ラッセル『私の哲学の発展』第15章 「真理」の定義 n.15

 ひとつの陳述の立証者であるところの、ひとつあるいは複数の諸事実が、その陳述の論理的形式に密接な関係をもつ(bearing)論理的形式を具えている必要はないということを理解することは重要である。その最も単純な例は、選言的なもの(disjunction 分離、分裂、論理学における選言関係/選言命題)である。たとえば、私が火山を見ていて、「あれはエトナ火山かストロンボリ火山のどちらかである」と信じ、かつ私の信念(my belief)が真であると仮定しよう。この時私の信念を立証するところのものは、それはエトナであるという事実であるか、あるいは、それはストロンポリであるという事実である(どちらかの事実である)。従って、ひとつの選言関係がその立証者に対してもつ関係は、その選言関係の(一つの)選言肢)がその立証者に対してもつ関係ほどには直接的ではない。同様のことが、「ある」という語や「一つの(不定冠詞 a)」という語を含む陳述についてもあてはまる(applies to)。全てそういった陳述には、「人」というような一般名(a general term 一般的名辞)があり、そういう名辞を我々は、A,B、その他、が異なる個人を指す場合(where A and B and so on are various men)「私はAに会 った」「私はBに会った」等々の文に共通であるところのものに我々は気づくことができるという意味において、理解できる(のである)。我々は、こういう種類の機構(メカニズム)によって、現実に我々が経験した個別者(particular 個物/特殊例)の限界を超えて進むことができるのである。ただし、我々は個別的事例を挙げることができない一般的陳述において「人」というような一般名(一般的名辞)を用いる場合、そういう一般名(一般的名辞)の意味を(既に)経験によって学んでいなければならない。

Chapter 15, n.15 It is important to realize that the fact or facts by which a statement is verified need not have a logical form bearing any close relation to the logical form of the statement. The simplest example of this is a disjunction. Suppose I see a volcano and believe ‘that is either Etna or Stromboli’, and suppose my belief to be true, what verifies my statement is the fact that it is Etna or, alternatively, the fact that it is Stromboli. Thus the relation of a disjunction to its verifier is less direct than the relation of the true half of a disjunction to its verifier. The same sort of thing applies to statements containing the word ‘some’ or the word ‘a’. In all such statements, there is a general term such as ‘man’, and we can understand this term in the sense that we can notice what is in common between the sentences ‘I met A’, *I met B’, and so on, where A and B and so on are various men. It is by means of this sort of mechanism that we can pass beyond the limits of particulars of which we have had experience, though we must have learnt through experience the meaning of the general terms such as ‘man’, which are used in general statements of which we cannot give particular instances.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell  
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ラッセル『私の哲学の発展』第15章 「真理」の定義 n.14

