ラッセル『私の哲学の発展』第13章 言語 n10

 信念(というもの)は明確な概念ではない。なぜなら、最下等の動物と人間(注:高等動物)との間に連続性が存在するからである。(即ち、人間以外の)動物は(も)、何らかの信念を伴うと解釈可能な(様々な)行動様式を示す。このことは心に留めておかないといけない一方(while)、我々が関心をもっているのは(with which we are concerned)、特に、我々自身の経験において自ら知るところの人間の信念である。(ところで)語の使用なしに可能な信念は、比較的単純な種類の信念のみである。我々は皆、円周の円の直径に対する比率(円周率)は、近似的に3.14159であると信じているが、この信念が言語なくして存在できるかは私にはわからない(つまり、語=言葉を使用するからこそ理解可能となる)。けれども、多くの信念が明らかに言語使用以前のものである(Many beliefs, however, clearly ante-date language. 言語が使用される前から信念は存在している)。我々が犬を見ると、我々は「犬」と言い、そうして我々の信念に言語的表現を与える。 (しかし)猫は犬を見ると、その信念を我々人間とは異なった仕方で表現する。猫は毛を逆立たせ、背を弓なりに曲げ、シューシューと音を立てる。 これは(猫がシューという音を出すのも)我々人間が「犬(だ!)」という語を用いるのとちょうど同じような信念の表現である。同様のことが、記憶について(も)当てはまる。もしあなたが大きな雷鳴を聞いた直後に – もし我々が語を使用するなら- 「今しがた大きな雷鳴があった」という文で表現されるような状態にいるのである。 しかし、この時、たとえまったく語が心(頭)に浮かばないとしても、この文が表現することをあなたは信じているのである(信念をもっているのである)。「私がその用語(の意味)として理解している信念とは(A belief, as I understand the term)、身体または精神あるいはその両者の、ある一定の状態である。 冗長さを避けるために、私それをひとつ有機体(organism)の一定の状態と呼ぶことにして、身体的因子と心的因子との区別を無視することになる」(ラッセル『人間の知識』p.161) 私は(『人間の知識』のなかで)次のように続けて述べている。「何かを信じていることで成り立っている有機体のいかなる状態も、理論的には、そのあることに言及することなく完全に記述することが可能である。(たとえば)『一台の車がやって来る』と我々が信ずる時、我々の信念は、(我々の)筋肉や感覚器官や情緒がある一定の状態にあり、多分視覚を伴っている状態で、成り立っているであろう。これら全て及び我々の信念を形成する可能性のあるものが何であれ、 心理学者と生理学者が協力することにより、我々の精神と身体の外部にあるものについて語ることなしに、理論上は、十分記述することが可能だろう。」 適切な文の発話は、その信念を構成する心身の状態の一つにすぎない。言葉による表現(言語的表現)の重要性は、同じ信念を表現するいかなる非言語的状態よりも、伝達可能であること及びより正確でありうることに、由来している。

Chapter 13: language, n.10
Belief is not a precise concept, because of the continuity between the lowest animals and man. Animals show ways of behaviour which might be interpreted as involving this or that belief. But, while this should be borne in mind, it is especially human beliefs as we know them in our own experience with which we are concerned. It is only the simpler kinds of belief that are possible without the use of words. We all believe that the ratio of the circumference of the circle to the diameter is approximately 3.14159, but I do not see how this belief could exist in the absence of language. Many beliefs, however, clearly ante-date language. When you see a dog, you may say ‘dog’ and thus give verbal expression to your belief. A cat, seeing a dog, expresses its belief differently: its hairs stand on end, it arches its back, and hisses. This is an expression of belief, just as much as your use of the word ‘dog’. The same sort of thing applies to memory. If you have just heard a loud clap of thunder, you are in a state which, if you used words, would be expressed in the sentence, ‘there has just been a loud clap of thunder’. But you are believing what this sentence expresses even if no words come into your mind. ‘A belief, as I understand the term, is a certain state of body or mind or both. To avoid verbiage, I shall call it a state of an organism, and ignore the distinction of bodily and mental factors’ ( Human Knowledge, page 161 ). I go on to say, ‘Any state of an organism which consists in believing something can, theoretically, be fully described without mentioning the something. When you believe “a car is coming” your belief consists in a certain state of the muscles, sense-organs, and emotions, together perhaps with certain visual images. All this, and whatever else may go to make up your belief, could, in theory, be fully described by a psychologist and physiologist working together, without their ever having to mention anything outside your mind and body’. The utterance of an appropriate sentence is only one of the states of mind and body which constitute the belief. The verbal expression derives its importance through being communicable and through being capable of more precision than any non-verbal state embodying the same belief.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
 More info. https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_13-100.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第13章 言語 n9)

