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バートランド・ラッセル 私の哲学の発展 15-13 - My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell

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第15章 「真理」の定義 n.13 - 「熟知」の代わりに「気づき」を置く

 感覚の関係的性格を放棄したことにより、私は「熟知」(acquaintance)の代りに「気づき」(noticing)を置くにいたった。さて 我々の感覚的生活における大多数の出来事は気づかれない(注意されない)。そうして、それらが気づかれない(注意されない)時は、 それらは経験的知識のためのデータ(与件)ではない。しかし、それらについて我々が語を用いる場合、それはそれらに気づいた(注意した)ということの明らかな証拠である。しかし、我々は言葉に出して言わない多くのことを習慣的に気づいている(注意している)。

 私は、一つの信念について、それが 「表現する (express) 」ものと、「指示す (indicate)る」 ものとを区別する。それが表現するところのものは私自身のある状態である。 それが指示するところのものは私自身の状態である必要はない。しかし「私は暑く感ずる」というような最も単純な事例においては、表現されるもの指示されるものとは同一である。そうだからこそ、誤謬(エラー)の危険は極小なのである。この極めて単純な場合において、我々が言語を用いるとき、語の発話は語の意味するところのものによって引き起こされている。私が「暑い」というとき、私の発話は、 私が暑く感ずることによってひき起されている。これは、あらゆる経験的知識が基礎を置く岩盤である。

 けれども、一般的に言って(通常)、一つの発話とその発話が真である場合にその発話を真ならしめている事実との間には、そういった単純な関係は存在していない。 「シーザー(カエサル)はルピコン河を渡っ た」と私が言うとき、私の陳述は、遠い昔に起った一つの出来事のゆえに(出来事が起こっているから)真なのである。 私は、現在、この出来事を変更するため何ごともできない。仮にシーザー(カエサル)がルピコン河を渡ったと言うことを、 死刑に値いする重罪(capital offence 死刑になるような極悪犯罪)であると定めるような法律が議会を通過したとしても、そのようなことは、シーザー(カエサル)がルピコン河を渡ったという陳述の真理性には何の関係もないであろう。陳述の真理性は一定の事実への一定の関係に依存する。私は陳述を真ならしめる事実を、その陳述の「立証者」 (verifier) と呼ぶ。ただ一つの立証者をもつのは、比較的単純な陳述だけである。 「全ての人間は死すべきものである」という陳述は、人間の数だけの立証者をもっている。 しかし、立証者の数が一つであるにせよ多数であるにせよ、陳述を真あるいは偽たらしめるところのものは、常に一つまたは多数の事実である。そして、関係する事実あるいは事実群は、陳述が言語(そのもの)について述べるものである場合を別にして、言語からは独立しているものであり、かつあらゆる人間的経験からも独立している可能性がある(may be independent of )。

Chapter 15, n.13


ラッセル英単語・熟語1500
My abandonment of the relational character of sensation led me to substitute 'noticing' for 'acquaintance'. Most of the occurrences in our sensational life are not noticed; and when they are not noticed they are not data for empirical knowledge. If we use words about them, that is clear proof that we have noticed them; but we habitually notice many things that we do not mention in words.

I distinguish, in a belief, what it 'expresses' and what it 'indicates'. What it expresses is a state of myself; what it indicates need not be. But, in the simplest cases, such as 'I feel hot', what is expressed and what is indicated are identical. That is why the risk of error is here at a minimum. In this simplest case, if we use language, the utterance of the words is caused by what the words mean: when I say 'hot', my utterance is caused by my feeling hot. This is the bed-rock upon which all empirical knowledge is based.

In general, however, there is no such simple relation between an utterance and the fact which makes it true, if it is true. If I say 'Caesar crossed the Rubicon', my statement is true because of an event which happened long ago. I can do nothing to alter this event now; and, if a law were passed making it a capital offence to say that Caesar crossed the Rubicon, that would have no bearing whatever upon the truth of the statement that he did so. The truth of the statement depends upon a certain kind of relation to a certain fact. I call the fact which makes the statement true its 'verifier'. It is only the simpler sort of statement that has a single verifier; the Statement 'all men are mortal' has as many verifiers as there are men. But whether there is one verifier or there are many, it is always a fact, or many facts, that make the statement true or false as the case may be; and the fact or facts concerned, except in a linguistic statement, are independent of language and may be independent of all human experience.
(掲載日:2022.03.11/更新日: )