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ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.17

 私が次に考察する(神による宇宙の創造目的に関する)「発現(創発)」説は,このような困難を回避し,時間の実在を強く支持している。しかし,「発現(創発)」説が,少なくとも同じ程度の他の大きな困難を招くことに気づくであろう。  私が(これまで)引用してきたBBC(英国放送協会)談話の本の中で,「発現」説の見解を代表しているのは,唯一アレキサンダー教授だけである。彼は,無生物,生物,そして心は,(その順番で)引き続いて(この世に)現われてきており,という言葉で口火を切り,(次のように)話を続けている。 「さて,このような成長は,ロイド・モーガン氏(Lloyd Morgan, 1852-1936:イギリスの動物学者。人間と動物との行動の実験的比較研究を行い、今日の比較心理学の発達に寄与)がその観念(概念)と言葉を導入あるいは再導入して以来,発現(創発)と呼ばれているものである。生命は物質から,心は生命から,発現(emerge 発生/創発)する。生物もまた一つの物質的存在だが,生命という新しい性質を示すように形作られたものである(so fashioned as ~のように形作られる)。・・・ そして,同じことを生命から心への移行(遷移)についても言って良いだろう。『心を持った』存在も(人間以外の生物と同じ)一つの生物(生物の一種)である。しかし,それは,を-「意識」という言葉がお好みなら「意識」を- 所持する(carry 携行する)ほど,生物の組織の一定の部分 -特にその神経組織- が非常に精密に組織化された,複雑な発達をした生物である。」  彼はさらに続けて,このような過程が心(の発生)で終る理由はないと言っている。逆に,「(その過程は)心を超えた存在というさらに進んだ性質を示唆しており,それは(その性質は),心が生命に対して,あるいは生命が物質に対して関係するように心に対して関係している(関係を持っている)。私はその性質を神性(deity)と呼び,その性質を所有する存在は神(注:一神教の神)である。(訳注:ここで初めて「神」がでてくる。従って,荒地出版社の津田訳では「it “suggests a further quality of existence beyond mind」を「心を超えた性質を持つ存在を指示し」と訳しているが,「(その過程は)心を超えた存在というさらに進んだ性質を示唆しており」と訳すべき。この一文ではまだ「神」ではなく,「性質」のことしか言っていない。) 従って,私にはあらゆるものがこの性質の発現(創発/出現)を指し示しており,また。それが私が科学自体がより広い視野をとる時には神性が必要となる(神性を必要とする)と言った理由である,と私には思われる。」  彼は言う。世界は「神性を達成しようと努力し,それに向いつつある」が「神性は,世界の存在の現段階では,未だその顕著な性質を現わしていない」。(そうして)彼は,自分にとって神とは「歴史上の宗教におけるような創造主ではなく,創造されるものである」と付言している。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.17
The “emergent” doctrine, which we have next to consider, avoids this difficulty, and emphatically upholds the reality of time. But we shall find that it incurs other difficulties at least as great. The only representative of the “emergent” view, in the volume of B.B.C. talks from which I have been quoting, is Professor Alexander. He begins by saying that dead matter, living matter, and mind, have appeared successively, and continues : “Now this growth is one of what, since Mr. Lloyd Morgan introduced or reintroduced the idea and the term, is called emergence. Life emerges from matter and mind from life. A living being is also a material being, but one so fashioned as to exhibit a new quality which is life . . . . And the same thing may be said of the transition from life to mind. A ‘minded’ being is also a living being, but one of such complexity of development, so finely organized in certain of its parts, and particularly in its nervous system, as to carry mind – or, if you please to use the word, consciousness.” He goes on to say that there is no reason why this process should cease with mind. On the contrary, it “suggests a further quality of existence beyond mind, which is related to mind as mind to life or life to matter. That quality I call deity, and the being which possesses it is God. It seems to me, therefore, that all things point to the emergence of this quality, and that is why I said that science itself, when it takes the wider view, requires deity.” The world, he says, is “striving or tending to deity,” but “deity has not in its distinctive nature as yet emerged at this stage of the world’s existence.” He adds that, for him, God “is not a creator as in historical religions, but created.”
