精神と一片の物質とはともに(順序を有した)事象の集まり

 もし私が(今)言っていることが正しければ,精神と脳(物質)との相違は,それらを構成する素材にあるのではなく,素材のまとめ方にある精神と一片の物質とはともに事象群(事象の集まり),あるいはむしろ事象群の系列(注:順序を有した事象の集まり)と考えられるべきである。一定の精神を構成するようにまとめられた諸事象は,私の理論(説)によれば,それらに対応する(物質としての)脳となるようにまとめられた諸事象とまったく同じである。あるいは,それらは脳を構成する諸事象の一部である,というのがもっと正しい(適切な)言い方だろう。重要な点は,精神(心)と脳(注:物)との相違は,質の相違でなくて配列の相違だということである。それは,郵便局のディレクトリー(住所氏名録)においてなされている(ところの),住民の地理的順序による配列とアルファベット順による配列との相違に似ている。同じ人(住民)が2つの場合(方式)で配列されるが,それらは全く違った脈絡(文脈)においてである。同様に,視覚の,物理学に対する脈絡(文脈)は,物理的であり,それ(その文脈)は脳の外にある。後戻りすれば,それはあなたを(物理的な)眼のところへつれてゆき,次に光子のところへつれてゆき,次にいくらか遠いところにある対象における量子遷移へと連れてゆく。視覚の,心理学に対する脈絡(文脈)は全く異なっている。たとえば,視覚があなたが破産したことを告げる電報の視覚(電報をあなたが見ること)であるとしてみよう。多くの事象があなたの心の中で心理学的因果法則に従って起るだろう。そうして,あなたが頭の毛をかきむしったり,大声をだして泣き叫ぶような純粋に物理的結果がおこる前に,長い時間が経過するであろう。

If what I am saying is correct, the difference between mind and brain does not consist in the raw material of which they are composed, but in the manner of grouping. A mind and a piece of matter alike are to be considered as groups of events, or rather series of groups of events. The events that are grouped to make a given mind are, according to my theory, the very same events that are grouped to make its brain. Or perhaps it would be more correct to say that they are some of the events that make the brain. The important point is, that the difference between mind and brain is not a difference of quality, but a difference of arrangement. It is like the difference between arranging people in geographical order or in alphabetical order, both of which are done in the post office directory. The same people are arranged in both cases, but in quite different contexts. In like manner the context of a visual sensation for physics is physical, and outside the brain. Going backward, it takes you to the eye, and thence to a photon and thence to a quantum transition in some distant object. The context of the visual sensation for psychology is quite different. Suppose, for example, the visual sensation is that of a telegram saying that you are ruined. A number of events will take place in your mind in accordance with the laws of psychological causation, and it may be quite a long time before there is any purely physical effect, such as tearing your hair, or exclaiming “Woe is me!”
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter150.HTM

<寸言>
外界から刺激を受けてその情報を脳で処理する時の微細な電流(パルス)の流れや【脳細胞間での)メッセージ物質の発射・受取の様子を電子顕微鏡やMRIなどで見ると、ラッセルの言うことが実感できるのではないか?
NHKの人体シリーズの「脳」を見た方は同意見だろうと思われるが、問題はそれでは終わらない。自然科学は客観的だと言っても、つきつめれば、そういった(正確だとされっる)情報やデータも、間違いやすい個々人が処理したものだということをよく考える必要がある。

常識的には外界は自分と独立していると見えるが実際は脳内現象であり・・

 私は,デカルト学派によって前進された対応説(注:theory of correspondence 精神と物質/心と物との間に因果関係はないが,両者は同時並行=対応しているとの説=理論)よりも好んでいる理論(説)を,証明可能ではないけれども,単純かつ統一的な仮説として,提出したい。
我々は,精神も物質もともに(個々の)事象の系列(注:順序を持った事象の集合)から成立っているという考えに同意した。また,物質を形成している(個々の)事象についても,その時=空的構造以外には何も知らないということで,意見が一致した。私が提出(提案)するのは,生きている脳を構成する事象は,実は,それに対応する精神を構成する事象と同一である,ということである。
 この見解を拒否するために,自然に(当然のように)思い浮ぶ理由は,物質的対象を視覚や触覚において(見たり触ったりして)経験する対象と混同することに依存している。後者は,あなたの精神の一部分である(注:物的対象そのものではなく,その物的対象から発せられた光がその人の目に達し,視神経を通ってその人の脳で再構成された心的現象である)。普通の(常識的な/日常的な)言語を使ってよいならば,今この瞬間において,私は自分の部屋の家具や,風にゆらぐ木々や,家々,雲,青空,それから太陽を見ることができる(と言うことができる)(注:厳密な科学言語で言わなければいけないとしたら,このようには言えない)。(私の/我々の)常識は,これら全ての物は私の外(部)に存在していると想像する。これら全ての物は,私の外部にある物理的対象と因果的に結合している(因果関係にある)と私は信じているが,物理的対象が,重要な点で私が直接的に経験するものと異なっていなければならない(異なっているに違いない)ということを悟るやいなや,また私が物理的対象から出て私の感覚が起る(感覚器官で受け取る)以前に私の脳に達する因果の連鎖(因果関係)を説明するやいなや,物理的因果関係の見地から,私は直接に経験した感覚対象が,私の脳の中にあって(私の)外の世界にないことを知る(注:つまり,脳内現象に過ぎないということ)。カントは,星の満ちた天と(人間の)道徳律とを一緒にしたが,両者とも(彼の/人間の)脳の虚構物(figments 産物/作り事)であるゆえに,彼の考えは正しかった

