ラッセル『私の哲学の発展』第15章 「真理」の定義 n.14


 さて、ここで、もし仮に言葉で表現するとしたら、「全て(all)」や「ある(some)」や「一つの(a)」 や「その (the) 」という語を含むような信念について考えよう。「私は荒地(ムーア)である人に会った」 (I met a man on the moor) という文をとりあげよう。この文が真であるならば、私の会った誰か一人の決まった人物が存在したのであり、私がその人に会ったことは、私のこの文の立証者である(訳注:その会ったという事実がこの文が真であることを証明・立証している)。しかし、私は自分の会った人物が誰であったかを知ることなしに(知らずに)この文が真であることを知ることができる。ではこの場合に私はいかなることを知るのか。 そのような事例においては(場合には)、私はそのことを次のように説明する。 (即ち)「私はAに会った」によって表現されうるところの(信念の)状態(state)があり、 「私はBに会った」によって表現されるもうひとつの状態があり(この場合AとBとは人間である)(訳注:another の後に「state」が省略されている)、 その他、同様に、人類の名簿の全体にわたって同じことが言える(訳注:Cに会った・・・Zに会った、A2に会った、B2に会った・・・等々)。これらす全ての(信念の)状態には共通点がある。それらのもつ共通点は「私はある人に会った」という語(の繋がり)に表現されているのである。従っ て、私が友人のジョウンズに会ったのだとすると、「私が人に会った」という知識は、たしかに「私はジョウンズに会った」という知識の一部分なのである。これが、「ジョウンズ」から「人」への推論 が正しいことの根拠なのである。(訳注:「私はジョーンズに会った」は「私はある人に会った」という事実の部分集合であり、全体が真ならば部分も真となる、ということ。)  この種の分析が重要なのは、私の個人的経験の限界(制限)を超える文の理解に関するものである。 私が一度も会ったことのない人が存在する」というような文をとってみよう。 我々は皆この文が真であると信ずる。 独我論者ですらも、他の独我論者に出会ったことがないということで驚くのに、私は気づいている。(訳注:この一文はわかりにくいと思われる。「I have found that even solipsists are surprised by the fact that they have never met any other solipsist.」とい文にはラッセルの皮肉が含まれている。即ち、哲学的な独我論者は自分の認識しか信用せず、この世界は自分の脳が描いた錯覚かも知れないと思っている。しかし、そのような他者の存在を疑う独我論者が、自分の考えを他の哲学者が理解してくれないとぼやくのは、独我論者の態度としておかしいのではないかというラッセルの皮肉。つまり、独我論者でさえ「私が一度も会ったことのない人が存在する」という命題を真だと信じている、ということ) 。重要な点は、「私が一度も会ったことのない人が存在する」という文におい て、私が一度も会ったことのない人は、個別的に(訳注:誰々さんとして)示されてはいないという点である。このとき、私は、事実、ジョウンズに会ったのだとすると、もっと単純な 文「私は人に会った」において既に、このことは当てはまる(the case with ~にあてはまる/「私はジョウンズに会った」は「私は人に会ったの部分集合(一部)」)。ジョウンズは私の(陳述の)立証者ではあるが、私の陳述はジョウンズのことに言及していない。「私が一度も会ったことのない人が存在する」という(陳述の)場合も同様である。この陳述の理解のために、またその真であることを知るために、私が一度も会ったことのない人の個別的事例を与えなければならないということはない。「~がある(存在す)る」とか「ある・・・」とかいう言葉を含む陳述は、個別的な人やものが代入された時に生ずる陳述よりも、より少ない内容を主張している。(訳注:「人に会った」のほうが「ジョウンズに会った」という陳述よりも大きな集合であるが、人を特定していないという点で「ジョウンズ・・・」よりも少ない内容を陳述している。)こういった理由で、前者は、後者(特定の個人の存在)が知られなくとも、知られうるのである。我々は皆、自分たちが一度も会ったことのない人が存在することだでけでなく、今まで話に聞いたこともなくこれからも聞くこともないであろうような人々が存在することを知っている、と確信を持っている。これは、そういった人達の個別的事例を挙げることはもちろんできないが、それにもかかわらず、そういう人達が存在するという一般的な主張を我々は知ることができる。 多くの経験論者達はこの点 において道に迷ってしまい、我々が一定の種類の事物の存在を知ることは、もしそういう事物の少なくともひとつの個別的事例を挙げることができなければ不可能であると考える。 しかし この考えは、もし真面目にとるならば、全く耐え難い論理的矛盾に導くのであり、そういう矛盾に傷ことができなかった人々のみが採りうる考えである

Chapter 15, n.14
I come now to beliefs which, if expressed in words, involve some such words as all or some or a or the. Take such a sentence as ‘I met a man on the moor’. If this sentence is true, there was some one definite man whom I met, and my meeting with him is the verifier of my sentence. But I can know the sentence to be true without knowing who it was that I met. What I am knowing in such a case, I explain as follows: there is a state expressed by ‘I met A’ and another expressed by ‘I met B’, where A and B are men, and so on throughout the whole catalogue of the human race. All these states have something in common. What they have in common is expressed in the words ‘I met a man’. Consequently, if I met my friend Jones, the knowledge that I met a man is an actual part of the knowledge that I met Jones. That is why the inference from ‘Jones’ to ‘a man’ is valid. The importance of this kind of analysis is in regard to the understanding of sentences which go beyond the limits of my personal experience. Take such a sentence as ‘there are men whom I have never met’. We all believe this sentence to be true. I have found that even solipsists are surprised by the fact that they have never met any other solipsist. The important point is that in the sentence ‘there are men whom I have never met’, the men whom I have never met are not mentioned individually. This is already the case with the simpler sentence ‘I met a man’ if in fact it was Jones whom I met. Although Jones is the verifier of my statement, my statement does not allude to him, and similarly when I say ‘there are men whom I have never met’. It is not necessary, either for the understanding of the statement or for the knowledge of its truth, that I should be able to give any instance of a man whom I have never met. Statements about ‘there are’ or ‘some’ assert less than the statements that result when some particular person or thing is substituted; and it is for this reason that they can be known when no sentence substituting something definite is known. We are all quite certain that we know, not only that there are people whom we have never met, but that there are people whom we have never heard of and never shall hear of. We cannot give an instance of any such person, but we can, nevertheless, know the general assertion that there are such persons. I find that many empiricists go astray on this point and think it impossible that we should know that there are things of such and such a sort unless we can give at least one instance of such a thing. This opinion, if seriously entertained, leads to quite intolerable paradoxes and can only be held by those who have failed to notice these paradoxes.  
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell  
 More info. https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_15-140.HTM

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