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-170.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.16

 宇宙の目的に関する汎神論的理論(汎神説)は、有神論的理論(有神説)と同様に -いくらか異なった形ではあるが- 経時的(時間的)進化の必然性を説明する難しさで苦しんでいる(苦労している)。実際には汎神論者の全てが信じているように,もし時間が究極的には実在しないというのなら、どうして世界の歴史において最善なものが先にくるのではなく後からやってくるのであろうか? そのまったく逆の順序も同様によかったのではないだろうか? もし、あらゆる出来事に日付があるという観念(考え)は幻想であり、神がその観念から自由である(解放されている/制約を受けない)というのなら、神はなぜ喜ばしい出来事を終りに置き、喜ばしくない出来事を始めに置いたのであろうか?(注:キリスト教の神はこの世を創造するにあたり、「人間を最後に創造した」としている。) 私は、この疑問に答えることができないと考えることにおいて、インゲ主席司祭と同意見である。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.16
The pantheistic doctrine of Cosmic Purpose, like the theistic doctrine, suffers, though in a somewhat different way, from the difficulty of explaining the necessity of a temporal evolution. If time is not ultimately real – as practically all pantheists believe – why should the best things in the history of the world come late rather than early? Would not the reverse order have done just as well? If the idea that events have dates is an illusion, from which God is free, why should He choose to put the pleasant events at the end and the unpleasant ones at the beginning? I agree with Dean Inge in thinking this question unanswerable.  出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-160.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.15

 ヘーゲルに従っている人たちが皆そうであるように,ホールデン教授は,何ものも他のものから実際には分離していない(独立していない)ことを示すことを切望している(したがっている)。彼は今や -もしこの論拠(何ものも他のものから実際には分離していない(独立していない)こと)を認めたとしたなら- 各人の過去と未来はその人の現在と共存(共在)し,我々全てが住んでいる空間もまた各人の内にある,ということを指摘している。(注:show 示す;指摘する/I showed him his error. : 彼の間違いを指摘しました。)しかし,彼は,さらに一歩進めて,「人格(同士)はお互いに排除し合わない」という証明を取り入れている。(take in 取り入れる。) 一人の人格はその人の理想によって構成され,我々の理想はその大部分は同一であるらしい。彼の言葉を再度引用しよう。 「真理,正義,博愛,美というひとつの生きた理想が常に我々の前に現前している。・・・さらに,その理想は異なった(種々の)面を有しているが(分割できない)一つの理想である。神の啓示が現われるのは,これら共通の理想と,それらが作り出す仲間意識(fellowship 連帯感,友情)からである」。  正直に告白しなければならないが,このような陳述は,私にはは全く理解できず,一体何から取上げていったらよいのか分らない。 「真理,正義,博愛,美というひとつの生きた理想」が常に自分の前に現前していると彼が言う時,ホールデン教授の言葉を私は疑わない。彼がそう主張しているのだからきっとそうに違いない。しかし,このような驚くべきほどの徳(美徳)を人類一般に帰することになる時(”when it comes to ことになる時,に関して言えば),私も彼と同等に自分の意見を言う権利を持っていると感ずる。私としては,(ホールデン教授の言う「真理,正義,博愛,美というひとつの生きた理想」と正反対の)虚偽(untruth),不正,無慈悲(uncharitableness),及び醜さ,が実際に於てだけでなく理想としても追求されているのを見出している。彼は本当に,ヒトラーとアインシュタインは「異なった相を(いろいろ)持っているがひとつの(同じ)理想」を持っていると考えているのだろうか?  私には,どちらも(ヒトラーもアインシュタインも)そのような陳述を毀損する行為をもたらすであろうと思われる。もちろん,(両者のうち)一方は悪人であり,(ヒトラーも)心の底では信じている理想を実際には追求していないのだ,と言えるかも知れない。しかし,これは余りにも安易な解決策だと私には思われる。ヒトラーの理想は主としてニーチェから来ており,ニーチェには完璧な正直さのあらゆる証拠が存在している。争点が戦いによって解決されるまで -ヘーゲルの弁証法とは別な方法で- その理想がやどっている神がエホバであるのか(北欧神話の戦争と死の神である)ヴォーダン(Wotan)であるかをいかにして知ることができるのか,私にはわからない。(注:ヘーゲル弁証法では「正」と「反」の対立する意見は「止揚する aufheben」ことによって「合」として解決策が得られるとするが、もちろんラッセルはそうは思わない。)  神の永遠なる祝福は貧者にとって慰めであるという見解に関しては,その見解は富者によって常に抱かれてきた。しかし,貧者はそういう見解には飽き始めている。多分,今日においては,神という観念を経済的不正の擁護と結びつけていると思われることはほとんど賢明なことではない。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.15
Professor Haldane, like all who follow Hegel, is anxious to show that nothing is really separate from anything else. He has now shown – if one could accept his arguments – that each man’s past and future co-exist with his present, and that the space in which we all live is also inside each of us. But he has a further step to take in the proof that “personalities do not exclude one another.” It appears that a man’s personality is constituted by his ideals, and that our ideals are all much the same. I will quote his words once more : “an active ideal of truth, justice, charity and beauty is always present to us. . . . The ideal is, moreover, one ideal, though it has different aspects. It is these common ideals, and the fellowship they create, from which comes the revelation of God.” Statements of this kind, I must