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バートランド・ラッセル 私の哲学の発展 18-26 - My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell

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第18章 「批評に対する若干の返答」その3_外延的指示についてのストローソン氏の見解 01


ラッセル英単語・熟語1500
 ストローソン氏 (Peter Frederick Strawson、1919- 2006:オックスフォード大学モードリン・コレッジ教授) は,1950年の「マインド」誌に、「(外的)指示について」 (On Referring) と名付けられた論文を発表した。この論文はアントニー・フルー教授の『概念的分析論集』 に再録されている。以下は、この再録本への参照(言及)である。この論文の主な目的は私(ラッセル)の記述理論を論駁することである。 私の尊敬する哲学者の中には、ストローソン氏の論文がその目的をよく果たしていると考えているということを私は発見している(見つけている)ので、ストローソン氏のこの論文に対する論争的な答弁が求められていると私は考えるにいたった(訳注:みすず書房版の野田訳では「私(ラッセル)の尊敬する何人かの哲学者たちは私の記述理論がその目的を果たしていると考えている」と訳出している。しかし、「it has achieved its purpose successfully」の"it"は「ストローソン氏の論文」であり、だからこそ「反駁が必要であると考えた」ととるのが常識的です。つまり、野田訳は誤訳と思われます)。 まず、ストローソン氏の議論のいかなる点においても、私は全く妥当性を認めることができないと言ってよいであろう。この無能力(妥当性がわからないこと)が私の老衰によるのか、何か他の原因によるのかは、読者の判断に委ねなければならない。

 ストローソン氏の議論の要点(gist 主旨)は、私が全く別のものとみなしている二つの問題 -- 即ち、記述の問題と自我中心性(egocentricity)の問題-- とを同一視することにある。 私はこれら二つの問題をそれぞれかなり詳細に論じてきたが、二つは別の問題であると考えてきたので、一方を考察している時には他方を扱ってこなかった。このためにストローソン氏は、私が自我中心性の問題を見落としている見せかけ(pretend 装うこと、ふりをすること)を可能とする(のである)。

 彼のこの見せかけは、慎重に素材(material 材料)を選ぶことによって助けられている。 私が最初に記述理論を発表した論文の中で、私は特に2つの例を論じた。(即ち)「フランスの現在の王は禿頭である」(訳注:フランスは、当時、王政をひいていなかったことに注意)と 「スコットは『ウェイヴァリー』(という小説の)の著者である」(の2つの例である)。後者の例はストローソン氏を満足させない(does not suit)。従って、彼はまったくおざなりに言及しただけでほとんど無視する(のである)。「フランスの現在の王」については、彼は自我中心的語である「現在の(present)」という語に固執している。もし 私が「現在の」という語の代りに(時期を特定して)「1905年における」という語を代わりに置いたなら、彼の議論の全体が崩壊したであろうことが、彼には理解できないようである。

 あるいは、もしかすると、-- ストローソン氏が書く前に私が(既に)述べていた理由か-- 彼の議論の全体とまでは言えないかも知れない(not quite the whole)。けれども、自我中心性が全く含まれていないような記述句の使用例を他に挙げることは難しくはない。(たとえば)次のような文にストローソン氏が自分の説を適用するのを見てみたい。(即ち)「-1の平方根は、-4の平方根の二分の一である。」、あるいは、「3の三乗は2番めの完全数の直前の自然数である。」(訳注:2番めの完全数=28/自然数nで自分より小さい正の約数の和がnに等しいとき,nを完全数という。 例えば,28の約数は28,14,7,4,2,1で28を除いた約数の和(14+7+4+2+1)は28となるので 28 は完全数) この二つの文のいずれにも自我中心的語は存在しないが、記述句を解釈するという問題は自我中心的語が存在する場合と全く同じである。

Chapter 18,n.3: Mr Strawson on referring, n.1

Mr P. F. Strawson published in Mind of 1950 an article called ‘On Referring’. This article is reprinted in Essays in Conceptual Analysis, selected and edited by Professor Antony Flew. The references that follow are to this reprint. The main purpose of the article is to refute my theory of descriptions. As I find that some philosophers whom I respect consider that it has achieved its purpose successfully, I have come to the conclusion that a polemical reply is called for. I may say, to begin with, that I am totally unable to see any validity whatever in any of Mr Strawson's arguments. Whether this inability is due to senility on my part or to some other cause, I must leave readers to judge.

The gist of Mr Strawson's argument consists in identifying two problems which I have regarded as quite distinct -- namely, the problem of descriptions and the problem of egocentricity. I have dealt with both these problems at considerable length, but as I have considered them to be different problems, I have not dealt with the one when I was considering the other. This enables Mr Strawson to pretend that I have overlooked the problem of egocentricity.

He is helped in this pretence by a careful selection of material. In the article in which I first set forth the theory of descriptions, I dealt specially with two examples: 'The present King of France is bald' and ‘Scott is the author of Waverley'. 'The latter example does not suit Mr Strawson, and he therefore entirely ignores it except for one quite perfunctory reference. As regards 'the present King of France', he fastens upon the egocentric word ‘present' and does not seem able to grasp that, if for the word 'present' I had substituted the words 'in 1905', the whole of his argument would have collapsed.

Or perhaps not quite the whole, for reasons which I had set forth before Mr Strawson wrote. It is, however, not difficult to give other examples of the use of descriptive phrases from which egocentricity is wholly absent. I should like to see him apply his doctrine to such sentences as the following: 'the square-root of minus one is half the square-root of minus four', or ‘the cube of three is the integer immediately preceding the second perfect number'. There are no egocentric words in either of these two sentences, but the problem of interpreting the descriptive phrases is exactly the same as if there were.
(掲載日:2022.07.28/更新日: )