ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その3_ストローソン氏「指示について」n.03

 私はまた、(同書p.101以下で)私が論じている事例 - その事例では、私は暗い夜にある友人と一緒に歩いている - にも言及しなければならない。 私と友とはお互い相手を見失い(lose touch with)、友は「君はどこにいるの?」と私を呼び、私は「ここにいるよ!」と答える。 一つの主張における自己中心的な要素を最小限にすることは、世界の科学的説明の本質であるが、この試みにおける成功は程度問題であり、また、経験的素材(empiriccal material)に関する場合は、それは決して完全なものではありえない。これは、あらゆる経験語の意味は、究極的には、明示的定義(訳注:ostensive definition 実例を示して言葉の意味を伝える定義法) に依存し、明示的定義は経験に依存し、経験は自我中心的であるからである。けれども、自我中心的語を使って、自我中心的でない何ものかを記述することはできる。このことが、我々が共通の言語(a common language)を用いることを可能にするのである。(訳注:我々が皆その人独特の言葉しか使えないのであれば、コミュニケーションが成り立たないが、共通の言語を持てればコミュニケーションは可能となる、ということ)  これら全て(の主張)は正しいかも知れないし、正しくないかも知れない。しかし、いずれにせよ、ストローソン氏はそれを自身の発明した理論であるかのように述べるべきではない。それに反して、- もしかすると彼は私の言ったことの主旨(purport)を理解しなかったのかも知れないが- 実際は、私は彼がこの論文を執筆する前に既にそれについて述べているのである。私が既にあげた理由により、ストローソン氏が自我中心性を記述の問題とを結びつけるは全くの誤まっていると考えるので、私はこれ以上、自我中心性については述べないことにしよう

Chapter 18,n.3: Mr Strawson on referring, n.3
I must refer, also, to the case that I discuss (page 101 ff.) in which I am walking with a friend on a dark night. We lose touch with each other and he calls ‘Where are you?’ and I reply ‘Here I am !’ It is of the essence of a scientific account of the world to reduce to a minimum the egocentric element in an assertion, but success in this attempt is a matter of degree, and is never complete where empirical material is concerned. This is due to the fact that the meanings of all empirical words depend ultimately upon ostensive definitions, that ostensive definitions depend upon experience, and that experience is egocentric. We can, however, by means of egocentric words, describe something which is not egocentric; it is this that enables us to use a common language. All this may be right or wrong, but, whichever it is, Mr Strawson should not expound it as if it were a theory that he had invented, whereas, in fact, I had set it forth before he wrote, though perhaps he did not grasp the purport of what I said. I shall say no more about egocentricity since, for the reasons I have already given, I think Mr Strawson completely mistaken in connecting it with the problem of descriptions.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell, chapter XVIII
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ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その3_ストローソン氏「指示について」n.02

 ストローソン氏の論文には、私がかつて自己中心的語について考察したことを示すような言葉は一語も見当らない。また(still less いわんや)彼が自己中心的語について主張(擁護)する理論が、既に私が非常に長々とかつて相当詳しく述べた理論そのものであることを示す言葉は一語も見当らない(ラッセルの以下の著作を参照のこと:An Inquiry into Meaning and Truth, Chapter VII, and Human Knowledge, Part II. Chapter IV)。
 彼がそのような語(自己中心的語)について言うところの要点はそれらの語の指示するもの(言及するもの)が、それらの語が用いられる時と場所に依存するという,全く正しい陳述である。このことについては(ラッセル著)『人間の知識』(p.107) から一段落を引用するだけで足りる(であろう)。


「これ」(this) という語は、この語が用いられるその瞬間において、(当該人物の)注意の中心を占めている(occupy 専有している)いかなるものであっても、指示する(denote 指し示す)。自己中心的ではない語に関しては、一定なものは指示された対象における何ものかであるが、「これ(this)」はそれが用いられる機会ごとに異なった対象を指示する(指し示す)。(つまり、)この場合(自己中心的語の場合)一定なものは、指示される対象ではなく、その対象とその語の特定の使用との関係である。「これ」という語が用いられるときはいつでも、それを用いる人が何ものかに注意を向けており、その何ものかをその語は指示する(言及する)のである。(これに対し)自我中心的でない語の場合には、その語の用いられるそれぞれ異なった機会というものを区別する必要はない(のである)。しかし、自己中心的語についてはそれを区別しなければならない。というのは、自我中心的語の指示するものはその語の特定の使用に対して一定の関係をもつところのあるもの(なんらかのもの)だからである。」

ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その3_ストローソン氏「指示について」n.01

 ストローソン氏 (Peter Frederick Strawson、1919- 2006:オックスフォード大学モードリン・コレッジ教授) は,1950年の「マインド」誌に、「(外的)指示について」 (On Referring) と名付けられた論文を発表した。この論文はアントニー・フルー教授の『概念的分析論集』 に再録されている。以下は、この再録本への参照(言及)である。
 この論文の主な目的は私(ラッセル)の記述理論を論駁することである。 私の尊敬する哲学者の中には、ストローソン氏の論文がその目的をよく果たしていると考えているということを私は発見している(見つけている)ので、ストローソン氏のこの論文に対する論争的な答弁が求められていると私は考えるにいたった(訳注:みすず書房版の野田訳では「私(ラッセル)の尊敬する何人かの哲学者たちは私の記述理論がその目的を果たしていると考えている」と訳出している。しかし、「it has achieved its purpose successfully」の”it”は「ストローソン氏の論文」であり、だからこそ「反駁が必要であると考えた」ととるのが常識的です。つまり、野田訳は誤訳と思われます)。 まず、ストローソン氏の議論のいかなる点においても、私は全く妥当性を認めることができないと言ってよいであろう。この無能力(妥当性がわからないこと)が私の老衰によるのか、何か他の原因によるのかは、読者の判断に委ねなければならない。
 ストローソン氏の議論の要点(gist 主旨)は、私が全く別のものとみなしている二つの問題 -- 即ち、記述の問題と自我中心性(egocentricity)の問題-- とを同一視することにある。 私はこれら二つの問題をそれぞれかなり詳細に論じてきたが、二つは別の問題であると考えてきたので、一方を考察している時には他方を扱ってこなかった。このためにストローソン氏は、私が自我中心性の問題を見落としている見せかけ(pretend 装うこと、ふりをすること)を可能とする(のである)。  彼のこの見せかけは、慎重に素材(material 材料)を選ぶことによって助けられている。 私が最初に記述理論を発表した論文の中で、私は特に2つの例を論じた。(即ち)「フランスの現在の王は禿頭である」(訳注:フランスは、当時、王政をひいていなかったことに注意)と 「スコットは『ウェイヴァリー』(という小説の)の著者である」(の2つの例である)。後者の例はストローソン氏を満足させない(does not suit)。従って、彼はまったくおざなりに言及しただけでほとんど無視する(のである)。「フランスの現在の王」については、彼は自我中心的語である「現在の(present)」という語に固執している。もし 私が「現在の」という語の代りに(時期を特定して)「1905年における」という語を代わりに置いたなら、彼の議論の全体が崩壊したであろうことが、彼には理解できないようである。  あるいは、もしかすると、-- ストローソン氏が書く前に私が(既に)述べていた理由か-- 彼の議論の全体とまでは言えないかも知れない(not quite the whole)。けれども、自我中心性が全く含まれていないような記述句の使用例を他に挙げることは難しくはない。(たとえば)次のような文にストローソン氏が自分の説を適用するのを見てみたい。(即ち)「-1の平方根は、-4の平方根の二分の一である。」、あるいは、「3の三乗は2番めの完全数の直前の自然数である。」(訳注:2番めの完全数=28/自然数nで自分より小さい正の約数の和がnに等しいとき,nを完全数という。 例えば,28の約数は28,14,7,4,2,1で28を除いた約数の和(14+7+4+2+1)は28となるので 28 は完全数) この二つの文のいずれにも自我中心的語は存在いが、記述句を解釈するという問題は自我中心的語が存在する場合と全く同じである。

Chapter 18,n.3: Mr Strawson on referring, n.1
Mr P. F. Strawson published in Mind of 1950 an article called ‘On Referring’. This article is reprinted in Essays in Conceptual Analysis, selected and edited by Professor Antony Flew. The references that follow are to this reprint. The main purpose of the article is to refute my theory of descriptions. As I find that some philosophers whom I respect consider that it has achieved its purpose successfully, I have come to the conclusion that a polemical reply is called for. I may say, to begin with, that I am totally unable to see any validity whatever in any of Mr Strawson’s arguments. Whether this inability is due to senility on my part or to some other cause, I must leave readers to judge. The gist of Mr Strawson’s argument consists in identifying two problems which I have regarded as quite distinct — namely, the problem of descriptions and the problem of egocentricity. I have dealt with both these problems at considerable length, but as I have considered them to be different problems, I have not dealt with the one when I was considering the other. This enables Mr Strawson to pretend that I have overlooked the problem of egocentricity. He is helped in this pretence by a careful selection of material. In the article in which I first set forth the theory of descriptions, I dealt specially with two examples: ‘The present King of France is bald’ and ‘Scott is the author of Waverley’. ‘The latter example does not suit Mr Strawson, and he therefore entirely ignores it except for one quite perfunctory reference. As regards ‘the present King of France’, he fastens upon the egocentric word ‘present’ and does not seem able to grasp that, if for the word ‘present’ I had substituted the words ‘in 1905’, the whole of his argument would have collapsed. Or perhaps not quite the whole, for reasons which I had set forth before Mr Strawson wrote. It is, however, not difficult to give other examples of the use of descriptive phrases from which egocentricity is wholly absent. I should like to see him apply his doctrine to such sentences as the following: ‘the square-root of minus one is half the square-root of minus four’, or ‘the cube of three is the integer immediately preceding the second perfect number’. There are no egocentric words in either of these two sentences, but the problem of interpreting the descriptive phrases is exactly the same as if there were.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
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ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その2_論理学と存在論 _09