 さて、ここで、もし仮に言葉で表現するとしたら、「全て(all)」や「ある(some)」や「一つの(a)」 や「その (the) 」という語を含むような信念について考えよう。「私は荒地(ムーア)である人に会った」 (I met a man on the moor) という文をとりあげよう。この文が真であるならば、私の会った誰か一人の決まった人物が存在したのであり、私がその人に会ったことは、私のこの文の立証者である(訳注:その会ったという事実がこの文が真であることを証明・立証している)。しかし、私は自分の会った人物が誰であったかを知ることなしに(知らずに)この文が真であることを知ることができる。ではこの場合に私はいかなることを知るのか。 そのような事例においては(場合には)、私はそのことを次のように説明する。 (即ち)「私はAに会った」によって表現されうるところの(信念の)状態(state)があり、 「私はBに会った」によって表現されるもうひとつの状態があり(この場合AとBとは人間である)(訳注:another の後に「state」が省略されている)、 その他、同様に、人類の名簿の全体にわたって同じことが言える(訳注:Cに会った・・・Zに会った、A2に会った、B2に会った・・・等々)。これらす全ての(信念の)状態には共通点がある。それらのもつ共通点は「私はある人に会った」という語(の繋がり)に表現されているのである。従っ て、私が友人のジョウンズに会ったのだとすると、「私が人に会った」という知識は、たしかに「私はジョウンズに会った」という知識の一部分なのである。これが、「ジョウンズ」から「人」への推論 が正しいことの根拠なのである。(訳注:「私はジョーンズに会った」は「私はある人に会った」という事実の部分集合であり、全体が真ならば部分も真となる、ということ。)  この種の分析が重要なのは、私の個人的経験の限界(制限)を超える文の理解に関するものである。 私が一度も会ったことのない人が存在する」というような文をとってみよう。 我々は皆この文が真であると信ずる。 独我論者ですらも、他の独我論者に出会ったことがないということで驚くのに、私は気づいている。(訳注:この一文はわかりにくいと思われる。「I have found that even solipsists are surprised by the fact that they have never met any other solipsist.」とい文にはラッセルの皮肉が含まれている。即ち、哲学的な独我論者は自分の認識しか信用せず、この世界は自分の脳が描いた錯覚かも知れないと思っている。しかし、そのような他者の存在を疑う独我論者が、自分の考えを他の哲学者が理解してくれないとぼやくのは、独我論者の態度としておかしいのではないかというラッセルの皮肉。つまり、独我論者でさえ「私が一度も会ったことのない人が存在する」という命題を真だと信じている、ということ) 。重要な点は、「私が一度も会ったことのない人が存在する」という文におい て、私が一度も会ったことのない人は、個別的に(訳注:誰々さんとして)示されてはいないという点である。このとき、私は、事実、ジョウンズに会ったのだとすると、もっと単純な 文「私は人に会った」において既に、このことは当てはまる(the case with ~にあてはまる/「私はジョウンズに会った」は「私は人に会ったの部分集合(一部)」)。ジョウンズは私の(陳述の)立証者ではあるが、私の陳述はジョウンズのことに言及していない。「私が一度も会ったことのない人が存在する」という(陳述の)場合も同様である。この陳述の理解のために、またその真であることを知るために、私が一度も会ったことのない人の個別的事例を与えなければならないということはない。「~がある(存在す)る」とか「ある・・・」とかいう言葉を含む陳述は、個別的な人やものが代入された時に生ずる陳述よりも、より少ない内容を主張している。(訳注:「人に会った」のほうが「ジョウンズに会った」という陳述よりも大きな集合であるが、人を特定していないという点で「ジョウンズ・・・」よりも少ない内容を陳述している。)こういった理由で、前者は、後者(特定の個人の存在)が知られなくとも、知られうるのである。我々は皆、自分たちが一度も会ったことのない人が存在することだでけでなく、今まで話に聞いたこともなくこれからも聞くこともないであろうような人々が存在することを知っている、と確信を持っている。これは、そういった人達の個別的事例を挙げることはもちろんできないが、それにもかかわらず、そういう人達が存在するという一般的な主張を我々は知ることができる。 多くの経験論者達はこの点 において道に迷ってしまい、我々が一定の種類の事物の存在を知ることは、もしそういう事物の少なくともひとつの個別的事例を挙げることができなければ不可能であると考える。 しかし この考えは、もし真面目にとるならば、全く耐え難い論理的矛盾に導くのであり、そういう矛盾に傷ことができなかった人々のみが採りうる考えである

Chapter 15, n.14
I come now to beliefs which, if expressed in words, involve some such words as all or some or a or the. Take such a sentence as ‘I met a man on the moor’. If this sentence is true, there was some one definite man whom I met, and my meeting with him is the verifier of my sentence. But I can know the sentence to be true without knowing who it was that I met. What I am knowing in such a case, I explain as follows: there is a state expressed by ‘I met A’ and another expressed by ‘I met B’, where A and B are men, and so on throughout the whole catalogue of the human race. All these states have something in common. What they have in common is expressed in the words ‘I met a man’. Consequently, if I met my friend Jones, the knowledge that I met a man is an actual part of the knowledge that I met Jones. That is why the inference from ‘Jones’ to ‘a man’ is valid. The importance of this kind of analysis is in regard to the understanding of sentences which go beyond the limits of my personal experience. Take such a sentence as ‘there are men whom I have never met’. We all believe this sentence to be true. I have found that even solipsists are surprised by the fact that they have never met any other solipsist. The important point is that in the sentence ‘there are men whom I have never met’, the men whom I have never met are not mentioned individually. This is already the case with the simpler sentence ‘I met a man’ if in fact it was Jones whom I met. Although Jones is the verifier of my statement, my statement does not allude to him, and similarly when I say ‘there are men whom I have never met’. It is not necessary, either for the understanding of the statement or for the knowledge of its truth, that I should be able to give any instance of a man whom I have never met. Statements about ‘there are’ or ‘some’ assert less than the statements that result when some particular person or thing is substituted; and it is for this reason that they can be known when no sentence substituting something definite is known. We are all quite certain that we know, not only that there are people whom we have never met, but that there are people whom we have never heard of and never shall hear of. We cannot give an instance of any such person, but we can, nevertheless, know the general assertion that there are such persons. I find that many empiricists go astray on this point and think it impossible that we should know that there are things of such and such a sort unless we can give at least one instance of such a thing. This opinion, if seriously entertained, leads to quite intolerable paradoxes and can only be held by those who have failed to notice these paradoxes.  
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell  
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ラッセル『私の哲学の発展』第15章 「真理」の定義 n.13

