幼年期の第一の本能的な衝動は(フロイトの言う)リビドーではなく・・・

freud-libido 精神分析学者(精神分析医)の中には,子供の遊びの中に性的象徴を見ようとしたものがいる(注:フロイトなど)。 これは馬鹿らしい考え(たわごと)である,と私は確信している。幼年期の主な本能的な衝動は,性ではなくて,おとな(一人前)になりたいという欲望である。もっと正確に言うなら,力(権力)ヘの意志である。[H・C・キャメロン博士『神経質な子供』 (1924年),p.32以下参照] 子供は,年長者と比べて自分がいかに弱いかを痛感しており,その人たちと対等になりたいと願っている。私の息子は,自分もいつかはおとなになるだろうこと,また,私もかつては子供であったことを知って,とても喜んだことを,覚えている。(即ち,)自分にも成功する見込みがあることを悟り,努力しようとしている様子が見てとれた。子供は,ごく幼いころから,年長者のすることを自分もやりたがるものであり,それは人のまねをする習慣によって明らかである。兄や姉は役に立つ。なぜなら,兄や姉の意図は理解できるし,彼らの能力はおとなの能力ほど手の届かないものではないからである。劣等感は,子供にあってはすこぶる強い。子供が正常で,正しい教育を受けている場合には,劣等感は努力ヘの刺激になるのに対して,抑圧されている場合には,不幸の原因になるかもしれない。

father-and-childSome psycho-analysts have tried to see a sexual symbolism in children’s play. This, I am convinced, is utter moonshine. The main instinctive urge of childhood is not sex, but the desire to become adult, or, perhaps more correctly, the will to power. [‘Cf. The Nervous Child, by Dr. H. C. Cameron (3rd ed., Oxford, 1924), pp.32 ff.] The child is impressed by his own weakness in comparison with older people, and he wishes to become their equal. I remember my boy’s profound delight when he realized that he would one day be a man and that I had once been a child ; one could see effort being stimulated by the realization that success was possible. From a very early age, the child wishes to do what older people do, as is shown by the practice of imitation. Older brothers and sisters are useful, because their purposes can be understood and their capacities are not so far out of reach as those of grown-up people. The feeling of inferiority is very strong in children ; when they are normal and rightly educated, it is a stimulus to effort, but if they are repressed it may become a source of unhappiness.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 5: Play and fancy.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE05-020.HTM

[寸言]
フロイトの言っていること(子どもにおけるリビドーの支配力の大きさエディプス・コンプレックス、その他)をそのまま信じている精神科医や心理学者がまだ少なからずいそうですが、「できるだけ早く大人のように一人前になりたい」という生物共通の動因・誘引のほうが大きな支配力を持っているという(ラッセル)意見の方が納得できます。

子どもの遊びを「役に立つかどうか」という観点から制限してはならない

yuugu_asobi-dogu 遊びを好むこと(遊び好き)は,人間であれ獣であれ,若い動物の最もはっきりした特徴である。人間の子供の場合,遊び好きには,(さらに)’まねごと’(ゴッゴ)に対する尽きることのない喜びが伴っている。(注:岩波文庫版の安藤訳では,主語の This を「遊び」ととり,「遊びは,まねごとに対する尽きせぬ喜びを伴う」と訳されている。しかし,主語は,前文との関係から,「Love of play ‘遊び好き’」ととるべきであろう。)
遊びと’まねごと’(ゴッゴ)は,幼年時代の不可欠の必要物であり,子供を幸福で健康にしてやりたければ,そういう活動が何かほかにも役に立つかどうかは関係なく,そのための機会を用意してあげなければならない。

gokko-asobiLove of play is the most obvious distinguishing mark of young animals, whether human or otherwise. In human children, this is accompanied by an inexhaustible pleasure in pretence. Play and pretence are a vital need of childhood, for which opportunity must be provided if the child is to be happy and healthy, quite independently of any further utility in these activities.
 出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 5: Play and fancy.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE05-010.HTM

