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ラッセル『宗教と科学』第9章 科学と倫理 n.3

 哲学者たちは,異なった道をたどって,異なった立場 -その立場においては,同様に(also また,同様に)道徳律は従属的地位にある- に達した。彼「善」という概念を組立て,それ(「善」という概念)によって(大ざっばに言えば),それ自体でまたその結果とは独立して,我々が存在していることを望むもの,あるいは,もし彼ら(哲学者たち)が有神論者であれば神を喜ばすようなもの,を(彼ら=哲学者たちは)意味している。大部分の人は,幸福は不幸よりも好ましいこと,友好的であることは友好的でないことよりも好ましい等々のことに,賛成するだろう。この(哲学者達の)見解によると,道徳律は,それ自身で(「善」という概念)善なるものの存在を促進(助長)する場合は正当化されるがそうでない場合は正当化されない。殺人の禁止は,その結果からみて,ほとんどの場合正当化できるが,寡婦(未亡人)をその夫の葬式の火葬の薪の上で焼く行為は正当化できない(訳注:ヒンドゥー社会における慣行で、寡婦が夫の亡骸とともに焼身自殺をすることを言っている)。従って,前者の規則は維持されるべきであるが,後者は維持されるべきではない。けれども,最善の道徳律にも,「いくらか」例外はあるだろう。なぜなら,「常に」悪い結果をもつような行為はないからである。このようにして,ある行為が論理的に推奨されるということには,(以下の)3つの異なった意味がある。(即ち)(1)その行為は,一般に受け入れられている道徳律に一致している(か),(2)その行為は,よい結果をもつようにまじめに意図されている(か),(3)その行為は事実(実際に)良い結果をもつ(か)。けれども,三番目の意味は,一般に,道徳には入らないと考えられている。正統派神学によると,イスカリオテのユダの裏切行為はよい結果をもたらしたが、なぜならそれは贖罪(訳注:Atoment しょくざい:「キリストによる償い」 《キリストがその受難と死によって全人類に代わって罪をあがなったとする信仰>>)に必要であったからである。しかし,それを理由にして,ユダの裏切りを賞賛すべきではない。
Chapter 9: Science and Ethics, n.3
Philosophers, by a different road, have arrived at a different position in which, also, moral rules of conduct have a subordinate place. They have framed the concept of the Good, by which they mean (roughly speaking) that which, in itself and apart from its consequences, we should wish to see existing – or, if they are theists, that which is pleasing to God. Most people would agree that happiness is preferable to unhappiness, friendliness to unfriendliness, and so on. Moral rules, according to this view, are justified if they promote the existence of what is good on its own account, but not otherwise. The prohibition of murder, in the vast majority of cases, can be justified by its effects, but the practice of burning widows on their husband’s funeral pyre cannot. The former rule, therefore, should be retained, but not the latter. Even the best moral rules, however, will have some exceptions, since no class of actions always has bad results. We have thus three different senses in which an act may be ethically commendable : (i) it may be in accordance with the received moral code ; (2) it may be sincerely intended to have good effects ; (3) it may in fact have good effects. The third sense, however, is generally considered inadmissible in morals. According to orthodox theology, Judas Iscariot’s act of betrayal had good consequences, since it was necessary for the Atonement ; but it was not on this account laudable.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 9: Science and Ethics
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_09-030.HTM

