自由への不当な干渉-圧制的な道徳律

 ミルは,自由への不当な(容認出来ない)干渉は大部分次の二つのどちらかの原因からくると(続けて)言いたいのだろうと,私は考える。(即ち)その第一は,人が受け入れない行動規則に服従することを他人に要求するところの圧制的な道徳律であり,他方は,より重要なものであるが、不当な権力である。

 最初の圧制的な道徳律について,ミルは多くの例をあげている。彼は,モルモン教徒(注:アメリカで1830年に創始されたキリスト教の宗派で,一夫多妻を主張)に対する迫害について,雄弁かつ力強い言葉を述べており,それは彼が一夫多妻制をよく思っているのではないかと誰も疑えないゆえにより一層彼の目的にあっている(注:言うまでもなく,好ましくない人間の自由も尊重するということ)。道徳律を守るという名目で行われた自由への不当な干渉についてミルがあげたもう一つの例は,安息日の遵守であり,それは,彼の時代以後,その重要性の大部分を失っている。ミルの弟子だった私の父は,T. H. ハックスリー(Thomas Henry Huxley,1825-1895:英国の生物学者でダーウィンの進化論を擁護した。)の講演は面白くないということを下院に説得する空しい努力をして彼の短い議会生活を過した(注:ラッセルの父親はラッセルが3歳の時に若死にした)。というのは,ハクスリーの講演が面白いとしたら,日曜日にハクスリーの講演を聞くことは非合法となるからである。
(注:みすず書房版の中村秀吉・訳『(ラッセル)自伝的回想』では,「安息日を守っていたら,日曜日にハクスリー(の講義)を★読む★楽しみも奪われてしまうではないか,と安息日墨守の不合理性を言っている」という注をつけているが,これは「日曜日にハクスリーの講演(や講義)を★聴く★愉しみのことを言っていると思われ,中村氏の注は的外れと思われる。因みにアマゾンで「Thomas Henry Huxley lectures」で洋書を検索すると何冊かひっかかる。)

Mill would, I think, go on to say that unwarrantable interferences with liberty are mostly derived from one or other of two sources: the first of these is a tyrannical moral code which demands of others conformity with rules of behavior which they do not accept; the other, which is the more important, is unjust power.
Of the first of these, the tyranny of moral codes, Mill gives various examples. He has an eloquent and powerful passage on the persecution of the Mormons, which is all the better for his purposes because no one could suspect him of thinking well of polygamy. Another of his examples of undue interference with liberty in the supposed interests of a moral code is the observance of the Sabbath, which has lost most of its importance since his day. My father, who was a disciple of Mill, spent his brief Parliamentary career in a vain endeavor to persuade the House of Commons that T. H. Huxley’s lectures were not entertaining, for, if they could be considered as entertainment, they were illegal on Sundays.
出典: John Stuart Mill,1955.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1097_JSM-190.HTM

<寸言>
Thomas Henry Huxley が多数の聴衆を前に講演(や公開講義)をしているイラストを見れば、この文章のなかの lectures をどう訳すべきかわかるであろう。

「自由の価値」-ミルに時代においても、現代においても変わらず

 ミルがいま生きていて(人間の自由の問題について)本を書いているとすれば,どのような書き方をしたであろうかと推測することは興味深いことであり,またおそらく無益なことではないであろう。彼が自由の価値について言っていることは,(現在でも)修正なく擁護できる(立ち続けることができる)だろうと,私は考える。人類の生命が存続する限り,自由は,我々人類という地球上の存在が提供する最良のものの多くにとって,必須のものであるだろう(注:has to offer は 「~提供すべきもの」ではなく,「提供する」)。自由は,我々(人間)の最も基本的な本能のひとつに深い源をもっている。新生児は手足を締め付けられると,怒り狂って泣き叫ぶ。(子供の)欲しいと思う自由の種類は,歳を重ね成長するとともに,また知識の増大とともに,変化するが,素朴な幸福の必須の源泉であり続ける。自由が言われなく損なわれると,失われるものは幸福のみではない。(自由が損なわれると)よりいっそう重要かつ実現の困難な有用性も失われる。個人がこれまで人類のために行ってきた偉大な奉仕は,ほとんど全て,彼らをしばしば殉教にまで拡大するほどの激しい敵意にさらされてきた。このようなことは全て,ミルによって非常によく言い表されており,最近の事例を補う以外に(内容の)変更の必要はないであろう。