 数理論理学(記号論理学)がなすことは、存在論的地位が疑わしい可能性があるようなところで存在論を確立することではなく、 むしろ、ひとつの対象を指示するという直截的な意味をもつところの語の数を減らすことであ る。すべての自然数が何らかの存在者であるということは、以前には普通な考えであった。そしてす べての自然数がそうだとまで言わない人でも、一という数がひとつの存在者であることは信じていた。 われわれはといえば、それが真でないという証明はできないけれども、数学がそういう考えの証拠を 何も与えないということを証明することはできるのである。  最後に、「普遍者は存在するか」という問いは多義的である。或る解釈では、たしかに「然り」と答 えることができる。他の解釈では、現在のところ決定的な答は可能でないように見える。私が普遍者 の存在論的地位について主張しうることは、『意味と真理との研究』の最終章に述べてある。(終)

Chapter 18: Some Replies to Criticism, n.2_9
What mathematical logic does is not to establish ontological status where it might be doubted, but rather to diminish the number of words which have the straightforward meaning of pointing to an object. It used to be a common view that all the integers were entities, and those who would not go so far as this were at least persuaded that the number 1 is an entity. We cannot prove that this is not the case, but we can prove that mathematics affords no evidence for it. Finally, the question ‘Are there universals?’ is ambiguous. In some interpretations, the answer is certainly ‘yes’ ; in others no decisive answer seems possible at present. What I have to say about the ontological status of universals is contained in the last chapter of An Inquiry into Meaning and Truth.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
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ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その2_論理学と存在論 _08

       プラトンのイデア(人間は洞窟の中にいる囚人?)

普遍者は存在するか」という問いは多用な解釈が可能である。第一に、存在記号の意味に解釈可能である(訳注:存在記号、existential quantifier とは、数理論理学、特に述語論理において、少なくとも1つのメンバーが述語の特性や関係を満たすことを表す記号)。我々は次のように言うことができる。(即ち)「二つの固有名と一つの関係語(注:関係を表す言葉)とを含む文があり、そういう文がなければ、我々が知っていると信じる(ところの)事実の主張の多くは不可能になるであろう」。そしてさらに進んでこう言うことができる、(即ち)そういう文の中の名前(固有名)が、言語外の何ものかを指示する(point to)のと全く同様に、関係語もまた言語外のなにものかを指示しなければならない、と。アレ クサンダー大王がカエサル(シーザー)に先行したことはひとつの事実であり、この事実は単にアレクサンダー大王とカエサル(シーザー)とからのみなるとは言えない(訳注:この一文はこの二人は何らかの関係があると主張している)。関係語は、それなくしては述べることが不可能であるような事実を主張可能にする、という目的を果すことは明らかである。ここまでのとこは、我々は強固な地盤の上にあると、私は考える。しかし、(そこから)いかなる意味においても、「先行する」(preceding)と名付けられるひとつの(何らかの)「もの(thing)」がするということにはならない(I do not think it follows that)、と私は考える。関係語は、その関係項(relata)がすでに与えられているときにのみ、正しく使用されるのである。(訳注:”relata” : relatumの複数形)  このことは述語(predicates)についても等しくあてはまる。 クワイン (Willard van Orman Quine、1908-2000:米国の著名な哲学者)は、述語または関係語が見かけ上の変項(訳注:apparent variables/野田氏は「束縛変項 bound variable」と訳しているが誤訳ではないか? )として現れる場合に、特別な困難があることを見出している。たとえば、「ナポレオンは偉大な将軍としてのあらゆる性質をもっていた」という陳述をとってみよう。これは次のように解釈されなければならないであろう。 (即ち)全ての f について、もし「x は偉大な将軍であった」が、全ての xについて、fx(xはfである)を意味するならは(含意するならば)、f ナポレオン)である。これは、f に -できることならば避けたいところの- 実体性を与えることを意味しているように思われる(たとえば、ナポレオンという普遍で変化のない実体)。私はその困難を実感しており、その答えがわからない。我々は、もちろん、述語や関係語を表わす変項(variables)なしですますことはできない。しかし、私の感じ(my feeling)では、一方固有名の意味するものと、他方述語や関係語の意味するものとの間の存在論的地位の相違を維持できるような技術的な工夫が可能であろう

