「知性の鍛錬」を疎かにする者の同情心には限界あり


follow-blindly (同情心の)本能的な芽ばえがあれば,広い同情心を養うことは主に知的な事柄である。それ(広い同情心を養えるかどうか)は,子供の注意を正しい方向へ向けてあげて,軍国主義者や権威主義者が隠蔽しているいろいろな事実を真に理解できるようにしてあげられるかどうかにかかっている。
たとえば,ナポレオンが勝利した後に,アウステルリッツの戦場(注:アウステルリッツの戦い)を歩きまわるナポレオンを,トルストイが描いている箇所をとりあげてみるとよい。大部分の歴史書は,戦いが終わるとただちに戦場をあとにする(それ以上その戦争についての記述は終えてしまう)。即ち,あと12時間,戦場に留まるという簡単な処置で,まったく異なった戦争の様相が見えてくるのである。これは,事実を隠すことでなされるのではなく,より多くの事実を教えることでなされる
そうして,戦争にあてはまることは,他の形の残酷さにも、同様に,あてはまる。どの場合においても,道徳(教訓)を指し示す必要はまったくない。即ち,物語を正しく語るだけで十分である。お説教をしないで,事実が子供の心におのずと道徳観念を生み出すようにすればよい。
(松下注:つまり,歴史教育のなかで道徳心や愛国心を強調しなくても,(同情心の)本能的な芽生えさえ生じていれば、事実をありのままに示せば,そのような道徳観念は子どもの心に自然に生じるであろう,との趣旨。)

just-doing-others-do_fuwaraidoThe cultivation of wide sympathies, given the instinctive germ, is mainly an intellectual matter : it depends upon the right direction of attention, and the realization of facts which militarists and authoritarians suppress. Take, for example, Tolstoy’s description of Napoleon going round the battlefield of Austerlitz after the victory. Most histories leave the battlefield as soon as the battle is over ; by the simple expedient of lingering on it for another twelve hours a completely different picture of war is produced. This is done, not by suppressing facts, but by giving more facts. And what applies to battles applies equally to other forms of cruelty. In all cases it should be quite unnecessary to point the moral ; the right telling of the story should be sufficient. Do not moralize, but let the facts produce their own moral in the child’s mind.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE11-170.HTM

[寸言]
まず「同情心の本能的な芽生え」を元にして(てこにして)幅広い同情心を養うことが大切
しかし、そこで留まってはならない。それ以上の同情心の拡大は主として「知的な事柄」となる。
しかし、そのことは必ずしも理解されているとは言えない。なぜなら、同情心にあふれている人が、無知のために、世界に残酷さをもたらす助けをしていることがどれだけ多いか(歴史上多かったか)を振り返って反省してみるだけでわかるはずである。
たとえば、abe_nihonchinbotu海外から輸入した安い品物を入手できることは有り難い。しかし、それが海外の人々を搾取した結果(成果)だとしたら・・・!? (しかし、ここで気をつけなければならないのは、自社ではそのようなことはしなくても、子会社や関連会社が不正を働き、本社の経営陣はそれを知っていても見てみぬするやり方である。ユニクロの中国の関連会社がやっていたことがそれであり、それが明らかになるとユニクロは「まったく知らなかった,今後そのようなことがないように気をつける。」と声明をだし、ユニクロの創業者のファンはそれで納得してしまう。)

その事実を知らなかったからということで自分を許してしまってよいだろうか? 確かにまったく知り得ないことであればそういう感想や態度も仕方ない面はあるだろう。しかし、小さな記事であってもけっこう日本人に知らされている。ただそういう記事は興味を惹かないから読まれることはほとんどない(埋草記事)となる。

また、忙しいからという弁解もよくなされる。しかし、多忙だとよく弁解する人も、ポケモンGOをやったり、(商業資本や政府などによって)次々と提供される目新しいもの(オリンピックもその一例)を追いかける時間はあるようである。そういうものに釣られて追いかけてばかりいれば、立ち止まって考える時間はなくなってしまう。

若い時にそれではいけないと気づき、自分なりに考える習慣を身につける人も少なくないはずだが、いつの間にか、流行に従ったほうが楽だということで流されていき、体制維持的かつ権力志向あるいは権力に従順な態度が身についていくことになる。「浮動層」であることが一番楽なのであろう。いつも多数者の中に身をおいておけば、間違った時も、みんな間違ったのだからと「罪一等を自ら減ずる」ことができるのである。「多数決に従うのが民主主義だ」、と自らに言い聞かせ・・・。

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