ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.13

 このような見解には魅力的なものがあるが,それを真理と見なす理由は私には分らない。同じ状況にある二人の人間がその(人の)過去の歴史(注:経験など)が違うので,異なった反応を示すということは,もちろん明らかである。しかし,それと同じことが磁気を帯びた鉄の断片と磁気を帯びていない鉄の断片にも言える(あてはまる)。記憶は脳に刻印され,身体構造の違いを通して行動に影響を与える,と我々は想定する(考える)。同様の考慮(熟慮)は(人間の)性格にもあてはまる。もし一人の人が怒りっぽく(choleric 怒りっぽい)で,別の人が無気力(phlegmatic 冷淡な)であるとすれば,両者の相違は,一般的にいって内分秘腺(glands)に起因しており(traceable to),多くの場合,適切な薬を用いることによって取り除かれる(obliterated 解消される)。人格神秘的で犯し難いという信念は,何ら科学的な根拠がなく,それが受け入れられるのは主として,人間の自尊心を喜ばすためである。  再び,前述の二つの陳述をとりあげよう。(即ち)「心理学的に解釈すると,現在は単に(すばやく)流れ去る瞬間ではない。現在はそのうちに過去と未来との両方を含んでいる」という陳述,及び,「空間と時間は人格を隔てるものでなく,人格の中に秩序(order)を表している」という陳述(の2つ)である。(1つ目の)過去と未来に関しては,ホールデン教授は,我々が雷の閃光を見て雷の音が鳴るのを期待している時(ちょうどその時)の状態のような問題を心に抱いているように思われる。過ぎ去った雷光とその後の(未来の)雷鳴の両方が,我々の現在の精神状態の中に入り込んでいると言ってもよいかもしれない。(注:つまり,「雷が光った直後の瞬間の現在」には「雷の光った過去」(記憶)と「音が鳴る未来」(期待)が両方とも含まれているのではないか,という喩えしかしこれは隠喩によって誤り導かれている。雷光を想起(回想)することは雷光(そのもの)ではなく,雷鳴の期待(expectations 予想)は雷鳴(そのもの)ではない。私は,単に,想起と期待が身体的影響(physical effect 身体的影響;物理的影響)を持たない(与えない)ということを(今)考えているのではない。主観的経験の実際の性質について考えている。(即ち),(雷光を実際に)見ることと想起(後から回想)することとは別なことであり,(雷鳴を実際に)聞くことと期待する(将来を予想する)こととは別なことである。現在の過去と未来とに対する関係は,心理学においても他の場合と同じように,因果関係(注:原因と結果の関係)であり,相互浸透(interpenetration)の関係ではない(原注:因果関係といっても,もちろん,私の期待が雷鳴を引き起こすと言っているのではなく,過去に雷の後に雷鳴がしたという経験をしているので,現在雷光とともに,雷鳴への予想(期待)が生じていると言っているしだいである)。記憶は過去の存在を延長はしない,記憶(というもの)は,単に,過去が影響をもつひとつの方法に過ぎない。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.13
There is something attractive about this view, but I see no reason to regard it as true. It is, of course, obvious that two men in the same situation may react differently because of differences in their past histories, but the same is true of two bits of iron of which one has been magnetized and the other not. Memories, one supposes, are engraved on the brain, and affect behaviour through a difference of physical structure. Similar considerations apply to character. If one man is choleric and another phlegmatic, the difference is usually traceable to the glands, and could, in most cases, be obliterated by the use of suitable drugs. The belief that personality is mysterious and irreducible has no scientific warrant, and is accepted chiefly because it is flattering to our human self-esteem. Take again the two statements : “For psychological interpretation the present is no mere fleeting moment : it holds within it both the past and the future” ; and “space and time do not isolate personality ; they express an order within it.” As regards past and future, I think Professor Haldane has in mind such matters as our condition when we have just seen a flash of lightning, and are expecting the thunder. It may be said that the lightning, which is past, and the thunder, which is future, both enter into our present mental state. But this is to be misled by metaphor. The recollection of lightning is not lightning, and the expectation of thunder is not thunder. I am not thinking merely that recollection and expectation do not have physical effects ; I am thinking of the actual quality of the subjective experience ; seeing is one thing, recollecting is another ; hearing is one thing, expecting is another. The relations of the present to the past and the future, in psychology as elsewhere, are causal relations, not relations of interpenetration. (I do not mean, of course, that my expectation causes the thunder, but that past experiences of lightning followed by thunder, together with present lightning, cause expectation of thunder.) Memory does not prolong the existence of the past ; it is merely one way in which the past has effects.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-130.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.12