Chapter 18: Some Replies to Criticism, n.2_8
The question ‘Are there universals.?’ can be interpreted in various ways. In the first place, it can be interpreted in the sense of the existential quantifier. We cay say: ‘There are sentences containing two names and a relation-word, and without such sentences many assertions of facts which we believe ourselves to know would be impossible.’ We can go on to say that, just as the names in such sentences point to objects, so the relation-words must point to something extra-linguistic. It is a fact that Alexander preceded Caesar, and this fact does not consist merely of Alexander and Caesar. Relation-words, it is clear, serve a purpose in enabling us to assert facts which would otherwise be unstatable. So far, I think, we are on firm ground. But I do not think it follows that there is, in any sense whatever, a ‘thing’ called ‘preceding’. A relation-word is only used correctly when relata are supplied. This applies equally to predicates. Quine finds a special difficulty when predicates or relation-words appear as apparent variables. Take, for example, the statement ‘Napoleon had all the qualities of a great general’. This will have to be interpreted as follows: ‘whatever f may be, if “x was a great general” implies fx, whatever x may be, then f (Napoleon)’. This seems to imply giving a substantiality to f which we should like to avoid if we could. I think the difficulty real, and I do not know the answer. We certainly cannot do without variables that represent predicates or relation-words, but my feeling is that a technical device should be possible which would preserve the differences of ontological status between what is meant by names on the one hand, and predicates and relation-words on the other.   
 Source: Bertrand Russell : Power, a new social analysis, 1938
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ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その2_論理学と存在論 _07

 この問題が解けたと仮定すると、我々には(次のような)存在論的問題が残される。(即ち)もし語が意味をもち、文が意義を持つべきとしたならば、一方では語や文との間に、他方で語と事実との間に、いかなる関係が存在(存立)しなければならないか?
 第一に(まず)、我々は、我々の語彙(ヴォキャボラリー)から言語的定義を持つあらゆる語を排除することができる。なぜなら、我々は常にその語の代りにその語の定義を代入することができるからである。細かな点は無視して言うと (omitting niceties)、 時には、語の対象に対する関係(ある語がある対象にどのような関係があるか)はかなりはっきりしている。(たとえば)「ドワイト・D・アイゼンハウアー(第34代アメリカ合衆国大統領)」という名(名前)で指示される対象を我々は知っている。、我々は色の名の意味することを知っている、等々。しかし、もっと困難が感じるような語も存在している。(たとえば)「アレキサンダー大王はカエサル(シーザー)に先行した」と言うとき、アレキサンダーやカエサルは固体である(solid 形状が一定)と感じる(これはもしかすると誤まっているかも知れない)。しかし「先行した(preceded)」という語はどうだろうか? 苦境に陥って(”at a pinch” = “in a pinch”)我々はアレキサンダーだけ、 またはカエサルだけ、あるいはこの二人だけからなる宇宙を想像することができる(訳注:想像だけならどんな宇宙も思い描くことが可能/我々は想像の上だけなら、自分しか存在しない宇宙を思い浮かべることもできる)しかし、「先行した」(という語)だけからなる宇宙を想像することはできない。こういったことが、実体の存在への信念と、普遍(者)についての疑いへと導いてきたのである(訳注:個物の存在は信じるが、普遍の実在は信じられないこと)。ここでもまた、言語上の必要性は明らかであるが(訳注:)、これらの必要性の形而上学的な意味合いは不明である。即ち、我々は「先行する」というような語をなしですますことはできないが、このような語が、固有名のような仕方で宇宙をつくっている煉瓦の一つを指示しているとは思われない。

