russellian-j のすべての投稿

「残酷さの芽生え」を幼児の時にうまく処理しておかないと,将来・・・

心ない残酷さを取り除くには,建設と成長に対する興味を伸ばしてやることが最も容易な方法である。
ほとんどすべての子供は,大きくなるとすぐに,ハエやその他の昆虫を殺したがる。これは,(後に),もっと大きな動物を殺し,ついには人間を殺すことにつながる。英国の普通の上流家庭では,鳥(猟鳥)を殺すことはとても賞賛すべきこととされ,戦争で人を殺すことは最も高貴な職業とされている(注:皮肉)。
こういう態度は,訓練されていない本能と一致する。つまり,それは,建設的な技術をまったく身につけていないために,権力ヘの意志を罪のない形に具現化できない人間の示す態度である。彼らは,キジを殺し,小作人を苦しめることができる。即ち,機会があれば,サイやドイツ人を撃つこともできる。(注:「ドイツ人を撃つ」というのは,第一次世界大戦をイメージしている。)
しかし,もっと役に立つ技術は,まったく持ち合わせていない。なぜなら,両親や教師たちは,子どもたちを英国式の紳士に仕立てあげるだけで十分だと考えたからである。彼らは生まれたとき,ほかの赤ん坊より馬鹿だったとは,私は思わない。彼らが大きくなってからの(いろいろな)欠点は,まったく悪い教育によるものである。
omoiyari_dog-and-cat もし,彼らが幼いときから,自分のものとして,愛情をこめて生命の発達を見守ることで,生命の価値を感じるように導かれていたならば;もし,建設的な技術を身につけていたならば;もし,さんざん気をもんでようやく作りあげたものでも,迅速かつ容易に壊されてしまうことをしっかりと理解するように育てられていたならば,-- もしも,こういうことが彼らの幼年期の道徳教育の一部となっていたならば,他の人が同じようにして作りあげたり,世話をしたりしているものを,そんなにすぐに壊そうとはしないだろう。

The elimination of thoughtless cruelty is to be effected most easily by developing an interest in construction and growth. Almost every child, as soon as he is old enough, wants to kill flies and other insects ; this leads on to the killing of larger animals, and ultimately of men. In the ordinary English upper-class family, the killing of birds is considered highly creditable, and the killing of men in war is regarded as the noblest of professions. This attitude is in accordance with untrained instinct : it is that of men who possess no form of constructive skill, and are therefore unable to find any innocent embodiment of their will to power. They can make pheasants die and tenants suffer; when occasion arises, they can shoot a rhinoceros or a German. But in more useful arts they are entirely deficient, as their parents and teachers thought it sufficient to make them into English gentlemen. I do not believe that at birth they are any stupider than other babies ; their deficiencies in later life are entirely attributable to bad education. If, from an early age, they had been led to feel the value of life by watching its development with affectionate proprietorship ; if they had acquired forms of constructive skill ; if they had been made to realize with apprehension how quickly and easily a slow product of anxious solicitude can be destroyed–if all this had formed part of their early moral training, they would not be so ready to destroy what others have similarly created or tended.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 6: Constructiveness.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE06-040.HTM

[寸言]
lion-hunting_business 先日、NHKのある特集番組を見ていたところ、アフリカにおいて「ライオンをライフルで撃ち殺すスポーツ」のための「ライオン繁殖ビジネス」の紹介がありました。主にライフルが好きな米国人向けのものですが、ライオン一頭を殺すスポーツのために数百万円を支払わないといけないということでした。インタビューに答えていた米国人の資産家の某女性は,「とても興奮するスポーツです,皆さんも是非やってみてください!」と屈託なく応えており、ビックリしました。

つまり、米国人(あるいは少なくともライフルを趣味とする米国人)にとっては、動物園で飼われている動物と異なり、撃ち殺すため(ハンティング用)に繁殖させた動物を殺すことは少しも悪くはない、だって人間が食べるために繁殖している牛や豚を食べることは悪くないのだから,ハンティング用の動物を撃ち殺すことは悪く無いのは当たり前でしょ、といった考え方のようです。

