命を守る」といった言葉を連呼する政治家も自分の子どもに対しては特別な愛情を持っていても、国民一般、あるいは抜きん出た才能を持っている人間以外については、国家のための一つの駒ぐらいにしか考えていないことはよくあることである。

児童心理学の発展は知能障害や精神障害の研究の成果のおかげ?

child-psychology セガン(E. O. Seguin ,1812-1880: 白痴研究で有名)の時代以来,幼児(たち)に対する教育方法の進歩は,ある面でまだ精神的に幼児である 白痴(知的障がい者)や精神薄弱者の研究に端を発していることは注目に値する。なぜ,こんな遠回りをする必要があったのか。私の信じるところでは,それは,精神病患者の愚鈍さは責められるべきものとも,また,折檻によって治せるものとも考えられなかったためである。(即ち)アーノルド博士のむち打ちの処方箋によって,こういう人たちの「怠けぐせ」が治されると考える人は,誰もいなかった。その結果,患者たちは,怒りをもってではなく,科学的に取り扱われた。(つまり)彼らが理解できないときでも,教育者は誰も,怒り狂ってどなりつけたり,自分のことを恥ずかしく思えと言ったりしなかったのである。
もしも,人びとが子供たちに対してお説教をする態度ではなく,科学的な態度をとる気になっていたならば,まず(最初に)精神的に欠陥のある人びとを研究しなくても,子供の教育方法について現在知られていることを発見することができていたであろう。
inequality 「道徳的な責任」という観念は,多くの害悪(の発生)に対して「責任がある」。二人の子供がいて,一人は好運にも保育園に入り,もう一人は取り残されて,楽になることのないスラム街での生活を送っているとしてみよう。もしも,後者の子供が大きくなって前者の子供よりも立派にならなかったとしたら,後者の子どもに「道徳的な責任がある」であろうか。もしも,無知と不注意のために息子をうまく教育できなかったとしたら,(その貧しい)親たちは,そのことに対して「道徳的な責任がある」のだろうか。
金持ち(たち)は,(かつて若い時に)パブリック・スクールで利己主義と愚かさをたたき込まれ,その結果,幸福な社会を作ることよりも自分たちの馬鹿げた贅沢をより好むようになっているが,そのことに対して彼らは「道徳的な責任がある」のだろうか。皆,環境の犠牲者である。即ち,皆,幼年期に性格をゆがめられ,学校で知性の発達を妨げられたのである。彼らを「道徳的な責任がある」と考えようとしたところで,また,もっと幸福になれたのにそうしなかった,という理由で非難にさらしたところで,なんの役にも立たない。

It is remarkable that, ever since the time of Seguin, progress in educational methods with young children has come from study of idiots and the feeble-minded, who are, in certain respects, still mentally infants. I believe the reason for the necessity of this detour was that the stupidities of mental patients were not regarded as blameworthy, or as curable by chastisement ; no one thought that Dr. Arnold’s recipe of flogging would cure their “laziness”. Consequently they were treated scientifically, not angrily; if they failed to understand, no irate pedagogue stormed at them and told them they ought to be ashamed of themselves. If people could have brought themselves to take a scientific instead of a moralizing attitude towards children, they could have discovered what is now known about the way to educate them without first having to study the mentally deficient. The conception of “moral responsibility” is “responsible” for much evil. Imagine two children, one of whom has the good fortune to be in a nursery school, while the other is left to unalleviated slum-life. Is the second child “morally responsible” if he grows up less admirable than the first? Are his parents “morally responsible” for the ignorance and carelessness which makes them unable to educate him? Are the rich “morally responsible” for the selfishness and stupidity which have been drilled into them at public schools, and which make them prefer their own foolish luxuries to the creation of a happy community? All are victims of circumstances ; all have had characters warped in infancy and intelligence stunted at school. No good purpose is served by choosing to regard them as “morally responsible”, and holding them up to reprobation because they have been less fortunate than they might have been.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 13: Nursery School
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE13-070.HTM