confess, leave me gasping, and I hardly know where to begin. I do not doubt Professor Haldane’s word when he says that “an active ideal of truth, justice, charity, and beauty” is always present to him ; I am sure it must be so, since he asserts it. But when it comes to attributing this extraordinary degree of virtue to mankind in general, I feel that I have as good a right to my opinion as he has to his. I find, for my part, untruth, injustice, uncharitableness and ugliness pursued, not only in fact, but as ideals. Does he really think that Hitler and Einstein have “one ideal, though it has different aspects”? It seems to me that each might bring a libel action for such a statement. Of course it may be said that one of them is a villain, and is not really pursuing the ideals in which, at heart, he believes. But this seems to me too facile a solution. Hitler’s ideals come mainly from Nietzsche, in whom there is every evidence of complete sincerity. Until the issue has been fought out – by other methods than those of the Hegelian dialectic – I do not see how we are to know whether the God in whom the ideal is incarnate is Jehovah or Wotan. As for the view that God’s eternal blessedness should be a comfort to the poor, it has always been held by the rich, but the poor are beginning to grow weary of it. Perhaps, at this date, it is scarcely prudent to seem to associate the idea of God with the defence of economic injustice.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-150.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.14

 空間に関しても,問題(やっかいなこと)は似ているが,(時間の場合よりも)もっと複雑である。(訳注:ネット上の英和・和英辞典である “weblio” には 「”the matter”(やっかいなこと、困ったこと ★主語にはならない」と記されているが,ここでは前の文を受けて,立派に「主」語になっている。 https://ejje.weblio.jp/content/the+matter) 2種類の空間が存在している(空間には2種類ある)。(即ち)(特定の)一人の人間の経験が置かれている(be situated 位置している)空間(訳注:私的空間)と,物理(的)空間(訳注:公的空間)の2種類である。(後者の)物理(的)空間には,他人の身体,椅子,テーブル,太陽,月,星(等々)を含んでおり,それらは我々の個人的な(私的な)感覚に映し出されるだけでなく,我々がそう思っている(想定している)ように,自分以外の他者にも(同様に)映し出される。この2番目の空間(=物理的空間)は仮設的なものであり,完全な論理を以てすれば,世界には自分(個人)の経験しか存在しないと進んで仮定(想定)しようとする人(注:独我論者)によって否定されうるものである(注:ここでは,物理学と言えども,「個人」による観察データをもとに構築されているものであり、他者の存在も個人の知覚によって「存在しているらしい」と判断されたものだと考える徹底した独我論者のことを言っている/もちろんこれは理論上のことを言っている。もし他者の存在を認めないで回避措置をとらないと独我論者は殺されてしまうかも知れない)。ホールデン教授は,このこと(独我論者の見解)を進んで言おうとしているのではないので,従って,彼は自分の経験(データ)以外のものを含む空間を認めなければならない。(前者の)主観的な種類の空間に関しては,私(個人)のあらゆる視覚経験を含む視覚空間があり,触覚空間があり,また,ウイリアム・ジェームスが指摘したように,胃痛の量感(voluminousness 嵩張った,広々した/痛い胃の部分の広がり具合がわかるといったニュアンスか?)等々がある。私が事物の世界におけるひとつの事物と考えられる時には,主観的な空間のあらゆる形態は私の中に存在している(訳注:前述の視覚空間も触覚空間も、個人の全ての種類の空間が自分個人のなかに存在している)。私が見ている星空(星天)は天文学上の遠くにある星空(星天)(そのもの)ではなく,星(恒星)が私に与えた影響(の結果)である。(また)私が見ているもの(事物)は,私の(脳の)中にあるのであり,(私の身体の)外にあるのではない。天文学における星(恒星)は,私の外にある物理(的)空間の中に存在しているが,私がそれらに到達するのは,推論によってだけであり、自分自身の経験の分析によってではない。ホールデン教授の空間は人格内部にある一つの秩序を表しているという陳述は,私個人の空間(私的空間)については真実であるが,物理(的)空間については真実ではない。(即ち)空間は人格を隔てるものでないという彼の付随した陳述は,もし物理(的)空間もまた我々個人の内にあるというなら正しいであろう。この混乱がとり除かれるやいなや,彼の立場はもっともらしさを失ってしまう。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.14
With regard to space, the matter is similar but more complicated. There are two kinds of space, that in which one person’s private experiences are situated, and that of physics, which contains other people’s bodies, chairs and tables, the sun, moon and stars, not merely as reflected in our private sensations, but as we suppose them to be in themselves. This second sort is hypothetical, and can, with perfect logic, be denied by any man who is willing to suppose that the world contains nothing but his own experiences. Professor Haldane is not willing to say this, and must therefore admit the space which contains things other than his own experiences. As for the subjective kind of space, there is the visual space containing