ラッセル『私の哲学の発展』第12章 意識と経験 n8

「そうなると、水たまりを見ることと、自分が水たまりを見ていると知ることとは、別のことになる。ところで、「知ること』は、『適切に行動すること』と定義されるかも知れない。これは、犬が(自分につけられた)自分の名(注:ポチ)を知るとか、伝書鳩が帰り道を知るという場合の、 『知る』という語の意味である。 この意味において、私が水たまりを知ることは、私が横によけることであった。 しかし、これは不明確(な言い方)である。というのは、他のものが私を脇によけさせたのかも知れないからであり、また「適切に」と いう語は自分の諸欲求という観点で(in terms of)のみ定義されうる話だからでもある。もし私が自分に多額の保険金をかけた直後であって、自分が肺炎で死ねば好都合だと考えていたとすると、私は水にぬれるほうを望んでいたかも知れない。そうだとすると、私が脇によけたということは、私が水たまりを見なかったと いうことの証拠になるはずである。それだけでなく、もしそういうわけで欲求というものを考慮外とすること にすれば、ある刺戟に対する適切な反応は、科学的器具によっても示されることになる。 しかし、寒暖計が寒さを『知る』とは誰も主張しないであろう。 「我々が経験を知るために、経験に対して何がなされなければならないか。いろいろなことが可能 ある。言葉を用いて経験を記述することがあり、経験を語または心像において想起することがあり、 また経験に『注意する』 (notice) だけの場合もある。ところで『注意すること』は種々な程度を許す事柄であり、定義することは大変むずかしい。それは主として、感覚しうる環境からあるものを分離することであるように思われる。たとえば、ひとつの楽曲に聞き入るとき、チェロの音だけにわざと注意をむけることができる。この場合ほかの部分は、よく言われるように、『無意識に』聞かれ ているのである。 しかし『無意識』という語は何か明確な意味をもたせようとしてもだめな語である。ある意味では、現在の経験が我々のうちに何らかの情緒をいかに弱くとも起すとき、我々は現在の経験を『知る』と言うことができる。たとえば、経験が我々にとって楽しいものであるか不愉快なものであるか、我々の興味をそそるか退屈させるか、我々を驚かすかまたは期待したとおりのものであるか、というような場合である。 「我々の現在の感覚の場にある何ものかを、我々が知ることが「できる」ということの、ひと つの重要な意味がある。『あなたはいま黄色を見ているか』とか『音が聞こえるか』とか誰かが言うとき、たとえ問いかけられるまでは黄色や音を注意していなかったとしても、我々は完全な確信を持って 答えることができる。そして多くの場合、そのものに我々が注意を引かれる前にすでにそのものはそこにあったのだと確信することができるのである。 「してみると、我々の経験する最も直接な知り方は、現在(現在存在)する感覚 (sensible presence) に何 ものかが加わって起こる、と思われる。しかし、加わる必要のあるところのこの何ものかを非常に正確に定義しようとすれば、その正確さそのものによって誤まりにおちいることに多分なるであろう。というのは事柄自体が不明確でいろいろな程度を持つのだからである。その必要なものは「注目」 (attention)と呼んでよいであろう。これは必要な感覚器官を緊張させることであり、またひとつ の情緒的反応でもある。突然聞こえた大きな音は注意を引くことほとんど間違いがないが、非常にかすかな音でも情緒的意味を持つならやはり注意を引くのである。 「すべての経験的命題は、ひとつまたはそれ以上の感覚的な出来事が、それらの起こると同時に注意されるか、あいは起こった直後、それらがまだその心理的現在の一部をなしている間に注意されるかする場合、そういう感覚的な出来事に基礎をおいているのである。そういう出来事は、それらが注目されるとき「知られる』のだ、と言うことにしよう。 『知る』という語は多くの意味をもち、これはそのひとつにすぎないが、我々の研究の目的にとってはこの意味が基礎的な意味なのである。」(pp.49-51)

Chapter 12: Consciousness and Experience , n.8
‘We are to say, then, that it is one thing to see a puddle, and another to know that I see a puddle. “Knowing” may be defined as “acting appropriately”; this is the sense in which we say that a dog knows his name, or that a carrier pigeon knows the way home. In this sense, my knowing of the puddle consisted of my stepping aside. But this is vague, both because other things might have made me step aside, and because “appropriate” can only be defined in terms of my desires. I might have wished to get wet, because I had just insured my life for a large sum, and thought death from pneumonia would be convenient; in that case, my stepping aside would be evidence that I did not see the puddle. Moreover, if desire is excluded, appropriate reaction to certain stimuli is shown by scientific instruments, but no one would say that the thermometer “knows” when it is cold. ‘What must be done with an experience in order that we may know it? Various things are possible. We may use words describing it, we may remember it either in words or in images, or we may merely “notice” it. But “noticing” is a matter of degree, and very hard to define; it seems to consist mainly in isolating from the sensible environment. You may, for instance, in listening to a piece of music, deliberately notice only the part of the cello. You hear the rest, as is said, “unconsciously” ? but this is a word to which it would be hopeless to attempt to attach any definite meaning. In one sense, it may be said that you “know” a present experience if it rouses in you any emotion, however faint ? if it pleases or displeases you, or interests or bores you, or surprises you or is just what you were expecting. ‘There is an important sense in which you can know anything that is in your present sensible field. If somebody says to you “are you now seeing yellow?” or “do you hear a noise?” you can answer with perfect confidence, even if, until you were asked, you were not noticing the yellow or the noise. And often you can be sure that it was already there before your attention was called to it. ‘It seems, then, that the most immediate knowing of which we have experience involves sensible presence plus something more, but that any very exact definition of the more that is needed is likely to mislead by its very exactness, since the matter is essentially vague and one of degree. What is wanted may be called “attention”; this is partly a sharpening of the appropriate sense-organs, partly an emotional reaction. A sudden loud noise is almost sure to command attention, but so does a very faint sound that has emotional significance. ‘Every empirical proposition is based upon one or more sensible occurrences that were noticed when they occurred, or immediately after, while they still formed part of the specious present. Such occurrences, we shall say, are “known” when they are noticed. The word “know” has many meanings, and this is only one of them; but for the purposes of our inquiry it is fundamental’ (pages 49-51).
 Source: My Philosophical Development, 1959, chapter 12  
 More info.: https://russell-j.com/beginner/BR_MPD_12-080.HTM

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