ラッセル『宗教と科学』第9章 科学と倫理 n.2

 外部の行動規範(行為の規則)の必要性に訴えることが回避されてきた方法の一つは「良心」(の存在)に対する確信であった(訳注:荒地出版社刊の津田訳では「external rules of conduct」は「行為の外的法則」と訳されている。この近辺では「rule」は全て「法則」と訳されてしまっている)。それは,とくにプロテスタントの倫理において重要であった。神が各人の心に何が正しく何が誤りであるかを啓示すると,また,それゆえ,罪を避けるには,我々は自分の内なる声だけを聴けばよいと,考えられてきた。けれども,この説には二つの困難(問題)がある。第一に,良心は異なった人に異なったことを言う(人が違えば良心は異なる)。第ニに,(精神分析による)潜在意識の研究は,良心的な感情の世俗的な原因(良心的な感情の背後には世俗的な原因があること)についての理解を我々にもたらしてきた。  良心の異なった判断/評決(different deliverances 異なった判断/評決をすること)について(次のような例がある)。(例えば,)ジョージ三世の良心は,カトリック教徒の解放を認めたら自分の戴冠式の誓いで偽証(perjury)を行ったことになるので,そうしてはならないと告げた(訳注:カトリック教徒解放というのは、18世紀後半から19世紀初頭にかけて英国において起こったローマ・カトリック教徒にかけられた多くの制約を減らし、取り除こうとする運動)。しかし,その後の君主たちはそのような良心の呵責(scruples)は持たなかった。良心は,共産主義者によって主張されているように,貧しい者による富める者からの略奪についてある者には非難させ,また,資本家によって言われているように,富める者による貧しい者からの搾取について他の者には非難させる。良心はある者には,自国が侵略された際には国家を守るべきだと告げ,また,別の者には戦争に参加する者は全て邪悪であると告げる。第一次世界大戦中,政府当局者たちは -その中には倫理を研究した者はほとんどいなかったが- (人間の)良心はとても人をまごつかせるものだと気づき -人は自分自身と闘うことには良心の呵責を感ずるが(自分以外の)他人を徴兵することを可能にするために野外で働くことには(working on the fields 戦場で働く?)良心の呵責は感じない- といったいくらか奇妙な(いくつかの)決定(descisions)に導かれた。彼ら(政府当局者たち)は,また,良心はあらゆる戦争を非とするかもしれないが,極端な状況でなければ(?)(注:failing that そうでなければ),良心はその当時進行中の戦争(第一大戦)に非を唱えることはできなかった,と考えた。どんな理由であれ(for whatever reason),戦うことは正しくないと考える者は,自分の立場を,このようにいくらか原始的かつ非科学的な「良心」という概念で説明せざるをえなかった。  良心の判断/評決の多様性は,その超源が理解される時には,予想されること(予想できること)である。若い頃(青年期の初期)においては,ある種(classes 種類)の行為は是認され,他の種(種類)は否認される。そして,通常の(記憶の)連合の過程によって,快,不快(の感情)は徐々にそれらの行為に付着し,行為によって生み出される是認あるいは否認のそれぞれに対してだけ付着するのではなくなる(訳注:是認には快,否認には不快という感情が付着するだけでなく、個々の行為にもそういった感情が付着する、つまり、個々の行為に対して先入観が形成されていくということ)。時が進むにつれ,我々は若いときの道徳上の鍛錬(moral training 道徳指導,修身)については全て忘れてしまうかも知れないが,いまだ,ある種の行為を居心地悪さを感じる一方,他のものは徳(有徳であること)の紅潮(感)(a glow of virtue)を我々に与えるだろう。内省(という行為)にとって,これらの感情は神秘的なものに思われる。なぜなら,我々は,最初にそれらの感情を生じさせた状況をもはや思い出さないからである。また,従って,それらを,心の内における神の声に帰するのは自然なことである。しかし,大部分の人においては,良心は教育の産物であり,教育者たちが適切だと思うように(思う方向に),肯定あるいは否定のどちらへも訓練可能である。従って,倫理(学)を外的な(形式的な)道徳律から解放することは正しいが,「良心」という観念によっては,ほとんどなしとげることはできない。

Chapter 9: Science and Ethics, n.2
One of the ways in which the need of appealing to external rules of conduct has been avoided has been the belief in “conscience,” which has been especially important in Protestant ethics. It has been supposed that God reveals to each human heart what is right and what is wrong, so that, in order to avoid sin, we have only to listen to the inner voice. There are, however, two difficulties in this theory : first, that conscience says different things to different people ; secondly, that the study of the unconscious has given us an understanding of the mundane causes of conscientious feelings. As to the different deliverances of conscience : George III’s conscience told him that he must not grant Catholic Emancipation, as, if he did, he would have committed perjury in taking the Coronation Oath, but later monarchs have had no such scruples. Conscience leads some to condemn the spoliation of the rich by the poor, as advocated by communists ; and others to condemn exploitation of the poor by the rich, as practised by capitalists. It tells one man that he ought to defend his country in case of invasion, while it tells another that all participation in warfare is wicked. During the War, the authorities, few of whom had studied ethics, found conscience very puzzling, and were led to some curious decisions, such as that a man might have conscientious scruples against fighting himself, but not against working on the fields so as to make possible the conscription of another man. They held also that, while conscience might disapprove of all war, it could not, failing that extreme position, disapprove of the war then in progress . Those who, for whatever reason, thought it wrong to fight, were compelled to state their position in terms of this somewhat primitive and unscientific conception of “conscience.” The diversity in the deliverances of conscience is what is to be expected when its origin is understood. In early youth, certain classes of acts meet with approval, and others with disapproval ; and by the normal process of association, pleasure and discomfort gradually attach themselves to the acts, and not merely to the approval and disapproval respectively produced by them. As time goes on, we may forget all about our early moral training, but we shall still feel uncomfortable about certain kinds of actions, while others will give us a glow of virtue. To introspection, these feelings are mysterious, since we no longer remember the circumstances which originally caused them ; and therefore it is natural to attribute them to the voice of God in the heart. But in fact conscience is a product of education, and can be trained to approve or disapprove, in the great majority of mankind, as educators may see fit. While, therefore, it is right to wish to liberate ethics from external moral rules, this can hardly be satisfactorily achieved by means of the notion of “conscience.”
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 9: Science and Ethics
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ラッセル『宗教と科学』第9章 科学と倫理 n.1