all my visual experiences ; there is the space of touch ; there is, as William James pointed out, the voluminousness of a stomach-ache ; and so on. When I am considered as one thing among a world of things, every form of subjective space is inside me. The starry heavens that I see are not the remote starry heavens of astronomy, but an effect of the stars on me ; what I see is in me, not outside of me. The stars of astronomy are in physical space, which is outside of me, but which I only arrive at by inference, not through analysis of my own experience. Professor Haldane’s statement that space expresses an order within personality is true of my private space, not of physical space ; his accompanying statement that space does not isolate personality would only be correct if physical space also were inside me. As soon as this confusion is cleared up, his position ceases to be plausible.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-140.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.13

 このような見解には魅力的なものがあるが,それを真理と見なす理由は私には分らない。同じ状況にある二人の人間がその(人の)過去の歴史(注:経験など)が違うので,異なった反応を示すということは,もちろん明らかである。しかし,それと同じことが磁気を帯びた鉄の断片と磁気を帯びていない鉄の断片にも言える(あてはまる)。記憶は脳に刻印され,身体構造の違いを通して行動に影響を与える,と我々は想定する(考える)。同様の考慮(熟慮)は(人間の)性格にもあてはまる。もし一人の人が怒りっぽく(choleric 怒りっぽい)で,別の人が無気力(phlegmatic 冷淡な)であるとすれば,両者の相違は,一般的にいって内分秘腺(glands)に起因しており(traceable to),多くの場合,適切な薬を用いることによって取り除かれる(obliterated 解消される)。人格神秘的で犯し難いという信念は,何ら科学的な根拠がなく,それが受け入れられるのは主として,人間の自尊心を喜ばすためである。  再び,前述の二つの陳述をとりあげよう。(即ち)「心理学的に解釈すると,現在は単に(すばやく)流れ去る瞬間ではない。現在はそのうちに過去と未来との両方を含んでいる」という陳述,及び,「空間と時間は人格を隔てるものでなく,人格の中に秩序(order)を表している」という陳述(の2つ)である。(1つ目の)過去と未来に関しては,ホールデン教授は,我々が雷の閃光を見て雷の音が鳴るのを期待している時(ちょうどその時)の状態のような問題を心に抱いているように思われる。過ぎ去った雷光とその後の(未来の)雷鳴の両方が,我々の現在の精神状態の中に入り込んでいると言ってもよいかもしれない。(注:つまり,「雷が光った直後の瞬間の現在」には「雷の光った過去」(記憶)と「音が鳴る未来」(期待)が両方とも含まれているのではないか,という喩えしかしこれは隠喩によって誤り導かれている。雷光を想起(回想)することは雷光(そのもの)ではなく,雷鳴の期待(expectations 予想)は雷鳴(そのもの)ではない。私は,単に,想起と期待が身体的影響(physical effect 身体的影響;物理的影響)を持たない(与えない)ということを(今)考えているのではない。主観的経験の実際の性質について考えている。(即ち),(雷光を実際に)見ることと想起(後から回想)することとは別なことであり,(雷鳴を実際に)聞くことと期待する(将来を予想する)こととは別なことである。現在の過去と未来とに対する関係は,心理学においても他の場合と同じように,因果関係(注:原因と結果の関係)であり,相互浸透(interpenetration)の関係ではない(原注:因果関係といっても,もちろん,私の期待が雷鳴を引き起こすと言っているのではなく,過去に雷の後に雷鳴がしたという経験をしているので,現在雷光とともに,雷鳴への予想(期待)が生じていると言っているしだいである)。記憶は過去の存在を延長はしない,記憶(というもの)は,単に,過去が影響をもつひとつの方法に過ぎない。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.13
There is something attractive about this view, but I see no reason to regard it as true. It is, of course, obvious that two men in the same situation may react differently because of differences in their past histories, but the same is true of two bits of iron of which one has been magnetized and the other not. Memories, one supposes, are engraved on the brain, and affect behaviour through a difference of physical structure. Similar considerations apply to character. If one man is choleric and another phlegmatic, the difference is usually traceable to the glands, and could, in most cases, be obliterated by the use of suitable drugs. The belief that personality is mysterious and irreducible has no scientific warrant, and is accepted chiefly because it is flattering to our human self-esteem. Take again the two statements : “For psychological interpretation the present is no mere fleeting moment : it holds within it both the past and the future” ; and “space and time do not isolate personality ; they express an order within it.” As regards past and future, I think Professor Haldane has in mind such matters as our condition when we have just seen a flash of lightning, and are expecting the thunder. It may be said that the lightning, which is past, and the thunder, which is future, both enter into our present mental