Julius Caesar crossing the Rubicon, 49 BC

 感覚の関係的性格を放棄したことにより、私は「熟知」(acquaintance)の代りに「気づき」(noticing)を置くにいたった。さて 我々の感覚的生活における大多数の出来事は気づかれない(注意されない)。そうして、それらが気づかれない(注意されない)時は、 それらは経験的知識のためのデータ(与件)ではない。しかし、それらについて我々が語を用いる場合、それはそれらに気づいた(注意した)ということの明らかな証拠である。しかし、我々は言葉に出して言わない多くのことを習慣的に気づいている(注意している)。  私は、一つの信念について、それが 「表現する (express) 」ものと、「指示する (indicate)」 ものとを区別する。それが表現するところのものは私自身のある状態である。 それが指示するところのものは私自身の状態である必要はない。しかし「私は暑く感ずる」というような最も単純な事例においては、表現されるものと指示されるものとは同一である。そうだからこそ、誤謬(エラー)の危険は極小なのである。この極めて単純な場合において、我々が言語を用いるとき、語の発話は語の意味するところのものによって引き起こされている。私が「暑い」というとき、私の発話は、 私が暑く感ずることによってひき起されている。これは、あらゆる経験的知識が基礎を置く岩盤である。
 けれども、一般的に言って(通常)、一つの発話とその発話が真である場合にその発話を真ならしめている事実との間には、そういった単純な関係は存在していない。 「シーザー(カエサル)はルピコン河を渡っ た」と私が言うとき、私の陳述は、遠い昔に起った一つの出来事のゆえに(出来事が起こっているから)真なのである。 私は、現在、この出来事を変更するため何ごともできない。仮にシーザー(カエサル)がルピコン河を渡ったと言うことを、 死刑に値いする重罪(capital offence 死刑になるような極悪犯罪)であると定めるような法律が議会を通過したとしても、そのようなことは、シーザー(カエサル)がルピコン河を渡ったという陳述の真理性には何の関係もないであろう。陳述の真理性は一定の事実への一定の関係に依存する。私は陳述を真ならしめる事実を、その陳述の「立証者」 (verifier) と呼ぶ。ただ一つの立証者をもつのは、比較的単純な陳述だけである。 「全ての人間は死すべきものである」という陳述は、人間の数だけの立証者をもっている。 しかし、立証者の数が一つであるにせよ多数であるにせよ、陳述を真あるいは偽たらしめるところのものは、常に一つまたは多数の事実である。そして、関係する事実あるいは事実群は、陳述が言語(そのもの)について述べるものである場合を別にして、言語からは独立しているものであり、かつあらゆる人間的経験からも独立している可能性がある(may be independent of )。

Chapter 15, n.13
My abandonment of the relational character of sensation led me to substitute ‘noticing’ for ‘acquaintance’. Most of the occurrences in our sensational life are not noticed; and when they are not noticed they are not data for empirical knowledge. If we use words about them, that is clear proof that we have noticed them; but we habitually notice many things that we do not mention in words. I distinguish, in a belief, what it ‘expresses’ and what it ‘indicates’. What it expresses is a state of myself; what it indicates need not be. But, in the simplest cases, such as ‘I feel hot’, what is expressed and what is indicated are identical. That is why the risk of error is here at a minimum. In this simplest case, if we use language, the utterance of the words is caused by what the words mean: when I say ‘hot’, my utterance is caused by my feeling hot. This is the bed-rock upon which all empirical knowledge is based. In general, however, there is no such simple relation between an utterance and the fact which makes it true, if it is true. If I say ‘Caesar crossed the Rubicon’, my statement is true because of an event which happened long ago. I can do nothing to alter this event now; and, if a law were passed making it a capital offence to say that Caesar crossed the Rubicon, that would have no bearing whatever upon the truth of the statement that he did so. The truth of the statement depends upon a certain kind of relation to a certain fact. I call the fact which makes the statement true its ‘verifier’. It is only the simpler sort of statement that has a single verifier; the Statement ‘all men are mortal’ has as many verifiers as there are men. But whether there is one verifier or there are many, it is always a fact, or many facts, that make the statement true or false as the case may be; and the fact or facts concerned, except in a linguistic statement, are independent of language and may be independent of all human experience.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell  
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ラッセル『私の哲学の発展』第15章 「真理」の定義 n.12