 直接法の文が発話される可能性があるのは、話し手(話者)がそれ(その文の内容)を信じているからであるか、あるいは、話し手(話者)がその文は聞き手の中に何らかの行動あるいは情緒を引き起こすだろうと期待するからである(ウィキペディアの説明:直説法 indicativeとは、インド・ヨーロッパ語族に属する言語で用いられる法のひとつで、話者が事実をそのまま語る場合に用いられる動詞の活用をいう。基本的に、条件法や接続法、仮定法や命令法以外の動詞の活用をいう)。私が指摘したように、ある俳優が「私はデンマークのハムレットだ!(Hamlet the Dane)」と言うとき、誰も彼がハムレットであるとは信じていないが、彼が嘘をついているとも考えない(注:嘘をついているのではなく「気が狂っている」と思っている)。これで明らかになることは、真理や虚偽は、信念 (belief) を表現する文または信念を生ぜしめようと意図された文にのみ属する性質であるということである(訳注:発話者が嘘をついていると信じていなくてもよいということ)。真理と虚偽関しては、文は信念を伝えるもの(乗り物)としてのみ重要である。信念は、それが複雑なものでなければ、語の使用なしに存在できることは明らかである(訳注:何も言わなくても、怒っていることだけは確かだ、とか・・・)。こうして(Thus )、我々は、言語の領域の外に連れ出され、まず言語化されていない信念を考察し、次に、そういう信念とその信念を表現できる文との間の関係を考察せざるを得なくなる(のである)(訳注:相手が怒っているのは電話をしなかったからか? とか)。

Chapter 13: language, n.9
A sentence in the indicative may be uttered because the speaker believes it, or because he hopes that it will arouse some action or emotion in the hearer. As I pointed out, when an actor says, ‘This is I, Hamlet the Dane’, nobody believes him, but nobody thinks he is lying. This makes it clear that truth and falsehood belong only to sentences expressing belief or intended to cause belief. In regard to truth and falsehood, a sentence is only important as a vehicle of belief. It is clear that beliefs, if they are not complicated, can exist without the use of words. We are thus taken outside the linguistic sphere and are compelled to consider, first, unverbalized beliefs, and then the relation of such beliefs to the sentences in which they can be expressed.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
 More info. https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_13-080.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第13章 言語 n8)