「破壊」と「建設」-「建設」には創造性+想像性と他者との協働が必要

破壊のほうが容易なので,子供の遊びは,通常,破壊で始まり,少し大きくなってはじめて建設へと移っていく。
obuchi-yuko_hakai 手おけ(バケツ)を持って砂場(or砂浜)で砂遊びをしている子供は,おとなに砂まんじゅうを作ってもらい,スコップでそれをたたきこわすのが好きである。しかし,砂まんじゅうを自分で作れるようになると,すぐに喜んでそれを作り,他人がそれをたたきこわすのを許さないだろう。子供が初めて積み木を手にしたときも,年上の人が作ってくれた積み木の塔をこわすのを好む。しかし,自分で塔が作れるようになると,自分がなし遂げたことをひどく誇りに思い,苦労して作りあげた建造物がこわされてがらくたの山になるのを見て耐えることができなくなる。
子供にこの遊び(ゲーム)を楽しませる衝動は,(建設と破壊という)二つの段階でまったく同じであるが,新しい技術(幼児が新しく獲得した技術)が同じ衝動から生まれた活動を一変させたのである。

Destruction being easier, a child’s games usually begin with it, and only pass on to construction at a later stage. A child on the sand with a pail likes grown-up people to make sand-puddings, and then knock them down with its spade. But as soon as it can make sand-puddings itself, it delights in doing so, and will not permit them to be knocked down. When a child first has bricks, it likes to destroy towers built by its elders. But when it has learnt to build for itself, it becomes inordinately proud of its performances, and cannot bear to see its architectural efforts reduced to a heap of ruins. The impulse which makes the child enjoy the game is exactly the same at both stages, but new skill has changed the activity resulting from the impulse.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 6: Constructiveness.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE06-020.HTM

[寸言]
abe-chiseinaki_copy-writer 幼児の場合には,「建設」は難しいので「破壊」から始まることは,大人はみな理解する。しかし、大人は,他人のことはわかっても,自分自身のことはわかならい人が少なくないようである。即ち,大人は「破壊」よりも「建設」のほうが重要なことをわかっているはずであるが、「建設のためには破壊が必要だ!」といって「破壊」しておしまいの人が、特に政治家の間には,けっこう見られる。
「破壊」は腕力(権力)さえあれば誰でもできるが,「建設」には知力(頭)や人望が必要である。「知性」を蔑視,あるいは二の次にするような政治家にとっては、新しいものを「建設」(創造)することは不得手である。
従って、そういった政治家は、自分の気に入らないものは「破壊」するとともに、後は自分たちの特権を守るために心血を注ぐ(保守に徹する)ということになる。そうして、発言は幼児性を帯び、「自分を見て!」といった幼児性にあふれたパフォーマンスが大好きである。たとえば,・・・。

困難や自分の弱点を克服して成功する喜び-大きな達成感

undo-noryoku_hatttu 私たちは皆、何かを達成すること(or何かに影響力を及ぼすこと)を好むが,権力愛に関するかぎり,何を達成するか(or何に影響力を与えるか)について気にしない。おおざっぱに言って,達成が困難であればあるほど,達成の喜びはますます大きくなる。 人はフライ・フィッシングを好むが,それは難しいからであり,木に止まっている鳥を撃とうとしないのは,易しいからである。 私がこのような例を挙げるのは,これらの事例においては,人は活動の喜び以外の隠れた動機がないからである。
しかし,同じ原理は,あらゆる場合にあてはまる。私の場合,ユークリッドを学ぶまでは算数が好きで,解析幾何を学ぶまではユークリッドが好きだった,というふうであった。
子供は,最初は歩くことを喜び,次に走ることを,その次には跳んだり,よじ登ったりすることを喜ぶ。簡単にできることは,もはや,私たちに権力の感覚を与えてくれない。私たちにぞくぞくするような成功の喜びを与えるのは,新たに身につけた技術か,あるいは,まだあまり自信の持てない技術である。権力ヘの意志が,習得した技術のタイプに応じて無限に適応できる理由は,まさにこの点にある。

