愛情の受け手になることは,幸福になるための有力な原因である。しかし,愛情を要求する人は,愛情が与えられる人ではない。愛情を受ける人は,大まかに言えば,愛情を与える人である。
しかし,利子付きで金を貸すようなやり方で,愛情を打算で(計算づくで)与えようとすることは無益である。なぜなら,計算づくの愛情は本物ではないし,受け手からも本物とは思われないからである。
To be the recipient of affection is a potent cause of happiness, but the man who demands affection is not the man upon whom it is bestowed. The man who receives affection is, speaking broadly, the man who gives it. But it is useless to attempt to give it as a calculation, in the way in which one might lend money at interest, for a calculated affection is not genuine and is not felt to be so by the recipient.
出典:The Conquest of Happiness, 1930, chap. 17:The happy man
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/HA28-010.HTM
<寸言>
猫は愛情を積極的に与えることも、要求することもほとんどない。それでいて、多くのひとは猫から「ほのぼのとしたもの」(愛情の泉)のようなものを受け取り、猫を愛する人が少なくない。
これとは逆に、自意識過剰な人間は嫌われる。視野が狭く,自分のことばかり考えている人間も嫌われる。打算の上で,他人に親切な行為をする人も好かれない。
事実や現実に目をつぶらず,視野が広く,他人の幸福を,あたかも自分の幸福であるかのように感じられる人は幸福な人間である。