我々は人に従うよりもむしろ神に従うべきであるという原則は,キリスト教徒によって二通りに解釈されてきた。(即ち)神の命令は個人の良心に直接伝えられるか,あるいは,教会という媒体を通して間接的に伝えられるか,の二通りに解釈されてきたのである。ヘンリー八世とヘーゲルを除いて,今日まで,神の命令が国家を媒体として伝えられるという考えを抱く者はかつてまったく存在しなかった。こうして,キリスト教の教えは,個人の判断の正しさを支持するか(例:無教会派/神は個人と直接対話),教会を支持するか,どちらかの方法で,国家の弱体化を(必然的に)伴った。理論的には,前者(個人宗教/無教会派)は無政府主義を意味する。後者は教会と国家という二つの権威を意味するが(必然的に伴うが),両者の領域の限界(範囲)を定めるための明確な原則はまったく存在していない。どれがカエサルによって支配されるものであり,どれが神によって支配されるのであるか。キリスト教徒にとっては,全てのものは神のもの(思し召し)だというのが当然であろう。従って,教会の主張は,国家が堪えがたいと見なすだろうものになりがちである。教会と国家の争いは,これまで理論上決して解決されたためしがなく,今日でもやはり,教育のような事柄(問題)においては,依然として未解決のままである。
The principle that we ought to obey God rather than man has been interpreted by Christians in two different ways. God’s commands may be conveyed to the individual conscience either directly, or indirectly through the medium of the Church. No one except Henry VIII and Hegel has ever held, until our own day, that they could be conveyed through the medium of the State. Christian teaching has thus involved a weakening of the State, either in favour of the right of private judgment, or in favour of the Church.
出典: Power, 1938.
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