 けれども,ホールデン教授の心理学に関する見解は,もっと明確なことを言うことができるより狭義の問題(issue 争点/論点)を生じさせる。彼は心理学の特徴的な概念は「人格(パーソナリティ)であると主張する。彼はこの言葉(「人格」)を定義していないが,我々はそれ(「人格」)を一つの心(一人の心)の(いろいろな)構成要素を一つに結びつけ,それらの構成要素全てを相互に調節し合う(注:modify 修正する,加減する,限定する)ある種の統合原理を意味しているとってよいであろう。「人格」という概念(観念)は漠然としている。それ(「人格」)は -「魂」という概念がいまだ防御可能だと考えられている限りにおいて- 「魂」を意味する。それ(「人格」)は単なる(中身のない)存在(bare entity)ではないということで魂と異なっているが,それ(「人格」)は全体性という(一種の)特質を持っている。魂(の存在)を信じる人々により,ジョン・スミスの心の中にある全てのものは,それと全く類似したたものが誰か他人の心の中に存在することを不可能にするジョン・スミス性(ジョン・スミス的特質)を持っていると考えられている。もし,あなたがジョン・スミスの心を科学的に説明しようするなら,あなたは物質のすべての断片(部分)に差別なく(indiscriminately)与えられる一般的法則で満足してはならない。(すなわち、ホールデン教授によれば)当該事象はその特定に人物に対して起っているのであり,当該事象はその人の全歴史(=生涯)及び性格のせいであるものである(に基づくものである)ということを思い起こさなければならない(のである)。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.12
Professor Haldane’s views on psychology raise, however, a narrower issue, as to which much more definite things can be said. He maintains that the distinctive concept of psychology is “personality.” He does not define the term, but we may take it as meaning some unifying principle which binds together the constituents of one mind, causing them all to modify each other. The idea is vague ; it stands for the “ soul,” in so far as this is still thought to be defensible. It differs from the soul in not being a bare entity, but a kind of quality of wholeness. It is thought, by those who believe in it, that everything in the mind of John Smith has a John- Smithy quality which makes it impossible for anything quite similar to be in anyone else’s mind. If you are trying to give a scientific account of John Smith’s mind, you must not be content with general rules, such as can be given for all pieces of matter indiscriminately ; you must remember that the events concerned are happening to that particular man, and are what they are because of his whole history and character.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-120.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.11

 心理学という一つの独立した科学の可能性については、ましてや(even less),現在のところ,語ることはできない。(訳注:この一文は「我々の身体活動は物理化学的法則で決定されるのだろうか? もしそうだとしたら,人工的に作り上げられた物質という概念を用いずに,直接的に心的事象(精神的事象)を研究する心理学という独立した科学は依然として存在するだろうか?」という2つの問いのうちの後者について述べている。前者については一定の証拠はあるが自信を持って答えることはできないと,ラッセルは述べている。そうして後者の問いについては「ましてや・・・」というニュアンス。従って,荒地出版社の津田訳のように「心理学という独立した学問の可能性については、現在のところ、これ以上語ることはできない」といった曖昧な訳は不適切。しかも「even less (can be said)」を「これ以上(語ることはできない)」と訳すのは不適切。「even less」の「ましてや~;いわんや~」のニュアンスがなくなってしまっている。)精神分析(学)は、ある程度、そのような科学(学問)を創り上げようとしてきた。しかし、そのような試みも、生理学的な因果関係を避けている限り、その成功はいまだ疑問視されるであろう。ためらいがちではあるが、私は -現在の物理学や心理学のどちらとも異なるものであるけれども - 究極的には,両者(物理学と心理学)を包括するような科学(学問)が生れるだろうという見解(考え)に傾いている。物理学の方法は、今日ではもはや存在していないところの「物質」という形而上学的な実体に対する信念に影響されて発展した。そうして、新しい量子力学は誤った形而上学を必要としない(dispenses with なしで済ます)異なった方法を持っている。(一方)心理学の方法は、ある程度まで、「心」という形而上学的存在への信念のもとで発展した。物理学と心理学は,両者ともこれらの延々と続いている誤りから完全に解放された時には、心や物質を扱うのはなく、-「物理的」とも「精神的(心的)」とも名付けられないような- 事象を扱う科学へと発達するだろうことは可能だろうと思われる。そして、そそれまでの間、心理学の学問的位置付けの問題は検討対象にされ続ける必要がある。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.11
With regard to the possibility of an independent science of psychology, even less can be said at present. To some extent, psycho-analysis has attempted to create such a science, but the success of this attempt, in so far as it avoids physiological causation, may still be questioned. I incline – though with hesitation – to the view that there will ultimately be a science embracing both physics and psychology, though distinct from either as at present developed. The technique of physics was developed under the influence of a belief in the metaphysical reality of “matter” which now no longer exists, and the new quantum mechanics has a different technique which dispenses with false metaphysics. The technique of psychology, to some extent, was developed under a belief in the metaphysical reality of the “mind.” It seems possible that, when physics and psychology have both been completely freed from these lingering errors, they will both develop into one science dealing neither with mind nor with matter, but with events, which will not be labelled either “physical” or “mental.” In the meantime, the question of the scientific status of psychology must remain open.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-110.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.10