【この点については、『人間の知識』(pp.267-269)から次の一節を引用しておこう。】

ひとつの対象の構造を示すことは、その対象の諸部分について、また、諸部分が相互に関係する仕方について、言及することである(たとえば)我々が解剖学を学んでいるとすると、我々はまず様々な骨の名前と形とを学び、 その後、各々(それぞれ)の骨が骨格のどの部分に属するかを教えられるかもしれない(might 可能性がある)。その時は、我々は、解剖学が骨格について言うことを有している限り(範囲)において、骨格を知ることになるであろう。しかし、骨格の構造(structure in relation to the skelton)について言うことができることの全てを尽くしたことにはならないであろう。 骨は細胞からなっており、細胞は分子 からなっており、分子は化学が研究するところの原子構造をもっている(訳注:ただし、科学は一つ一つの原子の構造については言及しない)。原子は、今度は、物理学が研究するような構造をもっている(訳注:原子核+電子 → 素粒子)。現在一般に認められている科学(注:1959年の時点!)は、この点(point 度合い/段階)で分析を中止している。しかし、さらに進んだ分析が不可能であると想定すべき理由は全くない。我々は(本書の)後の方で、物理的存在を事象(出来事)からなる構造にまで分析することについて述べる(提案する)機会を持つであろうし、事象(出来事)すら、後に私が示そうと試みるように、構造を持つものであtp考えるのが得策である。(with advantage 利点がある)」 「次に、幾分ちがった構造の例、即ち、文(の構造)について考えてみよう。文は語(単語など)の系列(語がいくつかつらなったもの)であり、文が話される場合には時間的前後の関係による順序に配列されており、書かれた文であれば、左から右へ(訳注:アルファベットの場合!)の関係による順序に配列されてい。しかし、これらの関係は、実は、語と語の間の関係ではなく、 語の個別的事例 (instances) (同士)の間の関係である(訳注:。ひとつの語とは、類似する音(noises)の集合であり、それらはすべて同じ意味またはほとんど同じ意味をもっている(話を単純化するために、私は書かれた文字ではなく話された言葉に限定しよう)。 ひとつの文もまた音(noises :不快で非音楽的な音)の集合である。なぜなら多くの人が同じ文を発話できるからである(訳注:たとえば、「ポチ」という語がありますが、その場に3人の人がいて、3人が「ポチ」という語を発声すれば、「ポチ」という語の3つの発話例 instances が生じることになります)。 そこで、文とは語(words)の時間的系列であると言うべきではなく、それは音(noise)の集合であり、しかもそれら音(noise)はおのおのまた、迅速な時系列の音(noise)からなり、しかもまた、この音(noise)各々の語(word)の個別的事例であるようなものである(これは一つの文の必要な特質であって十分な特質でない。 十分でないというのは(なぜならば)、語の系列の中には有意義でないものもありうるからである)。さて私は様々な品詞(different parts of speech)の区別に長居することなく(これ以上詳しく論ずることはやめて)、統語論(syntax 構文)には属せず、音韻論に属するところの、次の分析の段階に進もう。一つの語(a wordの各事例(each instance)は複合的な音(sound)であり、それらの諸部分は個々の文字(separate letters)である(ただし 文字は音標文字 phonetic alphabet を仮定する)。このような音韻分析の彼方(behind 後に/先に)に、さらに次の分析の段階がある。それは一つひとつの文字を発音したり聞いたりする、複雑な(人間の)生理過程の分析の第かいがある。 生理学的分析の彼方(先)には、物理学の分析があり、さらにこの点から先へ分析は進むが、それは骨について考えたのと同じである。 ・・・・・・」 「後になってそれ自身複合的であるとわかるような単位(units)から出発して構造を説明することには何の誤りはない。たとえば、点は事象(出来事)の集合として定義されうるが、だからといって、点を単純なもの(simple 構造をもたないもの)として扱った伝統的な幾何学(訳注:ユークリッド幾何学のこと)が誤まっていたということにはならない。構造についての説明は、全てある単位に相対的なものであり、その単位は、当面は、あたかも構造をもたないものであるかのごとく扱われる。 しかし、それらの単位が、別の文脈(コンテキスト)においては構造をもち、それを認めることが重要でありうることを、否定してはならないのである。」

Chapter 13: language, n.8 (As to this, I will quote the following passage from Human Knowledge (pages 267-9):) To exhibit the structure of an object is to mention its parts and the ways in which they are interrelated. If you were learning anatomy, you might first learn the names and shapes of the various bones, and then be taught where each bone belongs in the skeleton. You would then know the structure of the skeleton in so far as anatomy has anything to say about it. But you would not have come to an end of what can be said about structure in relation to the skeleton. Bones are composed of cells, and cells of molecules, and each molecule has an atomic structure which it is the business of chemistry to study. Atoms, in turn, have a structure which is studied in physics. At this point orthodox science ceases its analysis, but there is no reason to suppose that further analysis is impossible. We shall have occasion to suggest the analysis of physical entities into structures of events, and even events, as I shall try to show, may be regarded with advantage as having a structure. ‘Let us consider next a somewhat different example of structure, namely sentences. A sentence is a series of words, arranged in order by the relation of earlier and later if the sentence is spoken, and of left to right if it is written. But these relations are not really between words; they are between instances of words. A word is a class of similar noises, all having the same meaning or nearly the same meaning. (For simplicity I shall confine myself to speech as opposed to writing.) A sentence also is a class of noises, since many people can utter the same sentence. We must say, then, not that a sentence is a temporal series of words, but that a sentence is a class of noises, each consisting of a series of noises in quick temporal succession, each of these latter noises being an instance of a word. (This is a necessary but not a sufficient characteristic of a sentence; it is not sufficient because some series of words are not significant.) I will not linger on the distinction between different parts of speech, but will go on to the next stage in analysis, which belongs no longer to syntax, but to phonetics. Each instance of a word is a complex sound, the parts being the separate letters (assuming a phonetic alphabet). Behind the phonetic analysis there is a further stage: the analysis of the complex physiological process of uttering or hearing a single letter. Behind the physiological analysis is the analysis of physics, and from this point onward analysis proceeds as in the case of the bones. . . . ‘There is nothing erroneous in an account of structure which starts from units that are afterwards found to be themselves complex. For example, points may be defined as classes of events, but that does not falsify anything in traditional geometry, which treated points as simples. Every account of structure is relative to certain units which are, for the time being, treated as if they were devoid of structure, but it must never be assumed that these units will not, in another context, have a structure which it is important to recognize.’    
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
 More info. https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_13-080.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第13章 言語 n7

