「正気」とは,様々な「狂気」のバランスが保たれた状態?

tp-noep いかなる隔離された情熱も,隔離された状態のままでは,(一種の)狂気である。正気とは,種々の狂気を総合(統合)したものとして定義してよいだろう。いかなる支配的な情熱も,(その情熱の対象を)達成できないという,支配的な恐怖を引き起こす。いかなる支配的な恐怖も,時には明白かつ意識的な狂信の形で,時には人を無力にさせる臆病のために,時には夢の中にのみ現れる無意識あるいは意識下の恐怖のために,悪夢を引き起こす。危険な世界において正気を保持したいと思う者は,自分の心のなかで恐怖の議会を招集し,そこにおいて,個々の恐怖を順にとりあげ,他の全ての恐怖によって,不合理であるとして票決されるべきである。

(意訳:「正気」というのは,平凡かつ起伏のない感情の寄せ集めでできているものではない。それぞれの情熱(強い感情)を一つ一つとりあげれば「狂気」に映るかもしれないが,それらの情熱(+の狂気と-の狂気)をまとめると,全体としてみれば,プラスマイナス零となる。そういった状態を「正気」というのであろう。)

Every isolated passion is, in isolation, insane; sanity may be defined as a synthesis of insanities. Every dominant passion generates a dominant fear, the fear of its non-fulfilment. Every dominant fear generates a nightmare, sometimes in the form of an explicit and conscious fanaticism, sometimes in a paralysing timidity, sometimes in an unconscious or subconscious terror which finds expression only in dreams. The man who wishes to preserve sanity in a dangerous world should summon in his own mind a Parliament of fears, in which each in turn is voted absurd by all the others. …
From: Nightmares of Eminent Persons, 1945, Introduction.
https://russell-j.com/cool/46E-INTR01.HTM

[寸言]
br196009-2 この言葉は,ラッセルの2冊めの小説『著名人の悪魔』(Nightmares of Eminent Persons, and Other Stories, 1954)の巻頭に収められたもの(序文代わりのもの)である。明らかに「狂気」とおもわれるものも少なくないが,強い感情であるために、「正気」であるのに「狂気」だと思われてしまうもの(誤解されてしまうもの)も少なくない。ラッセルの核兵器撤廃闘争もそうであった。危機感を感じてない人間にとっては,ラッセルの行動は「極端」で,一種の「狂気」に見えるかも知れないが、起こりうる危機や破局をまざまざと想像できる人間にとっては、「狂気の沙汰」ではなく「正気の沙汰」なのである。大きな戦争や、大きな人災や、大きな災害が起こって初めて、自らの思慮の足りなさに気づく人が多い。
「原発全廃」なども極端な意見だと思う人も少なくないようであるが、そういった人が、原発全廃こそが「現実的」であることに気づくのは福島に続く大きな原発事故が起こってから、それも自分や自分の家族に大きな影響が生じた時、のことであろう。