 前の段落の最初にあげた二つの問題に戻ることにしよう。前の方の章で考察したように,もし我々の身体活動の全て生理学的な原因を持っているのなら,我々の心は因果的に(原因として)重要でないことになる。我々が他人と意思疎通を図ったり,外界に影響を与えることができるのは身体活動(身体を使っての行為)によってだけであり,我々(人間)の考えることは,我々の身体の行動に影響を与えうる場合にのみ重要である。(訳注:しゃべることも身体活動の一つ。考えるだけで他者に伝えることができなければ考えることはあまり重要なことでなくなってしまう。)けれども,心的なもの(精神的なもの)と物理的なものとの区別は便宜上の区別にすぎず,我々の身体活動(行為)は全て物理学の領域内の原因を持つにもかかわらず(and yet),心的事象(精神的事象)はそれらの(身体活動の)原因のひとつかも知れない。実際的な問題は,心(精神)と身体(肉体)という言葉(用語)で述べらるべきではない。恐らく,次のように言ったらよいのではないだろうか。(即ち)我々の身体活動は物理化学的法則(physico-chemical laws)で決定されるのだろうか? もしそうだとしたら,人工的に作り上げられた物質という概念を用いずに,直接的に心的事象(精神的事象)を研究する心理学という独立した科学は依然として存在するだろうか?  これら二つの問いの内,前者の問い(我々の身体活動は物理化学的法則で決定されるのだろうか?)に対しては肯定的な答えをする一定の証拠があるが,そのどちらの問いにも自信をもって答えを与えることはできない。その一定の証拠というのは直接的なものではない。(即ち)我々は人間の運動(行動)を惑星である木星の運動を計算するように計算することはできない。しかし(そうは言っても)人間の身体と生命の最も原初的な形態(原始的な形態)との間に明確な線(境界線)を引くことはできない。両者の間には、我々に言いたくさせるようなギャップ(間隙)は存在しない。ここにおいては(この問いについては)物理学も化学も十分なものではなくなる。そうして,既に考察したように,生物と無生物との間にも同じように間隙はない。従って,恐らく,物理学と化学は最初から最後まで(throughout 全体を通して)最高の地位にあると思われる。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.10
To return to the two questions at the beginning of the preceding paragraph : as we saw in an earlier chapter, if our bodily actions all have physiological causes, our minds become causally unimportant. It is only by bodily acts that we can communicate with others, or have any effect upon the outer world ; what we think only matters if it can affect what our bodies do. Since, however, the distinction between what is mental and what is physical is only one of convenience, our bodily acts may have causes lying wholly within physics, and yet mental events may be among their causes. The practical issue is not to be stated in terms of mind and body. It may, perhaps, be stated as follows : Are our bodily acts determined by physico-chemical laws? And, if they are, is there nevertheless an independent science of psychology, in which we study mental events directly, without the intervention of the artificially constructed concept of matter? Neither of these questions can be answered with any confidence, though there is some evidence in favour of an affirmative answer to the first of them. The evidence is not direct ; we cannot calculate a man’s movements as we can those of the planet Jupiter. But no sharp line can be drawn between human bodies and the lowest forms of life ; there is nowhere such a gap as would tempt us to say : here physics and chemistry cease to be adequate. And as we have seen, there is also no sharp line between living and dead matter. It seems probable, therefore, that physics and chemistry are supreme throughout.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-100.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.9