I wish to suggest, as a hypothesis which is simple and unifying though not demonstrable, a theory which I prefer to that of correspondence advanced by the Cartesians. We have agreed that mind and matter alike consist of series of events. We have also agreed that we know nothing about the events that make matter, except their space-time structure. What I suggest is that the events that make a living brain are actually identical with those that make the corresponding mind. All the reasons that will naturally occur to you for rejecting this view depend upon confusing material objects with those that you experience in sight and touch. These latter are parts of your mind. I can see, at the moment, if I allow myself to talk the language of common sense, the furniture of my room, the trees waving in the wind, houses, clouds, blue sky, and sun. All these common sense imagines to be outside me. All these I believe to be causally connected with physical objects which are outside me, but as soon as I realize that the physical objects must differ in important ways from what I directly experience, and as soon as I take account of the causal trains that proceed from the physical object to my brain before my sensations occur, I see that from the point of view of physical causation the immediately experienced objects of sense are in my brain and not in the outer world. Kant was right to put the starry heavens and the moral law together, since both were figments of his brain.
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter140.HTM

<寸言>
我々は日常的には(「常識的には」)自分と外界(世界)とは別だと考えてしまうが、外界は我々(自我)が構成した「構成物」にすぎない。「私」が死ねば「私にとっての世界」は消滅し、「人類」(あるは高等生命)が滅亡すれば「人類にとっての宇宙」も消滅する。
それでは、「感覚を持つ生命体」がまったく存在しない宇宙とはどんなものであろうか? 今我々が見ているような生命や物質にあふれた宇宙ではなく、量子が充満し、ある場所ではそれらの濃度が濃く、ある場所ではそれらの濃度が薄い、カオス宇宙にすぎないのであろうか?

脳を量子力学の言語で眺めるとどうなるであろうか?

 我々は,いまだ,量子物理学(量子力学)の精確な言語で,人間の脳について語ること学んできていない。実際,我々は,この言語を必要とするには,ほとんど人間の脳について知っていない。我々(人間)の問題に対する,量子物理学の(種々の)神秘(不可解さ)の主要な関係は,それらの神秘(不可解さ)が,我々(人間)は物質についてほとんど知っておらず,また,特に人間の脳についてほとんど知っていないということを,示してくれることにある。
生理学者の中には,まだ,顕微鏡を通して脳の組織(そのもの)を見ることができると想像している者がいる。もちろん,これは楽天主義的な幻想である。あなたが椅子を見ていると思うとき,量子遷移を見ている(量子遷移が見えている)わけではない。あなたは,物理的椅子との非常に長くて複雑な因果的関係(因果的連鎖) -(即ち)光子(光のエネルギーが目に届き),(網膜内の)桿体と錐体(rods and cones),視神経を通って脳に至る関係(つながり) -を有している経験を持っている。これらのすべての段階は,あなたが「椅子を見る」という視覚経験を持つためには必要なものである。あなたは目を閉じることによって光子(の衝突)を止める(目に対する刺激を止める)ことができるだろう。視神経は切断できるであろう。脳の(視覚に対応する)適切な部分(該当部分)は,弾丸によって(弾丸を脳に撃ちこめば)壊せるであろう。もしこれらのいずれかのものが起れば,あなたは「椅子を見る」ことはないであろう。
同様な考察は,生理学者が(今)吟味しつつあると思っているにもあてはまる。彼(生理学者)の中には,彼が見ていると思っている脳と,遠く隔たった因果関係(因果的連鎖)を有している経験が存在している。その脳(観察中の他人の脳)に関しては,彼の視覚に再生されるような構造的な諸要素のみを知ることができる(注:ディスプレイ画面に映しだされる脳の電子画像)。構造的でない(物的でない)特性に関しては何であれ,彼(生理学者)は何も知ることができない。脳(物質)の内容はそれに伴う精神の内容とは異なったものだと言う権利を,彼は持っていない。それが生きた脳であるならば,精神がそれにともなって存在することを,証拠や類推によって彼は証拠を持つが,死んだ脳の場合にはどちらの方面においても証拠に欠けている

We have not yet learned to talk about the human brain in the accurate language of quantum physics. Indeed we know too little about it for this language to be necessary. The chief relevance, to our problem, of the mysteries of quantum physics consists in their showing us how very little we know about matter, and, in particular, about human brains. Some physiologists still imagine that they can look through a microscope and see brain tissues. This, of course, is an optimistic delusion. When you think that you look at a chair, you do not see quantum transitions. You have an experience which has a very lengthy and elaborate causal connection with the physical chair, a connection proceeding through photons, rods and cones, and optic nerve to the brain. All these stages are necessary if you are to have the visual experience which is called “seeing the chair.” You may stop the photons by closing your eyes, the optic nerve may be severed, or the appropriate part of the brain may be destroyed by a bullet. If any of these things has happened you will not “see the chair.” Similar considerations apply to the brain that the physiologist thinks he is examining. There is an experience in him which has a remote causal connection with the brain that he thinks he is seeing. He can only know concerning that brain such elements of structure as will be reproduced in his visual sensation. Concerning properties that are not structural, he can know nothing whatever. He has no right to say that the contents of a brain are different from those of the mind that goes with it. If it is a living brain, he has evidence through testimony and analogy that there is a mind that goes with it. If it is a dead brain, evidence is lacking either way.
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter130.HTM

<寸言>
2月4日(日曜)に放映されたNHKスペシャル(人体シリーズ)では「」の特集をしていた。脳の中を電気パルスが走り、メッセージ物質が次から次へと次の脳神経や脳細胞に渡されていく様子が映し出されていた。これほど詳細な映像が撮影できたのは初めてだとのことであるが、もちろんこれは量子レベルの話ではない。
科学によって解明できるのは物質(人体などの生命体も含む)の構造や機能に関することにとどまるので、その哲学的意味合いや解釈は人間に残されている。また、そういったすばらしい科学も間違いやすい人間(個々人)が採取したデータに基づいているという制約がある。(即ち、相対性理論も量子力学も絶対的な真理ではない。)

