ラッセルの,外的失敗と内的失敗

 (私の2種類の失敗のうち、)まず外的失敗から言うと,ティーアガルテン(Tiergarten ベルリンにあった総面積210ヘクタールの大公園)は荒れ果てた場所となっている。(1895年の)あの3月の朝,そこを通ってティーアガルテンに入ったブランデンブルク門は二つの敵対する帝国(注:東西両陣営の境界(線)になった。東西両帝国はほとんど見ることができな障壁の向う側に対しお互いにらみ合い,冷酷に人類の滅亡を準備している。共産主義者,ファシスト,ナチス主義者は,相継いで,私の善いと思った全てに異議を唱え(いどみかかり),彼らを打ち負かす過程で,彼らの反対者(注:連合国側)が保存しようとしたものの多くは失われつつある。自由は弱さと考えられるようになり,寛容は裏切りの衣を身にまとうように強いられた。古い理想は不適切なものと裁断され,残酷さのない理論はまったく尊敬を払われない。

(私の)内的失敗は,世界にとってはほんの瞬間のものであるが(注:人間の命は短いため),私の精神生活をは終わりなき(絶え間のない)闘争と化した。私は,プラトン的な永遠の世界への,多少とも宗教的な信念から出発したが,そこでは数学神曲_天国篇の最後の歌(the last Cantos of the Paradiso)におけるような美をもって輝いていた。(しかし)プラトンの永遠の世界はつまらないものであり,数学はたんに同じことを違った言葉で言う技術にすぎないという結論に達した。私は愛と自由と勇気は闘わずして世界を克服できるという信念から出発したが,つらくて恐ろしい戦争(注:第二次世界大戦)を支持することで終った。これらの点においては,失敗が存在した(含まれていた)。

To begin with the outward failure: the Tiergarten has become a desert; the Brandenburger Tor, through which I entered it on that March morning, has become the boundary of two hostile empires, glaring at each other across an almost invisible barrier, and grimly preparing the ruin of mankind. Communists, Fascists, and Nazis have successively challenged all that I thought good, and in defeating them much of what their opponents have sought to preserve is being lost. Freedom has come to be thought weakness, and tolerance has been compelled to wear the garb of treachery. Old ideals are judged irrelevant, and no doctrine free from harshness commands respect.
The inner failure, though of little moment to the world, has made my mental life a perpetual battle. I set out with a more or less religious belief in a Platonic eternal world, in which mathematics shone with a beauty like that of the last Cantos of the Paradiso. I came to the conclusion that the eternal world is trivial, and that mathematics is only the art of saying the same thing in different words. I set out with a belief that love, free and courageous, could conquer the world without fighting, I ended by supporting a bitter and terrible war. In these respects there was failure.
出典: Reflections on My Eightieth Birthday (1952)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0987_RoMEB-060.HTM

<寸言>
19世紀の安定した静的な時代は終わり、20世紀は激動の時代となった。ラッセルのように抜きんでた人物でも,時代の子であり,大きな影響を受け,うまくいかないこともいろいろあった。

80歳に達し、自分の人生を総括してみる

私の仕事は終りに近づいており,それを全体として見渡すことができる時がきている。どの程度私は成功し,どの程度失敗したのか?

 は,若い時から,偉大かつ困難な仕事に自らを捧げた(捧げている)と自任していた。61年前(注:1895年始め/本エッセイは最初1952年に出され,1956年に単行本に収録された。即ち,初出の1952年から見れば57年前が正解),冷たく光り輝く3月の太陽のもとで溶け始めた雪の中(雪を踏みながら),ティーアガルテン(注:Tiergarten :ベルリンにあった総面積210ヘクタールの大公園/右写真)の中を一人で歩きながら,私は二系列の本を書こうと決意した。(即ち)一方は,抽象的な本(著作)で次第に具体的になってゆくもの(の一連の著作),他方は,具体的な本(著作)で次第に抽象的になってゆくもの(の一連の著作)であった。それらは純粋な理論を実際的な社会哲学と結びつけた一つの総合によって有終の美を飾るはずであった。いまだ実現できていない総合を除いて,私はこれらの本を書いてきた。
それらの著作は喝采かつ称賛されてきた。また,多くの男女の思考はそれらの著作の影響を受けてきた。この範囲において私は成功してきた。
しかし,これに対して,二種類の失敗,即ち,外的な失敗と内的な失敗が課されなければならなかった

