論理的推論力よりも愛国的感情の方が強い人

Japan’s Prime Minister Shinzo Abe, center, and his cabinet ministers, escorted by a Shinto priest, arrive at the Grand Shrine of Ise, central Japan, for offering a new year’s prayer Monday, Jan. 5, 2015. Japanese Prime Minister Abe said Monday that his government would express remorse for World War II on the 70th anniversary of its end in August. (AP Photo/Kyodo News) JAPAN OUT, MANDATORY CREDIT

そして戦争の絶滅なしでは,文明は存続しえない。論理的推論力よりも愛国的感情の方が強い人にとっては,これは苦しいジレンマであるが,戦争廃絶の必要性が知的に理解されなければ,事態の進展によって,悲惨に立証されるであろう。
(注:本エッセイは1930年代初めに執筆されたものであり,「事態の進展(第二次世界大戦)により,ラッセルの警告は立証された。)

And if war is not abolished, civilization cannot survive. This is a painful dilemma for those whose patriotic feelings are stronger than their reasoning powers, but if it is not apprehended intellectually it will be disastrously proved by the march of events.
出典: Right and Might (written in early of 1930s and pub. in 1975 in Mortals and Others, v.1, 1975.]
詳細情報:http://russell-j.com/SEIGI.HTM

<寸言>
国民の生命を守る,というのならよいが,領土を「絶対に」守ると勇ましいことを言う政治家には注意が必要。領土については国によって考え方が違う以上,たとえ自分たちの主張が正しいとしても、「絶対に」という言葉(表現)で酔ってはいけない。本当に「絶対に」ということであれば戦争も辞さないということになり,最初は小競り合いだったものが,エスカレートしていき,非難合戦終始することになる。政治家とともに「愛国心」に燃えた国民も同調し,政治家は国民の支持があるということで、なかなかひけなくなってしまう。

「アメリカ,ファースト」,「世界は,セカンド」。

 しかし,戦争には反対であるが,各国政府が紛争時において自己の立場の最終的判定者である現在のシステムに賛成であるという意見には,いかなる論理の見せかけすらないことは確かである。もしも戦争が永久に廃絶されるべきであるならば,抵抗できない軍事力を備えた国際的な政府の樹立以外には不可能であろう。

But you cannot say, with any semblance of logic, that you are against war but in favour of the present system, according to which, in a dispute, every government is the ultimate judge in its own case. If war is ever abolished, it will have to be by the establishment of an international government possessed of irresistible armed forces.
出典: Right and Might (written in early of 1930s and pub. in 1975 in Mortals and Others, v.1, 1975.]
詳細情報:http://russell-j.com/SEIGI.HTM

<寸言>
「アメリカ、ファースト」を唱えるトランプは、いかなる小国も自国ファーストを唱える権利があると言っているのであろうか? そうであれば、小国は自国ファーストは実際上不可能であることから、弱肉強食になるだけであり、世界は紛争、悪ければ第三次世界大戦が起こりかねない。そうでないとしたら、つまり、自国やソ連など大国は自国ファーストを唱えてよいが、それ以外は自国セカンドであるべきだと言っているのであろう。
日本は? トランプの気持ちは、対米関係においては、アメリカ、ファーストであり、日本はセカンドに徹しろ、ということであろう。

ヘイトスピーチをヘイトスピーチだと思わない人々

 我々の時代には、我々が野蛮な過去から引継いだ非合理な要素を讃美する傾向がある。しかし、我々はこの種の要素を科学技術と結びつけることができない。本気で非合理的要素を称賛する人々は、産業主義を放棄し、国民の90%を餓死させ、弓矢の昔にもどるべきである。このような代替案に直面したくなければ、自然力の支配(面)における文明化だけでなく、自らの感情(面)においても文明化しなければならない

There is in our time a tendency to exalt the elements of unreason which we have inherited from our barbarous past; but we cannot combine these elements with scientific technique. Those who praise them should give up industrialism, let ninetenths of our population die of hunger, and revert to bows and arrows. If they will not face this alternative, they must become civilised in their passions, not only in their command over natural forces
出典:Bertrand Russell: Is progress assured?,  In: Mortals and Others, v.1 (1975)
詳細情報:http://russell-j.com/PROGRESS.HTM