量子力学を高校で習っているが,日常生活では「量子力学を信じていない」

 この時点で,あなたは怒りだすであろう。(そうして)あなたは,次のように言いたくなるであろう。

いったい(my dear sir),あなたはどうしてそんな馬鹿げたことを言えるのか? 間違いなく,(そういう)あなたでさえ,思考や楽しみや苦痛(などの精神的なもの)は,ビリヤードの玉のように突きまわすことはできないけれども,一方,物質はできることは,知っているはずだ(注:you must know/用例:You must know that your letter makes me always happy. 貴方の手紙は私をいつも幸せにしてくれることを知っているはずだ)。物質は空間の一部を占める。物質は突き通せずに固い(ソフトでなければの話であるが・・・)。思考(という精神的なもの)はそうではない。あなたの思考で,ビリヤードを楽しむことはできない(思考によってビリヤードの玉を突くことはできない)。あなたが思考を捨て去る過程(プロセス)は,警察官によってあなたが立ち退かせられる過程(プロセス)とは全く異なっている。もちろん,あなたは哲学者として,(疑いもなくあなたはそうであろう/そうであり続けるであろうが)『あらゆる人間的情熱を超越している)』 しかし,残りの人たちは,喜びや苦しみを経験し,杖や石(sticks and stone)はそれらを経験しない。これらのことを全て考え合わせると,あなたはどうして精神と物質との差異を神秘化するほど馬鹿なのかわからない(注:その差異は単純で明らかではないか)

 これに対する私の答えは,あなた(が自分は知っていると思っている)よりもはるかに少ししか物質について(物質とは何か)私は知らない(理解していない)ということにある(という答えの中にある)。私が物質について知っていることの全ては,物質の時-空における分布(状態)についての純粋に論理的属性について,一定の抽象的な前提から推論できることである。一見したところ,これらは(物質の)他の属性については何も語っていない。その上,精神(心)の場合と同じく,物質の場合についても,実体の概念を認めない同一の理由がある。
我々は,デカルトの精神(注:デカルトが論じたところの精神)を出来事の系列(集合)に還元した。そうして,同じことをデカルトの肉体(注:肉体=物質/デカルトが論じたところの肉体=物質)の場合にもしなければならない。物質の一片は,いくつかの物理法則(注:certain of the laws of physics/ certain は of 複数(代)名詞を伴って,「・・・のうちのいくらか」/用例: Certain of of the candidates showed promise. 候補者の幾人かは見込みがあった。) によって結びつけられた出来事の系列(集合)である。これらの出来事を結びつける法則は,近似的かつ巨視的なものにすぎない厳密な量子物理学においては,旧式の物理学において物理的粒子が保持している自己同一性は失われている。私が,「これは昨日のと同じ椅子だ」といいたいと仮定してみよう。(この時)あなたは私が意味しようとしていることを正確に教えることを私に期待してはならない。なぜなら,それを正しく述べるためには何冊もの本を要するからである。
私が言おうとしていることを大ざっばに言うと次の通りである。古典物理学は,-現在は放棄された体系であるが- (時間の流れを越えて)永続する粒子の仮定と連携していた。この概念が生き残っている限り,私が「これは同じ椅子である」という時,それは「これは同じ粒子から構成されている」ということを意味すると,主張できた。量子物理学が出現する前に,粒子は既に時代遅れ(の概念)であった粒子には実体概念が含まれているからである。しかし,やはり粒子を慣性の法則(the law of inertia)や他の類似の原理で互に結びつけられた,ある一定の物的な出来事の系列として定義することができた。ラザフォード=ボーアの原子の時代でさえ,この見方はそれでもなお維持できた。ラザフォードー=ボーアの原子(モデル)は,一定の数の電子と陽子からできていた。電子は蚤(のみ)のように行動した。(即ち)しばらくの間はいまわり,その後,ホップした(跳び上った)。しかし,電子は,跳躍した後にも以前這いまわっていたときと同一のものとして認識できるものであった。
 今や悲しいかな,原子は原子崩壊をこうむるものとなった我々原子について知っている全てのことは,最も楽観主義的な仮説に基づいたとしても,原子は種々の突然の遷移をする(一つの)エネルギーの分布(状態)であるということである。証拠を得ることができるのは原子の遷移のみである。なぜなら,エネルギーを放射するのは遷移においてのみであり,我々の感覚(器官)が影響を受けるのはエネルギーが放射される時のみであり,また,我々が起こったものについての証拠を得るのは,感覚(器官)が影響を受けるときのみであるからである。
ボーア若かった頃の幸福な時代においては,平穏な状態にある原子の中で起こっていること(起こっていたこと)を我々は知っているものと思われていた。(即ち)惑星が太陽のまわりを回るように原子核のまわりをぐるぐる回っている電子が存在した(と考えられていた)。原子が平穏な状態(注:遷移していない状態)にある時の動きについて,我々は今や完全,絶対的で永遠になくすことのできない無知を告白しなければならない。革命以外に報告する値打ちのあるものは何もないと思っている新聞報道陣がそこに住んでいるようなもので,革命がない時に起ることは,神秘に包まれたままである。
この基礎に立つと,異なった時間における同一性は完全に消失する。あなたが「これは昨日見たのと同じ椅子である」という時に物理学で何を意味しているかを説明しようと思えば,古典物理学に戻らねばならない。あなたは,次のように言わなければならない。(即ち)温度があまり高くなく,化学的条件が同じであるならば,旧式の古典物理学によって得られた結果は,多かれ少なかれ正しい,と言わなければならない。そうして,私が「これは同じ椅子だ」という時に意味するのは,旧式の物理学なら同じ椅子であると言うだろう,という意味である。しかし,私は,これは便利かつ不正確な言い方にすぎず,事実,椅子の最小の断片(原子)は全て,十万分の一秒(経過しただけで)で,その同一性を失うことに気がついている。それが同じ椅子だというのは,英国人はエリザべス一世の時代と同一の国民であるとか,あるいは,たとえ,エリザべス女王の死後何百万世代も経ったとしても(if = even if),英国民は同一の国民であると言うのと(言うことと)同じである

At this point I fear you will be becoming indignant. You will be inclined to say:
“But, my dear Sir, how can you be so dense? Surely even you must know that thoughts and pleasures and pains cannot be pushed about like billiard balls, whereas matter can. Matter occupies space. It is impenetrable; it is hard (unless it is soft); thoughts are not like this. You cannot play billiards with your thoughts. When you banish a thought, the process is quite different from that of being ejected by the police. You, of course, as a philosopher” (so, no doubt, you will continue) “are superior to all human passions. But the rest of us experience pleasures and pains, and sticks and stones do not. In view of all this I cannot understand how you can be so stupid as to make a mystery of the difference between mind and matter.”
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter110.HTM