It is an interesting speculation, and perhaps not a wholly idle one, to consider how Mill would have written his book if he had been writing now. I think that everything he says on the value of liberty could stand unchanged. So long as human life persists, liberty will be essential to many of the greatest goods that our terrestrial existence has to offer. It has its profound source in one of our most elementary instincts: newborn infants fall into a rage if their limbs are constricted. The kinds of freedom that are desired change with growth in years and knowledge, but it remains an essential source of simple happiness. But it is not only happiness that is lost when liberty is needlessly impaired. It is also all the more important and difficult kinds of usefulness. Almost every great service that individuals have ever done to mankind has exposed them to violent hostility extending often to martyrdom. All this is said by Mill so well that it would require no alteration except the supplying of more recent instances.
出典: John Stuart Mill,1955.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1097_JSM-180.HTM

<寸言>
自由には「~の自由」「~への自由」がある。封建時代に比べれば,(独裁国家は別にして)大部分の人にとって自由が増したことは言うまでもない。しかし,組織化が進むにつれて昔はなかった新たな「不自由」が増しており、そういった「不自由」を工夫や闘いよってできる限り少なく/小さくすることは、現代の課題である。

「自由世界」のアメリカにおける「赤狩り」

 しかし,その極端な形が共産諸国にみられる害悪は,いくらかユーモラスに「自由世界」と呼ばれるものに属している多くの国々にも,より低い程度ではあるが存在しており,また,容易に増大する可能性がある。ロシアが最近生み出した最も優れた遺伝学者であるヴァヴィロフ(注:Nikolai Ivanovich Vavilov, 1887-1943:ソビエト時代の植物学者,遺伝学者。ルイセンコ学説に反対し,サラトフの刑務所に投獄され,獄死した。)は,獲得形質の遺伝に対するスターリンの無知な信仰に従わなかったという理由で,(ロシアの)北極地方に追放されて悲惨な死に方をした(注:ウィキペディアの説明には,サラトフの刑務所で獄死とある。サラトフ州はカザフスタン共和国の西にあり,北極地方ではない。このエッセイを執筆した1955年当時においては,シベリアの収容所にでも入れられたと新聞報道されていたのだろうか?)。
(一方,自由世界に住んでいた)オッペンハイマー(注:Julius Robert Oppenheimer, 1904-1967:物理学者。ロスアラモス国立研究所所長としてマンハッタン計画を主導し「原爆の父」と呼ばれたが,水爆の実用化には反対した。後に核兵器の開発を主導したことを後悔するようになった。)は,主として,水素爆弾の実用可能性を,そのことを疑うことが全く合理的であった時期に疑ったことが主な理由で,免職となり,研究遂行を妨げられた。警察官に期待される程度以上の教育は受けていないFBI(の連中)は,問題の事態を理解する能力を有する人がみな馬鹿げている(不合理)と思うような根拠にもとづいて,ヨーロッパ最高の学者たちの旅券をさし抑える力があると思っている。この害悪は,合衆国においては,学者の国際会議が不可能となるところまで到達してしまっている(注:1950年代の米国において,マッカーシー上院議員が中心となって共産主義者と疑われる者の追放,いわゆる「赤狩り」,が大々的に行われた。実際は,リベラルな思想の持ち主の多くが追放された。因みに,当時俳優だったロナルド・レーガンは,マッカーシーやニクソンが率いる下院非米活動委員会に協力して「ハリウッドの赤狩り」に協力した。)。ミルが,警察を自由に対する危険としてはほとんど言及していないのは不思議である。こんにち,彼らは,大部分の文明諸国において,最悪の敵である。

But the evils, of which the extreme form is seen in Communist countries, exist in a lesser degree, and may easily increase, in many countries belonging to what is somewhat humorously called the “Free World.” Vavilov, the most distinguished geneticist that Russia has produced in recent times, was sent to perish miserably in the Arctic because he would not subscribe to Stalin’s ignorant belief in the inheritance of acquired characters. Oppenheimer is disgraced and prevented from pursuing his work largely because he doubted the practicability of the hydrogen bomb at a time when this doubt was entirely rational. The FBI, which has only the level of education to be expected among policemen, considers itself competent to withhold visas from the most learned men in Europe on grounds which every person capable of understanding the matters at issue knows to be absurd. This evil has reached such a point that international conferences of learned men in the United States have become impossible. It is curious that Mill makes very little mention of the police as a danger to liberty. In our day, they are its worst enemy in most civilized countries.
出典: John Stuart Mill,1955.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1097_JSM-170.HTM

<寸言>
「自由世界」の自由は独裁国家とは比較できないほど大きなものだが、それでも、限られた人が享受できる自由も大変多い。

アメリカとオーストラリアの開拓(精神)の相違

 最初の例として農業をとりあげよう。ミルの『自由論』の出版直後の時期に,アメリカ合衆国中西部において開拓事業の大きな発展があった。開拓者たちは彼らの「徹底した個人主義」を誇りにした。彼らは森が繁り,水が豊富で,肥沃な(自然の恵みの多い)地域に定住した。過重労働に落ちいること無く,木を伐採し,それによって丸太小屋や燃料を確保し,土地の開梱が終わると,彼らは穀物を豊富に収穫した。