success-storyWe all like to effect something, but so far as the love of power is concerned we do not care what we effect. Broadly speaking, the more difficult the achievement the more it pleases us. Men like fly-fishing, because it is difficult ; they will not shoot a bird sitting, because it is easy. I take these illustrations, because in them a man has no ulterior motive beyond the pleasure of the activity. But the same principle applies everywhere. I liked arithmetic until I learnt Euclid, Euclid until I learnt analytical geometry, and so on. A child, at first, delights in walking, then in running, then in jumping and climbing. What we can do easily no longer gives us a sense of power ; it is the newly-acquired skill, or the skill about which we are doubtful, that gives us the thrill of success. That is why the will to power is so immeasurably adaptable according to the type of skill which is taught.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 6: Constructiveness.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE06-010.HTM

[寸言]
自分が才能のある事柄において成功すれば気持ちがよいが,自らの弱点を克服して成功したほうがもっと爽快感を味わうことができる

逆に以前できていたことが少しずつできなくなると少し憂鬱になったり,いつまでも若い時と同じことができるはずはないと諦観を覚えるようになる。そうであっても、死ぬまで、できるだけ自分でできることを多く残したいと考えるが、重い病気になればそれも叶わぬ夢となる。

従って、年をとると「健康第一」が大部分の人の合言葉となる。90歳の老人は「為せば成るなさねばならぬ何事も」などと言わないであろう。70歳を超えれば「(何でも)為せば成る」なんて言わなくなる、また,思わなくなるであろう。言うとしたら自分に対してではなく、他人(特に若い人)に対してであろう。

善いと考えられている行為のために人間の悪い動機を利用すること

game-pyramid 「学校におけるゲーム(遊戯や競技)」にはもう一つの側面がある。それは,通常よいものと考えられているけれども,概して悪いものだと,私は思っている。即ち,ゲーム(遊戯や競技)は「団体精神」を促進する上に効果がある,という側面である。
「団体精神」は学校当局の好むところであるが,その理由は,「団体精神」は,善いと考えられている行為のために,(学校当局が生徒たちの)悪い動機を利用することを可能にするからである。(生徒に)努力をさせたければ,他のグループを追い越したいという(生徒の)欲望を助長することによって,容易に(生徒の)努力を刺激することができる。 難しいのは,競争的でない努力には何の動機も存在しないという点である。
gunkoku-shonen 人と競争して勝ちたいという動機が,人間のあらゆる行動の中にどれほど深く食い入ってきているかは,驚くほどである。もしある自治都市を説得して,子供の世話をする公共施設を改善させたいと思えば,近くの自治都市のほうが乳児死亡率が低いことを指摘しなければならない。また,製造業者を説得して,明らかに改善となるような新しい工程を採用させようと思えば,今のままでは競争に負けるということを強調しなければならない。

There is another aspect of school games, which is usually considered good but which I think on the whole bad; I mean, their efficacy in promoting esprit de corps. Esprit de corps is liked by authorities, because it enables them to utilize bad motives for what are considered to be good actions. If efforts are to be made, they are easily stimulated by promoting the desire to surpass some other group. The difficulty is that no motive is provided for efforts which are not competitive. It is amazing how deeply the competitive motive has eaten into all our activities. If you wish to persuade a borough to improve the public provision for the care of children, you have to point out that some neighbouring borough has a lower infant mortality. If you wish to persuade a manufacturer to adopt a new process which is clearly an improvement, you have to emphasize the danger of competition.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 5: Play and fancy.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE05-100.HTM

[寸言]
もちろん「団体精神」にも良いところと悪いところの両面があります。ここでは、その好ましくない側面の話

生徒一人ひとりの個性を尊重して教育にあたることは,担当する生徒が多くなればなるほど大変になり、教師の負担も増えていきます。しかし、財務省も,できるだけ教育投資の効果を高めるために、厳しい査定を行い、教師一人あたりの生徒の人数を減らすどころか、厳しい財政事情を理由に人数を増やそうとする始末です。その結果、OECD諸国のなかでは、日本が教育や研究に費やす予算は最低レベルとなっています。