My answer to this consists in saying that I know very much less than you do about matter. All that I know about matter is what I can infer by means of certain abstract postulates about the purely logical attributes of its space-time distribution, Prima facie, these tell me nothing whatever about its other characteristics. Moreover there are the same reasons for not admitting the concept of substance in the case of matter, as there are in the case of mind. We reduced Descartes’ mind to a series of occurrences, and we must do the same for his body. A piece of matter is a series of occurrences bound together by means of certain of the laws of physics. The laws that bind these occurrences together are only approximate and macroscopic. In proper quantum physics, the identity which physical particles preserve in old-fashioned physics disappears. Suppose I want to say: “This is the same chair as it was yesterday.” You cannot expect me to tell you accurately what I mean, because it would take volumes to state this correctly. What I mean may be put roughly as follows: classical physics–a system now abandoned–worked with the assumption of particles that persist through time. While this conception lasted, I could maintain that when I said “This is the same chair” I meant “this is composed of the same particles.” Before the coming of quantum physics, particles were already out of date, because they involved the concept of substance. But that did not matter so much because it was still possible to define a particle as a certain series of physical occurrences, connected with one another by the law of inertia and other similar principles. Even in the days of the Rutherford-Bohr atom, this point of view could still be maintained. The Rutherford-Bohr atom consisted of a certain number of electrons and protons. The electrons behaved like fleas. They crawled for a while, and then hopped. But an electron was still recognizable after the hops as being the same one that had previously crawled. Now, alas, the atom has suffered atomic disintegration. All that we know about it, even on the most optimistic hypothesis, is that it is a distribution of energy which undergoes various sudden transitions. It is only the transitions of which it is possible to have evidence, for it is only in a transition that energy is radiated, it is only when energy is radiated that our senses are affected, and it is only when our senses are affected that we have evidence as to what has occurred. In the happy days when Bohr was young, we were supposed to know what was going on in the atom in quiet times: there were electrons going round and round the nucleus as planets go round the sun. Now we have to confess to a complete and absolute and eternally ineradicable ignorance as to what the atom does in quiet times. It is as if it were inhabited by newspaper reporters who think nothing worth mentioning except revolutions, so that what happens when no revolution is going on remains wrapped in mystery. On this basis, sameness at different times has completely disappeared. If you want to explain what you mean in physics when you say “This is the same chair as it was yesterday,” you must go back to classical physics. You must say: when temperatures are not too high, and chemical circumstances are ordinary, the results obtained by old-fashioned classical physics are more or less right. And when I say that “this is the same chair”, I shall mean that old-fashioned physics would say it was the same chair. But I am well aware that this is no more than a convenient and inaccurate way of speaking, and that, in fact, every smallest piece of the chair loses its identity in about one hundred thousandth part of a second. To say that it is the same chair is like saying that the English are the same nation as they were in the time of Queen Elizabeth I, or rather, like what this would be, if many millions of generations had passed since the death of Good Queen Bess.
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter120.HTM

<寸言>
量子力学を理解していれば、従来の「実体」の概念を否定するはずなのに、量子力学を否定しないのに、我々は、日常生活においては「実体」の概念を信じているように振る舞っている。

「川床の思考」は条件反射の一つ?

他のあらゆる区別と同様,生きているものと死んでいるものとの区別は,絶対的なものではない専門家がそれについて生きていると言う(呼ぶ)べきかあるいは死んでいると言う(呼ぶ)べきか決められない(ものとして)ウィルス(注:生命の最小単位である細胞をもたないため,「非生物」とされることもある。)が存在するし,また,条件反射の原理は,生きているものに特徴的であるが,他の領域にもその例を見い出せる(注:concerning which = about which ~について・・・)。たとえば,巻いた紙をのばすと(さまたげるものがなければ)すぐにもと通りになってしまうだろう(注:コンピュータ・ウィルスもよい例)。
 しかし,このような場合があるのに,我々は,条件反射を,生命の,特に生命の最高の形態において,また,特に人間の知性の特徴として,扱うことができる精神と物質との関係は,この点でひとつの結論に到る(機が熟する)。記憶に対応する何らかの特徴を持つとしたら,適当な刺激を受けたときに,再現(再生)を示唆するような仕方で,脳に対して起こることによって何らかの方法で影響を受けなければならない。これもまた,無生物の振る舞いによって、より少ない程度で(あるが)例証できる。たいてい乾いた状態にある川床(watercource)は,そこに水が流れるその時には,次第に水路を侵食し溝をつくり,次回に降る雨は,前回の流れを想い出させるコースに従って流れていく。あなたがお望みであれば,川底は冷い流れを経験する時に前回のことを「想い出す」,と言ってもよいかも知れない。それは空想の飛躍だ,とあなたは言うであろう。あなたは,川や川床は思考しないという意見なので,それは空想の飛躍だと言われるかも知れない。しかし,思考以前の出来事による(に起因する)一定の行動の修正から成立っているとすれば,川床の思考は,やや初歩的なものではあるが,川底は考えると言わなければならないだろう。どれほど湿潤な気候であっても,川床に九九の掛算を教えることはできないであろうが(そこまでは不可能であったとしても)。