 生理学と心理学との関係についての問題はもっと難しい。そこには二つの別個の問題がある。(即ち)我々(人間)の身体の行動は生理学的原因にだけ基づくと考えることができるであろうかという問題と,心的現象(精神現象)とそれと同時に起こる身体の行為との関係はどういうものであるかという問題(の2つ)である(訳注:荒地出版社刊の津田訳では「physiological causes」を「生物学的原因」と誤訳)。一般に観察できるのは身体の行動だけである。我々の思考(考えていること)は他者によって「推理される」かも知れないが,「認知できる」のは我々自身(自分自身)によってのみである(訳注:荒地出版社刊の津田訳では「 our thoughts」を「我々の思想」と訳出)。これが,少なくとも,常識が主張するだろうことである。理論的に厳密に言うと,我々は身体行為を観察することはできず,(可能なのは)にそれらの行為が我々(人間)に与える一定の影響を観察することができるだけである。(訳注:観察対象の人に太陽などの光があたり、それが反射して観察者の目に到達し、それが網膜に達し、そこから脳に伝わり、そこで再構成されて認識行為が起こることを言っている。) (自分たち以外の)他者が同時に観察するものは類似しているかもしれないが,我々(自分たち)が観察することとは,常に多少とも相違しているだろう。このような理由及びその他の理由から,物理学と心理学との間にあるギャップ(断絶)は,以前考えられていたほど大きくない。物理学は,我々が一定の状況において見るだろうことを予測すること(科学)と考えてよいだろう。そうして,そういう意味においては,我々が見るということは「心的(精神的)」な事象であるので,それは心理学の一部門である。このような視点は,経験的に検証できる主張だけをしたいという欲求(願望)によって,-(客観的とは言いながら)検証は常にある(特定の)人間による観察であり,従って,心理学が考察するような出来事であるという事実と相まって(と結びついて)- 現代物理学の前面に現われてきた。しかし,そのようなことは全て,これら二つの学問(注:物理学と心理学)の実際面に関することというよりも,両者の哲学に属することである。それらの取扱う素材(subject-matters)の友好的接近(rapprochement)にもかかわらず,それら(両者)の(取り扱う)手法(technique)はやはり異なったままである。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.9
The question of the relation between physiology and psychology is more difficult. There are two distinct questions ; Can our bodily behaviour be supposed due to physiological causes alone? and what is the relation of mental phenomena to concurrent actions of the body? It is only bodily behaviour that is open to public observation ; our thoughts may be inferred by others, but can only be perceived by ourselves. This, at least, is what common sense would say. In theoretical strictness, we cannot observe the actions of bodies, but only certain effects which they have on us ; what others observe at the same time may be similar, but will always differ, in a greater or less degree, from what we observe. For this and other reasons, the gap between physics and psychology is not so wide as was formerly thought. Physics may be regarded as predicting what we shall see in certain circumstances, and in this sense it is a branch of psychology, since our seeing is a “mental” event. This point of view has come to the fore in modern physics through the desire to make only assertions that are empirically verifiable, combined with the fact that a verification is always an observation by some human being, and therefore an occurrence such as psychology considers. But all this belongs to the philosophy of the two sciences rather than to their practice ; their technique remains distinct in spite of the rapprochement between their subject-matters.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-090.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.8

 生物学の化学や物理学に対する関係についてのホールデン教授(1860-1936)の見解は,今日では大部分の専門家たちによって支持されてはいない(支持されているものではない)。最近のものではないが,ホールデン教授の見解と反対の見解を述べたものは,ジャック・ロエブによる「生命の機械論的概念」(1912年刊)の中に見出されるだろう。その最も興味ある諸章のなかのいくつかの章で,生殖作用(reproduction)-ホールデン教授は生殖作用は機械的作用では明らかに説明されえないと考えている- に関する実験の結果について述べられている。その機械論的視点は,エンサイクロペディア・ブリタニカの最新版において記載されている視点としてほぼ全面的に受け入れられている。そこで,E. S. グッドリッチ氏「進化」という見出しのもと、次のように述べている。 「従って,科学的観察者の視点から見ると,生体(living organism 生物)は,自己調節的,自己修復的,及び,物理=化学的な複合機構である。このような視点から見るとき,我々が「生命」と呼ぶものは,その物理化学的なプロセスの総体であり,断絶のない連続的な相互依存の連鎖を形作り,何らの神秘的な外力の干渉を受けないものである」。  この論述(article)の中に,物理学や化学に還元できない過程が生物(生き物)の中にあることを暗示する箇所(ヒント)を見出そうとしても,恐らく,無駄であろう。著者は,生物と無生物との間には明確な境界はまったくないと指摘している(即ち) 「厳格な境界線(hard and fast line 例外を許さない;全体動かせない)を生物(the living)と無生物(the non-living)との間に引くことはできない。特別な生きている化学的物質は存在しない。無生物とは異なる特別な生きている要素はない(訳注:「vital element」には「不可欠な要素」という意味があるが,この後の「vital force」は「生命力」と考えると「生きている要素」のことか?)。また,特別な生命力(vital force)が働いているのを発見することはできない。その過程におけるいかなる段階もそれに先行するものによって決定され,また,その段階に続くものを決定する。(訳注:「無生物から突然生物が生まれることはない」といったところか?)」  生命の起源についてはこう言っている。 「ずっと以前に,諸条件に恵まれた時(when conditions became favourable 諸条件が好都合になった時),色々な種類のものの比枚的複雑な化合物(high compounds)が形成されたと想定されなければならない(訳注:ちなみに高分子化合物は「high molecular compound」)。これらのものの多くは全く不安定であり,形成されると同時にほとんど崩壊し始める。それ以外のあるものは安定しており,存続し続けるだけかもしれない。しかし,さらに,それら以外のものは,崩壊するや否や,再形成へと向かう傾向があったり、同化に向ったりする傾向があったかも知れない。成長しゆく複合体あるいは混合物(の形成)のような軌道を出発するやいなや,必然的に自己保存の方向に向ったであろう。そうして,自分より複雑さの程度が少ない他のものと結合したかも知れないし,あるいは,それらを摂取した(feed on 餌にした)かも知れない」。(注:以上は、E. S. グッドリッチ氏の見解)  このような(グッドリッチ氏の)見解はホールデン教授の見解より,今日(訳注:本書が出版された1935年)では生物学者たちにひろく行き渡っている見解だと考えてよいだろう。彼ら(今日の生物学者)は,生物と無生物との間にはっきりした境界がないという点で意見が一致するが,ホールデン教授は我々が無生物と呼ぶものも実際に生きていると考えるのに対し,生物学者たちの大部分は,生物も実際には(一種の)物理化学的機構であると考えている。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.8
