この(ジーンズの)見解は,公平かつ偏見なしに,科学によって提示された(ものとしての)代替案を述べていると,私は考える。心が唯一の実在であり,天文学の空間と時間(時空)はそれ(心)によって創造されたものであるという(前述の)最後に述べた可能性(について)は,論理的には言うべきことが多くある。しかし -憂鬱な結論(訳注:たとえば人間なんて精密な機械にすぎないという見解)が避けられるという希望のもとに- その見解を採用する人々は,それ(その見解の採用)がどういうこと(結果)を伴うかということについては全く理解(認識)していない。私が直接知っているものは全て私の「心」の一部(部分)であり,私が他の事物の存在(訳注:たとえば他人の存在)に到達するための推論は決して決定的なもの(conclusive)ではない。従って,(理論上)自分の心以外の何ものも存左しないかも知れない。その場合,自分が死ねば世界(宇宙)は(も)消え去るだろう。しかし,もし,私が自分の心以外の心(他人の心)を認めるつもりなら,私は,(他者だけでなく)天文学的宇宙全てを認めなければならない。なぜなら,その両者(他人の心と天文学的宇宙)の事例に置いて,その(存在の)証拠はまったく同等に強力である(訳注:もし一方の証拠が強力なら他方の証拠も同等に強力である)からである(訳注:他者の存在の証拠が強ければ,宇宙の存在の証拠も同等に強い)。従って,ジーンズが最後に取上げている見解は,他人の身体は存在しないけれども他人の心は存在するという心地よい理論ではない(訳注:天文学的宇宙の存在全てを肯定することになるため)。それは,空っぽの宇宙に自分(の心)だけが存在し,自分の豊かな想像力が,人類を発明し,地球の地質時代,太陽,恒星,銀河を作り出したという理論である(訳注:外界は自分の心が創り出したものという理論のため、世界の創造の順序は科学上の理論と正反対になる。) 私の知る限りでは,このよぅな理論に反対する妥当な論理的議論(論証)はまったく存在していない。しかし,心が唯一の実在であるという理論の他の形態のものに反対するものとしては,他人の心が存在するという証拠は他人の身体が存在するという証拠から推論されたものであるという事実をあげることができる(訳注:自分に肉体がなくて思考だけが存在していても自分の思考が存在していると思う「かも」知れないが、他人の心は他人の身体がないと存在していることはわからないといったニュアンス/たとえば誰もいない砂漠にいた場合、自分の目の前に心が存在していることはわからない)。従って,他の人々は,もし心を持つなら身体も持っている。(つまり)自分自身のみが身体をもたない心である可能性はあるが,それは自分自身だけが存在する場合に限る(訳注:他人の心が存在する場合は身体も存在することになるため)。
Chapter 8:Cosmic Purpose , n.23
This, I think, states the alternatives, as presented by science, fairly and without bias. The last possibility, that mind is the only reality, and that the spaces and times of astronomy are created by it, is one for which, logically, there is much to be said. But those who adopt it, in the hope of escaping from depressing conclusions, do not quite realize what it entails. Everything that I know directly is part of my “mind,” and the inferences by which I arrive at the existence of other things are by no means conclusive. It may be, therefore, that nothing exists except my mind. In that case, when I die the universe will go out. But if I am going to admit minds other than my own, I must admit the whole astronomical universe, since the evidence is exactly equally strong in both cases. Jeans’s last alternative, therefore, is not the comfortable theory that other people’s minds exist, though not their bodies ; it is the theory that I am alone in an empty universe, inventing the human race, the geological ages of the earth, the sun and stars and nebulae, out of my own fertile imagination. Against this theory there is, so far as I know, no valid logical argument ; but against any other form of the doctrine that mind is the only reality there is the fact that our evidence for other people’s minds is derived by inference from our evidence for their bodies. Other people, therefore, if they have minds, have bodies ; oneself alone may possibly be a disembodied mind, but only if oneself alone exists.
出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-230.HTM