[寸言]
 知育に役立たないようなものは排除するというようなことをしてはいけない、ということ。
幼児に対する先進的な能力教育(促成栽培教育/慶応幼稚舎「お受験」のような早期受験教育/性格教育をおろそかにした知育偏重教育)には,そういったきらいがあり、子供の「総体としての」幸福を減じさせる危険性がありそう。
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(追記)
お医者さんの子ども(だった人)は、他の家庭に比べて、お医者さんごっこをした経験が、格段に多いのでしょうかね?
お医者さんとそれ以外の100人ずつに聞いて、比較すると面白いかも知れません。
「お医者さん100人に子ども時代の遊びについて聞きました。・・・」(TV番組の企画ネタとしても売り込めそうです。)

「恐怖心」は不幸のもと(源泉/種) - 自由な世界人に子どもを育てる

fear-oikaketekuru わが子の恐怖心を払いのけてあげたいと思うのであれば,あなた自身が恐怖心をもたないようにしなければならない。あなたが雷雨を怖がれば,あなたの前ではじめて雷を聞いた時から,子供も,あなたの恐怖心に感染してしまうだろう。あなたが社会革命を恐れていることを示せば,子供はあなたが何の話をしているのかわからないので,それだけより大きな恐怖心を感じることだろう。あなたが病気のことを心配していれば,子供も病気のことを心配するだろう。
goldfish-courage 人生は危険にみちている。しかし,賢い人は,避けられない危険は無視し,また,避けられる危険は,感情をまじえず,慎重に行動する。あなたは死を避けることはできないが,遺言を残さないで死ぬことは避けることができる。それゆえ,遺言状を書き,自分が死ぬべき存在であることは忘れてしまおう。不幸に対する(抗する)合理的な備えは,恐怖心とはまったく異なるものである。それは,知恵の一部である。一方,恐怖心は全て卑屈なものである。恐怖心を感ぜずにはいられないときには,子供にそれを悟られないようにするがいい。とりわけ,子供に,幅広い物の見方と,多彩な生き生きした関心を身につけさせてあげるのがよい。そういうものは,子供が大きくなってから,自分は不幸になりはしないかとくよくよ思いわずらうことがないようにしてくれるだろう。そのようにして初めて,あなたはわが子を自由な世界人とすることができるのである。

Above all, if you wish to dispel fear in your children, be fearless yourself. If you are afraid of thunder-storms the child will catch your fear the first time he hears thunder in your presence. If you express a dread of social revolution, the child will feel a fright all the greater for not knowing what you are talking about. If you are apprehensive about illness, so will your child be. Life is full of perils, but the wise man ignores those that are inevitable, and acts prudently but without emotion as regards those that can be avoided. You cannot avoid dying, but you can avoid dying intestate ; therefore make your will, and forget that you are mortal. Rational provision against misfortune is a totally different thing from fear ; it is a part of wisdom, whereas all fear is slavish. If you can not avoid feeling fears, try to prevent your child from suspecting them. Above all, give him that wide outlook and that multiplicity of vivid interests that will prevent him, in later life, from brooding upon possibilities of personal misfortune. Only so can you make him a free citizen of the universe.
* dispel (v):追い散らす;払いのける
* apprehensive (adj.):気遣い,心配;理解する
* intestate (adj.):無遺言で
* slavish (adj.):奴隷根性の;卑屈な
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 4: Fear.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE04-160.HTM

[寸言]
幼い頃に不合理な恐怖心を身につけると,大人になっても意識下を支配する恐怖心の悪影響を受け続けることがある。そういった恐怖心は親(が持つ恐怖心)から知らないうちに受け継いていることが少なくない。

厳しい世の中(人間関係、自然環境)に対処るすためには「備え」が必要ではあるが、そういった「備え」を一応したからには、勇気を持って世界に出て行くことが望まれる。

恐怖心を抱くものは助けてもらえそうな人や組織にしがみつくことになりやすい。為政者も、汚職や失政などで国民の支持を失うと、外敵(仮想敵国など)の非道さや邪悪さを強調して国民の恐怖心をあおり、そうすることによって国民の支持を再び得ようとすることが、歴史上、たびたびあった。現代日本においても、・・・。