Like all other distinctions, the distinction between what is living and what is dead is not absolute. There are viruses concerning which specialists cannot make up their minds whether to call them living or dead, and the principle of the conditioned reflex, though characteristic of what is living, finds some exemplification in other spheres. For example: if you unroll a roll of paper, it will roll itself up again as soon as it can. But in spite of such cases, we may take the conditioned reflex as characteristic of life, especially in its higher forms, and above all as characteristic of human intelligence. The relation between mind and matter comes to a head at this point. If the brain is to have any characteristic corresponding to memory, it must be in some way affected by what happens to it, in such a manner as to suggest reproduction on occasion of a suitable stimulus. This also can be illustrated in a lesser degree by the behavior of inorganic matter. A watercourse which at most times is dry gradually wears a channel down a gully at the times when it flows, and subsequent rains follow the course which is reminiscent of earlier torrents. You may say, if you like, that the river bed “remembers” previous occasions when it experienced cooling streams. This would be considered a flight of fancy. You would say it was a flight of fancy because you are of the opinion that rivers and river beds do not “think.” But if thinking consists of certain modifications of behavior owing to former occurrences, then we shall have to say that the river bed thinks, though its thinking is somewhat rudimentary. You cannot teach it the multiplication table, however wet the climate may be.
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter100.HTM

<寸言>
植物状態なら「まだ生きている」と言えるだろうが、どのような状態になったら死んだ状態になるかははっきりしない。最近、NHK総合TVだったか、BS1だったか、脳死状態になっても20秒間は(反応ができなくても)まだ生きた状態にあると紹介があり、某タレントが、「(20秒間は)医者が”ご臨終です”と言っても、故人の悪口(悪態)は言わないほうがよい」と冗談を言っていたのを記憶している。「ご臨終」の状態でも、電気ショックなどでたまに「生き返る」ことがあるが、しかし完全に死んでいれば「生き返る」ことはないので、「死んでいたわけではない」ということになる。
いずれにしても、生命現象は謎の部分が多い。

「記憶にありません」は - 嘘か,真(まこと/痴呆症)か,それとも・・

精神(心)の最も本質的な特徴 --記憶」という語を,過去の経験の現在の反応に対するあらゆる影響を含むように,最も広い意味で使った場合-- 記憶であるというのは正しい,と私は思う。記憶には,通常,知覚の知識(知覚についての知識/知覚したものを知る・理解すること)と言われるような種類の知識が含まれている。あなたが単にあるものを(漫然と)見るにすぎない場合(ぼんやりと眺めている場合)には,それはほとんど知識としてみなされない。あなたがそれを(意識的に)見るとか,そこにそれがあるとかを自分自身に言う(意識する)時には,それは知識となる。このことは,単に(漫然と)見ることに対する内省(反省)である。この内省(反省)は知識であり,それは可能であるので,そのようにして見ること(行為)は ,石に起こるであろうような単なる出来事ではなく,経験とみなされる(のである)。
 過去の経験の影響は,条件反射の原理に具現化されており,それは次のように主張する。(即ち)適当な情況のもとにおいて,もしもAがもともとある反応を起こし,また,Aが頻繁にBと一緒に起こるならば,ついには,Aがもともとひき起こした反応を,B単独で惹き起こすだろう,と言うものである。例をあげよう。たとえば,あなたが熊にダンスを教えようと思えば,あなたは,熊を非常に熱い台の上にのせ,一瞬しか足をつけたままでいられないような状態におき,その間にオーケストラで英国国歌を演奏する。(そうすると)しばらくすれば,英国国歌の演奏だけで熊を踊らせるようになるであろう。我々(人間)の知的生活は,最高の段階ににおいてさえ,この原理にもとづいている(のである)。

I think it would be just to say that the most essential characteristic of mind is memory, using this word in its broadest sense to include every influence of past experience on present reactions. Memory includes the sort of knowledge which is commonly called knowledge of perception. When you merely see something it can hardly count as knowledge. It becomes knowledge when you say to yourself that you see it, or that there it is. This is a reflection upon the mere seeing. This reflection is knowledge, and because it is possible, the seeing counts as experience and not as a mere occurrence, such as might happen to a stone. The influence of past experience is embodied in the principle of the conditioned reflex, which says that, in suitable circumstances, if A originally produces a certain reaction, and A frequently occurs in conjunction with B, B alone will ultimately produce the reaction that A originally produced. For example: if you wish to teach bears to dance, you place them upon a platform so hot that they cannot bear to leave a foot on it for more than a moment, and meanwhile you play “Rule Britannia” on the orchestra. After a time “Rule Britannia” alone will make them dance. Our intellectual life, even in its highest flights, is based upon this principle.
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter090.HTM

<寸言>
あなたはパブロフの犬状態になっていないか? 権力者による情報操作にまんまとはまっていないか?

感覚能力のある存在に起こる出来事と生命のない物質に起こる出来事との相違

感覚能力のある存在(人間その他の生命体)に起こる事生命のない物質に起こる事との相違は何であるかという,非常に初歩的な問いをしてみよう。(注:みすず書房版の中村訳では,”happen to” の部分が訳出されていない。/ things はここでは「事,事態」)。 明らかに,あらゆる種類の事(things)が,生命のない対象に起こる。(注:中村訳では,やはり”happen to” の部分が訳出されておらず,”happen to”の意味をよく理解していなかったのか,「Obviously all sorts of things happen to lifeless objects」を「明らかにあらゆる種類の物は,生命のない対象である」と誤訳している。また,’things’はここでは「事(こと)」であり,それも誤訳及び誤解の原因か?) それら(生命のない対象)は動き,いろいろな変形を受けるが,これらの出来事(occurrences)を「経験」しないが,一方,我々(人間)は我々の身に起こる事(things)を「経験」する。(注:どういうわけか,ここにある”happen to” だけは「起こる」と訳出している。注意力散漫?)。