state. But this is to be misled by metaphor. The recollection of lightning is not lightning, and the expectation of thunder is not thunder. I am not thinking merely that recollection and expectation do not have physical effects ; I am thinking of the actual quality of the subjective experience ; seeing is one thing, recollecting is another ; hearing is one thing, expecting is another. The relations of the present to the past and the future, in psychology as elsewhere, are causal relations, not relations of interpenetration. (I do not mean, of course, that my expectation causes the thunder, but that past experiences of lightning followed by thunder, together with present lightning, cause expectation of thunder.) Memory does not prolong the existence of the past ; it is merely one way in which the past has effects.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-130.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.12

 けれども,ホールデン教授の心理学に関する見解は,もっと明確なことを言うことができるより狭義の問題(issue 争点/論点)を生じさせる。彼は心理学の特徴的な概念は「人格(パーソナリティ)であると主張する。彼はこの言葉(「人格」)を定義していないが,我々はそれ(「人格」)を一つの心(一人の心)の(いろいろな)構成要素を一つに結びつけ,それらの構成要素全てを相互に調節し合う(注:modify 修正する,加減する,限定する)ある種の統合原理を意味しているとってよいであろう。「人格」という概念(観念)は漠然としている。それ(「人格」)は -「魂」という概念がいまだ防御可能だと考えられている限りにおいて- 「魂」を意味する。それ(「人格」)は単なる(中身のない)存在(bare entity)ではないということで魂と異なっているが,それ(「人格」)は全体性という(一種の)特質を持っている。魂(の存在)を信じる人々により,ジョン・スミスの心の中にある全てのものは,それと全く類似したたものが誰か他人の心の中に存在することを不可能にするジョン・スミス性(ジョン・スミス的特質)を持っていると考えられている。もし,あなたがジョン・スミスの心を科学的に説明しようするなら,あなたは物質のすべての断片(部分)に差別なく(indiscriminately)与えられる一般的法則で満足してはならない。(すなわち、ホールデン教授によれば)当該事象はその特定に人物に対して起っているのであり,当該事象はその人の全歴史(=生涯)及び性格のせいであるものである(に基づくものである)ということを思い起こさなければならない(のである)。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.12
Professor Haldane’s views on psychology raise, however, a narrower issue, as to which much more definite things can be said. He maintains that the distinctive concept of psychology is “personality.” He does not define the term, but we may take it as meaning some unifying principle which binds together the constituents of one mind, causing them all to modify each other. The idea is vague ; it stands for the “ soul,” in so far as this is still thought to be defensible. It differs from the soul in not being a bare entity, but a kind of quality of wholeness. It is thought, by those who believe in it, that everything in the mind of John Smith has a John- Smithy quality which makes it impossible for anything quite similar to be in anyone else’s mind. If you are trying to give a scientific account of John Smith’s mind, you must not be content with general rules, such as can be given for all pieces of matter indiscriminately ; you must remember that the events concerned are happening to that particular man, and are what they are because of his whole history and character.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-120.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.11

 心理学という一つの独立した科学の可能性については、ましてや(even less),現在のところ,語ることはできない。(訳注:この一文は「我々の身体活動は物理化学的法則で決定されるのだろうか? もしそうだとしたら,人工的に作り上げられた物質という概念を用いずに,直接的に心的事象(精神的事象)を研究する心理学という独立した科学は依然として存在するだろうか?」という2つの問いのうちの後者について述べている。前者については一定の証拠はあるが自信を持って答えることはできないと,ラッセルは述べている。そうして後者の問いについては「ましてや・・・」というニュアンス。従って,荒地出版社の津田訳のように「心理学という独立した学問の可能性については、現在のところ、これ以上語ることはできない」といった曖昧な訳は不適切。しかも「even less (can be said)」を「これ以上(語ることはできない)」と訳すのは不適切。「even less」の「ましてや~;いわんや~」のニュアンスがなくなってしまっている。)精神分析(学)は、ある程度、そのような科学(学問)を創り上げようとしてきた。しかし、そのような試みも、生理学的な因果関係を避けている限り、その成功はいまだ疑問視されるであろう。ためらいがちではあるが、私は -現在の物理学や心理学のどちらとも異なるものであるけれども - 究極的には,両者(物理学と心理学)を包括するような科学(学問)が生れるだろうという見解(考え)に傾いている。物理学の方法は、今日ではもはや存在していないところの「物質」という形而上学的な実体に対する信念に影響されて発展した。そうして、新しい量子力学は誤った形而上学を必要としない(dispenses with なしで済ます)異なった方法を持っている。(一方)心理学の方法は、ある程度まで、「心」という形而上学的存在への信念のもとで発展した。物理学と心理学は,両者ともこれらの延々と続いている誤りから完全に解放された時には、心や物質を扱うのはなく、-「物理的」とも「精神的(心的)」とも名付けられないような- 事象を扱う科学へと発達するだろうことは可能だろうと思われる。そして、そそれまでの間、心理学の学問的位置付けの問題は検討対象にされ続ける必要がある。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.11
