ラッセル『私の哲学の発展』第15章 「真理」の定義 n.7


1719 etching and engraving of William Shakespeare by George Vertue (British, London 1684–1756), The Metropolitan Museum of Art, New York, Harris Brisbane Dick Fund

 ウィリヤム・ジェイムズは著書『真理の意味』(1909年刊)の中に発表された論文「二人の英国の批評家」の中で私の批評に応えた。(既に)他のプラグマティスト(実際主義者)達がやったように、彼(7ジェイムズ)は私(ラッセル)が彼の考えについて偽りの陳述(misrepresentation 詐称)をしたと批難した。 この批難の理由(根拠)は、他のプラグマティスト達と同様、彼の言ったことを彼がそのまま(文字通り)意味したと私が考えた(想定した)のがいけないというのであった。この論文の中で、彼は、教皇達が常に(判断が)誤ることがなかったかどうかを決定することのほうが、教皇達は不可謬と考えることの帰結(結果)が善であったかどうかを決定することよりも、容易であるということを認めて、次のように続けて言っている。「我々(プラグマティスト)はラッセル氏の考えるような(想定するような)馬鹿げたことを主張しているのではない」と。けれども、彼が自説の本当の意味を説明する時、彼の言うところは、前に私が彼の考えだと思っていたことよりも一層馬鹿げているように思われる。 彼の意味するところは、信念の 帰結善である、ということでなく、その信念の持主がその信念の帰結は善であるだろうと考えるということである、と言う。こうなると、もしAがあることを信じ,Bがその反対のことを信ずるとすれば、AとBとは二人とも真なる信念を可能性がある(かも知れない)。そしてジェイムズはこの帰結(結論)を認めている。彼は言う。「シェイクスピアという作者名をもつ(bear)劇をシェイクスピアが書いたということを私は真実だと考え、ある批評家に私のこの意見を述べることができる(may express)。(ところで、)もしその批評家がプラグマティストでありかつ(シェイクスピアの作品は実はベーコンの書いたものだと主張する)ベーコン派の人物であるとすると、 プラグマティストとしての彼は、私(ラッセル)が現在あるような人間である以上、私(ラッセル)の意見の作用力によりその意見は私にとって完全に真なものとなっていることを、プラグマティストの彼ははっきりと見る(理解する)であろうが、また一方、ベーコン派としての彼は、シェイクスピアが当該作品を決して書かなかったと信じ続けるであろう」と。私はこの 主張が理解できないことを告白する(訳注:このあたりは、英国人の多くの人が持っている知識がないとよく理解できそうにない。つまり、「シェイクスピア別人説」というのがいろいろあり、その中のひとつにシェークスピアが書いたと言われている作品は実は哲学者のフランシス・ベーコンによって書かれたという説がある)。私の考えでは、「シェイクスピアが『ハムレット』を書いた」という陳述が真であるならば、シェイクスピヤが手にペンをもって(机の前に)座り、一定の語を紙に書いた時が確かにあったと思われる。しかし、「ベーコンが『ハムレット』を書いた」のなら、それらの語を書き下ろした者はシェイクスピアではなくてベーコンであった(はずであ)る。この二つのことのうちいずれが 現実に起ったかは、現在生きている誰かがどう考えるかということとは全く独立な事実の問題である。そして、もしシェイクスピアについての陳述の方が真であり、ベーコンについての陳述の方は偽であると私が言うならば、この私の陳述は、もし一方の事実が存在したのならば真であり、他方の事実が存在したのならば偽である。けれども、ジェイムズにとっては、『ハムレット』が書かれつつあったとき何が起っていたかの問いはまったく関係のないことであり、唯一関係あるのは、現在の批評家の感情である。

Chapter 15, n.07
William James replied to my criticisms in an article called ‘Two English Critics’ published in The Meaning of Truth(1909). He accused me, as other pragmatists have done, of misrepresentation; and his ground for this accusation, like that of other pragmatists, was that I supposed he meant what he said. In this article he admits that it is easier to decide whether Popes have always been infallible than whether the effects of thinking them so have been good, and he continues, ‘We affirm nothing as silly as Mr. Russell supposes’. When, however, he explains what he does mean, it seems to me even sillier than what I had thought he meant. He says that what he means is not that the consequences of the belief are good, but that the believer thinks they will be. It follows — and he admits the consequences — that if A believes one thing and B believes the opposite, A and B may both be believing truly. He says: ‘I may hold it true that Shakespeare wrote the plays that bear his name, and may express my opinion to a critic. If the critic be both a pragmatist and a Baconian, he will in his capacity of pragmatist see plainly that the working of my opinion, I being what I am, makes it perfectly true for me, while in his capacity of Baconian he still believes that Shakespeare never wrote the plays in question.’ I confess I find this position unintelligible. It seems to me that if ‘Shakespeare wrote Hamlet’ is true, there was a time when Shakespeare sat with a pen in his hand and wrote down certain words ; but, if Bacon wrote Hamlet, it was Bacon who wrote down these words. Whether one of these happened, or the other, is a question of fact, totally independent of what anybody now living may think. And if I say the statement about Shakespeare is true, and the statement about Bacon is false, my statement is true if there was one sort of fact and false if there was another. For James, however, the question what was happening when Hamlet was being written is wholly irrelevant; the only thing relevant is the feelings of present-day critics.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell  
 More info. : https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_15-070.HTM

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