My work is near its end, and the time has come when I can survey it as a whole. How far have I succeeded, and how far have I failed? From an early age I thought of myself as dedicated to great and arduous tasks. Sixty-one years ago, walking alone in the Tiergarten through melting snow under the coldly glittering March sun, I determined to write two series of books: one abstract, growing gradually more concrete; the other concrete, growing gradually more abstract. They were to be crowned by a synthesis, combining pure theory with a practical social philosophy. Except for the final synthesis, which still eludes me, I have written these books. They have been acclaimed and praised, and the thoughts of many men and women have been affected by them. To this extent I have succeeded.
But as against this must be set two kinds of failure, one outward, one inward.
出典: Reflections on My Eightieth Birthday (1952)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0987_RoMEB-050.HTM

<寸言>
常に前を見てきたラッセルも80歳になり、自分の過去を総括する気になったようである。ラッセルは97歳8ケ月も生き、80歳以後も平和運動を中心に精力的に活動したが、80歳の時点でそれほど長生きするとは予想していなかっただろう。その意味で80歳というのは、過去を省みるちょうどよい時期であったと思われる。

人間を一つの,あるいは少数の,厳格な鋳型に押し込んではならない

 私は、私が社会的,政治的諸問題に関して(これまで)行ったことは非常に重要であったなどと,言い立てることはできない。教条的かつ明確な福音,たとえば共産主義の 教条的かつ明確な福音によって,甚大な影響をあたえることは比較的容易である。私としては,人類が必要とするものは何か明確なもの,あるいは教条的なものであるなどとは信ずることができない。また,私は人間生活のある部分ないし側面だけを扱ういかなる部分的な(不完全な)教義(信条)も,心の底から信ずることはできない。全ては制度に依存しており,良い諸制度は不可避的に至福千年期をもたらすと考えている人たちがいる。他方,必要なものは心の変化であり,これに較べれば,制度はほとんど重要ではないと信じている人たちがいる。私はどちらの見解も受けいれることができない。
制度は人格(人間)を形成し,人格(人間)は制度を変容させる。両方の改革は手に手を取り合って進まなければならない

個人が当然持つべき創意と柔軟性の量を保持するためには,各個人はすぺて一つの厳格な鋳型におし込まれてはならない。あるいは,別の比喩をもちいれば,一つの軍隊を作るように訓練されてはならない。多様性は,単一の福音を全ての人々が受けいれることを排除するという事実にもかかわらず,必須のものである(本質的に重要なものである)。しかしそのような教えを説くことは,特に困難な時代においては難しいことである。しかも,おそらく,ある種のにがい教訓が悲劇的な経験から学びとられるまで,そのことは実際の効果(影響)を与えることができないであろう。

I cannot pretend that what I have done in regard to social and political problems has had any great importance. It is comparatively easy to have an immense effect by means of a dogmatic and precise gospel, such as that of Communism. But for my part I cannot believe that what mankind needs is anything either precise or dogmatic. Nor can I believe with any wholeheartedness in any partial doctrine which deals only with some part or aspect of human life. There are those who hold that everything depends upon institutions, and that good institutions will inevitably bring the millennium. And, on the other hand, there are those who believe that what is needed is a change of heart, and that, in comparison, institutions are of little account. I cannot accept either view. Institutions mold character, and character transforms institutions. Reforms in both must march hand in hand. And if individuals are to retain that measure of initiative and flexibility which they ought to have, they must not be all forced into one rigid mold; or, to change the metaphor, all drilled into one army. Diversity is essential in spite of the fact that it precludes universal acceptance of a single gospel. But to preach such a doctrine is difficult especially in arduous times. And perhaps it cannot be effective until some bitter lessons have been learned by tragic experience.
出典: Reflections on My Eightieth Birthday (1952)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0987_RoMEB-040.HTM

<寸言>
多様性を保つことは非常に重要である。しかし,社会や世界が危機に陥ると多様性も危機に陥る。そのような時代にあって冷静さを保ち,多様性をこわす流れに抗することは非常に困難かつ重要なことである。