生徒の数が増えれば、個々の生徒に細やかな配慮をすることは困難になり、クラスの運営を困難にしないようにするためにどうしても「集団としての規律(団体精神)」を守らせようという動機が大きくなっていきます。国も、団体精神の涵養のために、国民の偏見や先入観や悪しき動機を利用したりすることさえあります。中韓蔑視、日本の素晴らしさの過度の強調、その他いろいろ。

ゲームにおいて克服する対象(敵)は人間よりも自然の方がよい

American-Football ゲーム(遊戯)は,あまり専門化しないかぎり,健康のためによい。即ち,もし特別な技能が賞賛されすぎると,最良の競技者(選手)はそれをやりすぎるし,一方,その他の競技者は落ちこぼれて見物に回りがちとなる。ゲーム(遊戯)は,少年少女たちに大騒ぎしないでケガを我慢することを教え,また,くたくたに疲れても陽気でいることを教える。
しかし,ゲーム(遊戯)にあると主張されている他の長所については,私には大部分,幻想であると思われる。ゲーム(遊戯)は協力することを教えると言われるが,実際には人と争うような形で協力を教えているにすぎない。これは,戦争において必要とされる協力の形ではあり,産業や正しい社会関係において必要な形ではない。科学は,経済においても,国際政治においても,競争を協力に変えることを技術的に可能にしたが,同時に,科学は,競争(戦争という形での)を,以前よりもはるかに危険なものにした。こういった理由で,人間の勝者と敗者が出てくるような競争的な事業よりも,物理的な自然が「敵」であるような協力的な事業という観念を養うことが,以前よりもより重要である。

kurobe-no-taiyoThey (= games) are good for health, provided they are not too expert ; if exceptional skill is too much prized, the best players overdo it,  while the others tend to lapse into spectators. They teach boys and girls to endure hurts without making a fuss, and to incur great fatigue cheerfully. But the other advantages which are claimed for them seem to me largely illusory. They are said to teach co-operation, but in fact they only teach it in its competitive form. This is the form required in war, not in industry or in the right kind of social relations. Science has made it technically possible to substitute co-operation for competition, both  in economics and in international politics., at the same time it has made competition (in the form of war) much more dangerous than it used to be. For these reasons, it is more important than in former times to cultivate the idea of co-operative enterprises in which the “enemy” is physical nature rather than competitive enterprises in which there are human victors and vanquished.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 5: Play and fancy.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE05-080.HTM

[寸言]
ichioku-sokatuyaku_abeゲームでもスポーツでも,内容はどうであれ「勝つこと」だけが強調される場合には、益よりも害が大きくなる。それはオリンッピックの場合も同様。政府関係者は、我が国がいくつメダル(特に金)をとるかということに力点を置きがちであり、(開催国の特権を活用して)金をとりやすい種目をできるだけ増やそうとする。
国や経済界は,国民や社員が,国や自社(企業)のために自分を犠牲にしても尽くしてくれる人間を評価し、そういった人間が増えるように飴と鞭を使いわけながら誘導していく。

そういった意図を子どもの世界にまで入り込ませてはならないが、(日本の)経済界は人間の個性よりも集団として協力することを重視し,組織のために「活躍」する人間を学校教育において大量生産することを望む。政府も国民が「一億総活躍」して税金をたくさん納めてくれる人をできるだけ多く生み出したいと考える。
ゆとりのある生活をしたい「市民」にとっては「一億総活躍」なんて言われると、飴と鞭でしつけられているようで気分が悪いが、そう思わない「国民」も少なくないようである。

児童心理の研究が教育にとって極めて重要である理由の一つ

tonbogaeri 子供の時,私はとんぼ返りが大好きだった。とんぼ返りをするのは悪いことだとは思わないが,今ではそんなことは(私は)決してしない。同様に,青ひげになって楽しんでいる子供も,やがてこの趣味を卒業して,別なやり方で権力を求めるようになるだろう。
そして,もし子供の想像力が,幼年期にその時期にふさわしい刺激によって生き生きと保たれたならば,想像力は後年にもより生き生きと保たれる傾向があり,おとなにふさわしいやり方で働き続けることができるのである。
なんの反応も呼び起こさない時期(年頃)に道徳的な観念を押しつけても無駄であり,そういった時期には,まだ行動をコントロールするのにそういった道徳観念は必要でもない。そういった道徳観念を教えようとしても,子どもは退屈に思うだけであり,また後年,道徳観念が効き目を持つ年ごろにそれに無感覚になってしまう(という結果になるであろう)。児童心理の研究が教育にとってきわめて重要である一つの理由は,とりわけこの点にある。