 けれども,この個人主義者の楽園に(エデンの園の禁断の果実である)蛇が存在した。その蛇とは鉄道であり,鉄道なしには穀物を市場に運ぶことはできなかった。鉄道は資本の膨大な蓄積,労働の莫大な消費,ほとんど農民ではない多くの人間の結合(連携)を象徴(意味)していた。開拓者たちは,彼らの独立が失われることに憤り,人民党運動(注:アメリカ合衆国でにおいて1891年に結成された人民党が鉄道や銀行などを攻撃した運動であり,鉄道,電話の公有化,土地所有の制限等,かなり社会主義的な要求をかかげた。 /= ウィキペディアの説明)を引き起こしたが,それは熱を帯びていたにもかかわらず,いかなる成功もおさめなかった。けれども,この場合においては,個人的独立の敵はただひとつだけにすぎなかった。

(これに対し)オーストラリアの開拓者と知合いになった時,私はアメリカとの相違に驚いた。(注:ラッセルはノーベル文学賞受賞後の1951年に,招待を受け,オーストリア全土にわたる講演旅行を行ったが,その時の話であろう。)オーストラリアでは農業用の新しい土地の獲得は,膨大な費用のかかる潅漑計画に依存しているが,個々の州には対象の土地が広大すぎるためにその灌漑計画は連邦政府によってのみ実現可能である。この場合でさえ,ある人が広い土地を購入すると,その土地には材木がなく,あらゆる建築資材や燃料を遠方から運ばなければならない(のである)。彼や彼の家族の衛生管理は飛行機や無線の綿密な組織化によってのみ可能となる。彼の生計は輸出貿易に依存しており,それは遠く離れた諸政府(州政府)の気まぐれによって繁栄したり苦しくなったりする。彼の精神状態(オーストリア開拓民),趣味,及び感情は,百年前の徹底的な個人主義的開拓者のものであるが,その環境は全く異なっている。彼がいかに反抗したくても,全く外的なカによって,堅く統制されている。知的自由は今でも持っているかも知れないが,経済的自由は夢となっている。

As a first example, let us take agriculture. In the years immediately succeeding the publication of Mill’s Liberty, there was an immense development of pioneering in the Middle West of the United States. The pioneers prided themselves upon their “rugged individualism.” They settled in regions which were well wooded, well watered, and of great natural fertility. Without excessive labor, they felled the trees, thereby securing log cabins and fuel, and when the soil was cleared, they procured a rich harvest of grain. There was, however, a serpent in this individualist paradise: the serpent was the railroad, without which the grain could not be got to market. The railroad represented a vast accumulation of capital, an enormous expenditure of labor, and a combination of very many persons, hardly any of them agriculturists. The pioneers were indignant at their loss of independence, and their indignation gave rise to the Populist movement, which, in spite of much heat, never achieved any success. In this case, however, there was only one enemy of personal independence. I was struck by the difference when I came in contact with pioneers in Australia. The conquering of new land for agriculture in Australia depends upon enormously expensive schemes of irrigation, too vast for the separate states and only practicable by the federal government. Even then, when a man has acquired a tract of land, it contains no timber, and all his building materials and his fuel have to be brought from a distance. Medical attention for himself and his family is only rendered possible by an elaborate organization of airplanes and radio. His livelihood depends upon the export trade, which prospers or suffers according to the vagaries of distant governments. His mentality, his tastes and his feelings, are still those of the rugged individualist pioneer of a hundred years ago, but his circumstances are totally different. However he may wish to rebel, he is tightly controlled by forces that are entirely external to himself. Intellectual liberty he may still have; but economic liberty has become a dream.
出典: John Stuart Mill,1955.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1097_JSM-150.HTM

<寸言>
アメリカ(合衆国)とオーストラリアの開拓の状況が異なれば、銃に対する考え方も異なるであろう
アメリカの西部開拓時代、警察がすぐにかけつけてくれない広大な大地では、自分や家族を守るためには銃の所持が必須であったであろう。だから、合衆国憲法において銃の所持は保証されており、現在、13億丁も出回っているという。しかし、時代が変わり、銃の性能もよくなり、戦争から帰ってくる兵隊の数も増えている。飛行機の利用、監視カメラの設置、ネットワークの発達等で警察の機動力も格段に増している。つまり、環境はまったく変わっており、毎年銃による事故等で亡くなる人が数万人といわれる現在、銃を所持しないことによる安全・安心の確保よりも、銃を持つことによる危険のほうがずっと大きくなっている。
そのことの意味合いが、米国人の半数は先入観にとらわれていてわからないようである。