 言葉を発しなくても何を言いたいかわかる

 私としては、今述べたように、最も単純で最も直接的でかつ最も動物に近いところ(removed from 離れていないところ)から始めてみることにする(try to 試みることにする)。私が「私は暑く感じる」と言い、そうして、そう言うことで、ある信念を表現しており、その信念は語の使用なしで存在することができるある一定の身体的状態で成り立っている。しかし、それは、言語を持っている者においては、それを「表現する」ものとして一定の語(諸語)を暗示(suggest)する。(私の)経験が、ある一定の身体的状態と「暑い」という語との間に、一つの因果的結合(繋がり)を確立している。そしてこの結合(繋がり)により、「私は暑く感ずる」という諸語が、私の状態の一つの「表現」となるのである。しかし、私は、語を全く用いなくても、容易に、暑いと感じることができ、また、自分が暑く 感じていることを知ることができる。さらに、語は、私が自分の状態を表現できる多用な方法の中の最も有効かつ便利な方法であるに過ぎない。語を用いる代りに、私はあえぐかも知れないし、 額の汗をぬぐうかも知れないし、着物を半分ぬぎ捨てる(cast aside half my clothing)かも知れない。そういった行為(action)は、「私は暑いと感じる」と言う行為と同様、私の(身体的)状態を示している。そしてそういう場合には、誤謬(エラー)の余地はほとんどないように思われる。もちろん、(直前まで)寒く感じていたが今丁度暖かくなりつつあるというような場合もあり、その後(then それから)、自分が暑く感じているかどうか確かにはわからないような中間的推移の時期(過渡期)もあるであろう。しかし、時には、我々がそのような点について確かに知っている場合もあるということは全く明らかである。われわれが注意するところの強い感覚に関しては一般にそう言ってよい。 私が稲妻を見たり、大きな音を聞いたり、堪えがたい悪臭を嗅いだりする場合、私がその出来事を注 意していることはかなり確かであって、そういう出来事が起ったということを疑うべき理由はまずな いと言ってよいのである。

Chapter 15, n.12
For my part, I try to start, as I said a moment ago, with what is simplest and most nearly immediate and least removed from the animal. If I say ‘I feel hot’, and in saying so, am expressing a belief, the belief consists in a certain bodily state which can exist without the use of words, but which, in those who possess language, suggests certain words as ‘expressing’ it. Experience has established in me a causal connection between a certain bodily state and the word ‘hot’. It is on account of this connection that the words ‘I feel hot’ become an ‘expression’ of my state. But I can quite easily feel hot, and know that I feel hot, without using words at all. Words, moreover, are only the most efficient and convenient of a number of ways in which I can ‘express’ my state. I may pant, I may wipe my sweating forehead, I may cast aside half my clothing. Such actions, like the action of saying ‘I feel hot’, indicate my condition. In such a case, there seems almost no possibility of error. I might, of course, be just getting warm after having been cold, and there might then be a transitional period during which I should not be sure whether I felt hot. But it is quite clear that we are sometimes sure on such a point. This applies generally to vivid sensations that we notice. If I see a flash of lightning or hear a loud noise or smell an intolerable stink, I am pretty certain to notice the occurrence, and there can be no reasonable doubt that it has taken place.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell  
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ラッセル『私の哲学の発展』第15章 「真理」の定義 n.11

 信念(Belief)とは - 私の理解するところでは - その信念を真あるいは偽とならしめる事実(または諸事実)に対して直接的な関係を含んでいない一つの有機体の一つの状態(訳注:たとえば、ある時刻における人間の脳内の状態)である(状態を指す術語/用語である)。言語を知る(理解する)者においては、 最も単純な信念以外は、全て語によって表現されるであろう。しかし、語の使用は、信念を表現できる有機体の状態の一つにすぎない。私が(今)心に抱いている信念の最も明白な物事の事例(obvious case of the kind of thing)は、近未来(近い将来)における注目すべき出来事の期待である。たとえば、戸が風に吹かれているのを見ていて、パタンという音を予想(期待)している場合、我々がそれを予想(期待)している間我々は一定の状態にあり、それは、もしそれを語に言い表わすとすれば「今に音がするぞ」という文によって表現されるような状態である。しかし、我々がそれについて語を用いずにその期待を持つことができるのは明らかである。私は、一般的に、こう言ってよいと考える、即ち、ある有機体がその有機体の現在の状況以外の何ごとかを信ずる(信念を持つ)という状態は、理論的には、常に、その信念の立証者(verifier)に言及することなく(訳注:その信念を真とする事実とつきあわせることなく?)、記述可能である、と。(しかし)このことは、我々が語に言及する時、我々はその語の意味するものに言及しているのだと考えがちであるということ(事実)によって隠されている(気づかれない)。信念の本質的性格は、さきほど(a moment ago 直前に)言ったような事例、即ち、我々が近い将来(immediate future)において何ごとかを期待している場合に、最も容易に見られる。この場合、我々は、その直後において(in the immediate future )、 我々の感情(feeling)が真であるか偽であるかに応じて、それぞれ「その通り!」あるいは、「おやおや!」 という語で言い表わされるような感情を持つのである。そして、大雑把に言って、驚きは誤謬の存在を示す基準(尺度)であると言えると私は考えるが、この基準を適用することが常に可能であるとは必ずしも言えない。
 この探求において、私は最も単純かつ原始的で明白な事例から、より困難かつ複雑で疑わしい事例へ進もうと試みた(try to proceed)。私はこのやり方(procedure 手順)が、一般的な方法論的理由で誰もが採用するやり方(手順)であると思っていたが、しかし「真理」の定義に関心をもつ大多数の著者は全く異なったやり方(手順)をしていることに気づいた。彼らは複雑なものまたは疑わしいもの、たとえば、引力(重力)の法則とか神の存在とか 量子理論、などから始める。彼らは平明な事実、たとえば「私は暑く感ずる」といったもので頭を悩ますようなことはしない。 この(私の)批評は、プラグマティスト(実際主義者)だけでなく論理実証主義者にも、同様に当てはまる。 ほとんど全ての学派の哲学者達は、個別的事実に関する我々の知識について探求することなく、むしろ、一般的法則に関する我々の知識から探求を始めようとする。これは彼らの考えの大部分を損う(vitiate 価値を低下させる)根本的な誤謬である、と私は考える。

