ラッセル『私の哲学の発展』第18章 「批評に対する若干の返答」その2_論理学と存在論 _07

 この問題が解けたと仮定すると、我々には(次のような)存在論的問題が残される。(即ち)もし語が意味をもち、文が意義を持つべきとしたならば、一方では語や文との間に、他方で語と事実との間に、いかなる関係が存在(存立)しなければならないか?
 第一に(まず)、我々は、我々の語彙(ヴォキャボラリー)から言語的定義を持つあらゆる語を排除することができる。なぜなら、我々は常にその語の代りにその語の定義を代入することができるからである。細かな点は無視して言うと (omitting niceties)、 時には、語の対象に対する関係(ある語がある対象にどのような関係があるか)はかなりはっきりしている。(たとえば)「ドワイト・D・アイゼンハウアー(第34代アメリカ合衆国大統領)」という名(名前)で指示される対象を我々は知っている。、我々は色の名の意味することを知っている、等々。しかし、もっと困難が感じるような語も存在している。(たとえば)「アレキサンダー大王はカエサル(シーザー)に先行した」と言うとき、アレキサンダーやカエサルは固体である(solid 形状が一定)と感じる(これはもしかすると誤まっているかも知れない)。しかし「先行した(preceded)」という語はどうだろうか? 苦境に陥って(”at a pinch” = “in a pinch”)我々はアレキサンダーだけ、 またはカエサルだけ、あるいはこの二人だけからなる宇宙を想像することができる(訳注:想像だけならどんな宇宙も思い描くことが可能/我々は想像の上だけなら、自分しか存在しない宇宙を思い浮かべることもできる)しかし、「先行した」(という語)だけからなる宇宙を想像することはできない。こういったことが、実体の存在への信念と、普遍(者)についての疑いへと導いてきたのである(訳注:個物の存在は信じるが、普遍の実在は信じられないこと)。ここでもまた、言語上の必要性は明らかであるが(訳注:)、これらの必要性の形而上学的な意味合いは不明である。即ち、我々は「先行する」というような語をなしですますことはできないが、このような語が、固有名のような仕方で宇宙をつくっている煉瓦の一つを指示しているとは思われない。

Chapter 18: Some Replies to Criticism, n.2_7
Presuming this problem solved, we are left with the ontological problem: what relations must subsist between our words and sentences, on the one hand, and fact, on the other, if our words are to have meaning and our sentences are to be significant.? We can, to begin with, exclude from our vocabulary all words that have a verbal definition, since we can always substitute the definition for the words. Sometimes (omitting niceties) the relation of a word to an object is fairly clear: we know the object indicated by the name ‘Dwight D. Eisenhower’; we know what we mean by the names of colours; and so on. But there are other words about which we feel more difficulty: if we say ‘Alexander preceded Caesar’, we feel (perhaps mistakenly) that Alexander and Caesar are solid. But what about the word ‘preceded’.? We could, at a pinch, imagine a universe consisting only of Alexander or only of Caesar or only of the pair of them. But we cannot imagine a universe consisting only of ‘preceded’. It is this sort of thing that has led to belief in substance and to doubt about universals. Here, again, the needs of language are clear, but the metaphysical implications of these needs are obscure. We cannot do without such words as ‘precede’, but such words do not seem to point at one of the bricks of the universe in the kind of way in which proper names can do.  Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell More info.:https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_18-230.HTM

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