組織化によって生じる便益・利点と弊害・欠点

 ミルの時代以来,情況を変化させたものは,前に言及したとおり,組織(化)の増加である。あらゆる組織は,ある(何らかの)目的のために個人を結合したものであり,この目的が達成されるべきものであるとしたら,ある種の個人の全体への従属が必要となる。その目的がその組織の全ての個人が強い関心を持つものであり,組織の執行部が信用(信頼)を得ていれば,個人の自由の犠牲はとても小さいかもしれない。しかし,組織の存在する目的が,執行部(幹部)のみを鼓舞し,他の人たちは(組織の目的とは)無関係な理由から執行部に従っているとすれば,それに伴っている自由の喪失はほとんど(組織)全体に及ぶまで増大する可能性がある。組織が大きくなればなるほど,頂点にいる者と底辺にいる者との間の権力の隔たりは大きなものになり,次第に抑圧が生まれてきそうである。現代の世界は,技術的理由によって,百年前の世界よりもはるかに組織化されている。(そうして)一人の人間が自分の衝動から行う行為はほとんどないような状態であり,権威(力を持っている者)によって無理にやらされるあるいは指示によってやらされる行為ははるかに多い。組織化によって生じる便益はとても大きく明らかであるため、組織化以前の状態に戻るのを望むことは愚かなことであろうが、利点のみを自覚している人たちは、とても現実的かつひしひしと身に迫っている危険を見逃しやすい。

What has changed the situation since Mill’s day is, as I remarked before, the great increase of organization. Every organization is a combination of individuals for a purpose; and, if this purpose is to be achieved, it requires a certain subordination of the individuals to the whole. If the purpose is one in which all the individuals feel a keen interest, and if the executive of the organization commands confidence, the sacrifice of liberty may be very small. But if the purpose for which the organization exists inspires only its executive, to which the other members submit for extraneous reasons, the loss of liberty involved may grow until it becomes almost total. The larger the organization, the greater becomes the gap in power between those at the top and those at the bottom, and the more likelihood there is of oppression. The modern world, for technical reasons, is very much more organized than the world of a hundred years ago: there are very many fewer acts which a man does simply from his own impulse, and very many more which he is compelled or induced to perform by some authority. The advantages that spring from organization are so great and so obvious that it would be absurd to wish to return to an earlier condition, but those who are conscious only of the advantages are apt to overlook the dangers, which are very real and very menacing.
出典: John Stuart Mill,1955.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1097_JSM-140.HTM

<寸言>
組織が大きくなればなるほど,上層部にいる集団(人間)の権力及び利益は増して行く。下層にいる集団(人間)ももちろん上層部に行ける可能性はあるが、「アメリカン・ドリーム」と同様、結局は、宝くじの当選者と同様に、ごく一部に限られる。そのことはわかっているのに、小さな組織ではどのような不幸なことがあるかも知れないということで、大きな組織に入りたがる。個人的なことよりも国民や国家のことを重視すると公言する国会議員でさえも政権与党でなければ大きなこと(善いこと)もできない」と理由づけして大政党に入り、指示待ちのサラリーマン議員となっていく。

ミルの価値論に同意

 ミルの価値(論)については,私も全く同意している。私は,価値が関係している限り,(注:国家や社会に対して)個人の重要性を強調することにおいて彼はまったく正しいと思う。さらに,彼が支持しているような物の見方を守ることは,彼の時代以上に我々の時代においては,望ましくさえあると考える。しかし,我々の時代(現代)において自由を欲する人は,19世紀とは異なった闘いをしなければならないし,自由が滅びてはならないならば新しい便法(手段)を考案しなければならない。
 17世紀から19世紀の末まで,「自由」は急進主義者や革命家の合言葉だったが,現代ではこの言葉は反動主義者(保守反動家)に奪い取られており,自らを最も進歩的と考えている者たちはこの自由という言葉を軽蔑する傾向がある。自由という言葉には「腐敗したブルジョアの観念論」の一部というレッテルが貼られており,優雅な閑暇をすでに楽しんでいる裕福な人たちにとってのみ重要な,中産階級の一時的な気まぐれとみなされている。 誰か一人の人間がこの変化に責任があるとすれば,その責任はマルクスが負わなければならない。彼はプロシヤ的統制革命的行動の手段及び目的としての自由に置き代えたのである。しかし,もしも社会組織および技術における大きな変化がなかったとしたならば、マルクスがなし得たような成功を彼(マルクス)が得ることはなかったであろう。それらの大きな変化が初期の改革者たちの思想に対立したマルクスの思想を助長したのである。

