重要な学習事項ではあるが,退屈だと思われる部分

 既に正確さに関連して述べた理由で,私は,真に完全な教育を徹頭徹尾興味深いものにすることができるとは,私は信じない。ある科目をどれほど強く知りたいと思ったとしても,その中には退屈な部分を見いだすのは確実である。
しかし,適切に指導すれば,少年や少女に,その退屈な部分を学ぶことの重要性を感じさせることができるし,また,強制しなくてもその部分を学習し終えることができる,と私は信じている。課題(set tasks)の出来不出来に応じて,褒めたり,たしなめたりするという刺激を利用したい。ゲームや体操の場合と同様に,生徒が必要な技能を身につけているかどうかを,あきらかにしなければならない。また,ある科目の退屈な部分の(学習の)重要性も,教師がはっきり説明してあげなければならない。
もしも,これらの方法が全て失敗したならば,その子供は知能の劣った子供として類別され,普通の知能を持った子供(たち)とは分離して教えられなければならない。ただし,このことが罰だととられないように配慮しなければならない.

For reasons already given in connection with accuracy, I do not believe that a really thorough education can be made interesting through and through. However much one may wish to know subject, some parts of it are sure to be found dull. But I believe that, given suitable guidance, a boy or girl can be made to feel the importance of learning the dull parts, and can be got through them also without compulsion. I should use the stimulus of praise and blame, applied as the result of good or bad performance of set tasks. Whether a pupil possesses the necessary skill should be made as obvious as in games or gymnastics. And the importance of the dull parts of a subject should be made clear by the teacher. If all these methods failed, the child would have to be classified as stupid, and taught separately from children of normal intelligence, though care must be taken not to let this appear as a punishment.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 14: General principles
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE14-140.HTM

<寸言>
興味を持って学ぶことができるのが一番よいが、全てについてそれを求めることはできない。また,本来興味深い事柄であっても、受験勉強のように、時間が限られているために、深く学べないような場合も、退屈だと思ってしまいがちになる時がある。
ある程度学年があがってきたら、しだいに能力別にクラス編成をする必要がでてくる。そうしないと、出来る子どもにとっても、出来ないこどもにとっても、授業がつまらなくなったり、非効率になったりする。もちろん、生徒に教える教師の説明能力も重要な要素であるが・・・。