<寸言>
文化的な愛国心であれば実害はほとんどないが,政治的な愛国心は非常に危険。

文化的愛国心は,自国の文化がすぐれていて親しみやすいものであれば,若者に「吹き込む」必要はない。国家が吹き込みたいのは、文化的愛国心よりも、国家(支配層・保守層・既得権益者)のために,自らを犠牲にして尽くす人間をたくさん生み出すこと。

第二次世界大戦での日本人の死者は310万人とし、為政者は「尊い犠牲を無駄にしてはいけない」と繰り返し言うが、それでは,中国人1,000万人の犠牲者の大部分は中国国内での内戦で死んだとでも言うのであろうか? 日本人は第二次世界大戦で外国人をどれだけ殺したであろうか? 310万以上であることは疑えないであろう。もしそうでないとしたら、どこの国の人間が殺した(あるいはみんな自殺した)というのであろうか?
南京事件はなかったとか,日本軍が殺した南京市民は数万人にすぎない(あるいは南京事件そのものがでっちあげで存在していない)とか、南京事件を世界記憶遺産に承認したUNESCOには拠出金を出すのをやめるべきだとか・・・。

中国や韓国であろうと、ソ連であろうと、どこの国であろうと,UNESCOを政治的に利用すべきではない。また,UNESCOへの拠出金と結びつけるべきではないだろう。

知性よりも激情に従うほうが楽なので・・・

 ほとんどの人は自分の知性よりも激情に従う方が楽だと考える。しかし,もしもその罰としての結果が飢餓であれば,我々(彼らも)もやがては合理的であることを受け入れるであろう普遍的繁栄の条件は極めて単純で周知のことであるが,それには我々のものの感じ方の習慣の変更が必要である。それゆえ,世界大恐慌の教訓が人間の心の奥底に深く沈殿した時(例:1929年世界大恐慌直後)にのみ,採用されることだろう。

Most people find it pleasanter to follow their passions rather than their intelligence, but when the penalty is starvation, they will, in the long run, submit to being reasonable. The conditions of universal prosperity are quite simple and well known, but they involve changes in our habits of feeling, and will, therefore, only be adopted when the lessons of the Depression have sunk deep into men’s minds.
出典:Bertrand Russell: The consolations of history, Feb. 22 1933. In: Mortals and Others, v.1 (1975)
詳細情報:http://russell-j.com/REK-NAGU.HTM

<寸言>
リーマン・ショックサブプライムローンの破綻など,米国では数年に1度,大きな経済破綻が起こることが当たり前のことになってしまっている。景気が一見よいように見えて,ある日突然歯車が狂って,経済恐慌が起こってしまう

次は中国のバブルが崩壊するのではないかと言われている。現在の中国経済は世界経済にしっかり組み込まれているので,中国バブルがはじけた場合には,リーマン・ショックどころではない影響が世界中に及ぶと言われている。
しかし人々はうっすら不安をかかえながらも,実体経済がそれほどよくないのに(また実質賃金が減り続けているのに)、株があがったと喜び,今のうちに株で儲けよう,バブルがはじける直前に売り抜けようと,浅ましい気持ちで株価の変動に一喜一憂している。政府も自作自演で株価を高騰に導こうと,博打的な手を打ち(政府から独立しているはずの日銀やなどを介し,またGPIFが巨額の年金資金を株の購入に費やし),国民をごまかそうとしている。・・・。

「歴史の慰め」

 子供は自分が不幸な間は,彼の視界全体が現在の悲惨事で一杯になり,自分の過去と未来の人生は霧にかすんでしまう。(しかし)我々は,成人するにつれて,(たとえば)歯が痛くなってもそれは永久に続かないという経験を思い出すことができるようになる。我々は,自分の過去の経験から引き出すこの種の慰めと同種のものを,もっと大規模に人類の過去の歴史から引き出すことができる。今日の世界の状態はかなり悪いため,歴史の知識のない人間は,過去にこれほど酷い状態にあった時代はなかっただろう思いがちである。