幼児に公平ということを理解させることの重要性

kouhei_zurui ・・・。しかし,満2歳以後は,一日のうちの何時間かは,絵や粘土やモンテッソーリ式遊具などで,ひとり静かに遊ぶことを教えてやることは,よいやり方である。静かにさせることについては,つねに子供に理解できる理由がなければならない。行儀作法は,一つの楽しいゲームとして教えられる場合を除いて,抽象的な形で教えるべきではない。しかし,子供は,わけがわかるようになり次第,親にも権利があること,また,他人にも自由を与えなければならないこと,そうして(その上で)自分も最大限の自由を持ってよいこと,を理解しなければならない。子供は,容易に公平ということを理解し,他の人が自分に与えてくれるものは,喜んで他の人にも与えるようになるであろう。これこそ,よい行儀作法の核心である。

JOHNSONBut after the first two years it is a good plan to teach them to amuse themselves quietly part of the day, with pictures or clay or Montessori apparatus or something of the kind. There should always be a reason for quiet that they can understand. Manners should not be taught in the abstract, except when it can be done as an amusing game. But as soon as the child can understand, he should realize that parents also have their rights, he must accord freedom to others, and have freedom for himself to the utmost possible extent. Children easily appreciate justice, and will readily accord to others what others accord to them. This is the core of good manners.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 4: Fear.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE04-150.HTM

[寸言]
一人っ子の場合は、できるだけ年の近い子どもと遊ばせるようにしないと、長じてからわがまま(暴君)になりやすい。そうでなければ、シャイになったり、引っ込み思案になったり、内弁慶になったり・・・。

「親の心子知らず」と同じく「子の心親知らず」

A3_Poster_out 私は5歳の時,幼年時代は人生で一番幸福な時期だ,と言われたのを覚えている(当時を思えば,真っ赤な嘘である)。私は,慰めようもないくらい泣き,死んでしまいたいと思い,また,これからの年月,どのようにして退屈に耐えるべきだろうかと思案した。今日では,子供に向かってそんなことを言う人がいるとはほとんど想像できない。
子供の人生は,本能的に前向きである。つまり,つねに,将来可能になるだろうことに向かっている。このことは,子供の努力に対する刺激の一部である。子供の心を後向きにすること,未来を過去よりも悪いものとして示すことは,子供の人生を根元から害するものである。しかし,それは,心ない感傷主義者たちが,以前,子供に向かって幼年時代の喜びを語ることによってやっていたことである。
幸い,彼ら(ラッセルの家族)の言った言葉の印象は,そう長続きしなかった。たいていの場合,私は,大人は勉強しなくてもいいし,好きなものが食べられるのだから,彼らは完全に幸福なのにちがいない,と信じていた。この信念は健康かつ心を活気づけるものであった。

I can remember, at the age of five, being told that childhood was the happiest period of life (a blank lie, in those days). I wept inconsolably, wished I were dead, and wondered how I should endure the boredom of the years to come. It is almost inconceivable, nowadays, that anyone should say such a thing to a child. The child’s life is instinctively prospective : it is always directed towards the things that will become possible later on. This is part of the stimulus to the child’s efforts. To make the child retrospective, to represent the future as worse than the past, is to sap the life of the child at its source. Yet that is what heartless sentimentalists used to do by talking to the child about the joys of childhood. Fortunately the impression of their words did not last long. At most times I believed the grown-ups must be perfectly happy, because they had no lessons and they could eat what they liked. This belief was healthy and stimulating.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 4: Fear.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE04-140.HTM