Chapter 18: Some Replies to Criticism, n.2_7
Presuming this problem solved, we are left with the ontological problem: what relations must subsist between our words and sentences, on the one hand, and fact, on the other, if our words are to have meaning and our sentences are to be significant.? We can, to begin with, exclude from our vocabulary all words that have a verbal definition, since we can always substitute the definition for the words. Sometimes (omitting niceties) the relation of a word to an object is fairly clear: we know the object indicated by the name ‘Dwight D. Eisenhower’; we know what we mean by the names of colours; and so on. But there are other words about which we feel more difficulty: if we say ‘Alexander preceded Caesar’, we feel (perhaps mistakenly) that Alexander and Caesar are solid. But what about the word ‘preceded’.? We could, at a pinch, imagine a universe consisting only of Alexander or only of Caesar or only of the pair of them. But we cannot imagine a universe consisting only of ‘preceded’. It is this sort of thing that has led to belief in substance and to doubt about universals. Here, again, the needs of language are clear, but the metaphysical implications of these needs are obscure. We cannot do without such words as ‘precede’, but such words do not seem to point at one of the bricks of the universe in the kind of way in which proper names can do.  Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_18-230.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その2_論理学と存在論 _06

 こうあってほしい世界ではなく、あるがままの世界を理解することが重要

 論理学の存在論に対する関係は、実際、非常に複雑である。 この問題の言語的側面を、(論理学の)存在論に関係をもつ側面から、ある程度分離することは可能である。 言語的問題は、少なくとも理論上は、正確に解決することができるが、存在論的問題ははるかに不明瞭である(はっきりしない)。けれども、純粋に言語的な問題は、いくらか漠然としたものであるが、存在論的背景をもっている。 は(いくつかの)語で構成されており、事実を主張できるものであるならば、それらの語のいくつかは「意味」と呼ばれるもの、即ち、語以外の何ものかに対するある種の関係をもっていなければならない。レストランのウェイターが「大変よい新鮮なアスパラガスがございます」と我々に言っておきながら、後になって彼が、自分の言葉は単に言語上のものあったのであって、現実のアスパラガスへの指示をまったく含んでいなかった(など)と言い訳をするなら、私は大いに腹を立てるのは正当であろう(justly)。存在論へのこの程度の関与は、日常の話し言葉の全てに含まれている。しかし、語が語以外の対象に対してもつ関係は、 関係する語の種類によって変化し、そうして、それは品詞論の論理的形態を生み出している(訳注 “the doctrine of parts of speech” 品詞論:文法の一部門で、ある言語にはどのような品詞を区別すべきか、諸言語に共通する品詞があるか、などを研究)。 ある文が意義(significance)を持つべきなら、その文が純粋な論理学の文でないなら、その文の含む語のいくつかは何ものかを指示しなければならないが、その他の語(は必ずしも)何ものかを指示する必要はない(訳注:無意味な文以外は、文は意義 significance を持ち、単語は意味 meaning を持つ)。「イギリスの女王(the Queen of England)」 という句を含む文は、世界の中に「女王」および「イギリス」という語によって指示されるものが全くなければ有意義ではありえないが、「定冠詞 (the)」 や「の (of) 」という語が指示する何ものかが存在する必要はない存在論に対する数理論理学の関係の大部分は、我々が理解できると感じる陳述を理解するために必要な対象の数を減らすことにある。こういった削り取っていくプロセス(をとること)の唯一の理由は、軽率かつ根拠のない思い込み(unwarranted assumptions)を避けるためである。通常の経験的陳述が有意義なものであるべきならば(それが言語そのものについての陳述でないとすると/言語上のものでないとすると)、それらの陳述は、語以外の何ものかを指示しなければならない。そうして 次の純粋に技術的な問いが生ずる。)(即ち)「我々が事実であると信ずることを主張することを可能にする(のに必要な)最小語彙は何であるか(最小限必要な語彙は何であるか?)。

Chapter 18: Some Replies to Criticism, n.2_6 The relation of logic to ontology is, in fact, very complex. We can in some degree separate linguistic aspects of this problem from those that have a bearing on ontology. The linguistic problems are capable, at least in theory, of a precise solution, but the ontological problems remain much more obscure. The purely linguistic problems, however, have an ontological background, though a somewhat vague one. Sentences are composed of words, and, if they are to be able to assert facts, some, at least, of the words must have that kind of relation to something else which is called ‘meaning’. If a waiter in a restaurant tells me, ‘We have some very nice fresh asparagus’, I shall be justly incensed if he explains that his remark was purely linguistic and bore no reference to any actual asparagus. This degree of ontological commitment is involved in all ordinary speech. But the relation of words to objects other than words varies according to the kind of word concerned, and this gives rise to a logical form of the doctrine of parts of speech. If a sentence is to have significance, unless it is a sentence of pure logic, some of its words must point to something, but others need not. A sentence could not significantly contain the phrase ‘The Queen of England’ unless there were something in the world that was pointed to by the word ‘Queen’ and by the word ‘England’, but there need not be anything pointed to by the word ‘the’ or the word ‘of’. A large part of the bearing of mathematical logic upon ontology consists in diminishing the number of objects required in order to make sense of statements which we feel to be intelligible. The only reason for this process of whittling away is to avoid rash and unwarranted assumptions. If our ordinary empirical statements are to be significant, they must (if they are not linguistic) point to something outside words. The purely technical question thus arises: what is the smallest vocabulary which will enable us to assert what we believe to be fact?
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell  
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 ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その2_論理学と存在論 _05

