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上野正道『学校の公共性と民主主義−デューイの美的経験論へ』(東京大学出版会、2010年3月刊)

* 上野正道(1974〜 ):現在、大東文化大学文学部専任講師。教育学博士。
* 本書は、博士論文を刊行したもの。


[pp.316-322:1940年の教育の公共性をめぐる到達点
  (1)バートランド・ラッセル事件]
(p.316) 一九四〇年になると、教育と公共性に関するデューイ(John Dewey,1859-1952:米国の教育哲学者)の関心は、新たな難問に直面することになる。それは、民主主義の危機という焦眉の問題である。当時の世界情勢は、ファシズムナチズムが進出し、すでに高度の緊張を孕んでいた。一九三九年九月一日、ナチスドイツがポーランドに侵攻し、二日後の九月三日にはイギリスとフランスがドイツに宣戦布告したことで、不穏な徴侯は現実のものとなった。ドイツ軍の侵攻はヨーロッパ諸国の広域を覆った。一九四〇年六月にはパリが陥落し、ヒトラーがパリに入った。こうした国際情勢の緊張の高揚は、アメリカ社会を震憾させた。当初、ローズヴェルト政権は、第一次世界大戦時に見られた類の民主主義と権利の蹂躙と市民的自由抑圧の轍を踏むべきでないと強調していた。だが、世界大戦への突入を前に、アメリカ社会は保守的な論調に溢れていた。とりわけ顕著な傾向を示したのは大学や学校に対する圧力であり、教育機関は一触即発の事態を迎えていた。
 そのひとつは、バートランド・ラッセル事件において表面化した。事件は、一九四〇年二月、シカゴ大学とカリフォルニア大学の客員教授として訪米中であったラッセルを、ニューヨーク高等教育委員会(New York's Board of Higher Education)がニューヨーク市立大学(College of the City of New York)の哲学教授に招聘するプランを発表したことを受けて勃発した。ラッセルは、論理学や数学、哲学の分野で名声を博していたばかりでなく、『社会改造の原理』(一九一六年)、『結婚と道徳』(一九二九年)、『幸福の獲得』(一九三〇年)などの著書を出版して、真実に生きるための恋愛、結婚、離婚の自由に関する主題についても頻繁に論じていた。ところが、宗教的権威が強く作用し、因習的な結婚観が支配しがちな当時の時代状況において、恋愛や結婚に関するラッセルの考え方は、斬新で衝撃的な内容を伴うものであった。まず、キリスト教界がニューヨーク高等教育委員会の決定に対する非難と攻撃を開始した。ニューヨーク聖公会司教のウィリアム・マニング(William T. Manning, 1766-1949)は、ラッセルを姦通の容認者であり、宗教を破壊し道徳を撹乱する者だと公然と非難した。これによって、カトリック、プロテスタント、ユダヤ系、アイルランド系を中心に、ラッセルヘの激しい攻撃が展開され、任命撤回を求める反対運動がアメリカ全土に波及した。
 反ラッセルの奔流は、女子学生を娘に持つ母親でカトリック教徒のジーン・ケイ(Jean Kay)がニューヨーク最高裁判所(New York Supreme Court)にニューヨーク高等教育委員会を相手に告訴し法廷に持ち込まれたことで、頂点に達した。ニューヨーク最高裁判所のジャン・マックギーン裁判長(John E. McGeehan, 1880-1968)は、原告の主張の正当性を認め、ラッセルの任命撤回の判決を下した。その判決の根拠になったのは、婚前性交や婚外性交、裸体に関するラッセルの見識が淫乱かつ猥雑なものであり、大学で彼が教鞭を執るのは学問の品位を汚しかねない、道徳的に著しく不適切なことであるというものであった。彼の市立大学への任用は、ニューヨーク市民に対する侮蔑を意味すると解釈された。だが、裁判の実態は、マックギーン裁判長自身がアイルランド系のカトリック教徒であり、ニューヨーク市当局もカトリックの影響を強く受けていたことから、利害関係の一致したある種の裏取引のような危うさを曝していた。ラッセルは、アメリカの情勢に愕然(がくぜん)とした。背筋が凍りつく想いで判決を聞いたラッセルは、控訴を求めたが要求は却下され、市立大学への彼の任用は反対勢力によって阻止されることになった