[寸言]
jido-gyakutai_poster02 「躾のために7歳の子どもを山の中に置きざりにした事件」は、無事解決し、父親も深く反省しているということで、この件は一見落着しました。
しかし、「躾」がなっていなくて親になった大人が、自分の子どもに「躾」と称して「虐待」をする事件が頻発しています。自分が我が子と同じ年頃の時にどうであったか(どれだけの理解力があったか、精神の発達はどうであったか)ということを考える想像力がないくせに、自分は子どもを理解していると錯覚している親が多すぎますね。
子どもとともに親は成長する、ということをよく自覚すべきです。

我が子(子ども)が「死」の問題について質問してきたら・・・

yurikago_kara_hakaba_made これに関連して,難しくて,取り扱うのにかなりのコツが必要な問題がいくつかある。一番難しいのは死の問題である。
子供は,やがて,植物や動物が死ぬことを発見する。子供が6歳にならないうちに,子供の知っている誰かが死ぬだろうということも,死の問題を知る機会である。いやしくも利発な子供ならば,いつか両親も死ぬだろうし,自分自身もまた死ぬだろうということ -(自分の死はより想像するのが難しいことであるが- を思いつく(はずである)。こういった思いは,多くの疑問を生み出すだろうが,それには慎重に答えてあげなけらばならない。
正統的な信仰を持っている人は,死後の生命など決して存在しないと考える人よりも,困難を感じないで済むだろう。もしも,あなたが後者の見解を抱いているならば,その見解に反するようなことを言ってはならない。どう考えてみても,親が自分の子供に嘘をつくことを正当化するものはない。
死は目覚めることのない眠りである,と説明するのが一番よい。このことは,まじめくさった顔をせずに,ごくあたりまえに想像できることであるかのごとく話すべきである。もしも,子供が自分の死について思い悩むようであれば,死ぬのはまだ遠い遠い先まで起こりそうにない,と言ってあげるのがよい。
幼いころに,死をストイック(冷静かつ禁欲的に)に軽く見る態度を教えこもうと試みても,無駄であろう。死の話題は(親から)持ち出してはいけないが,子供のほうから持ち出したときには避けてはならない。死には神秘的なものは何もないと子供に感じさせるように,力を尽くすのがよい。子どもが正常で健康ならば,死についてくよくよ考えこませないようにするには,この方法で十分であろう。
発育のどの段階においても,進んで,十分かつ率直に話し,自分の信じるところを全て語り,死の話題はあまり面白いものではないという印象を植えつけるのがよい(植え付けよう)。老人であれ,若者であれ,死の問題について,多くの時間を消費するのはよくない。

heaven-or-hell_escalatorSome problems, in this connection, are difficult, and require much tact. The most difficult is death. The child soon discovers that plants and animals die. The chances are that somebody he knows will die before he is six years old. If he has at all an active mind, it occurs to him that his parents will die, and even that he will die himself. (This is more difficult to imagine.) These thoughts will produce a crop of questions, which must be answered carefully. A person whose beliefs are orthodox will have less difficulty than a person who thinks that there is no life after death. If you hold the latter view, do not say anything contrary to it ; no consideration on earth justifies a parent in telling lies to his child. It is best to explain that death is a sleep from which people do not wake. This should be said without solemnity, as if it were the most ordinary thing imaginable. If the child worries about dying himself, tell him it is not likely to happen for many, many years. It would be useless, in early years, to attempt to instil a stoic contempt for death. Do not introduce the topic, but do not avoid it when the child introduces it. Do all you can to make the child feel that there is no mystery about it. If he is a normal, healthy child, these methods will suffice to keep him from brooding. At all stages, be willing to talk fully and frankly, to tell all that you believe, and to convey the impression that the subject is rather uninteresting. It lis not good either for old or young to spend much time in thinking about death.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 4: Fear.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE04-130.HTM

[寸言]
「死の恐怖」に苛まれ、それが原因で病気になったり、寿命が大幅に縮まってしまうなんてことは、愚かな対応の仕方。だからといって、迷信や嘘を必須とするような宗教に走るのも、知性を持った人間としてはなさけない。

ohkawa-getemno いや、人間の死の問題については、知性ではでなく、心(感性)のほうが重要(心の持ち方が大切)というのが宗教の誘い文句個人として宗教に安心立命をたくすのはいけないとは言えないだろうが、それを他人に対してあたかも「信仰は必須(無神論者は地獄に落ちる!)」などと言うようになったら大きな害を社会に及ぼすようになる。