As regards the relation of biology to chemistry and physics, Professor Haldane’s view is not that now held by most specialists. An admirable, though not recent, statement of the opposite point of view will be found in The Mechanistic Conception of Life, by Jacques Loeb (published in 1912), some of the most interesting chapters of which give the results of experiments on reproduction, which is regarded by Professor Haldane as obviously inexplicable on mechanical principles. The mechanistic point of view is sufficiently accepted to be that set forth in the last edition of the Encyclopaedia Britannica, where Mr. E. S. Goodrich, under the heading Evolution,” says : “A living organism, then, from the point of view of the scientific observer, is a self-regulating, self-repairing, physico-chemical complex mechanism. What, from this point of view, we call ‘ life ’ is the sum of its physico-chemical processes, forming a continuous interdependent series without break, and without the interference of any mysterious extraneous force.” You will look in vain through this article for any hint that in living matter there are processes not reducible to physics and chemistry. The author points out that there is no sharp line between living and dead matter ; “No hard-and-fast line can be drawn between the living and the non-living. There is no special living chemical substance, no special vital element differing from dead matter, and no special vital force can be found at work. Every step in the process is determined by that which preceded it and determines that which follows.” As to the origin of life, “ it must be supposed that long ago, when conditions became favourable, relatively high compounds of various kinds were formed. Many of these would be quite unstable, breaking down almost as soon as formed ; others might be stable and merely persist. But still others might tend to reform, to assimilate, as fast as they broke down. Once started on this track such a growing compound or mixture would inevitably tend to perpetuate itself, and might combine with or feed on others less complex than itself.” This point of view, rather than that of Professor Haldane, may be taken as that which is prevalent among biologists at the present day. They agree that there is no sharp line between living and dead matter, but while Professor Haldane thinks that what we call dead matter is really living, the majority of biologists think that living matter is really a physico-chemical mechanism.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-080.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.7

 この段階から(From this point),我々は単一の人格から神へと次のステップを歩む準備ができる(できている)。「人格は単に個人的なものではない。我々が神が存在すること(present 現前する)を認識するのは,このような事実(人格は単に個人的なものではないという事実)の中にある。(つまり)神は我々の外部にいる存在(being)として現前する(present)だけでなく,諸人格(personalities)からなる一つの人格(訳注:Personality 大文字であることに注意)として我々の内及び周囲に現前する」。「我々が神の啓示を見出すのは我々の内,真理,正義,博愛(charity),美等の我々の生きた理想の内,及びそれらから生じる他者との友好関係の内においてである」。自由や不滅(不死)は神に属し,いかなる場合にも完全には「実在的」ではない個人には属していないと言われている。「全人類が消滅しても,永遠からの存在として(?)(注:as from all eternity : 「all eternity」(=「永遠」),神はなお唯一の実在であり続けるであろう。そしてその(神という)存在の中に,我々の中に実在するものは生き続けるであろう」。  ひとつの最後の慰めになる内省(One last consoling reflection)がある。即ち,だけが唯一の実在であるということから,貧しい者は(自分が)貧しいことを気にすべきでないという結論が出てくる。「無用の贅沢のような,過ぎ去りゆく瞬間の実在しない影」にしがみつこうとすることは愚かである。(また)「貧しい者たちの実質生活水準(The real standard of the poor)は,富める者たちのそれよりもずっと満足のゆくものかもしれない」。飢えている者にとっては「唯一の究極の実在は,我々が神の存在によって示す(denote by)精神的あるいは人格的存在であることを想起すること(思い出すこと)は慰めとなるであろう」。  このような理論(説)によって多くの疑問が生じる。その最も明確なものから取上げてみよう。(即ち)一体,生物学が物理学や化学に,あるいは心理学が物理学に還元できないというのは -もし還元できないとしたら- どういう意味においてであろうか?