 直前の二つの章で見たように,科学は不充分であることを主張する人々は,科学は「価値」については述べるべき何をも持たない(価値については何も主張できない)という事実に訴える。このことを私は認める。しかし,倫理は科学によっては証明も反証(反駁)もできない真理を含んでいると推論するなら私は同意しない(その意見には反対する)。この問題は,明晰に考えることはまったく容易だということはなく,それに関する私自身の見解は,30年前の私の見解とは全く異なっている(訳注:本書 Religon and Science が出版されたのは1935年)。しかし,もし我々が宇宙の目的(の存在)を支持する議論(論拠/論証のようなもの)を評価(値踏み)しなければならないのなら,そのこと(訳注:倫理は科学によっては証明も反証もできない真理を含んでいるかどうか)を明らかにしておく必要がある。倫理についてはコンセンサス(意見の一致)がないので,以下に述べることは私の個人的な信念であり,科学の言明(公式見解)(the dictum of science)ではないことを理解されなければならない(理解していただく必要がある)。  倫理の研究(倫理学)は,伝統的に言って,2つの部分から成っている。即ち,ひとつは道徳律に関すること),もうひとつは,それ自体(自身)で善なるものに関すること(訳注:他に理由がなくても善なるものに関すること)である。行為の規則(行動規範)はその多くが儀式に起源を持っており,未開人や原始人の生活においては大きな役割を果している。族長の皿から(皿にあるものを)食べることや,仔山羊(子ヤギ)を母ヤギの母乳で煮ることは禁じられている。(また,)神々に生贄(いけにえ)を捧げるように命ぜられるが,それも,一定の成長段階においては,生贄は人間であれば最も神々に喜ばれるものだと考えられる。人や窃盗の禁止のようなその他の道徳律は,もっと明白な社会的効用をもっており,それら(の禁止規則)は,当初結びついていた原始的な神学体系が衰退した後も生き残る(生き残っている)。しかし,人々が内省的になるにつれ,規則にはより重きを置かなくなり,心理状態(人間の気持ち)により重きを置くようになる傾向がある。これは2つの源 - 即ち,哲学と神秘的宗教- に由来する。我々は全て,(キリスト教の)予言者や福音書の章句に通じているが(親しんでいるが),それらの中では,心の清さが,小心な(神の)法の遵守(meticulous observance of the Law)よりも上に置かれている(尊重されている)。そうして,聖パウロの有名な慈悲や愛の讃美は,同じ原則を教えている。同様なことが,キリスト教徒であれ、非キリスト教徒であれ、全ての偉大な神秘主義者の中に見出される。彼らが価値を置くのは心の状態であり,そこから,彼らが主張したように,正しい行為が(結果として)出てこなければならない(注:邪な心から行為してはならない,ということ)。彼らにとって,規則は外的なものであり,環境に充分適応することができないと思われる(のである)。

Chapter 9: Science and Ethics, n.1
Those who maintain the insufficiency of science, as we have seen in the last two chapters, appeal to the fact that science has nothing to say about “values.” This I admit ; but when it is inferred that ethics contains truths which cannot be proved or disproved by science, I disagree. The matter is one on which it is not altogether easy to think clearly, and my own views on it are quite different from what they were thirty years ago. But it is necessary to be clear about it if we are to appraise such arguments as those in support of Cosmic Purpose. As there is no consensus of opinion about ethics, it must be understood that what follows is my personal belief, not the dictum of science. The study of ethics, traditionally, consists of two parts, one concerned with moral rules, the other with what is good on its own account. Rules of conduct, many of which have a ritual origin, play a great part in the lives of savages and primitive peoples. It is forbidden to eat out of the chief’s dish, or to seethe the kid in its mother’s milk ; it is commanded to offer sacrifices to the gods, which, at a certain stage of development, are thought most acceptable if they are human beings. Other moral rules, such as the prohibition of murder and theft, have a more obvious social utility, and survive the decay of the primitive theological systems with which they were originally associated. But as men grow more reflective there is a tendency to lay less stress on rules and more on states of mind. This comes from two sources – philosophy and mystical religion. We are all familiar with passages in the prophets and the gospels, in which purity of heart is set above meticulous observance of the Law ; and St. Paul’s famous praise of charity, or love, teaches the same principle. The same thing will be found in all great mystics, Christian and non-Christian : what they value is a state of mind, out of which, as they hold, right conduct must ensue ; rules seem to them external, and insufficiently adaptable to circumstances.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 9: Science and Ethics
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_09-010.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.24