Chapter 15, n.11
Belief, as I understand the term, is a state of an organism involving no very direct relation to the fact or facts which make the belief true or false. In a person who knows language, all except the simplest beliefs will be expressed in words, but the use of words is only one of the states of an organism by which a belief can be expressed. The most obvious case of the kind of thing that I have in mind is expectation of a notable event in the near future. For example, if you see a door being blown to by the wind and expect a bang, while you are expecting it you are in a certain state which, if you put it into words, would be expressed by the sentence ‘There is about to be a bang’. But it is obvious that you can have the expectation without using words about it. I think it may be said generally that the state of an organism, which is believing something other than its present actual condition, could always, in theory, be described without mentioning the verifier of the belief. This is concealed by the fact that when we mention words we are apt to think that we are mentioning what the words mean. The essential character of a belief is most easily seen in such a case as the one I mentioned a moment ago, when you are expecting something in the immediate future. In this case, you have in the immediate future a feeling which might be expressed by the words ‘Quite so!’ or by the words ‘How surprising!’, according as your feeling is true or false. I think it may be said, broadly, that surprise is a criterion of error, but it is not always possible to apply this criterion. In this investigation, I tried to proceed from what is most simple and primitive and unquestionable towards the more difficult complex and doubtful cases. I should have thought this procedure the obvious one to adopt on general methodological grounds, but I found that most of the writers who concern themselves with the definition of ‘truth’ proceed in a quite different manner. They start with what is complex or questionable, such as the law of gravitation or the existence of God or quantum theory. They do not trouble their heads with plain matters of fact, such as ‘I feel hot’. This criticism applies not only to pragmatists, but equally to logical positivists. Philosophers of almost every school fail to investigate our knowledge of particular facts, and prefer to start their investigation with our knowledge of general laws. I think this is a fundamental error which vitiates most of their thinking.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell  
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ラッセル『私の哲学の発展』第15章 「真理」の定義 n.10

 私はこの理論を『意味と真理の研究』のなかに詳しく述べた(set forth)。この本の大部分はは語の意味について専ら論じたが、私は文の意義に気づく(come to)のはこの問題をとり扱った後である。 原初的(原子的な)なものに戻ってゆく場合、そこにはさまざまな段階がある。第一に「文」 (sentence) がある。 次に、全て同じことを言い表 わしているところの、異なる言語(例:英語と仏語)で表現された文に共通であるところのものがある。私はこのあるものを「命題 (proposition)と呼ぶ。 従って(Thus そこで)「Ceasar is dead」と「Cesar est mort」とは異なった「文」ではあるが、同じ「命題」(シーザー=カエサルは死んだ)を主張している(ことになる)。(さて)命題の背後には「信念」 (belief) が存在している。 しゃべることができる人々は自分の信念を文章の形で表現する傾向がある。 もっとも文章には信念の表現以外の使い方もある。文章は我々自身が抱いていない信念を誰か他の人の中に作り出そうという意図をもって、偽わって用いられるかも知れない。 文章はまた、欲求や疑問を表現するに用いられることもある。 しかし、認識論(知識論)と「真理」の定義の観点から言えば、重要なのは、信念を表現する文(章)である。真理及び虚偽はどちらも第一次的には 信念に属するものであり、ただ二次的に(派生的に)のみ命題や文に属する(のである)。信念はそれが十分に単純なものである場合、語はなくても存在しうるのであり、そういう信念なるものが高等動物にも存在すると想定する十分な理由がある。(一つの)「信念」は、それが一つまたはそれ以上の「事実」に対して適切な関係をもつ場合に真なのであり、そういう関係をもたない場合は偽である。 それゆえ、「真理」の定義の問題二つの部分から成っている。第一は「信念」は何を意味するかの分析であり、第二は信念とその信念を真ならしめる事実との間の関係の研究である。

