直接法の文が発話される可能性があるのは、話し手(話者)がそれ(その文の内容)を信じているからであるか、あるいは、話し手(話者)がその文は聞き手の中に何らかの行動あるいは情緒を引き起こすだろうと期待するからである(ウィキペディアの説明:直説法 indicativeとは、インド・ヨーロッパ語族に属する言語で用いられる法のひとつで、話者が事実をそのまま語る場合に用いられる動詞の活用をいう。基本的に、条件法や接続法、仮定法や命令法以外の動詞の活用をいう)。私が指摘したように、ある俳優が「私はデンマークのハムレットだ!(Hamlet the Dane)」と言うとき、誰も彼がハムレットであるとは信じていないが、彼が嘘をついているとも考えない(注:嘘をついているのではなく「気が狂っている」と思っている)。これで明らかになることは、真理や虚偽は、信念 (belief) を表現する文または信念を生ぜしめようと意図された文にのみ属する性質であるということである(訳注:発話者が嘘をついていると信じていなくてもよいということ)。真理と虚偽関しては、文は信念を伝えるもの(乗り物)としてのみ重要である。信念は、それが複雑なものでなければ、語の使用なしに存在できることは明らかである(訳注:何も言わなくても、怒っていることだけは確かだ、とか・・・)。こうして(Thus )、我々は、言語の領域の外に連れ出され、まず言語化されていない信念を考察し、次に、そういう信念とその信念を表現できる文との間の関係を考察せざるを得なくなる(のである)(訳注:相手が怒っているのは電話をしなかったからか? とか)。
Chapter 13: language, n.9
A sentence in the indicative may be uttered because the speaker believes it, or because he hopes that it will arouse some action or emotion in the hearer. As I pointed out, when an actor says, ‘This is I, Hamlet the Dane’, nobody believes him, but nobody thinks he is lying. This makes it clear that truth and falsehood belong only to sentences expressing belief or intended to cause belief. In regard to truth and falsehood, a sentence is only important as a vehicle of belief. It is clear that beliefs, if they are not complicated, can exist without the use of words. We are thus taken outside the linguistic sphere and are compelled to consider, first, unverbalized beliefs, and then the relation of such beliefs to the sentences in which they can be expressed.
Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
More info. https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_13-080.HTM