 今や私は,宇宙の目的に関する議論における最後の問い -即ち,「これまでに起きてきたことは宇宙の善い意図を保障する証拠だろうか?(という問い)」- (をする段階)にやってきている(やってきた)。それ(宇宙の善い意図)を信ずる根拠として主張されていることは,既にこれまで見てきたように,宇宙が「(心を持った)我々人間」を生み出したということである。私はそのことを否定することはできない。しかし,(人類誕生までの)そんなに長いプロローグを正当化するほど,我々はそんなに素晴らしい存在だろうか? 哲学者(たち)は価値(というもの)を強調する。彼らはこう言う。(即ち)我々(人間)は一定の物事を善と考えるし、それらのものは(実際)善であるのでそれらについてそう考えるためには、我々はとても善でなければならない、と哲学者達は主張する。しかし,これは循環した議論である。(これとは違う)他の価値観を持った存在者は,我々(人間)はきわめて残酷な存在であり,その残酷さは我々が悪魔によって鼓舞されている証拠であるほどである,と考えるかも知れない。自分の前に鏡をかざし,宇宙の目的はずっとそれ(人間の誕生)を目指してきたことを証明するほど,自分たちは優れていると考える人間の光景のなかに,ささいで馬鹿げたものはないのだろうか? いずれにせよ,どうしてこれが人間の栄光なのだろうか? ライオンや虎についてはどうだろうか? 彼らは我々人間ほど,動物や人間の生命を滅ぼすことは少ないし,また,人間よりもずっと美しい。蟻についてはどうだろうか? 彼らはいかなるファシストたちよりもずっとよく全体主義国家を管理運営する(訳注:ラッセルは蟻の社会を全体主義国家にたとえている)。ナイチンゲール(サヨナキドリ),ひばり,鹿等の世界は,人類の残酷,不正,戦争(があふれる)社会よりももっと優れてるのではないだろうか? 宇宙の目的(の存在)を信ずる人々は,人間がもっているとされる知性(our supposed intelligence)を重視するが(make much of),彼らの著述は人間の知性について人に疑いをもだせる(their writings make one doubt it)。仮に,私に全能の力及び実験のための数百万年の時間を与えられたとしたら,私の全努力の最終結果として人間(の誕生)を大いに自慢すること(自慢できること)とは,私は考えないであろう。  淀み(backwater 逆流;淀み)の中における興味深い偶然の出来事(a curious accident)としての人間(の出現)は理解できる(intelligible 理解しやすい)。人間の美徳と悪徳との混合(物)は,偶然の起源から生じると予想されるようなものである。しかし、底知れない自己満足(うぬぼれ)(abysmal self-complacency)のみが 全能者(神)が創造主にとっての動機として十分だと考えることができる(ひとつの)理由(a reason)を人間(の誕生)のなかに見ることができる。コペルニクス的革命は,人間を宇宙の目的(の存在)の十分な証拠だと考えている人々の間に今日見出される以上の謙虚さを教えるまでは,その効果はもたないであろう。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.24
I come now to the last question in our discussion of Cosmic Purpose, namely : is what has happened hitherto evidence of the good intentions of the universe? The alleged ground for believing this, as we have seen, is that the universe has produced US. I cannot deny it. But are we really so splendid as to justify such a long prologue? The philosophers lay stress on values ; they say that we think certain things good, and that since these things are good, we must be very good to think them so. But this is a circular argument. A being with other values might think ours so atrocious as to be proof that we were inspired by Satan. Is there not something a trifle absurd in the spectacle of human beings holding a mirror before themselves, and thinking what they behold so excellent as to prove that a Cosmic Purpose must have been aiming at it all along? Why, in any case, this glorification of Man? How about lions and tigers? They destroy fewer animal or human lives than we do, and they are much more beautiful than we are. How about ants? They manage the Corporate State much better than any Fascist. Would not a world of nightingales and larks and deer be better than our human world of cruelty and injustice and war? The believers in Cosmic Purpose make much of our supposed intelligence, but their writings make one doubt it. If I were granted omnipotence, and millions of years to experiment in, I should not think Man much to boast of as the final result of all my efforts. Man, as a curious accident in a backwater, is intelligible : his mixture of virtues and vices is such as might be expected to result from a fortuitous origin. But only abysmal self-complacency can see in Man a reason which Omniscience could consider adequate as a motive for the Creator. The Copernican revolution will not have done its work until it has taught men more modesty than is to be found among those who think Man sufficient evidence of Cosmic Purpose.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-240.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.23

 この(ジーンズの)見解は,公平かつ偏見なしに,科学によって提示された(ものとしての)代替案を述べていると,私は考える。心が唯一の実在であり,天文学の空間と時間(時空)はそれ(心)によって創造されたものであるという(前述の)最後に述べた可能性(について)は,論理的には言うべきことが多くある。しかし -憂鬱な結論(訳注:たとえば人間なんて精密な機械にすぎないという見解)が避けられるという希望のもとに- その見解を採用する人々は,それ(その見解の採用)がどういうこと(結果)を伴うかということについては全く理解(認識)していない。私が直接知っているものは全て私の「心」の一部(部分)であり,私が他の事物の存在(訳注:たとえば他人の存在)に到達するための推論は決して決定的なもの(conclusive)ではない。従って,(理論上)自分の心以外の何ものも存左しないかも知れない。その場合,自分が死ねば世界(宇宙)は(も)消え去るだろう。しかし,もし,私が自分の心以外の心(他人の心)を認めるつもりなら,私は,(他者だけでなく)天文学的宇宙全てを認めなければならない。なぜなら,その両者(他人の心と天文学的宇宙)の事例に置いて,その(存在の)証拠はまったく同等に強力である(訳注:もし一方の証拠が強力なら他方の証拠も同等に強力である)からである(訳注:他者の存在の証拠が強ければ,宇宙の存在の証拠も同等に強い)。従って,ジーンズが最後に取上げている見解は,他人の身体は存在しないけれども他人の心は存在するという心地よい理論ではない(訳注:天文学的宇宙の存在全てを肯定することになるため)。それは,空っぽの宇宙に自分(の心)だけが存在し,自分の豊かな想像力が,人類を発明し,地球の地質時代,太陽,恒星,銀河を作り出したという理論である(訳注:外界は自分の心が創り出したものという理論のため、世界の創造の順序は科学上の理論と正反対になる。) 私の知る限りでは,このよぅな理論に反対する妥当な論理的議論(論証)はまったく存在していない。しかし,心が唯一の実在であるという理論の他の形態のものに反対するものとしては,他人の心が存在するという証拠は他人の身体が存在するという証拠から推論されたものであるという事実をあげることができる(訳注:自分に肉体がなくて思考だけが存在していても自分の思考が存在していると思う「かも」知れないが、他人の心は他人の身体がないと存在していることはわからないといったニュアンス/たとえば誰もいない砂漠にいた場合、自分の目の前に心が存在していることはわからない)。従って,他の人々は,もし心を持つなら身体も持っている。(つまり)自分自身のみが身体をもたない心である可能性はあるが,それは自分自身だけが存在する場合に限る(訳注:他人の心が存在する場合は身体も存在することになるため)。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.23
This, I think, states the alternatives, as presented by science, fairly and without bias. The last possibility, that mind is the only reality, and that the spaces and times of astronomy are created by it, is one for which, logically, there is much to be said. But those who adopt it, in the hope of escaping from depressing conclusions, do not quite realize what it entails. Everything that I know directly is part of my “mind,” and the inferences by which I arrive at the existence of other things are by no means conclusive. It may be, therefore, that nothing exists except my mind. In that case, when I die the universe will go out. But if I am going to admit minds other than my own, I must admit the whole astronomical universe, since the evidence is exactly equally strong in both cases. Jeans’s last alternative, therefore, is not the comfortable theory that other people’s minds exist, though not their bodies ; it is the theory that I am alone in an empty universe, inventing the human race, the geological ages of the earth, the sun and stars and nebulae, out of my own fertile imagination. Against this theory there is, so far as I know, no valid logical argument ; but against any other form of the doctrine that mind is the only reality there is the fact that our evidence for other people’s minds is derived by inference from our evidence for their bodies. Other people, therefore, if they have minds, have bodies ; oneself alone may possibly be a disembodied mind, but only if oneself alone exists.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-230.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.22