When a child is unhappy, his whole horison is bounded by his misery, and the earlier and later times of his own life become dim. As we grow older we become able to remember when we have the toothache that it will not last for ever. The same kind of comfort which we thus derive from our own past experience can be derived in even greater measure from the past history of mankind. The world is in a bad way at present, and those who know no history are inclined to suppose that it has never been in such a state before.
出典:Bertrand Russell: The consolations of history, Feb. 22 1933. In: Mortals and Others, v.1 (1975)
詳細情報:http://russell-j.com/REK-NAGU.HTM

<寸言>
 また数年のうちにバブルが世界のどこかで弾けるように思われる。アベノミクスが失敗すれば(失敗したということが明らかになれば),「想定外」のことが起こったためと,また外部要因のせいにするであろう。いや,それはバブル崩壊ではなく,南海トラフ大地震であったり,富士山の大噴火であったり,東京(関東)直下型大地震であったりするかも知れない。それらの大災害が発生した時,オリンピック熱で大災害のことを考えないようにしてきた国民は・・・?

万人のための安心安全(安定)

 安心安全(安定),それが社会的不正を伴わぬ場合にのみ美徳となる。従って,単に恵まれた少数者のためではなく,万人のための安心安全(安定)がなければならない。これは実現可能であるが,現在の競争社会が存続する限りは不可能である。

Security would be good if it were not accompanied by injustice; there should, therefore, be security for all and not only for a fortunate few. This is possible, but not while the present competitive system survives.
出典:Bertrand Russell: On economic security, July 1, 1932. In: Mortals and Others, v.1 (1975)
詳細情報:https://russell-j.com/ESECRITY.HTM

<寸言>
自分たちの利益や権力欲が中心であっても,国民のため,国民の生命を守るため,世界平和のため、などと連呼しても、むなしくひびく。
しかし,そういった言葉を余り疑問をもたずに,受け入れている国民が多すぎるように思われるが・・・?

礼儀正しく接するのは同じ階層の相手に対してだけ?

 しかし,この18世紀の洗練された社交界の表面下をほんの少しでも見通してみると,別の光景が現れてくる。同じ階級内の交際に関しては洗練され,礼儀正しいこれらの人々も,他の階級に対しては,民主主義の今日では考えられないほど冷酷であった。

But when one penetrates ever so little below the surface of the polished societies of the eighteenth century, another side of the picture presents itself. These men, so urbane, so polite, so civilised in their dealings within their own class, were toward other classes ruthless to a degree which democracy has now rendered impossible.
出典:Bertrand Russell: On economic security, July 1, 1932. In: Mortals and Others, v.1 (1975)
詳細情報:https://russell-j.com/ESECRITY.HTM

<寸言>
民主主義の今日では考えられないほど冷酷であった」と「過去形」になっているが、それは現在ではなくなっているということではない。
過去においては、身分の高い者が身分の低いものを見下す態度をとっても「公的に」非難されることはほとんどなかったが、現在ではそのようなことをすれば、へたをすれば公的な地位を失ういことになりかねない。だから、表向きは(言葉の上では)丁寧な言葉を使っている者がほとんどであるが、私的な場面になると本音がでて、貧しいものや地位の低いものを見下すような言葉を吐いている者がけっこういる。
そういった人間も、言葉の上だけは、「国民のために」,「国民の命を守るために」,「国益のために」,「可及的すみやかに」,「真摯にうけとめ」等々、お守り言葉を連発する。そういった言葉に騙されて、見識も品性も劣る人間を選挙でいっぱい選んでいる国民も少なくないのであるから、自業自得という面もあるが・・・?