Chapter 15, n.10 I set forth this theory in An Inquiry into Meaning and Truth. A large part of this book is occupied with the meaning of words, and it is only after dealing with this topic that I come to the significance of sentences. In going backward towards what is primitive, there are various stages. There is first the sentence ; then that which is in common between sentences in different languages which all say the same thing. This something I call the ‘proposition’. Thus, ‘Caesar is dead’ and ‘Cesar est mort’ assert the same proposition, although the sentences are different. Behind the proposition, there is belief. People who can speak are apt to express their beliefs in sentences, though sentences have other uses besides the expression of belief. They may be used mendaciously with a view to creating in someone else a belief which we do not hold. They may also be used to express a command or a desire or a question. But from the point of view of theory of knowledge and of the definition of ‘truth’, it is sentences expressing belief that are important. Truth and falsehood both belong primarily to beliefs and only derivatively to propositions and sentences. Beliefs, if they are sufficiently simple, can exist without words, and there is every reason to suppose that they exist in the higher animals. A belief is ‘true’ when it has an appropriate relation to one or more facts, and is false when it does not have such a relation. The problem of defining ‘truth’, therefore , consists of two parts: first, the analysis of what is meant by ‘belief’; and then, the investigation of the relation between belief and fact which makes the belief true.
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ラッセル『私の哲学の発展』第15章 「真理」の定義 n.09

 (明日の投稿はお休みします。)

II. Sócrates y Platón 1 | Introducción a Sócrates, Platón y Aristóteles |  Segunda temporada - YouTube

 私は1939年にプラグマティズムに関する(2つの批評の)もうひとつの批評を書いたが、それはシルプ博士編集の「現代哲学者シリーズ」のデューイの巻に収録された。同書の中でデューイは(私の論文に)応えた。(ただし)彼も私も、そこで言ったことが、以前の論議に多くを加えたとは思わない。  (2つの批評の)早い方の批評の中における私自身の「真理」の定義は、『哲学論文集(Philosophical Essays, 1910)』の最後の章に発表してある。後になって私はこの理論を捨てなければならなかったが、それは、この理論が感覚は本質的に関係的な出来事であるという見解に依存しており、既に以前の章で述べたように、この見解を私はウィリアム・ジェイムズの影響のもとに放棄したからである。 当時私が抱いた見解はひとつの例によって最もよく示すことができる。 「ソクラテスはプラトンを愛している」という命題をとって見よう。 この命題を理解しうるためには、命題を構成している3つの語を理解しなければならない。そして私は、語の理解は語の意味するものへの関係で成り立つと考えていた。従って、「ソクラテスはプラトンを愛している」と 私が信ずる場合、「」と「ソクラテス」と「」と「プラトン」との間に四項関係が存在する(ということになる)。ソクラテスが事実(実際)プラトンを愛しているならば、ソクラテスとプラトンとの間に二項関係が存在する(ことになる)。しかし、私の信念においては、その複合体の統一は信ずるという関係(the relation believing)に依存しており、ここでは愛は、関係づける(働きをもつ)関係(a relating relation)としては登場せず(does not enter 登場しない/参加しない)、「信ずる」という関係をもつところの項の一つとして登場する。そうして、この信念が真である場合、ソクラテスとプラトンとが愛という関係によって関係づけられることからなる複合体が存在する。この複合体の存在こそ、 「信ずる」が関係づける関係であるところの複合体(注:信念)に真理性を与える(confer)のである、と私は主張した。(しかし私は(その後) 「主観 subject」の存在を信じなくなり、かつ一つの関係が一つの項として有意義に現われうるとはもはや考えなくなったために - ただし関係が項として現われている文章でも、それを書きかえて、関係が項として現われないようにすることができる場合はその文章は無意 味ではない- 私はこの理論を捨てたのである。これらの理由により私は、一元論的並びにプラグマティズムの真理論に対する私の批評に固執する一方、「主観」の廃棄を認めうるような新たな理論を見出さなければならなかった。