With Mill’s values, I for my part find myself in complete agreement. I think he is entirely right in emphasizing the importance of the individual in so far as values are concerned. I think, moreover, that it is even more desirable in our day than it was in his to uphold the kind of outlook for which he stands. But those who care for liberty in our day have to fight different battles from those of the nineteenth century, and have to devise new expedients if liberty is not to perish. From the seventeenth century to the end of the nineteenth, “Liberty” was the watchword of the radicals and revolutionaries; but in our day the word has been usurped by reactionaries, and those who think themselves most progressive are inclined to despise it. It is labeled as part of ”rotten bourgeois idealism” and is regarded as a middle-class fad, important only to those who already enjoy the elegant leisure of the well-to-do. So far as any one person is responsible for this change, the blame must fall on Marx, who substituted Prussian discipline for freedom as both the means and the end of revolutionary action. But Marx would not have had the success which he has had if there had not been large changes in social organization and in technique which furthered his ideals as opposed to those of earlier reformers.
出典: John Stuart Mill,1955.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1097_JSM-130.HTM

<寸言>
人間の「自由」(の擁護)は大事であり、政治において最も重視すべき事柄の一つであろう。しかし、その「自由」が一部の支配階級や富裕者しか享受できないものであったとしたら、その価値は半減いや、色褪せる。Freedom for All でなければならないが、それも掛け声だけではうさんくさいものとなる。

ミルの『自由論』

 ミルの『自由論』は,『婦人の隷属』よりも(女性が解放された)今日では重要である。それはこの本(『自由論』)が擁護する大義が(『婦人の隷属』が擁護する大義と比べて)あまり成功していない(実現していない)ことによっている。概して,今日(注:1955年)における世界の自由は百年前よりもずっと減っている。また,予見しうる近い将来において、自由に対する制限が減っていきそうだと想定する理由はまったく存在してない。ミルは,ロシアは,誰も,個人の官僚でさえも,個人的自由をもたないような官僚主義によって支配された国であると指摘している。しかし,農奴解放後のミルの時代のロシアは現代のロシアよりも千倍も自由をもっていた。
(注:みすず書房版の中村秀吉訳『(ラッセル)自伝的回想』では「しかし農奴解放後の当時のロシアは現在のロシアよりも千倍も自由を持っていた。」と訳出されている。」 中村訳は間違ってはいないが,”Russia of his day” は,「当時のロシア」ではなく「ミルの時代のロシア」と明示的に訳さないと誤読される恐れがある。つまり,現在のロシアには自由はあまりない。しかし,農奴制があった時代のロシアと比べれば農奴が解放されたミルの時代のロシアは千倍も自由が増したのであり,ミルはそのことを適切に評価していない,というニュアンスが読み取れないように思われる。)
 ミルの時代のロシアは,独裁政治に反対した偉大な作家や,投獄や流刑を恐れずに宣伝活動を続けることができた革命家たちや,農奴制の廃止によって判明したように,権力者のなかから自由主義者たちさえも生み出したのである。(ミルの時代には)ロシアが英国に存在した程度の政治的自由へと次第に進みながら,やがて立憲君主国へと発展することを期待するあらゆる理由があった。また,自由の成長は,他の国においても同様に,明らかだった。(たとえば)アメリカ合衆国では,ミルの著書が出版されてから数年後に奴隷制度が廃止された。フランスにおいては,ミルが烈しく憎んだナポレオン三世の帝政はミルの著書が出されてから11年後に終止符が打たれ,また同時期に,ドイツにおいて成年男子選挙権が導入された。このような根拠から,私は,当時の一般的な動向が自由にさからっていたというパック氏の発言は正しいとは思わないしミルの(将来に対する)楽天主義が不合理なものだったとも思わない。

Mill’s book On Liberty is more important to us in the present day than his book On the Subjection of Women. It is more important because the cause which it advocates has been less successful. There is, on the whole, much less liberty in the world now than there was a hundred years ago; and there is no reason to suppose that restrictions on liberty are likely to grow less in any foreseeable future. Mill points to Russia as a country so dominated by bureaucracy that no one, not even the individual bureaucrat, has any personal liberty. But the Russia of his day, after the emancipation of the serfs, had a thousand times more freedom than the Russia of our day. The Russia of his day produced great writers who opposed the autocracy, courageous revolutionaries who were able to carry on their propaganda in spite of prison and exile, even liberals among those in power, as the abolition of serfdom proved. There was every reason to hope that Russia would in time develop into a constitutional monarchy, marching by stages toward the degree of political freedom that existed in England. The growth of liberty was also apparent in other countries. In the United States, slavery was abolished a few years after the publication of Mill’s book. In France, the monarchy of Napoleon III, which Mill passionately hated, came to an end eleven years after his book was published; and, at the same time, manhood suffrage was introduced in Germany. On such grounds I do not think that Mr. Packe is right in saying that the general movement of the time was against liberty, and I do not think that Mill’s optimism was irrational.
出典: John Stuart Mill,1955.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1097_JSM-120.HTM