 世界には(単一ではなく)複合的(である)と見えるものが多くある。もちろん複合的でないものが存在するかもしれないが、(今)その点についてひとつの見解を持つ(立てる)必要はない。 あるものが複合的である場合、それらものは諸部分と諸部分の間の関係からなっている。(たとえば)テーブルは(数本の)足と平らな上面からなっている。 ナイフは柄と刃からなっている。事実は - (今)私が使っている言葉としての事実は - 常に、ひとつの全体のなかの諸部分の関係、あるいは、単一物の諸性質からなっている。事実とは、要するに(in a word)、完全に単純なもの(if anything もしあるとして)を除けば、存在するもの全てである。二つのものが相互に関係を持つとき、それらは一つのものとみなしてよいところの一つの複合物を形成する。 「事実」という語は、諸部分がつくる複合的な全体を言い表わす(表現する)よりも、むしろ諸部分の間の分析された関係を言い表わすのに用いる方が便利である。 文はそれが真である場合、そのような関係を言い表し、偽である場合にはそのような関係を言い表さない。 爆発的に一語を用いる場合(訳注:たとえば、「火事だ!」)は別として、二つ以上の語からなる文は全て、複合物についてのある程度の分析を具現化している(具体的に表現している)(訳注:All sentences that consist of more than one word used explosively embody の訳文は要注意)。もしいくつかの複合物がすべてひとつの共通な構成要素をもつ とすれば、そのことは、それら複合物を分析する文がすべてひとつの共通語を含むという事実によって示されるであろう。たとえば次の文をとってみよう。 「ソクラテスは賢明であった。」 「ソクラテス はアテネ市民であった。」 「ソクラテスはプラトンを愛した。」 「ソクラテスは毒人参(hemlock)を飲んだ。」  これらの文は全て「ソクラテス」という語を含み、これらの文を真にする事実は全て、ソクラテスという人間を一つの構成要素として含んでいる。  これが、これらの文がソクラテス「についての(about)」ものであると我々が言う時に、意味していることである。ソクラテスは、これらの文を真にする諸事実の中に,分析されない一つの全体(an unanalysed whole)としてはいっている。 しかし(分析されない全体と言っても)もちろん、ソクラテス自身は複合物(複合体)であったのであり、我々はこの複合性を主張する他の文を作ることができる。たとえば「ソクラテスは獅子鼻(snub-nosed)であった」とか「ソクラテスは二つの脚をもっていた」とかいう文である。これらの文(複数)は与えられた一つの全体を分析している(ものである)。ある時期に分析がどこまでなされるかは、その時の科学の状態によって決まる(注:関係する科学が進めば進むほどいろいろなことを言えるようになる)。一つの全体の諸部分が相互に関係する仕方は、その全体の「構造」を構成する。この点については、『人間の知識』(pp.267-269)から次の一節を引用しておこう。(続く)