With regard to the possibility of an independent science of psychology, even less can be said at present. To some extent, psycho-analysis has attempted to create such a science, but the success of this attempt, in so far as it avoids physiological causation, may still be questioned. I incline – though with hesitation – to the view that there will ultimately be a science embracing both physics and psychology, though distinct from either as at present developed. The technique of physics was developed under the influence of a belief in the metaphysical reality of “matter” which now no longer exists, and the new quantum mechanics has a different technique which dispenses with false metaphysics. The technique of psychology, to some extent, was developed under a belief in the metaphysical reality of the “mind.” It seems possible that, when physics and psychology have both been completely freed from these lingering errors, they will both develop into one science dealing neither with mind nor with matter, but with events, which will not be labelled either “physical” or “mental.” In the meantime, the question of the scientific status of psychology must remain open.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-110.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.10

 前の段落の最初にあげた二つの問題に戻ることにしよう。前の方の章で考察したように,もし我々の身体活動の全て生理学的な原因を持っているのなら,我々の心は因果的に(原因として)重要でないことになる。我々が他人と意思疎通を図ったり,外界に影響を与えることができるのは身体活動(身体を使っての行為)によってだけであり,我々(人間)の考えることは,我々の身体の行動に影響を与えうる場合にのみ重要である。(訳注:しゃべることも身体活動の一つ。考えるだけで他者に伝えることができなければ考えることはあまり重要なことでなくなってしまう。)けれども,心的なもの(精神的なもの)と物理的なものとの区別は便宜上の区別にすぎず,我々の身体活動(行為)は全て物理学の領域内の原因を持つにもかかわらず(and yet),心的事象(精神的事象)はそれらの(身体活動の)原因のひとつかも知れない。実際的な問題は,心(精神)と身体(肉体)という言葉(用語)で述べらるべきではない。恐らく,次のように言ったらよいのではないだろうか。(即ち)我々の身体活動は物理化学的法則(physico-chemical laws)で決定されるのだろうか? もしそうだとしたら,人工的に作り上げられた物質という概念を用いずに,直接的に心的事象(精神的事象)を研究する心理学という独立した科学は依然として存在するだろうか?  これら二つの問いの内,前者の問い(我々の身体活動は物理化学的法則で決定されるのだろうか?)に対しては肯定的な答えをする一定の証拠があるが,そのどちらの問いにも自信をもって答えを与えることはできない。その一定の証拠というのは直接的なものではない。(即ち)我々は人間の運動(行動)を惑星である木星の運動を計算するように計算することはできない。しかし(そうは言っても)人間の身体と生命の最も原初的な形態(原始的な形態)との間に明確な線(境界線)を引くことはできない。両者の間には、我々に言いたくさせるようなギャップ(間隙)は存在しない。ここにおいては(この問いについては)物理学も化学も十分なものではなくなる。そうして,既に考察したように,生物と無生物との間にも同じように間隙はない。従って,恐らく,物理学と化学は最初から最後まで(throughout 全体を通して)最高の地位にあると思われる。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.10
To return to the two questions at the beginning of the preceding paragraph : as we saw in an earlier chapter, if our bodily actions all have physiological causes, our minds become causally unimportant. It is only by bodily acts that we can communicate with others, or have any effect upon the outer world ; what we think only matters if it can affect what our bodies do. Since, however, the distinction between what is mental and what is physical is only one of convenience, our bodily acts may have causes lying wholly within physics, and yet mental events may be among their causes. The practical issue is not to be stated in terms of mind and body. It may, perhaps, be stated as follows : Are our bodily acts determined by physico-chemical laws? And, if they are, is there nevertheless an independent science of psychology, in which we study mental events directly, without the intervention of the artificially constructed concept of matter? Neither of these questions can be answered with any confidence, though there is some evidence in favour of an affirmative answer to the first of them. The evidence is not direct ; we cannot calculate a man’s movements as we can those of the planet Jupiter. But no sharp line can be drawn between human bodies and the lowest forms of life ; there is nowhere such a gap as would tempt us to say : here physics and chemistry cease to be adequate. And as we have seen, there is also no sharp line between living and dead matter. It seems probable, therefore, that physics and chemistry are supreme throughout.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-100.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.9