[寸言]
児童心理学の発展は、その初期においては、知能障害や精神障害の研究の成果のおかげである面が少なくないという指摘。
今では、「優しくて思いやりのある女性」であれば、保育学や児童心理学などを学ばなくても、誰でもよい保母さんになれる(幼児の保育ができる)と考える人は少ないであろう。つまり、保育にあたる人間(保母ではなく、保育士)には多くの知識と経験が必要であり、保育士の養成には時間がかかる保育士の待遇も悪ければ、保育士になりたいという「適任者」も増えてこない。
つまり、子供の保育には、子供に対する理解(特に、いっぱい遊びたいという心の底には、「早く大人のようになんでもできるようになりたい」とう成長願望があること)、子供の心身の健康、保育所施設はどのようなものであるべきか、その他、いろいろな側面から考える必要がある。従って、政治家が「保育所を整備します!」と言えば頼もしく思えるというような単純なものではないということ。

子供が2歳を過ぎたら同年齢の他の子供と日常的に接するようにすべき

infants しかし,高等教育を受け,良心的で,あまり忙しくない親たちの場合でさえ,子供たちは,家庭においては,自分たちが必要とするものを保育園におけるほど多く得ることはできない。何よりもまず,同じ年の他の子供たちとの交友が得られない。家族が小人数の場合は、--そういう家族は普通そうであるが--,子供は過度に年長者の注目をあび,その結果,神経質かつおませ(早熟)になりやすい。その上,親たちは,(子どもとの)確実な接触(感)をあたえるところの,多数の子供を扱うという経験を持てない。また,金持ちのみが幼い子供にとって最適の空間と環境を用意することができる。そういうものも,一家族の子供たちのために私的に用意された場合,所有の誇りと優越感を生み出すだけであり,そういう感情は道徳的にはなはだしく有害である。以上のような理由で,どんなに裕福な親であっても,子供が二歳を過ぎてからは,適当な学校が家の近くにあるかぎり,少なくとも一日の何時間かは,子供をそういう学校へやるほうがよい。

nursery-school-infantBut even in the case of parents who are highly educated, conscientious, and not too busy, the children cannot get at home as much of what they need as in a nursery school. First and foremost, they do not get the companionship of other children of the same age. If the family is small, as such families usually are, the children may easily get too much attention from their elders, and may become nervy and precocious in consequence. Moreover, parents cannot have the experience of multitudes of children which gives a sure touch. And only the rich can provide the space and the environment that best suits young children. Such things, if provided privately for one family of children, produce pride of possession and a feeling of superiority, which are extraordinarily harmful morally. For all these reasons, I believe that even the best parents would do well to send their children to a suitable school from the age of two onwards, at least for part of the day–provided such a school existed in their neighbourhood.
* onwards = onward
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 13: Nursery School
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE13-030.HTM

[寸言]
以前『幼稚園では遅すぎる』という書名の英才教育及び早期教育の本がありましたが、ここでは、英才教育という観点ではなく人間として成長して行くうえでも、2歳を過ぎたら,他の同年齢の子どもと日常的に接する(遊ぶ)ことが非常に重要だとラッセルは言っています。
昔は近所づきあいで、幼児同士の日常的な接触が可能でしたが、現在では、近所づきあいが少なくなり、一人っ子の家庭が多くなっており、一人遊びが増えてしまっています。頼みの綱の保育所もかなり不足しています
それなら、母親が勤めていなければよいかというと、そうはいきません。母親が勤めていなくて子供を十分世話をすることができても、2歳を過ぎたら母親とだけ1日中ベッタリ接しているのよくないからであり、それは母親にとっても好ましくないからです

食べ物では甘やかされ,遊びでは規制(抑制)されて不健康になり・・・

 幼児を取り扱う新しく難しい技術を身につけるためにはそのための熟練と暇(時間)が必要であるが,親たちがそれを持ち合わせていることを期待できない。無教育な親たちの場合はこのことは明らかである。彼らは正しい方法を知らないし,たとえ教わったとしても(注: if = even if),納得しないままであろう。
私は(1926年現在),海に近い農村に住んでいるが,ここでは,新鮮な食物が入手しやすく,また,極端な暑さ寒さもない。即ち,私がここを選んだ主な理由は,子供たちの健康のために理想的だということであった。
fat-kid-eating-chips-watching-tv しかし,農夫や小売店主などの子供たちは,ほとんど全て,青白い不健康な顔をしており,元気がない。それは,彼らが食べ物では甘やかされ,遊びでは規制(抑制)されているからである。彼らは決して浜辺へ行かない。足をぬらすのは危険だ,と考えられているからである。彼らは,夏の一番暑い盛りにも,戸外では厚いウールの上着を着ている。彼らの遊びが騒々しい場合には,彼らのふるまいを「上品ぶったもの」にするためにいろんな処置が講じられる。しかし,彼らは夜遅くまで起きていることを許されており,また、おとなの食べるありとあらゆる不健康な食べ物を少しずつ与えられる。
彼らの両親は,私の子供たちが寒さと外気にさらされながらなぜ(これまで)死んでしまわなかったのか理解できない。しかし,実物教育を示しても,彼らは,自分たちのやり方には改善の余地があることをまったく納得しない。彼らは貧乏でもないし,親の愛情に欠けているわけでもないのに,悪い教育のせいで頑ななままに無知である。貧しく労働過重の都会の親たちの場合は,こういう弊害は,むろん,ずっと大きい。