宗教にはいろいろあり、大きな宗教(キリスト教、イスラム教、仏教などの世界宗教)には無数と言ってよいほどの宗派があり,いがみあっている。そうして、自分が信じる宗教を信じる人(狂信的な人)は「天国」にいけるが、自分がよくないと思っている宗教を信じる人は「地獄」に落ちると言ったりする。

子どもがいる人は自分の子どもや孫が自分が死んだ後も生き続けるので自分は死んでも自分の分身が生き続けていくと考えれば、自分が死ぬことによってすべてが終わると考えなくてすむ。子どもがない人の場合は、兄弟姉妹の子どもを自分の分身と考えてもよいし、あるいは、人によっては、人類が地球上に生命が誕生してから人間にまで発達した壮大な生命史を考えることによって、なぐさめられる(心の平安を持てる)かも知れない。
いずれにしても、死ねば「天国にいける」なんて(自分が思い込むのは勝手であるが)他人に対して言うことは「出すぎた発言(余計なお世話)」であろう。

(迷信の原因となる)神秘的なものに対する恐怖(心)

DOKUSH56 神秘的なもの(得体のしれないもの)に対する恐怖(心)は,すでに子供の恐怖に関連して,触れている。私は,この恐怖(心)は本能的なものであり,歴史的に見てきわめて重要であると信じている。大部分の迷信は,この恐怖(心)によるものである。
日蝕及び月蝕,地震,疫病,その他この種の出来事が,非科学的な人びとの間に大いに迷信をはびこらせた。迷信は,個人的にも社会的にも,非常に危険な恐怖(心)の形である。だから,若い頃にそれを根絶することは大いに望ましい。
迷信に対する適切な解毒剤は,科学的な説明である。一見して神秘的にみえるすべてについて説明してあげなくてもよい。何回かしっかりした説明が与えられれば,子供は他の場合にも説明がつくと考えるようになり、また,(説明できるはずだが)説明はまだつかないのだと教えることも可能になるだろう。
重要なことは,神秘感はただ単に無知によるものであり忍耐と知的な努力によってなくすことのできるものだという感情を,できるだけ早く持たせることである。初め神秘的な性質のために子供を怖がらせていたものが,恐怖(心)を克服するや否や,子供を喜ばせるようになるのは,注目に値する事実である。

superstition_black-catThe fear of the mysterious has been already touched upon, in connection with childish terrors. I believe this fear to be instinctive, and of immense historical importance. Most superstition is due to it. Eclipses, earthquakes, plagues, and such occurrences, arouse it in a high degree among unscientific populations. It is a very dangerous form of fear, both individually and socially ; to eradicate it in youth is therefore highly desirable. The proper antidote to it is scientific explanation. It is not necessary that everything which is mysterious at first sight should be explained, after a certain number of explanations have been given, the child will assume that there are explanations in other cases, and it will become possible to say that the explanation cannot be given yet. The important thing is to produce, as soon as possible, the feeling that the sense of mystery is only due to ignorance, which can be dispelled by patience and mental effort. It is a remarkable fact that the very things which terrify children at first by their mysterious properties delight them as soon as fear is overcome.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 4: Fear.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE04-120.HTM

[寸言]
chimimouryo_gosei 神秘主義(神秘的なもの)に惹かれる人が少なくない。この世の中(宇宙)には人間がまだ理解できないものが無数に存在している。しかし、それはあくまでも人間の相対的な非力さのせいであり、この世の中(宇宙)が神秘的なものであることの証拠にはならない(世界は神秘的でも、平凡でもなく、世界はあるがままのものであろう)。

人間は傲慢になってはいけないが、神秘主義や迷信に陥り、「合理的かつ論理的に思考する努力」をやめてはならない。迷信や神秘主義に陥る者は、周囲に対し偏見や先入観を抱き、非合理的な対応をすることが多く、他者(や多民族や他国)との関係で、不幸な事態を引き起こしやすい。