安定の時代(・世界)から混乱の時代(・世界)へ

私は,自分の後半生を,世界が次第に悪くなり,決定的に思えた過去の勝利は一時的なものにすぎなかったということがわかった,人類史のもっとも苦痛の多い時期(の一つ)に過ごした。私は,若い頃,ヴィクトリア時代の楽天主義は当然のものであった。自由と繁栄は秩序正しい過程によって漸次全世界に拡がるものと思われ,また,残酷,圧政,不正は絶えず減少していくだろうと期待された。大規模な戦争の恐怖につきまとわれるような者はほとんどいなかった。19世紀を過去と未来の野蛮状態の間の短い幕間(劇)と思うものはほとんどいなかった。

 そのような雰囲気のもと育った人間には今日のような世界に調整して自らをあわせることは困難である。情緒的に困難であるだけでなく,知的にも困難である。充分だと思われた思想が不充分だということがあきらかになった。価値の高い自由は,ある方面では保持すること非常に困難であることがわかった。他の方面,特に国家の関係に関しては,以前は高く評価された自由は,大きな災難を引き起こす(潜在的に)有力な原因であることがわかった世界が,現在の危険な状態から抜け出すためには,新しい思想,新しい希望,及び,自由に対する新しい制限(注:国家主権に対する制限)が必要である。

The last half of my life has been lived in one of those painful epochs of human history during which the world is getting worse, and past victories which had seemed to be definitive have turned out to be only temporary. When I was young, Victorian optimism was taken for granted. It was thought that freedom and prosperity would spread gradually throughout the world by an orderly process, and it was hoped that cruelty, tyranny, and injustice would continually diminish. Hardly anyone was haunted by the fear of great wars. Hardly anyone thought of the nineteenth century as a brief interlude between past and future barbarism. For those who grew up in that atmosphere, adjustment to the world of the present has been difficult. It has been difficult not only emotionally but intellectually. Ideas that had been thought adequate have proved inadequate. In some directions valuable freedoms have proved very hard to preserve. In other directions, specially as regards relations between nations, freedoms formerly valued have proved potent sources of disaster. New thoughts, new hopes, new freedoms, and new restrictions upon freedom are needed if the world is to emerge from its present perilous state.
出典: Reflections on My Eightieth Birthday (1952)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0987_RoMEB-030.HTM

<寸言>
誰もができることなら自分たちが生きている時代は良い時代であると思いたい。しかし、第一次世界大戦と第二次世界大戦の両方を経験した者にはそれは困難である。第三次世界大戦が起こらないとは誰も断定できない。
第一次世界大戦の惨禍を見て、もう世界戦争は起こらないであろうと多くの人が思った。しかし時の経過による風化により、再び世界大戦が勃発した。今や世界戦争前夜のような状況が醸成されつつあるかのようである。

世界に対し希望を持ちづづけること

 この信念を基にして,私は常に一定程度の楽天主義を持ちつづけた。ただしその楽天主義は年をとるに従ってより冷静なものになり,幸福な結末(happy issue)はより遠のいていった。しかし,人間は苦しむように生れついているという物の見方を宿命論的に受けいれる人たちには,私は,相変わらず,全く同意することができない過去及び現在の不幸の原因は(何か),確かめることは困難なことではない。貧困や疾病や飢餓がこれまであったが,それらは人間が自然について十分精通していなかったからである(man’s inadequate mastery of nature)。(これまで)戦争や抑圧や拷問があったが,それらは同胞に対する敵意のせいであった。また,陰気な信条によって促進された病的な惨めさがあり,それはあらゆる外的繁栄を役に立たないものにするような,深刻な内面的な不調和に人間を導いてきた。これらすべて不要である。これらのどれについても,克服することができる手段は知られている。
現代世界では,社会(共同体)が不幸であるならばそれは社会の成員がそのような不幸を選んでいるからである。あるいは,もっと正確にいえば,彼らは,無知,習慣,信念,情熱を持っており,それらの方が幸福や人生そのものさえよりも彼らにとってより大事なのである。
 私は,この危険な時代において,惨めさや死を愛しているように思われる人を,また希望が示唆されると怒りを増大させる人を,数多く知っている。彼らは,希望は不合理なものと考え,怠惰な絶望に居座り続けながら,(自分は)たんに事実と向き合っているだけである,と思っている。私はこのような人たちには同意できない。我々の(現代)世界に希望を持ちづづけることは,知性と精力を呼び起こすことになる。現代世界について絶望している人に欠けているものは,多くの場合精力(エネルギー)である。