 ここで、私は「存在」 という特有の問題に行きつく。「存在」という語(言葉)は、通常の用法では、 文法上(構文上)の混乱を生じさせるものであり、これまで多くの形而上学的混乱の源となってきたと私は主張するとともに、この事実をはっきり認めることは混乱を避けるために非常に重要なことであると私は考える。たとえば、次のような推論をとってみよう。 「私の現在の感覚は存在する(my present sensation exists)。これは私の現在の感覚である(this is my present sensation;)。ゆえにこれは存在する(therefore this exists)。」 この推論において、二つの前提は真であるかも知れないが、結論は無意味である、と私は主張する。このこと(主張/内容)を日常語によって明確にすることは不可能である。そしてそれ(日常語で明らかにすること)が不可能だということが、日常語(を分析に使うこと)に反対する一つの論拠である。私 はこのことに関係する唯一の妥当な概念は、ヨ(存在記号)の概念である、と主張する。この概念は次のように定義することができるであろう。 変数 x を含み、(その)変数に値が代入されると命題となる式 fx が与えられたとき、式 (∃x). fx (訳注:現在では、「.」を省略して (∃x)fx と表記)は、fx が真となる x の値が少なくとも 1 つ存在することを意味する(と我々は言う)。 私自身は、これを「~がある」の定義とみなしたいが、しかし、そうすると、私の考えを理解してもらえない(自分の言いたいことを伝えることができない)( I could not make myself understood.)。
 我々が「~がある」と言うとき、我々のこの陳述が真であるということから、この陳述で 「ある」といわれている当のものが、-わざと曖昧な表現を使うと(to use a deliberately vague phrase)- 世界を成り立たせる備品(道具建て)の一部(part of the furniture of the world)であることには(必ずしも)ならない。数理論理学「数がある」という陳述を許容しており、メタ論理学(metalogic メタ論理学/数学基礎論) は 「数は論理的虚構あるいは記号法上の便宜である」という陳述を許容する。 数は集合の集合であり、集合は記号法上の便宜手段である(訳注:たとえば、「2」という数は、「2つのものの集合」の集合)。 存在記号ヨを日常語に翻訳しようとする試みは、ひとを困惑に陥らせる運命にある。なぜなら、伝えられるべき観念は通常の話し言葉を組み立ててきた人々には知られていないものだったからである。数がある(存在する)」という陳述は、相当手の込んだやり方で解釈されなければならない。我々は、まずある命題関数、たとえば fxから出発して、次に「f という属性をもつ物の数」 (the number of things having the property f)を定義し、続いて「何らかの特性(some property or other)をもつ物の数であるところの任意のもの」 (whatever is the number of things having some property or other) として「数」を定義しなければな らない(訳注:同上:「n」という数は、「n個のものの集合」の集合)。このようにして、我々は「n は数である」という命題関数の定義を得るのであり、この n に、(既に)「1」として定義したものを代入すれば、我々は真なる陳述を得る(のである)。 これが「少なくともひとつの数が存在する」と言うことによって意味されていることである。しかし、我々は、数の実在性についてプラトン的な主張をしているのではないことを、日常言語によって明ら かにすることは、きわめて困難である。(訳注:プラトンは、抽象的なものはこの世には存在せず、あの世=天国にのみ存在する、たとえば、三角形そのものは現実世界には存在せず、天国にイデア=観念としてのみ存在する、と主張。)