 多くの哲学者は「経験」を,意味内容は明らかであるが定義できないものとして扱った。私はこれを間違いだと考える。私は,その意味は明らかだとは思わない。しかし,定義できないとも考えない。経験を特徴づけるものは,現在の反応に対する過去の出来事の影響である。あなたがが硬貨を自動券売機(automatic machine 自動化された機械)に入れると,その券売機は前に反応したのと全く同じように反応する。自動券売機は,硬貨を入れることは切符に対する欲求を意味することであると知るようにならないし,即ち,とにかく,前と全く同じようにすみやかに反応する。逆に,切符売場の男は,経験から学び,もっと迅速かつもっと直接的な刺激が(券売機よりも)少なくても反応する。これが,我々をして彼(券売所の人間)は理解力をもっていると呼ばさせるようになるものである。こういった種類のものが記憶の本質をなすものである。あなたがある人物と会い,その人はある言葉を述べる。あなたが次の機会に彼に会った時,あなたはその言葉を思い出す。このことは,あなたが固そうなある物体を見る時に,もしそれにあなたが触れれば,あなたはある種の触覚を予想するという事実と,本質的に類似している。経験を単なる出来事とを区別するものは,このような事である。券売機(自動機械)は経験をもたないが,切符売場の男は経験をもっている。このことは,与えられた刺激は,機械においては常に同じ反応をびきおこすが,人間においては違った反応を生じさせる,ということを意味している。あなたが逸話を話すと聞き手は「私が初めてその話を聞いた時に,どんなに笑ったかをご存じでしょう」と答える。けれども,あなたが,冗談を聞くと笑う自動機械を造ったとすれば,きっと前に聞いたことのある冗談をいくら繰返したとしても,その度に笑うことであろう。,あなたは,恐らく,もし唯物論的哲学を採用したくなったら,このことを考えれば,恐らく,慰めを見出すであろう。

Let us ask ourselves a very elementary question: What is the difference between things that happen to sentient beings and things that happen to lifeless matter? Obviously all sorts of things happen to lifeless objects. They move and undergo various transformations, but they do not “experience” these occurrences whereas we do “experience” things that happen to us. Most philosophers have treated “experience” as something indefinable, of which the meaning is obvious. I regard this as a mistake. I do not think the meaning is obvious, but I also do not think that it is indefinable. What characterizes experience is the influence of past occurrences on present reactions. When you offer a coin to an automatic machine, it reacts precisely as it has done on former occasions. It does not get to know that the offer of a coin means a desire for a ticket, or whatever it may be, and it reacts no more promptly than it did before. The man at the ticket office, on the contrary, learns from experience to react more quickly and to less direct stimuli. This is what leads us to call him intelligent. It is this sort of thing which is the essence of memory. You see a certain person, and he makes a certain remark. The next time you see him you remember the remark. This is essentially analogous to the fact that when you see an object which looks hard, you expect a certain kind of tactile sensation if you touch it. It is this sort of thing that distinguishes an experience from a mere happening. The automatic machine has no experience; the man at the ticket office has experience. This means that a given stimulus produces always the same reaction in the machine, but different reactions in the man. You tell an anecdote, and your hearer replies: “You should have heard how I laughed the first time I heard the story.” If, however, you had constructed an automatic machine that would laugh at a joke, it could be relied upon to laugh every time, however often it had heard the joke before. You may, perhaps, find this thought comforting if you are tempted to adopt a materialistic philosophy.
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter080.HTM

<寸言>
AIロボットを作り改良していけば、同じ刺激でも過去のデータやノウハウ等の蓄積の変化(増減)によって反応が異なるものを作ることができるであろう。しかし、完全に自分でデータを収集し、自分で判断するAIロボットを作って改良していけば、将来、人間をほろぼしてしまうことも考えられる。そうならないようにプログラミングしておけば、AIロボットの発達も限界がでてくる。
どちらの方向に進むか? 人間をほろぼすAIロボットを作る科学者が現れても不思議ではないが・・・?

物理的世界と心的世界の関係-現代物理学と「心」を持つ人間との関係?

 しかし,「知覚(perception)」という語は,通常使用される時(は),論点を先取りするもの(言葉)である。
たとえば,私は椅子を見ている(I see a chair),あるいはむしろ,通常そのように記述される出来事があると(いう言い方/状況を)仮定しよう。この句(注: phrase 2語以上の集合体で意味機能上の一単位をなすもの)は,「私」が存在しかつ椅子が存在し,また,知覚することがその両者間の関係である,を意味すると解釈される
既に私は,「私 I」について取り扱った。しかし,椅子は物理的世界に属するものであり,当面のところ,(物理世界に属するものごとは私が)無視しようとしているものである。
当面は次のことだけを言っておこう。(即ち,)常識は,私の知覚する椅子が,私が知覚しなくても,たとえば仮に私が目を閉じていても,(やはり)そこに存在すると仮定する。それらの間にある物理学と生理学は,私が見ることとは独立して(無関係に)存在するものは,視覚的経験とはほとんど似ていないもの,即ち,無数の量子遷移(注:原子がある定常状態からエネルギーの違う他の定常状態に突然飛び移ること)をする無数の電子の不規則運動であることを保証している(確かだと言っている)。
 私のこの対象への関係は間接的なものであり,推論によってのみ知られる。つまり,その関係は,私が「椅子を見る」と呼ぶ出来事が存在するときにいつも私が直接経験するものではない。実際私が「机を見る」と呼ぶ経験をするとき,生起することの全体は,私の心的世界に属するものと考えられるべきである。
私が堅く信じているように,私の心的世界の外側に(物理的な)椅子が存在するとするならば,それは直接的に経験する対象ではなく,推論という過程によって(推論を経て)到達されるものである
この結論は,奇妙な結果をもたらす。(即ち)我々は,物理学の物理的世界と,日常経験の物理的世界とを区別しなければならない物理学を正しいものとすれば,物理学の物理的世界は,私の精神生活とは独立に(無関係に)存在している(注:私や人類が存在しなくても,やはり存在する,ということ)。形而上学的見地からすれば,その世界は堅固でありかつ自存するものであり,常にそのような世界が存在することを仮定している
 これに反し,私の日常経験の物理的世界は,私の精神生活の一部である。物理学の物理的世界とは違ってそれは堅固なものではなく,私が夢で見る世界同様に実体的(実質的)なものではない。他方では,物理学の物理的世界が疑いうる(疑えないものではない)やり方において,それ(私の日常経験の物理的世界)は疑いえないものである。椅子を見る経験は,簡単に片付けられない(説明しつくすことはできない)ものである。私は,たとえ夢で(架空の椅子を)見ていても,この(架空の椅子を見るという)経験をもっている。だが,物理学の椅子は,確かに堅固なものではあるが,多分存在していない。もし私が夢を見ているならば,それは存在していない。そして,たとえ私が眼をさましていたとしても,ある種の推論に誤りがあれば,それ(椅子)は存在しないかも知れないが,それは論証できない。
要するに,ミッコーバー氏が言うように,物理学の物理的世界は堅固なものではあるが疑いえないものではないのに対し,日常経験の物理的世界は,(存在することは)疑いえないが堅固なものではないのである。この陳述において,私は「堅固」という語を「私の心的生活から独立に存在する」という意味で使っている。