(仮に地球が1億年後に消滅するとしても)一億年もあれば,終末への準備をする時間もしばらくあるので,その間に,天文学ロケット打ち上げ技術も両方ともかなり進歩していると期待してよいだろう(訳注:”gunnery” は「砲術」であるが,それでは意味がよくわからないので,宇宙への「ロケット打ち上げ技術」のことを言っていると思われる)。 天文学者(たち)は,(今後1億年以内のうちに)居住可能な惑星を伴った別の恒星(星)を発見しているかも知れないし,ロケット打ち上げ技術者は,光(光速)に近い速さで我々(人間)をその恒星(星)に向って発射できるかも知れない。その場合には(in which case),もし(宇宙船=ロケットの)乗組員が全員若ければ,年取って死ぬ前にその恒星(にある惑星)に到達する者もいるかも知れない(可能性はある)。これは心もとない希望であるが,我々はその機会を無駄にせずに最大限利用しよう(Let us make the best of it)。  けれども -たとえ宇宙を巡回することが最も完璧な科学技術によってなされるとしても- それは(人間の)命を永遠に延長することを可能にしない熱力学の第二法則は,全体的に見ると(on the whole),エネルギーは常により集中した形態から集中度のより低い形態へと移行しつつあり,最後には,それ以上の変化が不可能な形態へと全てのものを移行させてしまうだろうと言っている(告げている)。生命は -たとえそれ以前に死滅しなかったにしても(if not before)- そうした事態が起った時には,死滅せざるをえない。もう一度,ジーンズ(の言葉)を引用するならば,「死すべきものに関してと同様に,宇宙に関しても,その唯一の可能な人生は,墓場への前進(progress)である」(注:人間と同じく宇宙にも終わりは必ずある」と言ったニュアンスか?)。これは,彼を我々のテーマにとても関係の深い(次のような)ある内省へと導く. 「ジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno, 1548-1600:ドミニコ会の修道士。有限と考えられていた宇宙は無限であると主張してコペルニクスの地動説を擁護し,自説を撤回しなかったために火刑に処せられた。)が世界の多元性(注:国家などで複数の人種・宗教・政治信条などが同時に平和的に共存すること/多元的共存)を信じて殉教してから経過してきた三世紀間(に),宇宙に関する我々の考え方はほとんど筆舌に尽くし難いほど(almost beyond description)変化してきたが,しかし(その300年は)生命の宇宙に対する関係について,我々を目に見えるほど(appreciably 認めうるほどに),より理解させるところへ連れてこなかった。我々は,いまだ,どうみても(to all appearances)非常に稀な(希少な)この生命の意味を,ただ推測できるのみである。生命(と)は,全ての創造(作用)が向かって(めがけて)動いてゆく最終的な頂点であろうか? (つまり)幾億年もの間,生物の住まない星(恒星)や星雲で物質の変化がなされ,そうして,不毛の宇宙(空間)で無駄なエネルギー放出がなされ,信じがたいほど贅沢な(extravagant)準備のみがなされてきている最終的な頂点であろうか? あるいは,それ(注:生命現象)は自然の(諸)過程の(中の)単なる偶然かつ恐らく全く重要性のない副産物であり,その自然過程には何らかの他のもっと素晴らしい目的があるのだろうか? あるいは,もっと謙虚な考え方(line of thought)をするために(するべく),我々は,生命を,物質が高温及び高頻度のエネルギー放出能力 -より若くより活力のある物質ならただちに生命を殺してしまうであろう- を失った時に,年取った物質に影響を与える病の性質のようなものとして,見なさなければならないだろうか? あるいは,(逆に)謙虚さをかなぐり捨てて,それ(生命)は唯一の実在であり,(他のものによって)創造されたのでなく,星(恒星)や星雲の巨大な塊やほとんど想像できないほど長い天文学的時間を創造する唯一の実在だと,あえて思うべきだろうか?」