 生理学と心理学との関係についての問題はもっと難しい。そこには二つの別個の問題がある。(即ち)我々(人間)の身体の行動は生理学的原因にだけ基づくと考えることができるであろうかという問題と,心的現象(精神現象)とそれと同時に起こる身体の行為との関係はどういうものであるかという問題(の2つ)である(訳注:荒地出版社刊の津田訳では「physiological causes」を「生物学的原因」と誤訳)。一般に観察できるのは身体の行動だけである。我々の思考(考えていること)は他者によって「推理される」かも知れないが,「認知できる」のは我々自身(自分自身)によってのみである(訳注:荒地出版社刊の津田訳では「 our thoughts」を「我々の思想」と訳出)。これが,少なくとも,常識が主張するだろうことである。理論的に厳密に言うと,我々は身体行為を観察することはできず,(可能なのは)にそれらの行為が我々(人間)に与える一定の影響を観察することができるだけである。(訳注:観察対象の人に太陽などの光があたり、それが反射して観察者の目に到達し、それが網膜に達し、そこから脳に伝わり、そこで再構成されて認識行為が起こることを言っている。) (自分たち以外の)他者が同時に観察するものは類似しているかもしれないが,我々(自分たち)が観察することとは,常に多少とも相違しているだろう。このような理由及びその他の理由から,物理学と心理学との間にあるギャップ(断絶)は,以前考えられていたほど大きくない。物理学は,我々が一定の状況において見るだろうことを予測すること(科学)と考えてよいだろう。そうして,そういう意味においては,我々が見るということは「心的(精神的)」な事象であるので,それは心理学の一部門である。このような視点は,経験的に検証できる主張だけをしたいという欲求(願望)によって,-(客観的とは言いながら)検証は常にある(特定の)人間による観察であり,従って,心理学が考察するような出来事であるという事実と相まって(と結びついて)- 現代物理学の前面に現われてきた。しかし,そのようなことは全て,これら二つの学問(注:物理学と心理学)の実際面に関することというよりも,両者の哲学に属することである。それらの取扱う素材(subject-matters)の友好的接近(rapprochement)にもかかわらず,それら(両者)の(取り扱う)手法(technique)はやはり異なったままである。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.9
The question of the relation between physiology and psychology is more difficult. There are two distinct questions ; Can our bodily behaviour be supposed due to physiological causes alone? and what is the relation of mental phenomena to concurrent actions of the body? It is only bodily behaviour that is open to public observation ; our thoughts may be inferred by others, but can only be perceived by ourselves. This, at least, is what common sense would say. In theoretical strictness, we cannot observe the actions of bodies, but only certain effects which they have on us ; what others observe at the same time may be similar, but will always differ, in a greater or less degree, from what we observe. For this and other reasons, the gap between physics and psychology is not so wide as was formerly thought. Physics may be regarded as predicting what we shall see in certain circumstances, and in this sense it is a branch of psychology, since our seeing is a “mental” event. This point of view has come to the fore in modern physics through the desire to make only assertions that are empirically verifiable, combined with the fact that a verification is always an observation by some human being, and therefore an occurrence such as psychology considers. But all this belongs to the philosophy of the two sciences rather than to their practice ; their technique remains distinct in spite of the rapprochement between their subject-matters.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-090.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.8

 生物学の化学や物理学に対する関係についてのホールデン教授(1860-1936)の見解は,今日では大部分の専門家たちによって支持されてはいない(支持されているものではない)。最近のものではないが,ホールデン教授の見解と反対の見解を述べたものは,ジャック・ロエブによる「生命の機械論的概念」(1912年刊)の中に見出されるだろう。その最も興味ある諸章のなかのいくつかの章で,生殖作用(reproduction)-ホールデン教授は生殖作用は機械的作用では明らかに説明されえないと考えている- に関する実験の結果について述べられている。その機械論的視点は,エンサイクロペディア・ブリタニカの最新版において記載されている視点としてほぼ全面的に受け入れられている。そこで,E. S. グッドリッチ氏「進化」という見出しのもと、次のように述べている。 「従って,科学的観察者の視点から見ると,生体(living organism 生物)は,自己調節的,自己修復的,及び,物理=化学的な複合機構である。このような視点から見るとき,我々が「生命」と呼ぶものは,その物理化学的なプロセスの総体であり,断絶のない連続的な相互依存の連鎖を形作り,何らの神秘的な外力の干渉を受けないものである」。  この論述(article)の中に,物理学や化学に還元できない過程が生物(生き物)の中にあることを暗示する箇所(ヒント)を見出そうとしても,恐らく,無駄であろう。