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.7
From this point, we are ready to take the next step, from single personalities to God. “Personality is not merely individual. It is in this fact that we recognize the presence of God – God present not merely as a being outside us, but within and around us as Personality of personalities.” “It is only within ourselves, in our active ideals of truth, right, charity and beauty, and consequent fellowship with others, that we find the revelation of God.” Freedom and immortality, we are told, belong to God, not to human individuals, who, in any case, are not quite “real.” “Were the whole human race to be blotted out, God would still, as from all eternity, be the only reality, and in His existence what is real in us would continue to live.” One last consoling reflection : from the sole reality of God, it follows that the poor ought not to mind being poor. It is foolish to grasp at “unreal shadows of the passing moment, such as useless luxury. . . . The real standard of the poor may be far more satisfying than that of the rich.” For those who are starving, one gathers, it will be a comfort to remember that “the only ultimate reality is the spiritual or personal reality which we denote by the existence of God.” Many questions are raised by this theory. Let us begin with the most definite : in what sense, if any, is biology not reducible to physics and chemistry, or psychology to biology?
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-070.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.6

 ホールデン教授の見解をBBC談話から引用
 はこう言っている。「もし我々が機械論的な解釈(mechanistic interpretation 力学的/物理的解釈)を生命についての我々の哲学の唯一の基礎としようとするなら,我々の伝統的な宗教上の信念及びそれ以外の多くの日常的信念を捨てなければならない」。けれども,幸いなことに,全てのものを機械論的に-即ち,化学や物理学の用語で-で説明する必要もないし,また,それは不可能である -なぜなら,生物学には有機体の概念が必要だからである,と彼は考える。(彼は言う。)「物理学的観点から見れば,生命は永遠の奇跡(a standing miracle)に他ならない」。「遺伝(Hereditary transmission)は,・・・それ自体,常に自己自身を維持しかつ再生する傾向をもつ,調整された統一体としての生命の優れた特徴を含んでいる」。「もし我々が生命は自然において生得的でなく(訳注:自然に固有なものでなく/生命は自然と一体でなく),生命が存在する以前時間が存在したに違いないと仮定するなら,それは生命現象を全く不可解にする不当な仮定(unwarranted assumption 正当な根拠のない仮定)である」。「生物学が我々(人間)の経験を決定的に機械論的あるいは数学的解釈に断固として抗する(反対する)(ために/ための)戸を閉ざしてしまう(biology bars decisively the door against)という事実は,宗教に関する我々の考えとの関連において少なくとも極めて重要である」。「意識的行為の生命に対する関係は,生命の機械の働きに対する関係に似ている(The relations of conscious behaviour to life are analogous to those of life to mechanism)」。「心理学的解釈では,現在は単なる過ぎ去っていく瞬間ではなく,その内に(現在の中に)過去と未来との両方を保持している(含んでいる)」。生物学が「有機体」概念を必要とするように,心理学は「人格」の概念を必要とする,(と彼は主張する)。人間が魂プラス肉体で出来上っていると考えることは誤りであり,また,我々は感覚(を起こすもの)だけを知っており外界は知らないと考えることも誤りである。なぜなら,環境は実際には我々(人間)の「外に」はないからであるく(訳注:「人間と自然=外界は一体」との考え方)。「空間と時間は人格を隔てるもの(隔離するもの)ではない。(即ち)時空は人格のなかにある秩序(order 順序)を表している。それ故,空間と時間との無限性は -カントの言うように- 人格の内にある」。「(我々の)人格は互に排除し合うものではない(他の人格を排除しない)。真理,正義,博愛,美という生きた理想は常に我々に対し現前し,また,われわれの関心の対象であるが,それは単に我々の個人的な関心事ではなく,我々皆の関心事であることは,我々の経験の中のまったくの根本的事実である。さらに,その理想(真善美のそれぞれの理想)は,異なった様相を持っているが,一つの理想である」。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.6 “If we attempt,” he says, “to make mechanistic interpretation the sole basis of our philosophy of life, we must abandon completely our traditional religious beliefs and many other ordinary beliefs.” Fortunately, however, he thinks, there is no need to explain everything mechanistically, i.e. in term’s of chemistry and physics, nor, indeed, is this possible, since biology needs the conception of organism. “From the physical standpoint life is nothing less than a standing miracle.” “Hereditary transmission . . . itself implies the distinguishing feature of life as co-ordinated unity always tending to maintain and reproduce itself.” “If we assume that life is not inherent in Nature, and that there must have been a time before life existed, this is an unwarranted assumption which would make the appearance of life totally unintelligible.” “The fact that biology bars decisively the door against a final mechanistic or mathematical interpretation of our experience is at least very significant in connection with our ideas as to religion.” “The relations of conscious behaviour to life are analogous to those of life to mechanism.” “For psychological interpretation the present is no mere fleeting moment ; it holds within it both the past and the future.” As biology needs the concept of organism, so (he maintains) psychology needs that of personality ; it is a mistake to think of a person as made up of a soul plus a body, or to suppose that we know only sensations, not the external world, for in truth the environment is not outside us. “ Space and time do not isolate personality ; they express an order within it, so that the immensities of space and time are within it, as Kant saw.” “Personalities do not exclude one another. It is simply a fundamental fact in our experience that an active ideal of truth, justice, charity and beauty is always present to us, and is our interest, but not our mere individual interest. The ideal is, moreover, one ideal, though it has different aspects.”