 世界には(単一ではなく)複合的(である)と見えるものが多くある。もちろん複合的でないものが存在するかもしれないが、(今)その点についてひとつの見解を持つ(立てる)必要はない。 あるものが複合的である場合、それらものは諸部分と諸部分の間の関係からなっている。(たとえば)テーブルは(数本の)足と平らな上面からなっている。 ナイフは柄と刃からなっている。事実は - (今)私が使っている言葉としての事実は - 常に、ひとつの全体のなかの諸部分の関係、あるいは、単一物の諸性質からなっている。事実とは、要するに(in a word)、完全に単純なもの(if anything もしあるとして)を除けば、存在するもの全てである。二つのものが相互に関係を持つとき、それらは一つのものとみなしてよいところの一つの複合物を形成する。 「事実」という語は、諸部分がつくる複合的な全体を言い表わす(表現する)よりも、むしろ諸部分の間の分析された関係を言い表わすのに用いる方が便利である。 文はそれが真である場合、そのような関係を言い表し、偽である場合にはそのような関係を言い表さない。 爆発的に一語を用いる場合(訳注:たとえば、「火事だ!」)は別として、二つ以上の語からなる文は全て、複合物についてのある程度の分析を具現化している(具体的に表現している)(訳注:All sentences that consist of more than one word used explosively embody の訳文は要注意)。もしいくつかの複合物がすべてひとつの共通な構成要素をもつ とすれば、そのことは、それら複合物を分析する文がすべてひとつの共通語を含むという事実によって示されるであろう。たとえば次の文をとってみよう。 「ソクラテスは賢明であった。」 「ソクラテス はアテネ市民であった。」 「ソクラテスはプラトンを愛した。」 「ソクラテスは毒人参(hemlock)を飲んだ。」  これらの文は全て「ソクラテス」という語を含み、これらの文を真にする事実は全て、ソクラテスという人間を一つの構成要素として含んでいる。  これが、これらの文がソクラテス「についての(about)」ものであると我々が言う時に、意味していることである。ソクラテスは、これらの文を真にする諸事実の中に,分析されない一つの全体(an unanalysed whole)としてはいっている。 しかし(分析されない全体と言っても)もちろん、ソクラテス自身は複合物(複合体)であったのであり、我々はこの複合性を主張する他の文を作ることができる。たとえば「ソクラテスは獅子鼻(snub-nosed)であった」とか「ソクラテスは二つの脚をもっていた」とかいう文である。これらの文(複数)は与えられた一つの全体を分析している(ものである)。ある時期に分析がどこまでなされるかは、その時の科学の状態によって決まる(注:関係する科学が進めば進むほどいろいろなことを言えるようになる)。一つの全体の諸部分が相互に関係する仕方は、その全体の「構造」を構成する。この点については、『人間の知識』(pp.267-269)から次の一節を引用しておこう。(続く)

Chapter 13: language, n.7
Many things in the world can be seen to be complex. There may be things which are not complex, but it is unnecessary to have an opinion on this point. When things are complex, they consist of parts with relations between them. A table consists of legs and a flat top. A knife consists of a handle and a blade. Facts, as I am using the word, consist always of relations between parts of a whole or qualities of single things. Facts, in a word, are whatever there is except what (if anything) is completely simple. When two things are interrelated they form together a complex which may be regarded as one thing. It is convenient to use the word ‘fact’ to express the analysed connection of the parts rather than the complex whole that they compose. Sentences express such relations when the sentences are true, and fail to express them when the sentences are false. All sentences that consist of more than one word used explosively embody some analysis of a complex. If a number of complexes all have a common constituent, this may be shown by the fact that the sentences analysing them all contain a common word. Take, for example, the following sentences: ‘Socrates was wise’; ‘Socrates was Athenian’; ‘Socrates loved Plato’; ‘Socrates drank the hemlock’. All these sentences contain the word ‘Socrates’, and all the facts that make them true contain the man Socrates as a constituent. This is what we mean when we say that the sentences are ‘about’ Socrates. Socrates enters into the facts that make these sentences true as an unanalysed whole. But Socrates was, of course, himself complex, and we can make other sentences in which this complexity is asserted, as, for example, ‘Socrates was snub-nosed’ or ‘Socrates had two legs’. Such sentences analyse a given whole. How far the analysis can be carried at any one time depends upon the state of science at that time. The manner in which the parts of a whole are interrelated constitutes the ‘structure’ of the whole. As to this, I will quote the following passage from Human Knowledge (pages 267-9):  
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
 More info.https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_13-070.HTM



