「臨機応変の才(tact 気転を働かせること)」が一つの美徳であることは,否定できない。まったく思いがけず,場所にそぐわない発言を次々とする人間は,仲間たち全員から嫌われるだろう。しかし「臨機応変の才(気転を働かせること)」は美徳であるが,ある種の悪徳ときわめて密接に繋がっている。即ち,臨機応変の才(気転を働かせること)と偽善の境界(線)はきわめて狭い。両者の違いはその動機にある,と思われる。即ち,(相手を)喜ばせようとする「親切心」からくるものである場合は,「臨機応変の才(気転を働かせること)」は正しいものであるが,それが相手の感情を損なう不安,あるいはおべっか(お世辞)により何らかの利益を得ようとする気持ちにもとづくものであれば,「臨機応変の才(気転を働かせること)」は,あまり好感がもてないものになりやすい。他人との困難な交渉に慣れている人間は,相手の虚栄心に対する,いやむしろ各種の偏見に対する思いやりを体得するが,誠実さを第一と考える者にはそれは非常に不愉快なものである。
It cannot be denied that tact is a virtue. The sort of person who always manages to blurt out the tactless thing, apparently by accident, is a person full of dislike of his or her fellow creatures. But although tact is a virtue, it is very closely allied to certain vices; the line between tact and hypocrisy is a very narrow one. I think the distinction comes in the motive: when it is kindliness that makes us wish to please, our tact is the right sort; when it is fear of offending, or desire to obtain some advantage by flattery, our tact is apt to be of a less amiable kind. Men accustomed to difficult negotiations learn a kind of tenderness towards the vanity of others and indeed towards all their prejudices, which is infinitely shocking to those who make a cult of sincerity.
出典: On tact (written in Feb. 1, 1933 and pub. in Mortals and Others, v.1, 1975.]
詳細情報:http://russell-j.com/TACT.HTM
[寸言]
自分が行った悪事も長い年月がたつと,そういった悪事を行ったことさせも忘れてしまう。しかし,ふとした偶然のきっかけから(あるいは第三者にあばかれて),辻褄のあわないことを指摘され,「記憶にありません」とか言って逃げていても,しだいにいろいろ証拠をつきつけられ,マスコミにとりあげられるようになり,弁解がきかなくなり,ついには逃げられなくなり,最悪の場合は自己崩壊してしまう。
政治家が一番よく使う手が「記憶にありません」という逃げ口上。それは国民によく知られていて,政治家やブラック企業の経営者や悪徳官僚だけでなく,権力のない一般国民も,自分の立場があぶなくなると,彼らのマネをして「記憶にありません」を多用するこのごろ。