自信過剰で自分の誤りをほとんど認めようとしない人々

 ある種の幸運な人々は,大きな事柄であろうと小さな事柄であろうと,自分が間違っているという感覚をまったく持たない(経験しない)。私はかつてある著名な淑女に向かって,あなたは恥ずかしさを感じたことがあるか尋ねた時のことを覚えている。彼女はその時次のように答えた。

「いいえ,私が少しでもそのように感じるときには,私は自分にこう言います。『あなた(注:自分のこと)は,世界中で最も聡明な国民の中の,最も聡明な階級に属する,最も聡明な家系の中の,最も聡明な一ではないですか。そのあなたがどうして恥ずかしく感じることがありましょう』」
(訳注:これを言ったのはフェビアン協会のベアトリス・ウェッブであるが,この逸話は,『ラッセル自伝』の第4章「婚約時代」の一節に再度引用されている。)
この返事を聞いて,私は畏敬と羨望を感じた。(注:もちろん,半分皮肉です。)

Some fortunate people never experience the sense of being in the wrong, either in great matters or in small. I remember once asking an eminent lady whether she had ever felt shy. She replied: ‘No. Whenever I have felt any tendency that way, I have said to myself “You are the cleverest member of one of the cleverest families of the cleverest class of the cleverest nation in the world – why should you feel shy ?” ‘ I heard this answer with awe and envy.
出典:Bertrand Russell: On Feeling Ashamed, Nov. 23, 1932. In: Mortals and Others, v.1 (1975)
詳細情報:https://russell-j.com/ASHAMED.HTM

<寸言>
トランプ安倍総理を始め,自信過剰で自分の誤りをほとんど認めようとしない政治家が再び増えてきました。もちろん,それは自信過剰な国民が増えたことの反映であるかも知れません。そういった時代には自国の意志を(自国より軍事力がおとる)他国に押し付けることが少なくなく、弱い国としても(「愛国心」から)反発せざるを得ず、戦争や大きな武力衝突が起こりがちです。

「後悔」というのは社会的な現象-知られることがなければ・・・

Dog chewing up toilet paper in kitchen. CREDIT: Robert Daly/Getty Images

私が昔読んだ小説で,それぞれ以前に大きな罪を犯した男女が互いに相手の過去を知らないまま結婚し,そのうちに,自分が結婚した相手がどういった人物であるか知って,両者とも心からの苦痛を感ずるに至る,というのがあった。★後悔★(自責の念)というのは社会的な現象であり,我々が行った何らかのことが原因で,もはや他の人々に自分のことを好意的に見てもらえなくなった時に,この感情は生ずる。

I read a novel once in which a man and woman, who had both committed serious crimes, married each other in ignorance of each other’s past and were both genuinely pained when they discovered the sort of person they had married. I think remorse is essentially a social phenomenon which occurs when we realise (realize) that, owing to something we have done, we cannot make other people take the favourable view of ourselves that we should wish them to entertain.
出典:Bertrand Russell: On Feeling Ashamed, Nov. 23, 1932. In: Mortals and Others, v.1 (1975)
詳細情報:https://russell-j.com/ASHAMED.HTM

<寸言>
昔の歌に「(私の過去を)知りすぎたのね・・・あまりにもあなたは,知りすぎたのね・・・」というのがあったが・・・。
https://www.youtube.com/watch?v=hofOncySsrw
https://youtu.be/hofOncySsrw

満腹時にはご馳走も・・・ 

 私は,自分がディナーの約束を忘れ,(自宅で・自前の)ディナーを丁度食べ終わるやいなやその約束を思い出した時のことを,今でも罪悪感とともに思い出す。私は慌てて駆けつけ,かなり遅刻して到着し,二度目のディナーを食べようとしたが,非常に苦しい拷問であった。(写真:イレーヌ・ジョリオ=キュリーと/1950年ノーベル文学賞受賞時)

I still remember with a profound sense of guilt an occasion on which I forgot a dinner engagement and remembered just as I had finished my own dinner. I rushed round, arriving very late, and tried to eat a second dinner, which I found to be an agonising torture.
出典:Bertrand Russell: On Feeling Ashamed, Nov. 23, 1932. In: Mortals and Others, v.1 (1975)
詳細情報:https://russell-j.com/ASHAMED.HTM

<寸言>
大食いの人(大食漢)だったら平気でしょうが・・・。

2022年はラッセル生誕150年