著者は,生物と無生物との間には明確な境界はまったくないと指摘している(即ち) 「厳格な境界線(hard and fast line 例外を許さない;全体動かせない)を生物(the living)と無生物(the non-living)との間に引くことはできない。特別な生きている化学的物質は存在しない。無生物とは異なる特別な生きている要素はない(訳注:「vital element」には「不可欠な要素」という意味があるが,この後の「vital force」は「生命力」と考えると「生きている要素」のことか?)。また,特別な生命力(vital force)が働いているのを発見することはできない。その過程におけるいかなる段階もそれに先行するものによって決定され,また,その段階に続くものを決定する。(訳注:「無生物から突然生物が生まれることはない」といったところか?)」  生命の起源についてはこう言っている。 「ずっと以前に,諸条件に恵まれた時(when conditions became favourable 諸条件が好都合になった時),色々な種類のものの比枚的複雑な化合物(high compounds)が形成されたと想定されなければならない(訳注:ちなみに高分子化合物は「high molecular compound」)。これらのものの多くは全く不安定であり,形成されると同時にほとんど崩壊し始める。それ以外のあるものは安定しており,存続し続けるだけかもしれない。しかし,さらに,それら以外のものは,崩壊するや否や,再形成へと向かう傾向があったり、同化に向ったりする傾向があったかも知れない。成長しゆく複合体あるいは混合物(の形成)のような軌道を出発するやいなや,必然的に自己保存の方向に向ったであろう。そうして,自分より複雑さの程度が少ない他のものと結合したかも知れないし,あるいは,それらを摂取した(feed on 餌にした)かも知れない」。(注:以上は、E. S. グッドリッチ氏の見解)  このような(グッドリッチ氏の)見解はホールデン教授の見解より,今日(訳注:本書が出版された1935年)では生物学者たちにひろく行き渡っている見解だと考えてよいだろう。彼ら(今日の生物学者)は,生物と無生物との間にはっきりした境界がないという点で意見が一致するが,ホールデン教授は我々が無生物と呼ぶものも実際に生きていると考えるのに対し,生物学者たちの大部分は,生物も実際には(一種の)物理化学的機構であると考えている。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.8
As regards the relation of biology to chemistry and physics, Professor Haldane’s view is not that now held by most specialists. An admirable, though not recent, statement of the opposite point of view will be found in The Mechanistic Conception of Life, by Jacques Loeb (published in 1912), some of the most interesting chapters of which give the results of experiments on reproduction, which is regarded by Professor Haldane as obviously inexplicable on mechanical principles. The mechanistic point of view is sufficiently accepted to be that set forth in the last edition of the Encyclopaedia Britannica, where Mr. E. S. Goodrich, under the heading Evolution,” says : “A living organism, then, from the point of view of the scientific observer, is a self-regulating, self-repairing, physico-chemical complex mechanism. What, from this point of view, we call ‘ life ’ is the sum of its physico-chemical processes, forming a continuous interdependent series without break, and without the interference of any mysterious extraneous force.” You will look in vain through this article for any hint that in living matter there are processes not reducible to physics and chemistry. The author points out that there is no sharp line between living and dead matter ; “No hard-and-fast line can be drawn between the living and the non-living. There is no special living chemical substance, no special vital element differing from dead matter, and no special vital force can be found at work. Every step in the process is determined by that which preceded it and determines that which follows.” As to the origin of life, “ it must be supposed that long ago, when conditions became favourable, relatively high compounds of various kinds were formed. Many of these would be quite unstable, breaking down almost as soon as formed ; others might be stable and merely persist. But still others might tend to reform, to assimilate, as fast as they broke down. Once started on this track such a growing compound or mixture would inevitably tend to perpetuate itself, and might combine with or feed on others less complex than itself.” This point of view, rather than that of Professor Haldane, may be taken as that which is prevalent among biologists at the present day. They agree that there is no sharp line between living and dead matter, but while Professor Haldane thinks that what we call dead matter is really living, the majority of biologists think that living matter is really a physico-chemical mechanism.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-080.HTM