too-much-tv-watching-and-lack-of-exerciseParents cannot be expected to possess the skill or the leisure required for the new and difficult art of dealing with young children. In the case of uneducated parents, this is obvious ; they do not know the right methods, and if they were taught them they would remain unconvinced. I live in an agricultural district by the sea, where fresh food is easy to obtain, and there are no extremes of heat or cold; I chose it largely because it is ideal for children’s health. Yet almost all the children of the farmers, shopkeepers, and so on, are pasty-faced, languid creatures because they are indulged in food and disciplined in play. They never go to the beach, because wet feet are thought dangerous. They wear thick woollen coats out-of-doors, even in the hottest summer weather. If their play is noisy, steps are taken to make their behaviour “genteel”. But they are allowed to stay up late, and are given all kinds of unwholesome tit-bits of grown-up food. Their parents cannot understand why my children have not died of cold and exposure long ago ; but no object lesson will convince them that their own methods are capable of improvement. They are neither poor nor lacking in parental affection, but they are obstinately ignorant owing to bad education. In the case of town parents who are poor and overworked, the evils are, of course, far greater.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 13: Nursery School
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE13-020.HTM

[寸言]
 カロリーは高いが健康的とは言えない食事スナック菓子を食べながら寝転んでテレビを見る親と子。近くに空き地がないので,近頃の子どもは運動をほとんどしない。そのため、どうしても必要以上のカロリーをとることになってしまう。

それだけでなく、冬になれば子どもに風邪をひかせてはいけないと、厚着をさせる親。こうして子どもを大切に扱っていると勘違いしている親。また、子どももそういった親にあわせて、身体を動かすことをおっくうがり、ソファーに寝そべっていたり、ゲームに長時間熱中したりして、あれやこれやで不健康な生活習慣を身につけ、将来、生活習慣病で苦しむ可能性がどんどん高くなっていく。そうして、医学の進歩でたとえ長生きできだとしても、「健康寿命」(健康で生きられる期間)を自ら短くしてしまっている。気がついた時にはすでに遅く・・・。

幼児の心と身体 - 親には知恵と気配りが必要

まず第一に,幼年期初期は,医学的にも心理学的にも,はかり知れないほど重要である。この二つの側面は,とても密接にからみ合っている。
how-to-help-a-frightened-child たとえば,子どもが恐怖(心)を持てば子供の呼吸を困難にし,呼吸が困難だと,子供は種々の病気にかかりやすくなる。こういった相互関係はとても多数見られるので,誰であれ,いくらか医学的な知識がないと子供の性格を首尾よく作りあげることは望めないし,また,いくらか心理学的な知識がないと子どもの健康をうまく管理することは望めない。 このどちらの面においても,必要な知識の大部分はごく新しいものであり,その多くは古くからの(由緒ある)伝統に反するものである。
たとえば,躾け(しつけ)の問題をとりあげてみよう。子供との闘いにおける大原則は,降参するな,しかし罰するな,である。普通の親は,静かな生活を望むために時に降参し,かっとして時に罰する。正しい方法が成功するためには,忍耐心と暗示する能力との難しい組み合せが必要である。これは,心理学の例であり,新鮮な空気の問題は,医学の例である。気配りと知恵があれば,あまり厚着をしないで,昼夜絶えず新鮮な空気に触れることは,子供のためになる。しかし,気配りと知恵がなければ,湿気や突然の寒さのために体が冷えてしまう危険(があること)も無視できない。