On the basis of this belief, I have had always a certain degree of optimism, although, as I have grown older, the optimism has grown more sober and the happy issue more distant. But I remain completely incapable of agreeing with those who accept fatalistically the view that man is born to trouble. The causes of unhappiness in the past and, in the present are not difficult to ascertain. There have been poverty, pestilence, and famine, which were due to man’s inadequate mastery of nature. There have been wars, oppressions and tortures which have been due to men’s hostility to their fellow men. And there have been morbid miseries fostered by gloomy creeds, which have led men into profound inner discords that made all outward prosperity of no avail. All these are unnecessary. In regard to all of them, means are known by which they can be overcome. In the modern world, if communities are unhappy, it is because they choose to be so. Or, to speak more precisely, because they have ignorances, habits, beliefs, and passions, which are dearer to them than happiness or even life. I find many men in our dangerous age who seem to be in love with misery and death, and who grow angry when hopes are suggested to them. They think that hope is irrational and that, in sitting down to lazy despair, they are merely facing facts. I cannot agree with these men. To preserve hope in our world makes calls upon our intelligence and our energy. In those who despair it is very frequently the energy that is lacking.
出典: Reflections on My Eightieth Birthday (1952)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0987_RoMEB-020.HTM

<寸言>
現実を見ない楽天主義ではなく、厳しい現実を見た上で、世界に対し希望を持ち続け、一定程度の楽天主義を維持しつつ、問題に対処してきたこと、またそのような態度が必要であると考えること。

2つの大きな目的 - 知の探求と幸福な世界の創造

 80歳に達して(注:1952年の時),その人の仕事の大部分はなされてしまい,残っている仕事はそれ以前ほど重要なものではないと思うのは,もっともなことである。少年時代以来の私の人生のまじめな部分は,二つの異なった対象に捧げられ,両者は長い間分離したままであったが,最近になってようやく一つの全体のもの(一体のもの)となった。
私は,一方では,(人間が本当に)知ることができるものがあるかどうか見つけ出したいと望み(注:知の探求),他方ではより幸福な世界を創造するためにできることは何であれしたいと望んだ(注:幸福な世界の創造)。

38歳まで(注:プリンキピア・マティマティカの執筆が終わりその第1巻を1910年に出版するまで)自分の精力の大部分を前者の仕事に費した懐疑主義に悩まされ,不本意にも,知識として通用するものの大部分は合理的な疑いをかけられるという結論を強いられた(結論に追い込まれた)。私は,人々が宗教的信仰を欲するのと同じように確実性を求めたが,これは他のどこよりも数学の中にありそうだと考えた。しかし,教師が受容するように私に期待した多くの数学的証明(論証)は虚偽に満ちており,仮に確実性が,実際,数学の中に発見可能だとしても、それまで安定していると考えられてきた以上に確固たる基礎をもった新しい種類の数学の中に存在するだろう、ということがわかった。

しかし,仕事が進むにつれ,私は絶えず象と亀の話を思い出した。(即ち)(その上に)数学を安置できる象を構築するとその象がよろめいているのわかった。そこで,象が落ちないように亀の構築にかかった。しかし,亀は象と同様に安定していなかった。そうして,約二十年間(注:18歳~38歳まで),非常に困難かつ骨の折れる仕事をした結果,数学的知識を疑いのないものにすること(仕事)で自分のできることはもはや残っていないという結論に達した。

その後,第一次大戦が起り,私の思索は人間の悲惨と愚行とに集中するようになった。私には,悲惨も愚行も人間の避けがたい運命の一部とは思われない。また,私は,知性と忍耐と雄弁によって,遅かれ早かれ、人類がその間に自らを根絶しないならば,自ら課した責苦から脱出させることが可能だと確信している。