 一方で、ラッセル事件に対しては、彼を支持する活動もまた熱心に行われ、任命の正当性を訴え出る動きが活発に見られた。ラッセルと親交のあったデューイは、早くから鋭敏に反応し任命を擁護する中心的な役割を果たした・デューイのほかにも、アインシュタイン、ロバート・ハッチンス、ホワイトヘッド、ホーレス・カレン、アルバート・バーンズ、ドイツの小説家トマス・マン(Thomas Mann, 1875-1955)、イギリスの小説家オルダス・ハクスレー(Aldous Huxley, 1894-1963)などが支持を表明した。また、大学関係の連盟や哲学関連の学会、ニューヨーク市立大学の学生や教員たちも、ラッセルの任命を支持した。彼らの主張の要点は、外部からの政治的、宗教的干渉への異議申し立てであり、その抑圧から教育の自由と大学の自治を保護することにあった。外的な圧力に教育の自由が屈従し、学問が沈黙させられることは、許容できないものであった。
 一九四〇年六月一五日の『ネーション』第一五〇号に、デューイは、批判の只中にあったラッセルを擁護する論考を寄せた。彼は、ラッセル事件について二つの問題を提起している。第一は、ニューヨーク州法に従って設立された行政委員会の行為を覆し無効化する裁判所の法的権威に関わる事柄であり、第二は、「社会的に非常に重要な問題について論じた著作の内容を高等教育機関で教授する「権限」を「著者」から剥奪できるのかどうかという問題である。彼(デューイ)は、第一の点に関して、裁判所がこうした「権力」を持つと仮定するならば、教育行政機関は「権力」だけでなく「責任」も剥奪されることになるであろうし、第二の点について、マックギーン裁判長の判決を支持するとすれば、教授内容(注:ラッセルが教えるのはあくまでも理論哲学)の専門性と直接関係しない主題について、「大学教員の口を封じる」ことになるであろうと非難している。さらに問題なのは、ラッセル氏が実際に何を主張したのか、そしてどのような真意でもって彼が主張したのか」という「疑問」について、適切な調査や接近がなされていないことであった。デューイによれば、「新しい性的倫理」に関するラッセルの議論は成功していて、その「真意」は「重要なもの」であると認識されている。デューイが尊重したのは、学問の自由であり、思想と言論と表現の自由であり、教育の自治に関する権限の問題であった。彼は、個人的にはラッセルの哲学に対して「賛同する」面がある一方で、「社会的、道徳的主題」よりも「数学」を重視するラッセルの「論理学」には「賛同できないものがあると認めながらも、だからといって、そうした「結論の相違」は「相手を不利な立場に追いやる理由にはならない」と強調している。彼によれば、「結論の相違」は、「排除される」のではなく、「公共的な議論(public discussion)」へと発展させられるべきである。この意味で、デューイは、「排除されるべき唯一のものは、議論を禁ずるドグマティズムと不寛容である」と考えるのである。
 一九四一年には、デューイとカレンの編著で、『バートランド・ラッセル事件』が出版された。執筆に貢献(→寄稿)したのは、デューイ、カレン、バーンズ、フックなど、一〇名の研究者たちであった。同書の「序」を執筆したデューイによれば、出版の企画を立案したのはバーンズであった。バーンズは、メリオンのバーンズ財団でラッセルを西洋哲学の講師として雇用する関係にあった。ラッセルをバーンズに引き合わせたのは、デューイであった。デューイの「序」は、バーンズ財団でのラッセルの講義が、それを聴いたすべての出席者たちを満足させるものであったと伝えている。また、バーンズは、ニェーヨーク最高裁判所のラッセル事件の判決に対して、「宗教的寛容と知性的自由」を求めて闘うだけでは納得せず、事件に関わる「公的な記録」を残すべきであると考えていた。デューイは、書物の公刊がそうしたバーンズの提案によって実現したものであると述べている。一方で、出版に貢献した著者の選出は、バーンズではなく、文化的自由のための委員会の代表者たちが行った。バーンズはまた、著者たちに主張すべき内容 の提案や助言をすることもなく、同書が「異なる哲学的、社会的立場」のうえに成り立つことを受けいれていた。デューイは、バーンズのこうした姿勢を高く評価していた。というのも、この著書の出版意図は、言論の弾圧や強制に関わる「全体主義のある側面と範囲」に対する「オルタナティブ」としての「知性の方法、科学的方法」を提示する ことにあったからだ。