日本は「神国」(森元首相、日本会議のみなさん)だとか、「美しい日本の」(日本会議のみなさん、自民党の多くの議員)といった枕詞をあらゆるものにつけたりして「思考停止」をするような「反知性的な」人間になってはならない。そういった人間をこの世にたくさん生み出さないためにも、大人は自らの偏見や先入観を子どもに植え付けることなく、(保育の専門家の助けをかりながら)我が子を聡明な人間に育てなければならない。

子供をペットのように可愛がるだけだとしっぺ返しにあい易く・・・

kahogo_inuyo-elevater もちろん,身体的な勇気には,もっと受動的な側面もある。(たとえば)けがをしても,大騒ぎしないことである。こういう勇気は、子供がちょっとした災難にあったときなど,過剰な同情を示さないことによって,教えることができる。後年の(大きくなってからの)ヒステリーの大部分は,主として同情を過度に求めることに原因がある。人は,かわいがってほしい,優しく扱ってほしいと期待して,いろんな病気をでっちあげる。こういう気質は,通常,子供がかすり傷や打ち身でいちいち泣いたりしないように元気づけてやれば,ひどくなるのを防ぐことができる

There are, of course, more passive aspects of physical courage. There is endurance of hurts without making a fuss ; this can be taught to children by not giving too much sympathy when they have small mishaps. A great deal of hysteria in later life consists mainly of an excessive desire for sympathy。
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 4: Fear.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE04-110.HTM

[寸言]
kahogo-kakansho ペットのように子供をかわいがる親(特に母親)は子どもが大きくなった時に、自分の子どもへの接し方が間違っていたことに気づくことが少なくない。
「愛情さえあれば知識は問題ではない」と考える親も、その「知性の乏しさ」のためにしっぺ返しを被ることになり易いが、それは「後の祭り」。

現実の世界の残酷さを子供に初めて教える時の工夫の一つ

Bluebeard けれども,従うべき処世訓はいくつかある。
まず第一に,「青ひげ」(右イラスト)とか,「巨人退治のジャック」とかのお話(物語)は,残酷さについての知識を何も含んでいないので,現在考察している諸問題を引き起こさない。これらのお話(物語)は,子供にとって純粋に空想的なものであり,子供は決して現実の世界と結びつけたりしない。もちろん,子供がこれらのお話(物語)から引き出す喜びは,野蛮な本能と結びついているが,そういう本能は,無力な子供にあっては単なる遊びの衝動として無害であり,子供が成長するにつれて次第に消えていく傾向がある。
gunkoku-shonen しかし,現実の世界の残酷さを子供に初めて教える時には,子供が自分を加害者ではなく,被害者(犠牲者)と同一視するような事件を選ぶように配慮しなければならない。子供が自分を暴君と同一視するお話(物語)においては,子供の中にある野蛮性が大喜びするであろう。この種のお話(物語)は,帝国主義者を生み出しがちである。(松下注:たとえば,第二次世界大戦において外国の軍隊をいたるところで打ち負かしている話を子どもに聞かせるなどする・・・。) だが,アブラハムがイサクを犠牲にしようとする話(物語)とか,エリシャ(Elisha)が呪った子供たちを雌グマが殺す話(物語)は,自然に他の子供に対する同情を引き起こす。そういう話をするときには,人間が遠いむかしに身を落とした深刻な残酷さを示すものとして,話さなければならない。

There are, however, certain maxims which should be followed. To begin with, stories such as Blue-beard and Jack the Giant Killer do not involve any knowledge of cruelty whatever, and do not raise the problems we are considering. To the child they are purely fantastic, and he never connects them with the real world in any way. No doubt the pleasure he derives from them is connected with savage instincts, but these are harmless as mere play-impulses in a powerless child, and they tend to die down as the child grows older. But when the child is first introduced to cruelty as a thing in the real world, care must be taken to choose incidents in which he will identify himself with the victim, not with the torturer. Something savage in him will exult in a story in which he identifies himself with the tyrant ; a story of this kind tends to produce an imperialist. But the story of Abraham preparing to sacrifice Isaac, or of the she-bears killing the children whom Elisha cursed, naturally rouses the child’s sympathy for another child. If such stories are told, they should be told as showing the depths of cruelty to which men could descend long ago.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 11: Affection and Sympathy
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE11-140.HTM