But the word “perception,” as ordinarily used, is question-begging. Suppose, for example, that I see a chair, or rather that there is an occurrence which would ordinarily be so described. The phrase is taken to imply that there is “I” and there is a chair, and that the perceiving is a relation between the two. I have already dealt with “I,” but the chair belongs to the physical world, which, for the moment, I am trying to ignore. For the moment I will say only this: common sense supposes that the chair which I perceive would still be there if I did not perceive it, for example, if I shut my eyes. Physics and physiology between them assure me that what is there independently of my seeing, is something very unlike a visual experience, namely, a mad dance of billions of electrons undergoing billions of quantum transitions. My relation to this object is indirect, and is known only by inference; it is not something that I directly experience whenever there is that occurrence which I call “seeing a chair.” In fact the whole of what occurs when I have the experience which I call “seeing a chair” is to be counted as belonging to my mental world. If there is a chair which is outside my mental world, as I firmly believe, this is something which is not a direct object of experience, but is arrived at by a process of inference. This conclusion has odd consequences. We must distinguish between the physical world of physics, and the physical world of our everyday experience. The physical world of physics, supposing physics to be correct, exists independently of my mental life. From a metaphysical point of view, it is solid and self-subsistent, always assuming that there is such a world. Per contra, the physical world of my everyday experience is a part of my mental life. Unlike the physical world of physics, it is not solid, and is no more substantial than the world that I see in dreams. On the other hand it is indubitable, in a way in which the physical world of physics is not. The experience of seeing a chair is one that I cannot explain away. I certainly have this experience, even if I am dreaming. But the chair of physics, though certainly solid, perhaps does not exist. It does not exist if I am dreaming. And even if I am awake it may not exist, if there are fallacies in certain kinds of inference to which I am prone, but which are not demonstrative. In short, as Mr. Micawber would say, the physical world of physics is solid but not indubitable, while the physical world of daily experience is indubitable but not solid. In this statement I am using the word “solid” to mean “existing independently of my mental life.”
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter070.HTM

<寸言>
私たちは、現代物理学(量子力学と相対性理論)を信じるとともに、自分の心の存在も「信じて」おり、両者が本当に両立するのかどうか論理的整合性を疑うことを余りしない? 果たして両者は同時に肯定できるであろうか? 厳密に考え始めると、大変難しい問題がそこには潜んでいることがわかる。

同じ言葉でも人によって受け取り方が異なる原因-偏見や先入観の影響

 同じ環境にいる多数の人は,ほぼ同じ時刻に極めて似かよった経験をすることが,しばしば起る。多くの人は,同じ雷鳴や,政治家の同じ演説を聞くことができる。また,同じ人たちが(雷の)閃光や,政治家がテーブルをたたくのを見ることができる。これらの人々の環境には,聞いたり見たりしたのと同一でない出来事が存在することを我々は内省(reflection 反省)によって気づくようになる,(たとえば)政治家は一人しか(そこに)いないのに,彼を見たり彼の言うことを聞いたりする人たちそれぞれに,別の(異なる)心的出来事が存在する。このような心的出来事の中において,心理分析によって二つの要素が区別される。

その一つは,彼(観察者)が彼の種(=人類)の普通の成員と共有している個人の構造の諸部分によっているものである。他の部分は彼(観察者)の過去の経験の結果を体現している。その政治家のある言葉(語句)は,ある聞き手(聴衆)には「それはその悪漢に身のほどを思い知らせた」という意味に聞え,他の聞き手には「私の生涯でそんなひどい不正は聞いたことがなかった」というような,全然別の意味に聞こえる(reaction 反応,印象)。このようないくらか間接的な反応が異なっているだけでなく,人はしばしば彼らの偏見や過去の経験のために(経験・体験が影響して)実際に異なった言葉を(言葉として)聞くものである。
ビーヴアーブルック卿(注:Beaverbrook,William M. A.,1st Baron, 1879-1964, 英国デーリー・エクスプレスの発行者で,戦時内閣に入閣)が英国貴族院(上院にあたる)に(事前に)提出していたある統計のことで,ケインズがこの気高い(堂々とした)いジャーナリストを非難する必要があると感じた時のある機会に,私は貴族院に出席していた。ケインズが言ったことは,「私はこんな「いんちきな(phony)」,あるいは,「滑稽な(funny)」,統計を聞いたことがない」であった。貴族院議員の半分はケインズが「いんちきな」と,また,他の半分が「滑稽な」,と言ったと思った。彼はその後すぐに亡くなってしまい,問題は未決のままとなった
疑いもなく,その二つの単語のうちどちらに聞こえたかは,聞いた人の過去の経験が決めたのである。アメリカに触れることの多い人(注:phony は米語)は,「いんちきな phony」と聞こえ,もっと閉鎖的な生活をしている人は「滑穏な funny」と聞こえた(のであろう)

しかし,通常の場合には,過去の経験は,上記の例よりも,ずっと密接に関係している。あなたが,硬そうにみえる対象をみれば,その対象の触覚のイメージ(さわった時の感覚)を暗示する。もしあなたがピアノに馴れてはいるけれども,蓄音機やラジオに馴れていない時には,ピアノ音楽を聴けば,鍵盤におかれた演奏者の手を想像するであろう。(私はこのような経験をしたが,若い人はそんなことはないだろう。)もしあなたが,朝ベーコンの匂いを喚げば,味覚イメージが必ず湧きおこってくる。「感覚 sansation」という語は個人の過去の経験によらない心的出来事の部分にあてはまると想像される。一方,「知覚 perception」という語は,個人の過去の歴史が避けがたいものとした附加物を伴った感覚にあてはまる。「感覚」と呼ばれる,総合的な経験の(一)部分のもつれをほどくこと(注:総合的な経験は過去の記憶に影響された不純物を含んでいる。その総合的な経験の一部である「感覚」を分離することの意義をここでは言っている。)は,精密な心理学理論の問題であることは明らかである。我々が理論なしに知ることは,「知覚」と呼ばれる総合的な出来事である(注:「知覚」は経験の影響を受けて不純物を含んでいることに注意)。