undo-to-kokoro_hatttuWhen I was a child, I loved to turn head over heels. I never do so now, though I should not think it wicked to do so. Similarly the child who enjoys being Bluebeard will outgrow this taste, and learn to seek power in other ways. And if his imagination has been kept alive in childhood by the stimuli appropriate to that stage, it is much more likely to remain alive in later years, when it can exercise itself in the ways suitable to a man. It is useless to obtrude moral ideas at an age at which they can evoke no response, and at which they are not yet required for the control of behaviour. The only effect is boredom, and imperviousness to those same ideas at the later age when they might have become potent. That is one reason, among others, why the study of child-psychology is of such vital importance to education.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 5: Play and fancy.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE05-070.HTM

[寸言]
子どもの成長に即した躾や教育が重要だとしても、児童心理学や発達心理学の成果をよく学ばないと、気が付かないことが少なくない。ましてや、幼児期にまちがった躾や教育を受けて成長した大人は、児童の教育にあたる者としてふさわしくない。それにもかかわらず、国や地方自治体の教育担当官僚(教育行政の担当者)は幼児期や義務教育において知育に偏った教育を受け、教育者としてふさわしくない人が少なくない。
そういった人間が、「ゆとり教育」は間違っていたとして、小学校における道徳教育や「詰め込み教育」を企画などしたら、子どもたちは大変不幸なことになってしまう。文科省の教育再生会議の関係者などには不適格と思われるような人物が散見され・・・。

事実と真理,現実と虚構 -幼年期における空想を殺してはならない!

Michael-Ende 真理と事実とを混同する(区別しない)のは,危険な誤りである。私たちの人生は,事実によって支配されるだけではなく,希望によっても支配されている。(即ち)事実のほかは何も見ないような正直さは,人間の精神にとって牢獄である。夢が非難に値するのは,現実を変えようとする努力の怠惰な代用品となっている場合のみである。(即ち)夢が刺激剤になっている場合は,人間の理想を具体化する上で(夢は)極めて重要な効果(目的)を果たしているのである。幼年期における空想を殺すことは,現実への奴隷,すなわち,地上につながれ,そのために天国を創造することのできない人間を作ることである。

imprisoned-heart-facebookIt is a dangerous error to confound truth with matter-of-fact. Our life is governed not only by facts, but by hopes ; the kind of truthfulness which sees nothing but facts is a prison for the human spirit. Dreams are only to be condemned when they are a lazy substitute for an effort to change reality; when they are an incentive, they are fulfilling a vital purpose in the incarnation of human ideals. To kill fancy in childhood is to make a slave to what exists, a creature tethered to earth and therefore unable to create heaven.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 5: Play and fancy.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE05-060.HTM

[寸言]
大人にあっては,夢も大事であるがそれ以上に事実認識が大事なことが少なくない。事実に目をそらした判断や行動はとても危険である。
しかし、事実をあまり知らない、また理解力がまだ乏しい子どもにあっては、事実を知ることと同様に空想によって夢をふくらませることは同様に重要である。即ち、大人の感覚のみで、「幼年期の空想を殺す」ことは子どもを現実への奴隷とし、想像力の乏しい人間(大人)をつくりかねない,とのラッセルの指摘。