On reaching the age of eighty it is reasonable to suppose that the bulk of one’s work is done, and that what remains to do will be of less importance. The serious part of my life ever since boyhood has been devoted to two different objects which for a long time remained separate and have only in recent years united into a single whole. I wanted, on the one hand, to find out whether anything could be known; and, on the other hand, to do whatever might be possible toward creating a happier world. Up to the age of thirty-eight I gave most of my energies to the first of these tasks. I was troubled by scepticism and unwillingly forced to the conclusion that most of what passes for knowledge is open to reasonable doubt. I wanted certainty in the kind of way in which people want religious faith. I thought that certainty is more likely to be found in mathematics than elsewhere. But I discovered that many mathematical demonstrations, which my teachers expected me to accept, were full of fallacies, and that, if certainty were indeed discoverable in mathematics, it would be in a new kind of mathematics, with more solid foundations than those that had hitherto been thought secure. But as the work proceeded, I was continually reminded of the fable about the elephant and the tortoise. Having constructed an elephant upon which the mathematical world could rest, I found the elephant tottering, and proceeded to construct a tortoise to keep the elephant from falling. But the tortoise was no more secure than the elephant, and after some twenty years of very arduous toil, I came to the conclusion that there was nothing more that I could do in the way of making mathematical knowledge indubitable. Then came the First World War, and my thoughts became concentrated on human misery and folly. Neither misery nor folly seems to me any part of the inevitable lot of man. And I am convinced that intelligence, patience, and eloquence can, sooner or later, lead the human race out of its self-imposed tortures provided it does not exterminate itself meanwhile.
出典: Reflections on My Eightieth Birthday (1952)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0987_RoMEB-010.HTM

<寸言>
ここでは「知の探求」と「幸福な世界の創造」の2つについて書かれているが、ラッセルは『自伝』において3つの強い情熱によって導かれたと書いている。即ち、「確実なものを知りたいという欲求」,「苦しんでいる人々を救い、幸福な世界を創造したいという憐憫の情」及び「愛(特に異性への愛)」の3つである。
これらのどの一つを抜かしてもラッセルを理解することはできないであろう。

問題を抽象的形式に翻訳する(2)-正しい思考(法)と適切な感受性が必要

 政治問題正しい思考(法)だけでも,適切な感受性(right feeling)だけでも解決することはできない(即ち)正しい思考は事実の評価における中立(性)に寄与できるが,適切な感受性は知識に動的なカを与えるために必要である。公衆(一般)の福祉への願望がなければ,知識があっても人類の幸福を増進するように意図された行為を起こさせる(鼓舞する)ことはないだろう。しかし,多くの者は混乱した思考によって,自己のやっていることを理解しないで,悪しき感情に従って行動することが可能であるが,純粋に知的な手段でこのことがよく理解(認識)されれば,彼らはしばしば,より荒っぽくなく,より闘争を助長しがちでないやり方で行動するように人々を導くことが可能である。世界中の学校が単一の国際的権威のもとにあり,この国際的権威が,情熱を駆り立てるように意図された言葉の使用法を解明することに専念すれば,国家間や,信条間や,政党間に存在する憎悪の念は急速に減少し,世界中の平和の維持は容易なものになるだろう,と私は堅く信じている。一方,明晰な思考の味方であり,悲惨な相互の敵意に反対する者は,人間性が陥りやすい感情に反対するばかりでなく,不寛容と気狂いじみた自己主張の大規模な組織勢力に反対する仕事を行わなければならない。この闘争において,明噺な論理的思考は立役者(行為者)の一人にすぎないが,演ずべき決定的な役割を有している

Political problems cannot be solved either by correct thinking alone, or by right feeling alone: correct thinking can contribute neutrality in the estimation of facts, but right feeling is needed to give dynamic force to knowledge. Unless a wish for the general welfare exists, no amount of knowledge will inspire action calculated to promote the happiness of mankind. But many men, owing to confused thinking, can act under the direction of bad passions without any realization that they are doing so, and when, by purely intellectual means, this realization is brought home to them, they can often be induced to act in a manner which is less harsh and less apt to promote strife. I am firmly persuaded that if schools throughout the world were under a single international authority, and if this authority devoted itself to clarifying the use of words calculated to promote passion, the existing hatreds between nations, creeds, and political parties would very rapidly diminish, and the preservation of peace throughout the world would become an easy matter. Meanwhile, those who stand for clear thinking and against mutual disastrous enmities have to work, not only against passions to which human nature is all too prone, but also against great organized forces of intolerance and insane self-assertion. In this struggle clear logical thinking, though only one of the actors, has a definite part to play.
出典: A Plea for Clear Thinking(1947)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0868_PfCT-070.HTM