<寸言>
不適切な訳。ぼんやりとした,誤解を招くような訳をしてはならない。

男女平等への闘いの歴史 ー ラッセルも大きな寄与

 ミルの長編の専門的な本よりもずっと重要なのは,彼の2冊の短めの本,即ち,『女性の隷属について』と『自由について』である。前者についていえば,世界は完全に彼が望んだ方向へと進んだが,後者については,正反対の動きがずっと続いてきた。(注:本エッセイの発表は1955年のこと。第一次世界大戦と第二次世界大戦が起こり,その後,米ソ冷戦が続いていた。「ラッセル=アインシュタイン宣言」発表の前夜である。)

世界が女性の平等(男女平等)のための闘士を長い間待たねばならなかったことは,男女両性にとって不名誉なことである。フランス革命までは,プラトンを除く誰も女性の平等(男女平等)を要求することなど考えなかったが,問題がもちあがると,信じられないほど馬鹿げた議論が現状維持のために創案(考案)された。女性は政治に関与すべきではないと論じたのは,男性ばかりではなかった。その議論は女性たちにとっても納得のゆくものであり,特にヴィクトリア女王やシドニー・ウエッブ夫人のような政治的女性(政治に関わっている女性)にとって納得できるものであった。男性の優越(男性支配)は,筋肉の優越(肉体的な力の優越)にのみ基づいていることに気づくことができた人はほとんどいなかったようである。男女平等への要求は,嘲笑すべき話題とみなされ,それが成功をおさめる3年前までその状態が続いた。

 私は,第一次大戦前は女性の参政権(付与)を擁護して,第一次大戦中は平和主義(戦争反対)を擁護して,言論活動を行なった。これらの大義のうち,前者(男女平等擁護)のことで出会った(遭遇した)反対の方が,後者(戦争反対)の方よりも敵意に満ちており,もっと広範囲にわたっていた。スイスを除くあらゆる文明国における政治的諸権利の女性への突然の容認よりも驚くべきことは,歴史上ほとんど見あたらない(注:スイス人において女性が国政レベルの選挙権を得たのは何と1971年のこと)。

これは,私の考えでは,生物学的な物の見方(注:農業や牧畜などの第一次産業社会的観点)から機械的な物の見方(注:工業という第二次産業的観点)への一般的な変化の一部である。機械は筋肉の重要性を減少させる。産業(工業など)は農業よりも季節に関係することが少い。民主主義は王朝を滅ぼし,家族の一体感の感情を弱めた。ナポレオンは息子が彼を継承することを望んだが,(時代が進み)レーニン,スターリン,ヒットラーはそのような望みを持っていなかった。

女性への男と同じ権利(男女同権)の容認は,女性たちがもはや第一義的に生物学的な光に照らして見られなくなったという事実によって可能となってきたと思われる。英国において,奴隷でないか,または辛い労働に従事しない女性は,工場で働く人たち(女性たち)だけだ,とミルは言っている(注:家庭にいる女性は奴隷状態であるということ)。どういうわけか,彼はヴィクトリア女王のことを忘れていた(注:女王のことは冗談)。しかし,彼の言っているこのにはかなりの真理がある。というのは,工場における女性労働は,子供の養育と違って,男もできる労働だからである。女性の解放はそれ自身においてどれほど素晴らしいことであったとしても,農業を犠牲にして産業を強め,子供の養育を犠牲にして工場を強化し,生活を犠牲にして権力を強める,巨大な社会学的変化の一部であると思われる。世界はこの方向へあまりにも揺れすぎており,人間生活の生物学的側面が再び思い出されるまで正気には戻らないだろう,と私は思う。しかし,そうなったとしても,女性の隷属の復活を伴う理由はまったくないと考える。