Chapter 15, n.9 I wrote a later criticism of pragmatism in 1939 which was printed in The Library of Living Philosophers, edited by Dr. Schilpp, in the volume dealing with Dewey. Dewey replied in the same volume. I do not think that what either he or I said added much to the earlier discussion. My own definition of ‘truth’, at that earlier time, was published as the last chapter of Philosophical Essays, I had, later, to abandon this theory because it depended upon the view that sensation is an essentially relational occurrence — a view which, as explained in an earlier chapter, I abandoned under the influence of William James. The view which I held at that time can be best set forth by an example. Take such a proposition as ‘Socrates loves Plato’; if you can understand this proposition, you must understand its three constituent words; and I thought that understanding the words consisted in relations to what the words mean. Accordingly, when I believe ‘Socrates loves Plato’, there is a four-term relation between me and Socrates and love and Plato. When, in fact, Socrates loves Plato there is a two-term relation of Socrates and Plato. In my belief, the unity of the complex depends upon the relation believing, where love does not enter as a relating relation, but as one of the terms between which the relation of believing holds. When the belief is true, there is a complex consisting of Socrates and Plato related by the relation love. It is the existence of this complex — so I maintained — that confers truth upon the complex in which believing is the relating relation. I abandoned this theory, both because I ceased to believe in the ‘subject’, and because I no longer thought that a relation can occur significantly as a term, except when a paraphrase is possible in which it does not so occur. For these reasons, while I adhered to my criticisms of the monistic and pragmatist theories of truth, I had to find a new theory to allow for the rejection of the ‘subject’.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell    
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ラッセル『私の哲学の発展』第15章 「真理」の定義 n.08

The Will to Believe (Annotated) eBook by William James - 1230000768368 |  Rakuten Kobo United States
  W. ジェイムズの著書『信ずる意志』

 私は、ジェイムズの学説(doctrine)から帰結する(follow from)と現在でもなお私には思われること、即ち、 「”Aが存在する”という陳述は、たとえAが存在しなくとも、プラグマティズム(実用主義/実際主義)的な意味において、真でありうる(真になる可能性がある)」と(当時)指摘していた(had pointed out)。ジェイムズの死後、彼が私の論文にコメントを書きこんだもの(コピー)が私のもとに送られてきた。この陳述に関する彼のコメントはただ一語「馬鹿な!(silly)」(だけ)であった。印刷物においては、この語はいくらか拡張されていた。即ち、「ラッセル氏は次に、他の大勢の人々と同じく、読者にこう告げる、『真理』の実用主義的/実際主義的定義によれば、Aが存在するという信念はたとえAが存在しなくても『真』でありうる」と。これは、我々を批評する人々によって、あきあきするほど 繰り返されている(repeated to satiety )誹謗中傷(slander)である」。私はこれが誹謗中傷であることを全く理解できない。私はさらに進み、プラグマティスト達が一層ひどい)誹謗中傷と考えそうなことをつけ加えることにしよう。 ジェイムズは、自ら形而上学に入りこむことなしに(巻き込まれることなしに)、「神が存在する」という陳述は真であると主張しうるような、何らかの方法を発見したがった。また、彼の興味・関心は全く地上的であり、上の陳述の地上的な諸帰結にのみに彼は興味・関心を持った。 宇宙を賢明に秩序づけるところの全能の存在(者)が、空間と時間とを超えて、実際に存在するのかしないのかという問題は彼の興味をひかなかった。そうして彼は、 神が「存在する」という陳述が「真」 であることを証明するひとつの議論を見出すことによって、宗教的意識が要求するであろう全てのことを(自分は)なしとげた、と考えた(のである)。率直に言って、この点については、 私は、宗教的信念の擁護のためには不十分な方法だとしてプラグマティズムを非難したローマ教皇に同感する。

Chapter 15, n.08
I had pointed out what still seems to me to follow from James’s doctrine, that the statement that ‘A exists’ may be true in the pragmatist sense even if A does not exist. After James’s death, I was sent his copy of my article with his comments. His comment on this statement was the one word ‘silly!’ In print, he somewhat expanded this word. He says, ‘Mr Russell next joins the army of those who inform their readers that according to the pragmatist definition of the word “truth” the belief that A exists may be “true” even when A does not exist. This is the usual slander, repeated to satiety by our critics.’ I am quite unable to see that this is a slander. I will go further and add what pragmatists may consider a worse slander. James was anxious to find some way of asserting that the statement ‘God exists’ is true without involving himself in metaphysics, and his interests were so exclusively terrestrial that he was only interested in the terrestrial consequences of this statement. The question whether there is, in fact, an omnipotent Being, outside space and time, who wisely orders the cosmos, did not interest him, and so he thought that in finding an argument to prove that the statement ‘God exists’ is ‘true’ he had done all that the religious consciousness should demand. I confess that on this point my feelings are with the Pope, who condemned pragmatism as an unsatisfactory way of defending religious belief.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell  
 More info. https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_15-080.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第15章 「真理」の定義 n.7

1719 etching and engraving of William Shakespeare by George Vertue (British, London 1684–1756), The Metropolitan Museum of Art, New York, Harris Brisbane Dick Fund