<寸言>
権力者は、表面上は民主主義的であることをよそおっているが、権力のない者の意見をまともに聞こうと思っていない者が多い。安倍総理、麻生副総理、・・・、例をあげればキリがない。
(添付写真の「何を調子のいいこと言ってんだ」という言葉は、麻生副総理=財務大臣が答弁中につぶやいた言葉。ヤクザか!?)

問題を抽象的形式に翻訳する(1)-国名を日本や米国ではなく、A国,B国とする

科学哲学が教える一つの有用な技術は,すべて問いを具体的な形式から抽象的な形式へと変形させることにある。たとえば,次の例を見てみよう。
(即ち)アイルランド人は大英帝国とともに一つの民主主義政府に包摂されることに反対する権利をもつか,という問い(問題)をとろう。アメリカの急進主義者は皆これを肯定するだろう。イスラム教徒はヒンズー教徒と一緒に取り扱われることに反対する同様な権利をもつかと問えば,アメリカ急進主義者の十中九人までは,昔はそれに反対したであろう。私は,これらの問題はいずれも抽象的な言葉でのべることによって解決できると示唆しているわけではない。しかし,これらの二つの具体的問題に対し,我々が強い感情をもっている民族国家や共同体の名前をA,Bという文字におき代えて一つの抽象的な問題を作ると,公平な解決に到達するためには,どのような考察が必要とされなければならないか,を理解することがずっと容易になると言いたい(のである)

Translating Problems into an Abstract Form

One useful technique which scientific philosophy teaches consists in the transformation of every problem from a concrete to an abstract form. Take, for example, the following: Had the Irish the right to object to being included with Great Britain in one democratic government? Every American Radical would say yes. Have the Moslems the same right as against the Hindus? Nine out of ten American Radicals would formerly have said no. I do not suggest that either of these problems can be solved by being stated in abstract terms, but I do say that, when for the two concrete problems we substitute a single abstract problem in which the letters A and B replace the names of nations or communities about which we have strong feelings, it becomes very much easier to see what sort of considerations ought to be involved in arriving at any impartial solution.
出典: A Plea for Clear Thinking(1947)
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/0868_PfCT-060.HTM

<寸言>
どこの国にも「愛国無罪」的な発想をする人が少なくない。それによって、人類に多くの不幸をもたらしてきた。

「民主主義」の意味(4)- 少しうかつだったウィルソン(米国大統領)

 言葉から情緒を取り除き,明断な論理的意味でおき代える技術を経験することは,もし興奮させる宣伝の渦中においても平静を保ちたいと望むなら,その人にとって大変役立つであろう。(注:keep one’s head 平静を保つ/みすず書房版の中村訳ではこの成句に気づかず「興奮した宣伝の渦中に★頭を突っ込んでいたい★人には・・・」と誤訳している。)1917年に,ウィルソン(米国大統領)は,あらゆる民族国家(nation)は自らの問題を処理する権利を持つという民族自決の大原則を宜言したが,不幸にして彼は「民族国家(nation)」という言葉の定義を添えることを忘れていたアイルランドは一つの民族国家であったか? 確かに、そうである。(それでは)北東アルスター(注:英国領となっている北アイルランドのこと)は一つの民族国家であったか? プロテスタントはそうだと肯定し,カトリック教徒はそうでないと否定し,そうして辞書は黙った(何も記載されなかった)。今日までこの民族自決の問題は未決のままであり,この問題に関する論争は大英帝国に対する合衆国の政策に影響しがちである。事実,ペトログラードでは,ケレンスキー時代に,ある一軒の家が正当な権利をもって自由のために闘っている民族国家であると自ら宣言し,ウィルソン大統領に独立した議会を与えることを訴えた。けれども,これはゆきすぎだと感じられた。ウィルソン大統領が論理的精確性において訓練されていたら,民族国家はある一定以上の人数の個人をもっていなければならないという脚注を付け加えたことであろう。だが,これは彼の(民族自決の)原則を恣意的なものとし,修辞的な効果を奪ったことであろう。