Much more important than Mill’s longer treatises were his two short books On the Subjection of Women and On Liberty. In regard to the first of these, the world has gone completely as he would have wished. In regard to the second, there has been an exactly opposite movement.
It is a disgrace to both men and women that the world should have had to wait so long for champions of women’s equality. Until the French Revolution, nobody except Plato ever thought of claiming equality for women, but when the subject came to be raised, incredibly ridiculous arguments were invented in support of the status quo. It was not only men who argued that women should have no part in politics. The arguments were equally convincing to women, and especially to political women such as Queen Victoria and Mrs. Sidney Webb. Very few seemed capable of realizing that the supremacy of men was based solely upon a supremacy of muscle. The claim for women’s equality was regarded as a subject of ridicule, and remained so until three years before it achieved success. I spoke in favor of votes for women before the First World War and in favor of pacifism during it. The opposition which I encountered in the first of these causes was more virulent and more widespread than that which I encountered in the second. Few things in history are more surprising than the sudden concession of political rights to women in all civilized countries except Switzerland. This is, I think, part of a general change from a biological to a mechanistic outlook. Machinery diminishes the importance of muscle. Industry is less concerned with the seasons than agriculture. Democracy has destroyed dynasties and lessened the feeling of family continuity. Napoleon wanted his son to succeed him. Lenin, Stalin and Hitler had no such desire. I think the concession of equality to women has been rendered possible by the fact that they are no longer regarded primarily in a biological light. Mill remarks that the only women in England who are not slaves and drudges are those who are operatives in factories. Unaccountably, he forgot Queen Victoria. But there is a measure of truth in what he says, for the work of women in factories, unlike childbearing, is such as men are capable of doing. It seems that, however admirable the emancipation of women may be in itself, it is part of a vast sociological change emphasizing industry at the expense of agriculture, the factory at the expense of the nursery, and power at the expense of subsistence. I think the world has swung too far in this direction and will not return to sanity until the biological aspects of human life are again remembered. But I see no reason why, if this occurs, it should involve a revival of the subjection of women.
出典: John Stuart Mill,1955.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1097_JSM-110.HTM

<寸言>
ラッセルの次の言葉を想像や理解できる人がどれだけいるか?

「第一次大戦前は女性の参政権(付与)を擁護して,第一次大戦中は平和主義(戦争反対)を擁護して,言論活動を行なった。これらの大義のうち,前者(男女平等擁護)のことで出会った(遭遇した)反対の方が,後者(戦争反対)の方よりも敵意に満ちており,もっと広範囲にわたっていた。」

ミルはマルクス&エンゲルスの『共産党宣言』を知らなかったらしい

 言葉の歴史は,好奇心を誘う(ものである)。可能性のある例外としてマルクスを除いて,ミルの時代においては,「共産主義」という言葉が労働者に彼らの暴力的反抗を防ぐのに必要な程度の生産物しか与えない(許さない)ような少数独裁政治の軍事的,行政的,及び司法的な専制を意味するようになることを(事前に)推測することは誰もできなかったであろう。マルクスは,ミルと同時代人としては最も影響力があった人物であると今日の我々は理解できるが,彼は,私の知り得たかぎりでは,ミルの著作ではまったく触れられておらず,ミルは彼のことをまったく知らなかった,ということは非常にありそうなことである。マルクスとエンゲルスの)『共産党宣言』は,ミルの『政治経済学(原理)』と同じ年に出版されたが,(英国の)文化を代表した人たちは『共産党宣言』を知らなかった。現在全く未知の人物が,(今から)百年後に我々の時代の最重要人物だったということがわかるようになるのだろうか。
社会主義と共産主義に関する表明(発言)を別にすれば,ミルの『政治経済学(原理)』は重要(な著作)ではない。『政治経済学(原理)』がよってたつ主要な原理・原則は,彼の正統的な先駆者たちに由来するものにわずかの(重要でない)修正をしたものである。彼が全体としては賛成していたリカードの『価値論』は,ジュヴォンズによる限界効用概念(説)の導入によってとって代わられ。そして,限界効用説は重要な理論的改善を示していた。『論理学』においてそうであったように,彼は,理論から生ずる実際的弊害に気づかなければ伝統的理論に黙従しやすい(人物であった)。

The history of words is curious. Nobody in Mill’s time, with the possible exception of Marx, could have guessed that the word “Communism” would come to denote the military, administrative, and judicial tyranny of an oligarchy, permitting to the workers only so much of the produce of their labor as might be necessary to keep them from violent revolt. Marx, whom we can now see to have been the most influential of Mill’s contemporaries, is, so far as I have been able to discover, not mentioned in any of Mill’s writings, and it is quite probable that Mill never heard of him. The Communist Manifesto was published in the same year as Mill’s Political Economy, but the men who represented culture did not know of it. I wonder what unknown person in the present day will prove, a hundred years hence, to have been the dominant figure of our time.
Apart from the pronouncements on Socialism and Communism, Mill’s Political Economy, is not important. Its main principles are derived from his orthodox predecessors with only minor modifications. Ricardo’s theory of value, with which on the whole he is in agreement, was superseded by Jevon’s introduction of the concept of marginal utility, which represented an important theoretical improvement. As in his Logic, Mill is too ready to acquiesce in a traditional doctrine provided he is not aware of any practical evil resulting from it.
出典: John Stuart Mill,1955.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1097_JSM-100.HTM