 ウィリヤム・ジェイムズは著書『真理の意味』(1909年刊)の中に発表された論文「二人の英国の批評家」の中で私の批評に応えた。(既に)他のプラグマティスト(実際主義者)達がやったように、彼(7ジェイムズ)は私(ラッセル)が彼の考えについて偽りの陳述(misrepresentation 詐称)をしたと批難した。 この批難の理由(根拠)は、他のプラグマティスト達と同様、彼の言ったことを彼がそのまま(文字通り)意味したと私が考えた(想定した)のがいけないというのであった。この論文の中で、彼は、教皇達が常に(判断が)誤ることがなかったかどうかを決定することのほうが、教皇達は不可謬と考えることの帰結(結果)が善であったかどうかを決定することよりも、容易であるということを認めて、次のように続けて言っている。「我々(プラグマティスト)はラッセル氏の考えるような(想定するような)馬鹿げたことを主張しているのではない」と。けれども、彼が自説の本当の意味を説明する時、彼の言うところは、前に私が彼の考えだと思っていたことよりも一層馬鹿げているように思われる。 彼の意味するところは、信念の 帰結善である、ということでなく、その信念の持主がその信念の帰結は善であるだろうと考えるということである、と言う。こうなると、もしAがあることを信じ,Bがその反対のことを信ずるとすれば、AとBとは二人とも真なる信念を可能性がある(かも知れない)。そしてジェイムズはこの帰結(結論)を認めている。彼は言う。「シェイクスピアという作者名をもつ(bear)劇をシェイクスピアが書いたということを私は真実だと考え、ある批評家に私のこの意見を述べることができる(may express)。(ところで、)もしその批評家がプラグマティストでありかつ(シェイクスピアの作品は実はベーコンの書いたものだと主張する)ベーコン派の人物であるとすると、 プラグマティストとしての彼は、私(ラッセル)が現在あるような人間である以上、私(ラッセル)の意見の作用力によりその意見は私にとって完全に真なものとなっていることを、プラグマティストの彼ははっきりと見る(理解する)であろうが、また一方、ベーコン派としての彼は、シェイクスピアが当該作品を決して書かなかったと信じ続けるであろう」と。私はこの 主張が理解できないことを告白する(訳注:このあたりは、英国人の多くの人が持っている知識がないとよく理解できそうにない。つまり、「シェイクスピア別人説」というのがいろいろあり、その中のひとつにシェークスピアが書いたと言われている作品は実は哲学者のフランシス・ベーコンによって書かれたという説がある)。私の考えでは、「シェイクスピアが『ハムレット』を書いた」という陳述が真であるならば、シェイクスピヤが手にペンをもって(机の前に)座り、一定の語を紙に書いた時が確かにあったと思われる。しかし、「ベーコンが『ハムレット』を書いた」のなら、それらの語を書き下ろした者はシェイクスピアではなくてベーコンであった(はずであ)る。この二つのことのうちいずれが 現実に起ったかは、現在生きている誰かがどう考えるかということとは全く独立な事実の問題である。そして、もしシェイクスピアについての陳述の方が真であり、ベーコンについての陳述の方は偽であると私が言うならば、この私の陳述は、もし一方の事実が存在したのならば真であり、他方の事実が存在したのならば偽である。けれども、ジェイムズにとっては、『ハムレット』が書かれつつあったとき何が起っていたかの問いはまったく関係のないことであり、唯一関係あるのは、現在の批評家の感情である。

Chapter 15, n.07
William James replied to my criticisms in an article called ‘Two English Critics’ published in The Meaning of Truth(1909). He accused me, as other pragmatists have done, of misrepresentation; and his ground for this accusation, like that of other pragmatists, was that I supposed he meant what he said. In this article he admits that it is easier to decide whether Popes have always been infallible than whether the effects of thinking them so have been good, and he continues, ‘We affirm nothing as silly as Mr. Russell supposes’. When, however, he explains what he does mean, it seems to me even sillier than what I had thought he meant. He says that what he means is not that the consequences of the belief are good, but that the believer thinks they will be. It follows — and he admits the consequences — that if A believes one thing and B believes the opposite, A and B may both be believing truly. He says: ‘I may hold it true that Shakespeare wrote the plays that bear his name, and may express my opinion to a critic. If the critic be both a pragmatist and a Baconian, he will in his capacity of pragmatist see plainly that the working of my opinion, I being what I am, makes it perfectly true for me, while in his capacity of Baconian he still believes that Shakespeare never wrote the plays in question.’ I confess I find this position unintelligible. It seems to me that if ‘Shakespeare wrote Hamlet’ is true, there was a time when Shakespeare sat with a pen in his hand and wrote down certain words ; but, if Bacon wrote Hamlet, it was Bacon who wrote down these words. Whether one of these happened, or the other, is a question of fact, totally independent of what anybody now living may think. And if I say the statement about Shakespeare is true, and the statement about Bacon is false, my statement is true if there was one sort of fact and false if there was another. For James, however, the question what was happening when Hamlet was being written is wholly irrelevant; the only thing relevant is the feelings of present-day critics.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell  
 More info. : https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_15-070.HTM