Experience in the technique of taking the emotion out of words and substituting a clear logical significance will stand a man in good stead if he wishes to keep his head amid the welter of excited propaganda. In 1917, Wilson proclaimed the great principle of self-determination, according to which every nation had a right to direct its own affairs; but unfortunately he forgot to append the definition of the word “nation.” Was Ireland a nation? Yes, certainly. Was northeast Ulster a nation? Protestants said yes, and Catholics said no, and the dictionary was silent. To this day this question remains undecided, and the controversies in regard to it are liable to influence the policy of the United States toward Great Britain. In Petrograd, as it then was, during the time of Kerensky, a certain single house proclaimed itself a nation rightly struggling to be free, and appealed to President Wilson to give it a separate Parliament. This, however, was felt to be going too far. If President Wilson had been trained in logical accuracy he would have appended a footnote saying that a nation must contain not less than some assigned number of individuals. This, however, would have made his principle arbitrary and would have robbed it of rhetorical force.
出典: A Plea for Clear Thinking(1947)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0868_PfCT-050.HTM

<寸言>
言葉の意味をはっきりせずにわかったつもりで使うことはよくある。幼稚園児から大統領まで。

「民主主義」の意味(3)- わずかの情熱しか掻き立てない言葉から始める

「民主主義」の意味(続き)

政治的情熱は非常に毒気を含んでおり,また,人間にとって自然なものであるので,政治の領域においては,言語の正確な使用法を最初に十分教えることはできない。(そこで)比較的わずかの情熱しか掻き立てない言葉から始めるのが容易である。知的中立の訓練(知的中立性を養う訓練)の最初の効果(結果)は,冷笑主義(シニシズム)のように見えがちである。
 たとえば「真理」という言葉をとってみよう。畏敬の念を込めてこの言葉を使う者もいれば,ポンティウス・ビラト(注:Pontius Pilate, ピラト:ローマ帝国のユダヤ属州総督。新約聖書においてイエスの処刑に関与した総督として登場する。)のように,嘲笑をもって使う者もいる。「真理(性)は文の属性の一つである。」といった陳述を初めて聞くと,。(中立性について)学ぶ者は,文は素晴らしいものでもつまらないものでもない(注:つまり中立である)と考えることに慣れているので、ショックを受ける。(注:どういうわけか,みすず書房版の中村訳『(ラッセル)自伝的回想』では訳出されていない。)あるいは,また,「無限」という言葉をとってみよう。人々はあなたに有限の精神は無限を理解できないと教えるだろう。しかし,彼らに「あなたは〝無限″(という言葉)をどういう意味で使い,人間精神はどういう意味で有限なのか」と尋ねれば,彼らはただちに怒り出す(正気を失う)だろう。事実,「無限」という言葉は数学者によってあたえられている完全に精確な意味をもっており,それは,数学におけるほかのいかなるものと同じく,完全に理解できるものである。

Political passion is so virulent and so natural to man that the accurate use of language cannot well be first taught in the political sphere; it is easier to begin with words that arouse comparatively little passion. The first effect of a training in intellectual neutrality is apt to look like cynicism. Take, say, the word “truth,” a word which some people use with awe, and others, like Pontius Pilate, with derision. It produces a shock when the learner first hears such a statement as “truth is a property of sentences,” because he is accustomed to think of sentences neither as grand nor as ridiculous. Or take again the word “infinity”; people will tell you that a finite mind cannot comprehend the infinite, but if you ask them “what do you mean by ‘infinite,’ and in what sense is a human mind finite?” they will at once lose their tempers. In fact, the word “infinite” has a perfectly precise meaning which has been assigned to it by the mathematicians, and which is quite as comprehensible as anything else in mathematics.
出典: A Plea for Clear Thinking(1947)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/0868_PfCT-040.HTM

<寸言>
まともに議論をしたくない人は、言葉を話し合いの道具ではなく、相手を非難するため、武器として使う。言葉は敵にぶつけられ、相手からなげられる言葉はナンセンスとして、弱められる。