Chapter 18: Some Replies to Criticism, n.2_5
I come now to the particular question of ‘existence’. I maintain — and I think that this has great importance in avoiding muddles — that the word ‘existence’ as ordinarily used gives rise to syntactical confusion and has been a source of a great deal of metaphysical confusion. Take, for example, the following piece of reasoning: ‘my present sensation exists; this is my present sensation; therefore this exists’. I maintain that the two premisses may be true, but the conclusion is nonsense. It is impossible to make this clear in common language. This is an argument against common language. I maintain that the only legitimate concept involved is that of ∃. This concept may be defined as follows: given an expression fx containing a variable, x, and becoming a proposition when a value is assigned to the variable, we say that the expression (∃x).fx is to mean that there is at least one value of x for which fx is true. I should prefer, myself, to regard this as a definition of ‘there is’, but, if I did, I could not make myself understood. When we say ‘there is’ or ‘there are’, it does not follow from the truth of our statement that what we say there is or there are is part of the furniture of the world, to use a deliberately vague phrase. Mathematical logic admits the statement ‘there are numbers’ and metalogic admits the statement ‘numbers are logical fictions or symbolic conveniences’. Numbers are classes of classes, and classes are symbolic conveniences. An attempt to translate ∃ into ordinary language is bound to land one in trouble, because the notion to be conveyed is one which has been unknown to those who have framed ordinary speech. The statement ‘there are numbers’ has to be interpreted by a rather elaborate process. We have first to start with some propositional function, say fx, then to define ‘the number of things having the property f’, then to define ‘number’ as ‘whatever is the number of things having some property or other’. In this way we get a definition of the propositional function ‘n is a number’, and we find that if we substitute for n what we have defined as ‘1’, we have a true statement. This is the sort of thing that is meant by saying there is at least one number, but it is very difficult, in common language, to make clear that we are not making a platonic assertion of the reality of numbers.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
 More info.: https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_18-210.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その2_論理学と存在論 _04

 ウォーノック氏は、自分が取り扱う(論ずる)と公言している問題を明らかにするために(これまで)論理学者達のしてきたことを全て、故意かつ意識的に(deliberately and consciously),無視している。彼は「ヴァルハラは神話的である」という陳述をもて遊んでいる(make play with)。ヴァルハラ(注:北欧神話で戦死者の住む天国の宮殿のこと)に関するものと思われる陳述は(実は)「ヴァルハラ」(という語)についての陳述であるといういくらか慎重な理論(学説)に彼は言及しない。この理論は正しいかも知れないし、正しくないかも知れない。しかし、そういう理論は全く存在しないようなふりをすることの正当化は理解できない(正当化はできない),と私は考える。彼は自分の論文の冒頭で、自分が関心を持っている中心的な問題(問い)は抽象的な実体は存在するか?」であると述べている。次に、彼は「(・・・が)ある(存在する)」という語に対する論理学者による解釈に異議を唱え(proceeds to object to)、そうして、それを理由にして (少なくとも私は彼の論文においてこれ以外の理由を見出しえない) この中心的な問題に答えないままにしてしまう。そして明らかに彼の見解ではその問題に答えることはできない。彼は、「あるもの(something)」という語の使用は(使用したからと言って)、日常会話(ordinary speech)では、そのものが存在することを意味しない,と指摘しているのは全くその通りである。彼は「あるもの(something)は素数である」という陳述の例をあげ、この陳述は「奇妙で、人を惑わすもの(不可解)である」と言う。しかし、数理論理学(数学的論理学)の言語が正確さにおいても、一般性においても、日常言語に優っていることを彼は思いつかない。もし、我々が十二の「もの」と十二の「名」をもつとしたなら、日常会話では、その十二の「名」を十二の「もの」に適用するようなことが容易に起りうるであろう。日常の言葉は二つの反対の欠点を持っている。即ち、日常の言葉には、しばしば、多くの意味をもつ一つの語と、ひとつの意味を もつ多くの語がある。 前者(第一の欠点)は次の文章によって示されるであろう。「ロムルスが存在したかどうかは疑わしい。なぜなら、ローマの存在の最初の世紀についての、現に存在する伝説の信憑性を疑うべき理由が存在するから(Whether Romulus existed is doubtful, since reasons exist for questioning the reliability of existing legends as to the first century of Rome’s existence)」。(左記の文で「存在(exist)」という語が4回とも違った意味で使用されている)  同じ意味を表すのに多くの言い方があるという反対の欠点は、「素数がある」とか,「ライオンは今でもアフリカに存在する」とか,「月に影がある」とか,我々が言う場合についてのウォーノック氏の議論によって示されている。 上の最後の文の「月に影がある」 (There are shadows on the moon)は「影が存在する」 (shadows exist) ということを意味しないと彼は考えるらしい。「影が存在する」という言い方をたいていの人はそうは言わないというただそれだけの理由で、彼はしりぞけてしまうのである。論理学者は、ひとつのものに対してひとつの名をもつような言語が望ましいと考える。 ここで「望ましい」と言うのは、日常使用にとって望ましいと言うのではなく、世界について正確な陳述をしようと試みる場合に望ましいと言うのである