 バーンズば「前文」を執筆した。バーンズは、ラッセルの「弁明」や「学問の自由」の保護が目的なのではなく、同書は「事件の事実に対する探究の記録にすぎない」と見ていた。彼によれば、裁判では「民主主義もラッセルもみずからを弁護する声をあげる機会を与えられなかった」し、それは「英知、正義、公共の福祉に関するひとつのパロディ」であったとされている。バーンズは、「危機にある」のは、「民主主義の活力源」であり、「独裁者の専制的行為から解放されたあらゆる個人の権利」であると主張した。デューイは、ラッセル事件が「ラッセル氏個人に対する不正義」や「彼が提示した特定の見解の長所と短所という問題」を超えて、その根底にある問いは一八五七年に黒人の市民権否認の判決を下した「ドレッド・スコット事件(Dred Scott Case)」に匹敵するほどの重大な分岐点になるものだととらえている。そして、「科学的方法」と「公共的責任の感覚」を伴った、「道徳問題に対する公共的な議論の社会的重要性への信念」を喚起し、「人間の精神の自由と民主主義的な生き方」を確立することの必要性を訴えた。デューイはまた、「社会的現実対政治法廷の虚構」という章を執筆し、性や結婚に関わるラッセルの記述を彼の著書から引用して綿密に分析した。彼によれば、重要なのは、「ラッセル氏の特定の見解の正しさや分別」ではなく、「性と結婚に関わる公共的な議論の分別か無分別か」という問題であると認識されている。デューイは、マックギーン裁判長の判決がラッセルヘの侮蔑的な内容を含む「政治法廷の虚構」により作りあげられたものだと確信していた。
 カレンもまた、「バートランド・ラッセル事件の裏側」と題する文章を掲載した。彼が「事件の裏側」として注目するのは、判決に対する宗教的な力の背景であった。カレンは、ラッセルヘの「攻撃」を展開したのが、「科学者」ではなく、「教会の人間」であった点に目を向けている。そして、マックギーン裁判長や原告のケイ夫人をはじめ、 裁判がカトリックと教会関係者で固められたことの策謀を批判した。カレンに従えば、大学や学校という場所は、「民主主義のなかで機会が適切に保障される場所」であり、「新しい考え方を自由に、最小限の社会的リスクと最大限の社会的利益をもってして勉強できる」空間であり、「綿密かつ自由に吟味できる」空間であるととらえられている。彼は、こうした民主主義の根本原理が毀損され反故にされたことがラッセル事件の悲劇であったと考えていた。バーンズとデューイは、ラッセル事件に対する教条的な解釈や見解の強制を徹底して回避し、学問的知見と社会的事実にもとづいた真実の探究を目指した。一九二〇年代から三〇年代にかけて、フィラデルフィアを舞台に芸術教育の改革を担ってきたバーンズの実践は、一九四〇年のラッセル事件をめぐって包括的な形で展開されることになった。ラッセルは、後年、絶望の淵に追いやられたみずからのアメリカ生活を回顧して、事件の最中にバーンズ財団の講師として雇用されたときの記憶を次のように綴っている。
たくさんの進歩的な考えの教授たちが抗議をしてくれた。けれども彼らはことごとく、わたくしが伯爵だから、遺産をもっていて、裕福に暮らしているにちがいないと想っているのだった。ただ一人だけが、実際にことを運んでくれた。それはバーンズ博士であった。・・・彼はわたくしに、その[バーンズ]財団で哲学の講師をするよう五年間の契約を与えてくれた。これがわたくしを非常に大きな不安から救ってくれたのである。彼がこの約束をしてくれるまでは、当面の難渋をどう切り抜けたらいいか、わたくしにはわからなかったのである。わたくしは英国から金を取り寄せることが出来なかったし、さればといって英国に帰ることも不可能であった。たとえもし、三人の子供たちを英国にかえすための乗船券を入手することが出来たとしても、電撃戦の行われているさ中にかえしてやる気には、わたくしはどうしてもなれなかったのである。またその切符そのものも、たとえ買えるとしても実際に手に入れるのには長いことかかったにちがいないと思う。それやこれやで、ジョーンとケートを大学から退学させ、親切な友人たちの慈悲にすがって、出来るだけ切り詰めた生活をすることが必要であるように思われた。こうした矢先に、わたくしは、バーンズ博士によって窮境から救われたのである。
 ラッセル事件をめぐって、デューイとバーンズは協調して行動した。恋愛、結婚、離婚についてのラッセルの見識は、学問の道徳性に関わる穏やかな黙約を打ち破り、市民の社会生活の安寧を脅かすというスティグマ(注:他者や社会集団によって個人に押し付けられた負の表象・烙印/ネガティブな意味のレッテル)を負わされ、唾棄されて然るべき内容のように扱われた。ラッセルヘの攻撃は、緊迫した社会情勢を前にくすぶる市民たちの不安を代弁していた。これによって、ラッセルは、ニューヨーク市立大学への任用を妨げられることになった。一方で、デューイ、バーンズ、カレン、フックらは、裁判の不当性を主張し続けた。彼らが危倶したのは、恐怖に支配された市民が批判的な思考と判断を喪失し、正義が損壊していくことであった。それは、茫漠とした思考停止状況を招くことによって、均質的な空間のなかに他者が溶解し、異質な主張や考え方が除去され消滅していく事態を意味していた。これに対して、デューイは、民主主義の政治と倫理を尊重し、閉域のない開かれた公共性の樹立を志向して、ラッセルを援護したのである。