子どもの遊びの心理学 -時が来れば実現したいと願い・・・

sekai-no-asobi 子供は,身体上の要求に気を配ってもらっているかぎり,現実よりもゲーム(遊戯)のほうがずっとおもしろいと考える。ゲーム(遊戯)においては,子供は王様である。実際,子供は,いかなるこの世の(世俗的な)君主にも勝る権力をもって自分の領土を支配する。現実においては,彼は一定の時刻になれば寝なければならないし,うるさい教え(言いつけ)をたくさん守らなければならない。子供は,想像力のないおとなが,よく考えもしないで彼の「舞台装置」(mise-en-scene)に介入すれば,激怒する。子供がせっかく,どんなに大きな巨人も登れないよう城壁を築きあげた時(あげたのに),あなたが不注意にもそれをまたいだりすれば,彼はロムルス(注:紀元前771年ー紀元前717年:ローマの建国神話に登場するローマの建設者)がレムス(注:紀元前771年-紀元前753年:ロームルスの双子の兄弟)に腹を立てたように,立腹する。
の人たち(年上の人たち)に対する子供の劣等感は正常であり病的ではないことからすれば,その劣等感を空想で埋め合わせすることもまた正常であり,病的ではない。子供のゲーム(遊戯)は,ほかのことにもっと有益に使える時間の全てをつぶしている(費やしている)わけではない。
仮に,子供の時間の全てがまじめな目的のためにあてられたとしたならば,子供の神経はじきにまいってしまうだろう。夢想にふけっているおとなには,それを実現するために努力せよと言ってやればよい。
しかし,子供は,持っていて当然であるような夢をまだ実現することができない。子供は,自分の空想を,現実世界の永遠の代用品だとは考えていない。それどころか反対に,時が来ればその空想を実現したいと熱望しているのである。

Truth is important, and imagination is important ‘, but imagination develops earlier in the history of the individual, as in that of the race. So long as the child’s physical needs are attended to, he finds games far more interesting than reality. In games he is a king : indeed, he rules his territory with a power surpassing that of any mere earthly monarch. In reality he has to go to bed at a certain time, and to obey a host of tiresome precepts. He is exasperated when unimaginative adults interfere thoughtlessly with his mise-en-scene. When he has built a wall that not even the biggest giants can scale, and you carelessly step over it, he is as angry as Romulus was with Remus. Seeing that his inferiority to other people is normal, not pathological, its compensation in fantasy is also normal and not pathological. His games do not take up time which might be more profitably spent in other ways: if all his hours were given over to serious pursuits, he would soon become a nervous wreck. An adult who indulges in dreams may be told to exert himself in order to realize them ; but a child cannot yet realize dreams which it is right that he should have. He does not regard his fancies as a permanent substitute for reality ; on the contrary, he ardently hopes to translate them into fact when the time comes.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 5: Play and fancy.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE05-050.HTM

[寸言]
子どもには大人のような能力がないので「まねごと」によってあたかもできているかのようにふるまおうとする。いずれ大きくなってできるようになれば、「まねごと」でやったことが参考になって、実現できるようになる。

遊びと学習 -子どもの「まねごと」と大人の白昼夢は同じではない!

gokko-asobi 遊びの教育的な価値について言えば,新しい能力を身につけるような種類の遊びは,誰もが賛美するだろう。しかし,‘まねごと’をするような遊びには,多くの近代人(現代人)は懐疑の目を向けている。おとなの生活においては,白昼夢は,多かれ少なかれ病的であり,現実の世界における努力の代用品だと考えられている。白昼夢にあびせられた不信のうちのいくらかが,子供のまねごとの方にこぼれ落ちてきているが,私の考えでは,これはまったく間違っている。
モンテッソーリ式教育法を用いる教師は,子供が自分が使っている用具(遊具)を列車や蒸気船などに見立てるのを好まない。これは,「混乱した想像力」と呼ばれている。確かに,そのとおりである。なぜなら,子供たちの目には遊びとしか映らなくても,彼らのしていることは,実際には遊びではないからである。用具は子供を楽しませるが,その目的は教育にある。楽しみは教育の一手段でしかない。
一方,本物の遊びにおいては,楽しみが主要な目的である。「混乱した想像力」に対して向けられた異議が本当の遊びにまで持ちこまれるのは行きすぎであると思われる。同じことは,子供たちに妖精や巨人や魔女や魔法の絨毯などの話をして聞かせることに対する異議についてもあてはまる。私は,真理の禁欲主義者に同感することはできない。同様に,他の種類の禁欲主義者にも同感できない。
子供はまねごとと現実との区別がつかないとよく言われるが,そのように信ずぺき理由はほとんど見いだせない。私たちはハムレットがかつて実在したとは信じていない。しかし,ハムレットの芝居を見て楽しんでいるときにそのこと(ハムレットは実在しなかったこと)を絶えず思い出させる人がいたら,きっと腹を立てるだろう。子供たちも,へたに現実を思い出させる人には腹を立てる。しかし,子どもは,自分の作りごとに少しもだまされているわけではないのである。