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-060.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.5

 宇宙の目的説に関する汎神論的及び発現的形態は,このような反対(宇宙の目的に関する有神論的形態に対するような反対)にさらされる度合は少ない。
 汎神論的進化は,関係している(involved 関連する)汎神論の個々の種類に応じて多様性(varieties 細かい品種)を持っている。我々がこれから考察しようとしているホールデン教授(注:J. B. S. Haldane, 1892-1964:イギリスの生物学者で生命の起源に関する科学的理論の最初の提唱者) の汎神論ヘーゲル(1770年-1831)とつながりがあり,そうして,ヘーゲリアン(ヘーゲル主義者)の全てと同様に(like everything Hegelian),理解するのがけっこう大変である(not very easy to understand とても理解し易いものではない)。しかし,ヘーゲルの観点過去百年以上にわたり相当な影響をもってきたものであるので吟味する必要がある。(訳注:荒地出版社刊の津田訳では「しかし,この立場は過去数百年以上にわたり相当な影響をもってきたものであるから,それを験証する必要がある。」と訳出されている。「この立場」はどの立場か曖昧に訳されている。また「the past hundred years and more」を「過去数百年以上」と訳している。しかし,「過去数百年」なら「The past few hundred years」となっているはずであり,また、ここではヘーゲルの影響のことを言っていると理解すれば「過去百年(以上)と解釈すべきであろう。「この立場」というように曖昧に理解して訳すとこのように意味不明となってしまう) さらに,ホールデン教授は多くの専門分野における研究で著名であり,彼は詳細な調査によって -特に生理学における詳細な調査によって- 自分の一般哲学(general philosophy)を例示してきており,生理学における詳細な調査は生物に関する科学には化学や物理学の法則以外の法則が必要であることを示しているように,彼には思われた。この事実は彼の一般的見解に重みを加えている(増している)。  この哲学によると,厳密に言うと「死んだ」物質というようなものは存在しないし,また,意識という性質を少しももたない生き物(living matter without something of the nature of consciousness)も存在しない。そうして,さらに一歩進めると,ある程度神的でない意識は存在しない。ホールデン教授は言及していないけれども,現象(仮象)と実在との区別 -それについては前章で手短に考察している- は,彼の見解の中に含まれている。しかし,今日では,この区別は,ヘーゲルにおけるように,種類の別というよりは程度の別になっている。(訳注:唯物論的弁証法の3原則の中の1番目「量から質への転化、ないしその逆の転化」に模した言い方) 死んだ物質は最も実在性が少なく,生きた物質は(死んだ物質より)少しだけより実在性があり,人間の意識はさらに実在性が増す。しかし,唯一完全な実在神,即ち神性を抱いた宇宙である。ヘーゲルはこれらの命題について論理的証明を与えうると明言している。しかし,それには一冊の書物を必要とするであろうことから,ここでは取上げないことにしよう。けれども,彼のBBC談話からいくつか引用して,ホールデン教授の見解を例示してみよう。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.5
To this objection the pantheistic and emergent forms of the doctrine of Cosmic Purpose are less exposed. Pantheistic evolution has varieties according to the particular brand of pantheism involved ; that of Professor J. S. Haldane, which we are now to consider, is connected with Hegel, and, like everything Hegelian, is not very easy to understand. But the point of view is one which has had considerable influence throughout the past hundred years and more, so that it is necessary to examine it. Moreover, Professor Haldane is distinguished for his work in various special fields, and he has exemplified his general philosophy by detailed investigations, particularly in physiology, which appeared to him to demonstrate that the science of living bodies has need of other laws besides those of chemistry and physics. This fact adds weight to his general outlook. According to this philosophy, there is not, strictly speaking, any such thing as “ dead ” matter, nor is there any living matter without something of the nature of consciousness ; and, to go one step further, there is no consciousness which is not in some degree divine. The distinction between appearance and reality, which we considered briefly in the previous chapter, is involved in Professor Haldane’s views, although he does not mention it ; but now, as with Hegel, it has become a distinction of degree rather than of kind. Dead matter is least real, living matter a little more so, human consciousness still more, but the only complete reality is God, i.e., the Universe conceived as divine. Hegel professes to give logical proofs of these propositions, but we will pass these by, as they would require a volume. We will, however, illustrate Professor Plaldane’s views by some quotations from his B.B.C. talk.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-050.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.4