ラッセル『私の哲学の発展』第13章 言語 n6

 『数学の諸原理』(『数学原理(Principia Mathematica)』ではなく、1903年に出版した The Problems of Mathematics の方)を執筆していたときに、私は文について困惑し始めた。当時 私の関心をひいたのは、特に動詞の機能(働き)についてであった。当時重要だという印象を私に与えたのは、動詞が文に統一を与えることであった。「A は B より大である」という文は、いくつかの語を含むがゆえに複合的であり、また、仮にその文が真であるとすれば、その文を真ならしめるところの事実の中にも、文の複合性に対応する(事実の)複合性がなければならないということは、当時 ー今もそうであるが- 明らかであると私には思われた。この種の複合的な統一(性)に加えて、文はまた、真と偽の二元性(二重性)というもうひとつの性質をもっている。これら二つの理由により、 文の意義 (significance) を説明することの中に含まれる問題は、対象語の意味 (meaning) を定義することの中に含まれる問題よりも、いっそう困難かつ重要である。精神の分析』の中では、このような文の諸問題について十分に扱わなかったが、『意味と真理との探求』の中では、この領域において、十分な説明を与えようと努力した。  多くの現代哲学者が形而上学的でありすぎるとみなすところのある一定の諸前提を置くことなしには、 真と偽とに関する妥当な理論を構築(構成)することは不可能である、と私は考える(←可能であるとは考えない)。(諸)事実というものが存在し、 そうして、「真理」は事実とのある種の関係であり、他方、「虚偽」は別種の関係であると言わなければならない、と私は考える。我々(人間)は事実を知ることは決してないと偽って主張する(pretend ふりをする)控えめな不可知論は馬鹿げている(不合理である)、と私は考える。私が痛みを感じているとき、あるいは私が音を聞いたり、太陽を見たりしているときに、それらを私は知っていないなどと主張すること(偽って言うこと/ふりをすること)は、理論が現実感を全て抹殺してしまった人にとってのみ可能なことである。さらに、私が今拒否している見解に最も熱心に固執している人でさえ、文は語からなっていることを認めるであろうし、ひとつの文を口にしたり聞いたりすることがまさに彼らが不可知とする種類の事実のひとつであることを、十分な理由をもって否定することはできない。言語は歩いたり食べたり飲んだりすることと同様、身体的行動の一形式なのであ って、歩いたり食べたり飲んだりすることに関して我々が知りえないことは全て、それらはまた、言語についても我々は知ることはできない(のである)。

Chapter 13: language, n.6
I began to be puzzled about sentences when I was writing The Principles of Mathematics, and it was at that time particularly the function of verbs that interested me. What struck me as important then was that the verb confers unity upon the sentence. The sentence ‘A is greater than B’ is complex since it contains several words, and it seemed plain to me, as it still does, that there must be a corresponding complexity in the fact which makes the sentence true, if it is true. In addition to this kind of complex unity, a sentence has another property which is the duality of truth and falsehood. For these two reasons, the problems involved in explaining the significance of sentences are both more difficult and more important than those involved in defining the meaning of object-words. In The Analysis of Mind I did not deal at all fully with these problems, but in An Inquiry into Meaning and Truth I endeavoured to offer adequate explanations in this region. I do not think it is possible to construct a tenable theory of truth and falsehood without certain presuppositions which many modern philosophers consider unduly metaphysical. I think one must say that there are facts and that ‘truth’ consists in one sort of relation to facts while ‘falsehood’ consists in another sort of relation. I think the kind of modest agnosticism which pretends that we never know facts is absurd. To pretend that I do not know when I am feeling pain, or when I hear a noise, or see the sun, is the kind of thing that is only possible for those in whom theory has killed all sense of reality. Moreover, even the most passionate adherents of the view that I am rejecting will admit that sentences consist of words, and cannot well deny that uttering or hearing a sentence is a fact of just the kind that they regard as unknowable. Language is a form of bodily behaviour like walking or eating or drinking, and whatever we cannot know about walking or eating or drinking we also cannot know about language.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
 More info. https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_13-060.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第13章 言語 n5