<寸言>
著名な評論家や思想家が,自分と毛色(思想的傾向)の違う著名な評論家や思想家の主要著作さえ読んでいないことはめずらしいことではない。

共産主義と社会主義の区別の不徹底

 ミルは,共産主義と社会主義を区別している。彼は後者の方を好み,一方前者を全面的に非難することはしない。彼の時代のこの(共産主義と社会主義の)区別は,それ以後ほどはっきりしたものではなかった。彼が説明しているように,大雑把に言って,(当時における)両者の区別は,共産主義者はあらゆる私有財産(私的所有)に反対するが,一方,社会主義者は単に「土地や生産機器は個人の所有(財産)ではなくて共同体や団体あるいは政府の所有(財産)であるべきである」と主張する,ということである。彼が共産主義についての意見をのべた有名な一節として次の文章がある。 (長い一文=このミル文章は悪文と思われます。誤読しないために,一番下に追加した松下注を必ずお読みください!)

「それゆえ,あらゆる好機にめぐまれている共産主義(注:「社会主義」と読み替える必要あり!)と,(1)もしも,あらゆる苦悩と不正とをもった現在の社会状態との間で選択がなされなければならないのであれば;(2)もしも,私有財産制度が,労働の産物(成果)を現在我々が目にしているように,ほとんど労働(量)に逆比例して分配されることを,必然的に結果としてもたらすならば -(つまり)労働の産物(成果)の最大の部分は全然働いたことのない人々に分配され,次に大きな部分はその仕事がほとんど名目的である人々に分配され,そうして仕事(労働)が厳しく辛くなればなるほど,報酬は減ってゆき,ついには,最も肉体を消耗する労働が生活必需品を購入することさえもこと欠くほどになってゆくとういのであれば;(3)もしも,こういう状態を選ぶかそれとも共産主義(注:「社会主義」と読み替え)を選ぶかが二者択一であるならば; 共産主義(注:「社会主義」と読み替え)のあらゆる難点も,つり合いから言えば,小さな挨のようなものであろう。しかし比較を適切に行うためには,その最上の状態における共産主義(注:「社会主義」と読み替え)と,現にあるままではなく,ありうべき形の私有財産制度とを比較しなければならない。私有財産(私的所有)の原則は,いかなる国においてもいまだ公平に試みられたことはないし,おそらくこの国(英国)においては他の国よりもそうであろう。」

(松下注:つまり,ミルがここで使っている “Communism” という言葉を「共産主義」ではなく,「社会主義」と訳さないと=解さないと誤解・誤読することになる,ということです。ロシア革命が起こる前であれば,”Communism” という言葉を「社会主義」という意味合いで使ってもそれほど誤解する人はいなかったでしょうが,ロシア革命以後は誤解のもとになり,その意味合いで使用しない方がよいという指摘です。
実際,ラッセルは,1920年に出した The Practice and Theory of Bolshevism で Communism を「社会主義」の意味で使っており,1949年版の第2版の「まえがき」では,次のページにあるように,「多くの箇所で「共産主義」という語を「社会主義」に変えた。・・・。このように訂正しなければ間違った印象を与えることになるであろう。」と注意喚起しています。
http://russell-j.com/cool/15T-NOTE.HTM
Mill distinguishes between Communism and Socialism. He prefers the latter, while not wholly condemning the former. The distinction in his day was not so sharp as it has since become. Broadly speaking, as he explains it, the distinction is that Communists object to all private property while Socialists contend only that “land and the instruments of production should be the property, not of individuals, but of communities or associations, or of the Government.” There is a famous passage in which he expresses his opinion on Communism:
“If, therefore, the choice were to be made between Communism with all its chances, and the present state of society with all its sufferings and injustices; if the institution of private property necessarily carried with it as a consequence, that the produce of labor should be apportioned as we now see it, almost in an inverse ratio to the labor the largest portions to those who have never worked at all, the next largest to those whose work is almost nominal, and so in a descending scale, the remuneration dwindling as the work grows harder and more disagreeable, until the most fatiguing and exhausting bodily labor cannot count with certainty on being able to earn even the necessaries of life; if this or Communism were the alternative, all the difficulties, great or small, of Communism would be but as dust in the balance. But to make the comparison applicable, we must compare Communism at its best, with the regime of individual property, not as it is, but as it might be made. The principle of private property has never yet had a fair trial in any country; and less so, perhaps, in this country than in some others.”
出典: John Stuart Mill,1955.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/1097_JSM-090.HTM

<寸言>
時代によって言葉の意味は変化することを十分注意しないと,数十年前に出された本でさえ誤読をするということです。
日本の評論家の皆さん,安易な評論には注意してください!)

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