 目的という概念(The conception of purpose)は,職人(artificer 熟練工)に当てはまる自然概念である(注:通常は 「natural concept」が「自然概念」,「natural conception」が「自然妊娠」という使われ方のようであるので「?」/「自然概念」というのはわかりにくいが,物理的・人工的概念ではなく,生命体特に人間に適応される概念,といったような意味か?)。 家を欲しいと思う者は,アラビアン・ナイトにおける場合は別として,単に望んだだけで家を持つことはできない。(即ち)その希望が満足(充足)され得る前に,時間と労力とを費やさなければならない。しかし,全能者(Omnipotence 神)はそのような制約を受けない(制限の影響下にない subject to no such limitations)。もし,神が実際に人間のことを良く思うなら(注:think well of 良く考える;じっくり考える)-私には神が人間のことを良く考えているとは思われないが- 神はなぜ,創世紀にあるように,直ちに人間の創造へと進まなかったのだろうか?(注:進化論では人間が最後に誕生したとしている)。魚竜(ichthyosaurs),恐竜(dinosaurs),ディプロドクス(大型草食性恐竜の一種),マストドン(注:原始的な象)等々は,一体何を意味するのだろうか?(どんな重要性があるというのか?) バーンズ博士自身,あるところで,サナダムシは何のために存在するのか神秘であると告白している。狂犬病(rabies)や恐水病(hydrophobia)によってどういった有益な目的が与えられるのだろうか? 自然法則は必然的に善とともに悪を生み出すと言うことは答えにならない。なぜなら,神が自然法則を定めたからである(神が自然法則を定めたことになっているからである)。罪による(原罪が原因の)悪は,我々人間の自由意志の結果であると説明されるかも知れないが,人類出現以前における悪の問題が依然として残る。バーンズ博士がウイリアム・ジレスピーによって与えられた解決策(solution 解答) -(即ち)猛獣(beasts of prey)の肉体の中には,獣の創造以前に(antedated ~に先行して)最初の罪をおかした悪魔が住んでいる- を受け入れるとは思われない。だが,他の論理的に満足できるどのような答えを提案できるか気づく(見つけ出す)ことは困難である。この困難(問題)は歴史の古いのもであるが,それでもなお現実的な困難(問題)である。(即ち)罪(原罪)のせいではない悪を含む(ような)世界を創造した全能なる存在者(神)は,少なくとも部分的にそれ自身悪でなければならない(ということになる)。(原注:インゲ主席司祭が指摘するように,「我々は悪の問題を,我々が常習的に創造主に課す狭い道徳主義により誇張する。神が単なる道徳的存在であるという説には証拠はまったくない。我々が神の法則やその働き/作用を観察すると,明らかに,神は単なる道徳的存在ではないことを示している。」『率直な随筆』第2巻p.24参)

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.4
The conception of purpose is a natural one to apply to a human artificer. A man who desires a house cannot, except in the Arabian Nights, have it rise before him as a result of his mere wish ; time and labour must be expended before his wish can be gratified. But Omnipotence is subject to no such limitations. If God really thinks well of the human race – an unplausible hypothesis, as it seems to me – why not proceed, as in Genesis, to create man at once? What was the point of the ichthyosaurs, dinosaurs, diplodochi, mastodons, and so on? Dr. Barnes himself confesses, somewhere, that the purpose of the tapeworm is a mystery. What useful purpose is served by rabies and hydrophobia? It is no answer to say that the laws of nature inevitably produce evil as well as good, for God decreed the laws of nature. The evil which is due to sin may be explained as the result of our free will, but the problem of evil in the prehuman world remains. I hardly think Dr. Birnes will accept the solution offered by William Gillespie, that the bodies of beasts of prey were inhabited by devils, whose first sins antedated the brute creation ; yet it is difficult to see what other logically satisfying answer can be suggested. The difficulty is old, but none the less real. An omnipotent Being who created a world containing evil not due to sin must Himself be at least partially evil. (* As Dean Inge puts it: “We magnify the problem of evil by our narrow moralism, which we habitually impose upon the Creator. There is no evidence for the theory that God is a merely moral Being, and what we observe of His laws and operations here indicates strongly that He is not.” Outspoken Essays, Vol. II, p. 24. )
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-040.HTM