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.22
A million million years gives us some time to prepare for the end, and we may hope that in the meantime both astronomy and gunnery will have made considerable progress. The astronomers may have discovered another star with habitable planets, and the gunners may be able to fire us off to it with a speed approaching that of light, in which case, if the passengers were all young to begin with, some might arrive before dying of old age. It is perhaps a slender hope, but let us make the best of it. Cruising round the universe, however, even if it is done with the most perfect scientific skill, cannot prolong life for ever. The second law of thermodynamics tells us that, on the whole, energy is always passing from more concentrated to less concentrated forms, and that, in the end, it will have all passed into a form in which further change is impossible. When that has happened, if not before, life must cease. To quote Jeans once more, “with universes as with mortals, the only possible life is progress to the grave.” This leads him to certain reflections which are very relevant to our theme : “The three centuries which have elapsed since Giordano Bruno suffered martyrdom for believing in the plurality of worlds have changed our conception of the universe almost beyond description,almost beyond description but they have not brought us appreciably nearer to understanding the relation of life to the universe. We can still only guess as to the meaning of this life which, to all appearances, is so rare. Is it the final climax towards which the whole creation moves, for which the millions of millions of years of transformation of matter in uninhabited stars and nebulae, and of the waste of radiation in desert space, have been only an incredibly extravagant preparation? Or is it a mere accidental and possibly quite unimportant by-product of natural processes, which have some other and more stupendous end in view? Or, to glance at a still more modest line of thought, must we regard it as something of the nature of a disease, which affects matter in its old age when it has lost the high temperature and the capacity for generating high-frequency radiation with which younger and more vigorous matter would at once destroy life? Or, throwing humility aside, shall we venture to imagine that it is the only reality, which creates, instead of being created by, the colossal masses of the stars and nebulae and the almost inconceivably long vistas of astronomical time?”
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-220.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.21

 宇宙の目的一般については,そのいかなる形態のものに置いても,なされるべき二つの批判が存在している。第一に,宇宙の目的(の存在)を信ずる者は,常に,世界は今までと同じ方向に進化し続けるだろうと考える(という批判があり),第二に,彼らは既に起ったことは宇宙の善き意図の現れであると主張する(という批判がある)。これら2つの命題はどちらも疑問の余地がある(be open to question 問題を含んでいる)。  進化の方向(性)に関しては,その論拠(議論)は,主として生命が始まって以降(誕生して以来)この地上(地球)で起こった(全ての)ことから由来している。現在,この地球は(この)宇宙の非常に小さな隅(片隅)に(あるに)すぎず,地球が(地球以外の)他のものの典型であるということは決してないと想定するいろいろな理由がある(typical of ~に特有である、~の特色をよく示している)。ジェームズ・ジーンズは,今日,(地球以外の)他のどこかに生命が存在するか否かは極めて疑わしいと考えている。コペルニクス革命以前は,神の目的は特に地球と関係があると考えることは当然なことであった。しかし,今日ではこの考えはありそうもない(unplausible = implausible もっともらしくない)仮説になっている。もし,心を進化させること(展開させること)が宇宙の目的であるなら,我々はそのような長い期間にこんな少ししか生み出せなかったことを,かなり無能だと見なさなければならない。もちろん,後に(地球以外の)どこかで(地球より)より多くの心が生れることは可能だろうが,その点に関しては,我々はわずかの科学的な証拠も持っていない(jot わずか)。生命が偶然に生れたということは奇妙だと思われるかも知れないが,このように広大な宇宙においては,偶然も起るであろう。  そうして,宇宙の目的は,特に我々の小さな惑星(地球)に関係している(関心を持っている)というかなり奇妙な見解を,たとえ我々が受け容れるとしても,我々はなお神学者たちが言っていることを完全に(quite 全くその通りに)(この)宇宙が意図しているかどうか疑う理由が存在している(訳注:「rather」 の意味はここでは「どちらかというと」や「むしろ」ではなく「かなり」。津田訳では「rather curious view 」を「どちらかというと奇妙な見解」と訳出)。地球は(もし我々が全ての生命を亡ぼすに足るだけの毒ガスを用いるのでなければ),当分の間(for some considerable time)居住可能であろうが,それは永遠にではない。恐らく,我々の周りの大気は,次第に宇宙へと飛び去っていくであろう。(月が原因の)潮汐作業は,地球が常に太陽に向って同じ面を向けるようにさせ(訳注:潮汐作用によって地球の自転速度がほんの少しずつ遅くなっている事実があるため),その結果, 一方の半球は暑すぎるようになり,他方の半球は寒すぎるようになるだろう。(また)恐らく(ホールデン教授の教訓的なお話におけるように),月は(いずれ)地球へと転げ落ちるであろう。もし,これらのことが最初に起らないとしても(If = Even if),どちらにしても,太陽は爆発して -ジーンズによると,その精確な日附はいまだ不確実であるが- 一億年くらい後に起る- 冷たい白色矮星(注:dwarf,= dwarf star 矮星(わいせい):恒星が進化の終末期にとりうる形態の一つで,質量は大きいが、直径は地球と同程度かやや大きいくらいに縮小した非常に高密度の天体/ちなみに津田氏は「冷たい小さな小片」と訳出)となる時には,我々は皆亡びてしまうであろう。
Chapter 8:Cosmic Purpose , n.21
With regard to Cosmic Purpose in general, in whichever of its forms, there are two criticisms to be made. In the first place, those who believe in Cosmic Purpose always think that the world will go on evolving in the same direction as hitherto ; in the second place, they hold that what has already happened is evidence of the good intentions of the universe. Both these propositions are open to question. As to the direction of evolution, the argument is mainly derived from what has happened on this earth since life began. Now this earth is a very small corner of the universe, and there are reasons for supposing it by no means typical of the rest. Sir James Jeans considers it very doubtful whether, at the present time, there is life anywhere else. Before the Copernican revolution, it was natural to suppose that God’s purposes were specially concerned with the earth, but now this has become an unplausible hypothesis. If it is the purpose of the Cosmos to evolve mind, we must regard it as rather incompetent in having produced so little in such a long time. It is, of course, possible that there will be more mind later on somewhere else, but of this we have no jot of scientific evidence. It may seem odd that life should occur by accident, but in such a large universe accidents will happen. And even if we accept the rather curious view that the Cosmic Purpose is specially concerned with our little planet, we still find that there is reason to doubt whether it intends quite what the theologians say it does. The earth (unless we use enough poison gas to destroy all life) is likely to remain habitable for some considerable time, but not for ever. Perhaps our atmosphere will gradually fly off into space ; perhaps the tides will cause the earth to turn always the same face to the sun, so that one hemisphere will be too hot and the other too cold ; perhaps (as in a moral tale by J. B. S. Haldane) the moon will tumble into the earth. If none of these things happen first, we shall in any case be all destroyed when the sun explodes and becomes a cold white dwarf, which, we are told by Jeans, is to happen in about a million million years, though the exact date is still somewhat uncertain.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-210.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.20