Chapter 18: Some Replies to Criticism, n.2_4 Mr Warnock deliberately and consciously ignores all that logicians have done to clarify the problems with which he professes to deal. He makes play with the statement ‘Valhalla is mythological’. He does not mention the somewhat careful theory according to which statements that seem to be about Valhalla are really about ‘Valhalla’. This theory may be right or wrong, but I cannot see the justification for pretending that there is no such theory. He tells us at the beginning of his article that the central question with which he is concerned is: are there abstract entities? He then proceeds to object to the logician’s interpretation of the words ‘there are’, and on this ground (at least, I can find no other in his article) he leaves his central question unanswered and, apparently, in his view unanswerable. He points out, quite truly, that the use of the word ‘something’ does not, in ordinary speech, imply that there is such a thing. He instances the statement ‘something is a prime number’, which, as he says, ‘is odd and mystifying’. It does not occur to him that the language of mathematical logic surpasses common language both in precision and in generality. If you have twelve things and twelve names, it may easily happen that common speech applies all twelve names to all twelve things. Common speech has two opposite defects: it has often one word with many meanings and many words with one meaning. The former defect may be illustrated by the following sentence: ‘Whether Romulus existed is doubtful, since reasons exist for questioning the reliability of existing legends as to the first century of Rome’s existence.’ The opposite defect of having several expressions for the same meaning is illustrated by Mr Wamock’s discussion of when we should say ‘There are primes’, ‘Lions still exist in Africa’, ‘There are shadows on the moon’ — which last, he seems to think, does not imply that shadows exist, a phrase which he rejects solely on the ground that most people would not use it. The logician thinks that a language is preferable in which there is one name for one thing. And when I say ‘preferable’, I do not mean ‘preferable’ for everyday use, but ‘preferable’ in an attempt to make precise statements about the world.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
 More info.: https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_18-200.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その2_論理学と存在論 _03

 

存在記号と全称記号(”Existential quantifier” and “Universal quantifier”)

この寓話はウォーノック氏の存在記号(注:∃)についての議論についてのパロディでは決してない(注:存在記号とは、数理論理学(特に述語論理)において、少なくとも1つのメンバーが述語の特性や関係を満たすことを表す記号。この記号は1897年にジュゼッペ・ペアノによって導入された。 これとは対照的に全称記号は、何かが常に真であることを示す記号)。「存在記号(∃)」は 「魚」に類似した一般概念である。それを名前に適用すると「ひめはや(minnow)」に類似し、述語に適用すると「ます(trout)」に類似し、関係(概念)に適用すると「すずき(perch)」に類似し、以下同様である。論理学者が「存在記号」を使う時に、日常会話では異なる機会に異なる語を用いるという事実は、論理学を学んだことのない人々が存在記号∃によって表される一般観念にまだ到達していない -あたかも寓話のアイシディアンが「魚」という一般観念に到達していなかったように― という事実から生ずる。ウォーノック氏は、日常の話し言葉が区別するところを存在記号は混乱させる(区別をつかなくする)と言う。これはちょうど、アイシディアンが魚という語を用いる者は「ひめはや」と「すずき」との区別をつかなくすると苦情を言ったのと同じである。ウォーノック氏は「日常の話し言葉のかけがえのない非単純性」について語っている。論理学ではなされない区別が日常の言葉にはあることを私も否定しない。日常の言葉には我々自身の感情の表現も込められている。 「何某は全くの悪党だ」と言うのと、「不幸にも何某は必ずしも常に道徳的法則にかなった行動をしなかった」と言うのとでは、二つの陳述における事実の要素は同じであるが、その同一の事実に対する我々の感情的態度は異なっている。

Chapter 18: Some Replies to Criticism, n.2_3
This fable is scarcely a parody of Mr Warnock’s argument about the existential quantifier. ‘Existential quantifier’ is a general concept analogous to ‘fish’. Applied to names, it is analogous to minnows; applied to predicates, it is analogous to trout; applied to relations, it is analogous to perch; and so on. The fact that in ordinary talk people use different words for different occasions when the logician uses the existential quantifier is due to the fact that people who have not studied logic have not. arrived at the very general idea represented by ∃, just as the Isidians in the fable had not arrived at the general idea ‘fish’. Mr Warnock says that the existential quantifier confuses things that common speech distinguishes. This is exactly as if the Isidians had complained that a man who uses the word ‘fish’ confuses minnows with pike. Mr Wamock speaks of the ‘invaluable non-simplicity of ordinary speech’. I do not deny that there are distinctions in ordinary speech which are not made in logic. In ordinary speech we include the expression of our own emotions. If we say that So-and-so is an unmitigated scoundrel, or that unfortunately So-and-so has not invariably acted in accordance with the moral law, the element of fact in the two statements is the same, but our emotional attitude towards the one fact is different in the two cases.  
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
 More info.: https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_18-190.HTM

2022年はラッセル生誕150年