[寸言]
isiba-gunpo-kaigi 昔出版されていた「少年のための戦記漫画」には、太平洋戦争などで日本軍が破竹の勢いで敵(米国など)を打ち倒す様子が,少年の愛国心(=敵国人に対する野蛮な心)を育むように,ほこらしげに描かれていた。もちろん、水木しげるの戦争物のような、「戦争の悲惨さ」を描くものも少なくなかったが、それよりも「愛国心を育むもの」のほうがずっと多かったという記憶がある。

元防衛大臣の石破茂氏は(クリスチャンであり,キャンディーズ好きだというソフトなイメージをふりまいたとしても),基本的には「現代における軍国少年(軍事オタク)」とも言える人物であり、「敵前逃亡をはかった自衛隊員は死刑もありうることを自衛隊法に規定すべきだ」といった,国家主義的な発言をしばしばしている。
石破氏の子供時代の躾や教育に問題があったのでないか、と疑われる。

身体的な勇気の訓練は他人と身体的に張り合うことで与えられるべきではない

rafting 近代世界においては,機械の発展とともに,この種の熟練がますます重要になっている。私が提案したいのは,(子どもに対する)身体的な勇気の訓練は,できるだけ物を操作したり制御したりする技術を教えることで与えられる,ぺきであり,ほかの人間と身体的に張り合って争うことで与えられるべきではない,ということである。登山や,飛行機の操縦や,強風の中での小舟の操作(など)に必要な勇気は,戦闘(身体的闘争)に必要な勇気よりも,はるかに立派なものであると,私には思われる。それゆえ,私は,できるだけ,生徒たちをフットボール(注:英国ではサッカーのこと)のようなもので訓練するよりも,多少危険を伴う機敏さという形で訓練したいのである。
tackle-f【注:安藤・訳では,「・・・フットボールのようなもので訓練するよりも,多少危険で機敏さを要するスポーツで訓練したいのである」と訳されている。「ラッセルは,ほかの人間と身体的に張り合って争うことで与えられるべきではなく=スポーツ競技の形ではなく」と言っているのだから,誤訳であろう。たとえば、飛行機の操縦などはスポーツとは言えない。】

In the modern world, owing to increase of mechanism, this sort of skill is becoming more and more important. I suggest that training in physical courage should be as far as possible given by teaching skill in manipulating or controlling matter, not by means of bodily contests with other human beings. The kind of courage required for mountaineering, for manipulating an aeroplane, or for managing a small ship in a gale, seems to me far more admirable than the sort required in fighting. As far as possible, therefore, I should train school-children in forms of more or less dangerous dexterity, rather than in such things as football.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 4: Fear.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE04-110.HTM

[寸言]
ラッセルはもちろんスポーツは良くないとは言っていない。身体的能力の優れた少数者の場合は、スポーツによる勇気の訓練がよい場合もあるだろう。
Stomping_referee しかし、ラッセルは、勇気は「ほかの人間と身体的に張り合って争うことで与えられるべきではなく,ましてや祖国のために敵国人を殺す勇気ではなく、登山や,強風の中での小舟の操作など、できるだけ物を操作したり制御したりする技術を教えることで与えられる,ぺきである」と考える。
それに現代においては、スポーツを「実際にする(競技する)」人よりも「観戦(だけ)する」人のほうが圧倒的に多い。観戦するだけでは、「勇気」は身につかない。特に子どもが体を動かさずに、テレビやビデオでスポーツを「観戦」ばかりしているのは心身の成長によくない。

2022年はラッセル生誕150年