 とにかく,この議論(注:神性が将来現われて来ることを擁護するための進化論的議論)は,とても(並外れて)貧弱である。進化には三つの段階 -(即ち)物質,生命,心の三段階- があると主張されている(彼らは主張している)。我々は世界が進化を完了したと考えるべき理由をまったく持たない。従って,後の時代に第四の段階がありそうでる。また,第五段階,第六段階等々があると想定した人も(これまでに)いたであろう。しかし,そうではなく,第四段階(注:神性の発現)で進化は完成される(と彼らは考える)。さて(Now ところで)物質は生命を予見することができず,生命は心を予見することができなかったが,心は -特にそれがパプア人かブッシュマンの心であるなら- ぼんやりと次の段階を予見ができる(と彼らは考える)。このようなことは全て全くのあて推量(the merest guesswork)であることは明らかである。それは真理であるかも知れないが,そう想定する(そのように考える)合理的根拠(理由)はまったくない。現(創発)の哲学が未来は予言できないということは全く正しいが,と言ったあとすぐに,発現(創発)の哲学は未来を予言することに進む。人々は「神」という言葉がこれまで表してきた観念を捨てる(使うのをやめる)よりも,「神」という「言葉」の使用をやめることのほうがもっと気が進まない。発現的(創発的)進化論者たちは,神はこの世界を創造しなかったと信ずるようになり,世界は神を創造しつつあると言うことで満足している。しかし,そのような神は,名称以外には(beyond the name 名称を越えて/名称が同じだけで),ほとんど伝統的な崇拝の対象と共通しているものは有していない。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.18
The argument, in any case, is extraordinarily thin. There have been, it is urged, three stages in evolution ; matter, life, and mind. We have no reason to suppose that the world has finished evolving, and there is therefore likely, at some later date, to be a fourth phase – and a fifth and a sixth and so on, one would have supposed. But no, with the fourth phase evolution is to be complete. Now matter could not have foreseen life, and life could not have foreseen mind, but mind can, dimly, foresee the next stage, particularly if it is the mind of a Papuan or a Bushman. It is obvious that all this is the merest guesswork. It may happen to be true, but there is no rational ground for supposing so. The philosophy of emergence is quite right in saying that the future is unpredictable, but, having said this, it at once proceeds to predict the future. People are more unwilling to give up the word “God” than to give up the idea for which the word has hitherto stood. Emergent evolutionists, having become persuaded that God did not create the world, are content to say that the world is creating God. But beyond the name, such a God has almost nothing in common with the object of traditional worship.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-200.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.19