精神の分析』において、私は心的出来事の「素材(材料/要素)」(stuff)は全て感覚と心像(images 心/脳の中のイメージ)のみからなるというテーゼ(命題)を主張した(argued)。 このテーゼ(主張)が十分妥当なものであるかどうかわからないが、私は今でも、言語の使用の多くが心像(images)を導入することなしには説明できない(inexplicable わけがわからない)と固く信じている。行動主義者達は、心像が外部から観察できないものであるという理由から、心像の存在を認めることを拒否する。しかし,それは、記憶や想像を説明しようとする時、彼らに多くの困難をもたらす。『精神の分析』を書いた時には、私は欲求(欲望)を行動主義的に説明することが可能であると思っていたが、今ではそれについては大きな疑いを抱いているい。けれども、感覚に現前していないものに関する言語使用を説明するためには心像(を想定すること)が必要であるということについて『精神の分析』で述べたことに、私はいまでも支持している(adhere to 信念を固く守る)。  私はひとつの対象語の理解を成り立たせるものは何か(について)、以下の6つの見出しのもとに要約した。 (1) 適切な状況において 適切な機会(場合)に、適切に語を使用すること。 (2) その話を聞いたときに適切に行動すること (3) その語を、行動に対する適切な効果をもつところの他の語(たとえば異なる言語における,対応する語)と結びつけること。 (4) その語を学ぶ際に、その語が「意味する」 ひとつあるいは複数の対象とその語を結びつけること (5) ある記憶心像(memory-image)を記述あるいは想起する(思い出す)ためにその語を使用すること (6) ある想像心像を記述あるいは作り出すためにその語をもちいること  私はこれら6つの要点語一般に適用される(当てはまる)かのように述べたが、実際は、非対称語に対しては修正を加えなければ適用されない(当てはまらない)。けれども、我々が、文と、文の部分としてしか使用できないような語との考察に進むや否や、新たな問題が現れる。我々は「火事(だ)!」「きつね(だ)!」とかいうような語を、文の中に入れないで、感嘆口調で使用することが可能である。しかし、そのように孤立して使用できな言葉が非常に多く存在している。(たとえば)「地球は月よりも大きい The earth is greater thin the moon.」という一文をとりあげてみよう。この文で “the” ,”is”,”than”という語は、文の一部である場合にのみ意味を獲得する。 もっとも “greater(一層大きい」という語についてはそのことを疑う人がいるかも知れない。 最初に馬を見ていて急に象を見るとすれば、我々は「もっと大きい!」 と叫ぶかもしれない。しかし、皆これはひとつの省略した言い方であると認めるだろう、と私は考える。 文を前提とする語が存在するという事実は、最初に文を考察することなしには、あるいはともかくも、文によってどのような心的出来事が表現されているかを考察することなしには、意味の分析をそれ以上進めることは不可能となる(のである)。

Chapter 13: language, n.5 In The Analysis of Mind I argued the thesis that the ‘stuff’ of mental occurrences consists entirely of sensations and images. I do not know whether this thesis was sound, but I am still quite convinced that many uses of language are inexplicable except by introducing images. Behaviourists refuse to admit images because they cannot be observed from without, but this causes them difficulties when they attempt to explain either memory or imagination. I thought when I wrote The Analysis of Mind that it was possible to give a behaviouristic account of desire, but as to this I now feel very doubtful. I still, however, adhere to all that I said in that book about the necessity of images for explaining the use of words in regard to things not sensibly present. I summed up what constitutes the understanding of an object-word under six heads: (1) Using tlie word properly in suitable circumstances on suitable occasions; (2) Acting appropriately when you hear it ; (3) associating the word with another word (say, in a different language) which has the appropriate effect on behaviour; (4) in learning the word, associating it with an object or objects which is or are what it ‘means’ ; (5) using the word to describe or recall a memory-image; (6) using the word to describe or create an imagination-image. I stated these six points as if they applied to words in general, but, in fact, they do not apply without modification to words which are not object-words. New problems, however, arise as soon as we pass to the consideration of sentences and of words which can only be used significantly as parts of sentences. You can use such words as ‘fire’ or ‘fox’ in an exclamatory manner without the need of putting them into sentences, but there are a great many words which cannot be thus used in isolation. Take such a sentence as ‘the earth is greater than the moon’. ‘The’, ‘is’, and ‘than’ only acquire significance when they are parts of sentences. One might have doubts about the word ‘greater’. If you had been looking at horses and suddenly saw an elephant, you might exclaim ‘Greater!’ But I think everyone would recognize this as an ellipsis. The fact that some words presuppose sentences makes it impossible to carry the analysis of meaning any further without first considering sentences or at any rate what mental occurrences are expressed by means of sentences.
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
 More info.https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_13-050.HTM