It frequently happens that a number of people in the same environment have very similar experiences at approximately the same time. A number of people can hear the same clap of thunder, or the same speech by a politician; and the same people can see the lightning, or the politician thumping the table. We become aware on reflection that there is, in the environment of these people, an event which is not identical with what is heard or seen. There is only one politician, but there is a separate mental occurrence in each of those who see and hear him. In this mental occurrence, psychological analysis distinguishes two elements: one of them is due to those parts of the structure of the individual which he shares with other normal members of his species; the other part embodies results of his past experiences. A certain phrase of the politician evokes in one hearer the reaction “That’s put the scoundrels in their place,” and in another the quite different reaction, “Never in all my life have I heard such monstrous injustice.” Not only such somewhat indirect reactions are different, but often men will actually hear different words because of their prejudices or past experiences. I was present in the House of Lords on an occasion when Keynes felt it necessary to rebuke Lord Beaverbrook for some statistics that the noble journalist had been offering to the House. What Keynes said was: “I have never heard statistics so phony” or “funny.” Half the House thought he said “phony,” and the other half thought he said “funny.” He died almost immediately afterward, leaving the question undecided. No doubt past experience determined which of the two words any given hearer heard. Those who had been much exposed to America heard “phony,” while those who had led more sheltered lives heard “funny.” But in all ordinary cases past experience is concerned much more intimately than in the above illustration. When you see a solid-looking object, it suggests tactile images. If you are accustomed to pianos, but not to gramophones or radio, you will, when you hear piano music, imagine the hands of the performer on the keys (I have had this experience, but it is one not open to the young). When in the morning you smell bacon, gustatory images inevitably arise. The word “sensation” is supposed to apply to that part of the mental occurrence which is not due to past individual experience, while the word “perception” applies to the sensation together with adjuncts that the past history of the individual has rendered inevitable. It is clear that to disentangle the part of the total experience which is to be called “sensation,” is a matter of elaborate psychological theory. What we know without theory is the total occurrence which is a “perception.”
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter060.HTM

<寸言>
人間は何という先入観や偏見の塊であることか!

 デカルトの「精神」は「思考(心的現象)の系列」

 我々が,デカルトは思考の系列だ(であった/で構成されていた)(注:瞬間瞬間の思考という現象の集合がデカルトを形成/なお,デカルトは既に亡くなっているので,以後,過去形になっていることに注意))という時に「思考」によって何を言おうとしているのか(どういう意味を付与しているか)について尋ねる時が来た。彼(デカルト)の身体は,一般に(精神とは)何か違ったものである(あった)と想定されていたのであるから,(「デカルトは思考の系列だ(だった)」と言うよりも)デカルトの精神は思考の系列だ(だった),という方が,慣習的には,より正しい(言い方)であろう,デカルトの精神は,彼自身(自分自身)に対してなんであるか(あったか)であり,他の者に対して何であるか(あったか)ではない,と言ってよいであろう。一方彼(デカルト)の身体は公けの(公共的な)ものであったのであり(注:デカルトの物質的な身体は,外部の人間が容易に客観的に観察可能),自分自身(デカルト自身)に対してと同様に他人に対しても(過去に)現れた(のである)。デカルトは「思考(thoughts)」という語を現在使われているよりもいくらか広い意味で使っており,「心的現象(mental phenomena)」という語句(フレーズ)を代りに使った方が,恐らく混乱を避けられるだろう。我々が通常「思考すること(thinking)」と呼ぶものに到達する前に,「感覚(sensation)」及び「知覚(perception)」という見出し(項目)に入れられる,もっと基本的な出来事がある。我々の常識は,知覚には常に対象があり,また一般に知覚の対象は心的ではない,と言うだろう。感覚と知覚は,俗な言い方では,「思考」としては取り扱われないであろう。思考は,記憶や信念や欲求のような出来事から成り立っているだろう。このような狭い意味で思考について考える前に,感覚や知覚について少し述べておきたい。
感覚」や「知覚」(という語)は両方ともいくらか混乱した概念であり,普通に定義されるように,どちらかが起こるかどうか疑われるかも知れない。そこで,最初の事例では,これらの語の使用を避けて,疑わしい仮定をできるだけ少くして,起きることについて記述してみよう。

It is time to inquire what we mean by “thoughts” when we say that Descartes was a series of thoughts. It would be more conventionally correct to say that Descartes’ mind was a series of thoughts, since his body is generally supposed to have been something different. His mind, we may say, was what Descartes was to himself and to no one else; whereas his body was public, and appeared to others as well as to himself. Descartes uses the word “thoughts” somewhat more widely than it would be used nowadays, and we shall, perhaps, avoid confusion if we substitute the phrase “mental phenomena.” Before we reach what would ordinarily be called “thinking,” there are more elementary occurrences, which come under the heads of “sensation” and “perception.” Common sense would say that perception always has an object, and that in general the object of perception is not mental. Sensation and perception would, in common parlance, not count as “thoughts.” Thoughts would consist of such occurrences as memories, beliefs, and desires. Before considering thoughts in this narrower sense, I should wish to say a few words about sensation and perception.
Both “sensation” and “perception” are somewhat confused concepts, and, as ordinarily defined, it may be doubted whether either ever occurs. Let us, therefore, in the first instance avoid the use of these words, and try to describe what occurs with as few doubtful assumptions as possible.
出典:Bertrand Russell : Mind and Matter (1950?)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/19501110_Mind-Matter050.HTM

<寸言>
「思考」というより,「心的現象」といったほうがより客観的。

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