 多種多様な難点(困難)があるため、発現的進化の哲学(訳注:ベルグソンでは「創造的進化」)は不十分なもの(不満足なもの)になっている。恐らく、その難点のなかの主なものは、決定論から逃れるために,予言は不可能だとしながら、この理論の信奉者たちが将来神が存在するようになることを予言していることであろう。彼ら(発現進化説の信奉者たち)はまさにベルグソンのいう貝の立場にいる(shellfish;shell-fish 甲殻類)。(即ち)貝は、見るということが何であるかを理解していないけれども見ることを欲している(注:貝は目的をもっていないが創造的に進化したいという志向性は持っている,といったところか)。アレキサンダー教授は「神秘的な力を持った(numinous)」と称するある種の経験において我々(人間)は「神性」にぼんやりと気づく(目覚める)と主張する。(また)「そのような経験を特徴づける感情は「我々を恐れさせたり,無力さを支援したりするものについての神秘感であるが、いずれにせよ,それは感覚や内省(reflection)によって知るもの以上のものである」と彼は言う。(訳注:荒地出版社刊の津田訳はこの一文を誤訳している。即ち「the sense of mystery, of something which」の「of something which」は「the sense of mystery」に掛かっていることに見落としている。)彼はこのような感情に重要性を付与する理由をまったく与えていないし(あげてないし),あるいは(また),彼の理論の当然の帰結として、精神的発展がそのような感情を人生においてより大きな要素にする理由もまったく与えていない。人類学者から(は)その正反対(の主張)を推論するであろう(結論を引き出すであろう)。友好的あるいは敵対的な非人間的な力についての神秘感は、文明人の生活におけるよりも未開人(野蛮人)の生活においてずっと大きな役割を演じている。(訳注:この一文も同様の誤訳をしている。)実際,もし宗教がこのような感情と同一視されるべきであるなら、既知の人類の発展における全ての歩みは,宗教の減退を伴ってきたのである(have involved 伴ってきた,巻き込んできた)。このことは、発現的神性(神性が将来現われて来ること)を擁護するために仮定された(想定された)進化論的議論とはほとんど適合しない(fit in with ~に適合する、~にうまく溶け込む)。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.19
Various difficulties make the philosophy of emergent evolution unsatisfactory. Perhaps the chief of these is that, in order to escape from determinism, prediction is made impossible, and yet the adherents of this theory predict the future existence of God. They are exactly in the position of Bergson’s shell-fish, which wants to see although it does not know what seeing is. Professor Alexander maintains that we have a vague awareness of “deity” in some experiences, which he describes as “numinous.” The feeling which characterizes such experiences is, he says, “the sense of mystery, of something which may terrify us or may support us in our helplessness, but at any rate which is other than anything we know by our senses or our reflection.” He gives no reason for attaching importance to this feeling, or for supposing that, as his theory demands, mental development makes it become a larger element in life. From anthropologists one would infer the exact opposite. The sense of mystery, of a friendly or hostile non-human force, plays a far greater part in the life of savages than in that of civilized men. Indeed, if religion is to be identified with this feeling, every step in known human development has involved a diminution of religion. This hardly fits in with the supposed evolutionary argument for an emergent Deity.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-190.HTM

ラッセル『宗教と科学』第8章 宇宙の目的 n.18

 アレキサンダー教授の見解とベルグソンの「創造的進化」との間には,密接な類似性がある(よく似ている)。ベルグソン(Henri-Louis Bergson, 1859-1941:フランスの哲学者。アインシュタインが相対性理論を発表すると,反対の意図で「持続と同時性」という論文を発表)はこう考える(hold that ~と考える)。(即ち)決定論は間違っている,なぜなら,進化の過程において,事前に予言することも,想像することさえもできなかったような全く新しいものが出現するからである。あらゆるものを進化へと駆り立てる神秘的な力が存在している。例えば,見ることができない動物は(も)ある種の神秘的な視力の前兆となるもの( foreboding of sight)を持っており,眼の発達へ導くようなやり方で行動し始める(proceeds to act)。いかなる瞬間においても(常に)何か新しいものが出現するが,過去は決して死滅せずに,記憶の内に保存される。というのは,忘却はただ外見的なものに過ぎないからである。このようにして,世界は常に内容(=世界に存在するもの)においてより豊かになり,いずれとても素晴らしい場所になるだろう。不可欠であることの一つは,過去を振り返ったり(回顧的であったり)静的であったりする知性を避けることである。我々が使わなければならないのは直観(intuition)であり,直観(注:「直感」にあらず)はそれ自身の中に創造的な目新しいものへと駆り立てるものを含んでいる(のである)。  ラマルク(Jean-Baptiste Lamarck, 1744- 1829:19世紀フランスの著名な博物学者で進化論の先駆者であるが,獲得形質の遺伝という,後に誤っていることがわかった説を提唱) を連想させる(reminiscent of ~思わせる),時折起こる断片的な悪しき生物学を超えて(beyond ~の域を超えて),上述のようなことを信ずるための理由が与えられると考えてはならない。ベルグソンは詩人とみなすべきである。彼は,自分自身の原則にもとづき,単なる知性だけに訴えるようなものを全て避けている(のである)。  私はアレキサンダー教授がベルグソンの哲学を全面的に受け容れていると示唆しているのではない。しかし,彼らはその見解を別々に展開させたが,彼らの見解には類似性がある(似ている)。いずれにせよ,彼らの理論は,時間を強調することと,進化の過程において予測できない新規性(新しいもの)が出現すると信じていることにおいて,一致している。

Chapter 8:Cosmic Purpose , n.18
There is a close affinity between Professor Alexander’s views and those of Bergson’s “Creative Evolution.” Bergson holds that determinism is mistaken because, in the course of evolution, genuine novelties emerge, which could not have been predicted in advance, or even imagined. There is a mysterious force which urges everything to evolve. For example, an animal which cannot see has some mystic foreboding of sight, and proceeds to act in a way that leads to the development of eyes. At each moment something new emerges, but the past never dies, being preserved in memory – for forgetting is only apparent. Thus the world is continually growing richer in content, and will in time become quite a nice sort of place. The one essential is to avoid the intellect, which looks backward and is static ; what we must use is intuition, which contains within itself the urge to creative novelty. It must not be supposed that reasons are given for believing all this, beyond occasional bits of bad biology, reminiscent of Lamarck. Bergson is to be regarded as a poet, and on his own principles avoids everything that might appeal to the mere intellect. I do not suggest that Professor Alexander accepts Bergson’s philosophy in its entirety, but there is a similarity in their views, though they have developed them independently. In any case, their theories agree in emphasizing time, and in the belief that, in the course of evolution, unpredictable novelties emerge.
 出典:Religion and Science, 1935, chapt. 8: Cosmic Purpose  
 情報源:https://russell-j.com/beginner/RS1935_08-180.HTM