wise-familyTo begin with, early childhood is of immeasurable importance both medically and psychologically. These two aspects are very closely intertwined. For example : fear will make a child breathe badly, and breathing badly will predispose it to a variety of diseases. 【note: On this Subject cf. The Nursery School, by Margaret McMillan (Dent, I9I9), P. I97 ; The Camp School, by the same author (George Allen and Unwin, Ltd,)】 Such interrelations are so numerous that no one can hope to succeed with a child’s character without some medical knowledge, or with its health without some psychology. In both directions, most of the knowledge required is very new, and much of it runs counter to time-honoured traditions. Take, for example, the question of discipline. The great principle in a contest with a child is : do not yield, but do not punish. The normal parent sometimes yields for the sake of a quiet life, and sometimes punishes from exasperation ; the right method, to be successful, requires a difficult combination of, patience and power of suggestion. This is a psychological example; fresh air is a medical example. Given care and wisdom, children profit by constant fresh air, day and night, with not too much clothing. But if care and wisdom are absent, the risk of chills from wet or sudden cold cannot be ignored.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 13: Nursery School
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE13-010.HTM

[寸言]
子どもは心身両面において自分を十分コントロールすることができない。従って、子どもの心身両面に対する気配りが必要であり、そのためには、親は(幼児に関する)医学的及び心理学的な知識もある程度身につける必要がある。
身体における不調が子どもの心に悪影響を与えたり、逆に、子どもの心理状態が身体に悪影響を与えたりすることが、大人以上によくある。明らかに身体の調子が悪いことがわかれば医者にみてもらえばよいが、外見的に見ただけではよくわからない場合が少なくない。過保護もよくないし、放任主義もよくない。そのさじ加減が難しい。子どもを育てることによって親も人間的に成長していくという,常識的ではあるが,経験しないと実感できない真理。

親が性に対して特別な感情(性的な好奇心)を持てば子供も・・・

sexual_curiosity_in-child 性的な好奇心は,普通,生後三年目頃に,男女の身体上の相違,及び,おとなと子供の身体上の相違についての興味の形で始まる。生来,この性的な好奇心は,幼年期初期においては,特別な性質を有しておらず,単に一般的な好奇心の一部にすぎない。旧式の育て方をされつつある子供に見られる性的好奇心に特別な性質があるのは,おとなが性を秘密(謎)のままにしておこうとするからである。まったく秘密にしなければ,好奇心は満たされると,すぐに消えてしまう。子供は,初めから,自然な状況のもとでは,裸の両親や兄や姉を見ることを許されるべきである。いずれにしても,騒ぎ立ててはならない。即ち,人びとが人間の裸についていろいろな感情を持っていることを,子供に知らせてはいけない。(もちろん,大きくなれば,知らなければならないだろう。)やがて子供は,父親と母親との違いに気づきその違いを兄と姉の違いに結びつける,ということがわかるだろう。しかし,この性的好奇心の問題も,この程度まで探求されると,開けっ放しになっている食器棚のように,すぐに興味をそそらなくなる。もちろん,この時期に子供が性についてどんな質問をしても,ほかの話題に関する質問とまったく同様に,答えてあげなければならない。

MARIAGESexual curiosity normally begins during the third year, in the shape of an interest in the physical differences between men and women, and between adults and children. By nature this curiosity has no special quality in early childhood, but is simply a part of general curiosity. The special quality which it is found to have in children who are being conventionally brought up is due to the grown-up practice of making mysteries. When there is no mystery, the curiosity dies down as soon as it is satisfied. A child should, from the first, be allowed to see his parents and brothers and sisters without their clothes whenever it so happens naturally. No fuss should be made either way ; he should simply not know that people have feelings about nudity. (Of course, later on he will have to know.) It will be found that the child presently notices the differences between his father and mother, and connects them with the differences between brothers and sisters. But as soon as the subject has been explored to this extent it becomes uninteresting, like a cupboard that is often open. Of course, any questions the child may ask during this period must be answered just as questions on other topics would be answered.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 12: Sex Education
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE12-030.HTM

[寸言]
親が性に対して特別な感情(性的好奇心)を持ち,態度にあらわせば,子供も同様の特別な感情を持つようになるということ。
北欧の子どもたち(及び親たち)と日本の子どもたち(及び親たち)を比較してみるとそのことがよくわかる。