ラッセル『私の哲学の発展』第13章 言語 n4

 哲学者や本好きな人(読書の好きな人)は、通例(一般的に)言葉によって支配される生活を送りがちであり、通例非言語的であるところの事実と何らかの繋がり(結合)を持つことが言葉の本質的な機能であるということを 忘れることさえありがちである。現代の哲学者のなかには、言葉は決して事実と向かい合わせる(突き合わせる)べきではなく、 言葉は純粋に自律的な世界に生きるべきものであり、ただ他の言葉と比較されるべきであるとさえ言う者がいる。(即ち/例えば)「猫は肉食動物である」と言うとき、それは、実際に肉を食うということを意味しているのではなく、動物学の本では猫というものは肉食動物の中に分類されるということを意味しているにすぎない(というしだいである)。これらの著者達は、言語と事実とをつき合せる試みは「形而上学」(注:感覚ないし経験を超越した世界を真なる実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野/対立する言葉は「唯物論」)であり、それゆえに非難されなければならない、と我々に告げる。 これは、非常に馬鹿げた見解(の一つ)であり、ひょっとして非常に学問のある者のみが採用できる見解かもしれない(注:could possibly ひょっとして~かもしれない)。その見解を特に馬鹿げたものにしているのは、 事実の世界における言語の地位に盲目であることである。。食べたり歩いたりすることと全く同様に、言語は感覚的な現象からなっており、もし仮に我々が事実について一切知りえないのならば、 我々は他人の言うことを知りえないはずであり、また、我々自身(自分自身)が何を言っているかさえ知りえないはずである。言語は、(後天的に)獲得された他の行動様式と同様、有用な習慣からなっており、 しばしばそれにまといついている神秘(性)を何ももっていない。言語についての迷信的な見解には新しい点はまったく存在しておらず、それは有史以前の時代から我々に伝えられてきたものである。 「我々が歴史的記録を有する最古の時代以来、言葉は送信的な畏怖の対象であった。敵の名を知る者は、それにより敵を支配する魔力を手に入れることができた。そして今でも我々は「法の名において」というような句を用いている。 「はじめに言葉ありき」という主張に同意することは容易である。この見解は、プラトンやカルナップおよびその間に出た大多数の形而上学者達の哲学の根底をなしている。」)ラッセル著『意味と真理の研究』p.23)

Chapter 13: language, n.4
Philosophers and bookish people generally tend to live a life dominated by words, and even to forget that it is the essential function of words to have a connection of one sort or another with facts, which are in general non-linguistic. Some modern philosophers have gone so far as to say that words should never be confronted with facts but should live in a pure, autonomous world where they are compared only with other words. When you say, ‘the cat is a carnivorous animal’, you do not mean that actual cats eat actual meat, but only that in zoology books the cat is classified among carnivora. These authors tell us that the attempt to confront language with fact is ‘metaphysics’ and is on this ground to be condemned. This is one of those views which are so absurd that only very learned men could possibly adopt them. What makes it peculiarly absurd is its blindness to the position of language in the world of fact. Language consists of sensible phenomena just as much as eating or walking, and if we can know nothing about facts we cannot know what other people say or even what we are saying ourselves. Language, like other acquired ways of behaving, consists of useful habits and has none of the mystery with which it is often surrounded. There is nothing new in the superstitious view of language, which has come down to us from pre-historic ages: ‘Words from the earliest times of which we have historical records, have been objects of superstitious awe. The man who knew his enemy’s name could, by means of it, acquire magic powers over him. We still use such phrases as “in the name of the Law”. It is easy to assent to the statement “in the beginning was the Word”. This view underlies the philosophies of Plato and Carnap and of most of the intermediate metaphysicians’ [An Inquiry into Meaning and Truth, page ’23 ).
 Source: My Philosophical Development, 1959, by Bertrand Russell
 More info.https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_13-040.HTM