1939/1940学年度(1939.9~1940.6)の終わり頃,ニューヨーク市立大学教授になるよう招聘された。この事は既に決定されているように思われた。そこで,私はカリフォルニア大学の学長宛に辞職届けを書いて提出した。学長が私の手紙を受け取って30分後に,ニューヨーク市立大学教授に私が任命されるということはまだ(最終的に)決定されたものでないということがわかった。そこで私は,辞表の撤回を学長に頼んだ。しかし彼はもう遅すぎると言った。熱心なクリスチャンの納税者たちが,自分たちが納めた税金を不信心者の給料にあててはいけないといって抗議している時だったので,学長は私(という厄介者)から逃れられるのを喜んだ。
ニューヨーク市立大学は,ニューヨーク市庁が運営管理している学校であった。通学している学生たちは,ほとんど全てカトリック教徒かさもなければユダヤ人だった。だがカトリック教徒にとって残念なことに,奨学金の大部分は(優秀な)ユダヤ人に支給されていた。ニューヨーク市庁は,事実上ヴァチカン(ローマ法王庁)の衛星都市的存在であったが,ニューヨーク市立大学の教授たちは,’学問の自由’の体裁をなんとか保とうと熱心に戦っていた。彼らが私を推薦したのも,その目的をとげようとしてであることは疑いなかった。
聖公会のある司教がそそのかされて私の就任に反対の抗議をした。そうして(それを受け),司祭たち(牧師たち)は私がニューヨーク市の犯罪の発生に対して責任があると言って,警察に説法した。警察官はほぼ全員がアイルランド系のカトリック信者であった。私とはまったく関係のない学科に在学中の娘をもっているある女性が -私が市立大学の教授に就任することは娘の徳育上危険だと説得されて,訴訟を起こした。これは,私に対する訴訟ではなく,ニューヨーク市当局を相手どってなされたものであった。
(ラッセル注:この訴訟に関する情報は,1941年,ホーレース・M・カレン編,ヴァイキング・プレス版の『バートランド・ラッセル事件』の中に見られる。さらにまた,1957年,ポール・エドワード編,アレン・アンド・アンウィン社版の『わたくしは何故クリスチャンでないか』の付録の中に見られる)
私はこの訴訟について,当事者(の一人)になれるように努力したが,’私には関係ない’と言われた。市当局は,名目上は被告であったが,原告の女性が訴訟に勝つことを熱望していたと同程度に,敗訴したいと望んでいた。原告(起訴)側の弁護士は,私の著書(注:Marriage and Morals, 1930/邦訳書『ラッセル結婚論』)を「好色,扇情的,多淫,性欲を促す,色情狂,催淫,不敬,狭量,虚偽,道徳性喪失」の書であると断言した。この訴訟の裁判官はアイルランド人であり,ついには,罵言をあびせながら私に不利な判決を下した。私は控訴を希望したが,ニューヨーク市当局は控訴することを拒絶した。私を攻撃する目的で言われたことのなかには,全く滑稽千万なものもいくつかあった。たとえば,私は幼児が自慰行為をしてもそれを罰すべきではないなどと言うような不道徳な人間である,とされた。
Towards the end of the academic year 1939-1940, I was invited to become a professor at the College of the City of New York. The matter appeared to be settled, and I wrote to the President of the University of California to resign my post there. Half an hour after he received my letter, I learned that the appointment in New York was not definitive and I called upon the President to withdraw my resignation, but he told me it was too late. Earnest Christian taxpayers had been protesting against having to contribute to the salary of an infidel, and the President was glad to be quit of me.
The College of the City of New York was an institution run by the City Government. Those who attended it were practically all Catholics or Jews; but to the indignation of the former, practically all the scholarships went to the latter. The Government of New York City was virtually a satellite of the Vatican, but the professors at the City College strove ardently to keep up some semblance of academic freedom. It was no doubt in pursuit of this aim that they had recommended me. An Anglican bishop was incited to protest against me, and priests lectured the police, who were practically all Irish Catholics, on my responsibility for the local criminals. A lady, whose daughter attended some section of the City College with which I should never be brought in contact, was induced to bring a suit, saying that my presence in that institution would be dangerous to her daughter’s virtue. This was not a suit against me, but against the Municipality of New York.(Information about this suit will be found in The Bertrand Russell Case, ed. by John Dewey and Horace M. Kallen, Viking Press, 1941; and also in the Appendix to Why I am not a Christian, ed. by Paul Edwards, George Allen & Unwin, 1957) I endeavoured to be made a party to the suit, but was told that I was not concerned. Although the Municipality was nominally the defendant, it was as anxious to lose the suit as the good lady was to win it. The lawyer for the prosecution pronounced my works ‘lecherous, libidinous, lustful, venerous, erotomaniac, aphrodisiac, irreverent, narrow-minded, untruthful, and bereft of moral fiber.’ The suit came before an Irishman who decided against me at length and with vituperation. I wished for an appeal, but the Municipality of New York refused to appeal. Some of the things said against me were quite fantastic. For example, I was thought wicked for saying that very young infants should not be punished for masturbation.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 6: America, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB26-030.HTM
[寸言]
ラッセルは、1929年に Marriage and Morals を出版したが,自由の国アメリカにおいても第二次世界大戦前は,現在では考えられないほど保守的な社会であり、ラッセルの『結婚論』は「不道徳な」書物として受け取られていた。
ラッセルは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で哲学を教えている時に、ニューヨーク市立大学教授として招聘されることが決まっていた。(右写真:ヨセミテ渓谷に遊ぶラッセル一家、1940年)しかし、反キリスト教徒で自由恋愛論者のラッセルは、キリスト教界にとっては、風紀を乱す不貞の輩であり、ニューヨーク市立大学に通う女性の親(キリスト教徒)をけしかけ、ニューヨーク市の高等教育局を被告に、ラッセルの任命を取り消すようにとの訴訟を起こさせた。ラッセルは論理学を教えることになっており、女子生徒の親が心配するようなことはなかったが、そのようなことは彼らには関係なく、ラッセルは「不道徳な」人間であるので「教育者としてふさわしくない」ということであった。
学問の自由を守るためにジョン・デューイやアインシュタイン、その他、米国の多くの著名な大学関係者が立ち上がったが、当時の米国社会は遅れており、また、ラッセルは直接の被告ではないことから抗弁の機会が与えられず、被告であるニューヨーク市の高等教育局は裁判にまけ、ラッセルの招聘は取りやめとなってしまった。
こ れが有名なバートランド・ラッセル事件 The Bertrand Russell Case であった。詳しい内容を知りたい方は以下のページをお読みください。
http://russell-j.com/cool/Bertrand_Russell-Case.html