第18章 「批評に対する若干の返答」その2_論理学と存在論 03
この寓話はウォーノック氏の存在記号(注:∃ 存在量化子/存在限定子)についての議論についてのパロディでは決してない(注:存在記号とは、数理論理学(特に述語論理)において、少なくとも1つのメンバーが述語の特性や関係を満たすことを表す記号。この記号は1897年にジュゼッペ・ペアノによって導入された。 これとは対照的に全称記号は、何かが常に真であることを示す記号)。「存在記号(∃)」は 「魚」に類似した一般概念である。それを名前に適用すると「ひめはや(minnow)」に類似し、述語に適用すると「ます(trout)」に類似し、関係(概念)に適用すると「すずき(perch)」に類似し、以下同様である。(参考:ChatGPT からの回答← ChatGPT に質問したところ、先のリンク先にあるような「もっともらしい」回答を返してきました。これはまったくの作り話かも知れません。その場合は、ラッセルがこのような比喩をした理由がわかりません。)論理学者が「存在記号」を使う時に、日常会話では異なる機会に異なる語を用いるという事実は、論理学を学んだことのない人々が存在記号∃によって表される一般観念にまだ到達していない -あたかも寓話のアイシディアンが「魚」という一般観念に到達していなかったように― という事実から生ずる。ウォーノック氏は、日常の話し言葉が区別するところを存在記号は混乱させる(区別をつかなくする)と言う。これはちょうど、アイシディアンが魚という語を用いる者は「ひめはや」と「すずき」との区別をつかなくすると苦情を言ったのと同じである。ウォーノック氏は「日常の話し言葉のかけがえのない非単純性」について語っている。論理学ではなされない区別が日常の言葉にはあることを私も否定しない。日常の言葉には我々自身の感情の表現も込められている。 「何某は全くの悪党だ」と言うのと、「不幸にも何某は必ずしも常に道徳的法則にかなった行動をしなかった」と言うのとでは、二つの陳述における事実の要素は同じであるが、その同一の事実に対する我々の感情的態度は異なっている。
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Chapter 18: Some Replies to Criticism, n.2_3
This fable is scarcely a parody of Mr Warnock's argument about the existential quantifier. 'Existential quantifier' is a general concept analogous to 'fish'. Applied to names, it is analogous to minnows; applied to predicates, it is analogous to trout; applied to relations, it is analogous to perch; and so on. The fact that in ordinary talk people use different words for different occasions when the logician uses the existential quantifier is due to the fact that people who have not studied logic have not. arrived at the very general idea represented by ∃, just as the Isidians in the fable had not arrived at the general idea 'fish'. Mr Warnock says that the existential quantifier confuses things that common speech distinguishes. This is exactly as if the Isidians had complained that a man who uses the word 'fish' confuses minnows with pike. Mr Wamock speaks of the 'invaluable non-simplicity of ordinary speech'. I do not deny that there are distinctions in ordinary speech which are not made in logic. In ordinary speech we include the expression of our own emotions. If we say that So-and-so is an unmitigated scoundrel, or that unfortunately So-and-so has not invariably acted in accordance with the moral law, the element of fact in the two statements is the same, but our emotional attitude towards the one fact is different in the two cases.
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