As regards the educational value of play, everybody would agree in praising the sort that consists in acquiring new aptitudes, but many moderns look with suspicion upon the sort that consists in pretence. Day-dreams, in adult life, are recognized as more or less pathological, and as a substitute for efforts in the sphere of reality. Some of the discredit which has fallen upon day-dreams has spilled over on to children’s pretences, quite mistakenly, as I think. Montessori teachers do not like children to turn their apparatus into trains- or steamers or what not : this is called “disordered imagination “. They are quite right, because what the children are doing is not really play, even if to themselves it may seem to be nothing more. The apparatus amuses the child, but its purpose is instruction ; the amusement is merely a means to instruction. In real play, amusement is the governing purpose. When the objection to “disordered imagination ” is carried over into genuine play, it seems to me to go too far. The same thing applies to the objection to telling children about fairies and giants and witches and magic carpets and so on. I cannot sympathize with the ascetics of truth, any more than with ascetics of other kinds. It is commonly said that children do not distinguish between pretence and reality, but I see very little reason to believe this. We do not believe that Hamlet ever existed, but we should be annoyed by a man who kept reminding us of this while we were enjoying the play. So children are annoyed by a tactless reminder of reality, but are not in the least taken in by their own make-believe.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 5: Play and fancy.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE05-040.HTM

[寸言]
kokisin 大人は普通、仕事と遊びを区別する。子ども(特に幼児)の場合は、大人のような「働く義務」はないので遊んでいればよいが、成長するにつれて、単なる遊びではなく、学習(教育を受ける義務)の要素が増していく。

子どもも少しでも早く大人と同じことをできるようになりたいので、学びたいという意欲は旺盛であるが,できるだけ面白い(遊びの要素がある)ものであってほしいと思う。これに対し大人(親や教師)は子どもが大きくなるにつれて、遊びの要素を少なくしてできるだけ世間に出た時に役に立つようなことをたくさん学んで身につけてほしいと希望するようになる。そうして、退行的に見える「まねごと」をいつまでもやっていたり,実用的でない知識ばかり得ようとしていると、我が子の心(精神)の発達が他の子どもよりも遅いのではないかと心配する親も出てくる。

案ずるより産むが易し。好奇心をいろいろな対象に持てることが一番重要であり、好奇心を奪うような、促成栽培的な教育(詰め込み教育など)は、知識をたくさん得られるとしても、それは一時的なもの(すぐに忘れてしまうもの)であり、長い目でみれば非効率かつ弊害を生むものとなるであろう。

子供の遊びにおける権力志向の現れ -二つの型

遊びには,権力ヘの意志(権力志向)の二つの型が見られる。すなわち,いろんなことのやり方を学ぶことに本質が在る型と,空想にふけることに本質が在る型である。
Bluebeard 挫折したおとなが性的な意味合いを持つ白昼夢にふけることがあるように,正常な子供は権力(志向)の意味合いを持つ’まねごと‘にふけるものである。正常な子供は,巨人とか,ライオンとか,列車(のような力強いもの)になりたがる。まねごとによって,彼は恐怖(感)をかきたてようとする。息子に「巨人退治のジャック」の話をしたとき,私は,息子が自分をジャックに見立てるように試みたが,彼は断固としで巨人のほうを選んだのである。母親が「青ひげ」の話をしてやったとき,息子は自分は青ひげだと言い張り,言うことを聞かない妻を罰したのは正当だと考えたイラスト参照)。
息子の遊びの中には,突然婦人の首をはねるという血なまぐさいものもあった。これはサディズム(人間の加虐性を示すもの)だ,と,フロイト主義者なら言うだろう。しかし,息子は,同様に,小さい男の子たちを食べてしまう巨人の話や,重い荷物をひっばる機関車になることも楽しんでいた。これらの’まねごと’に見られる共通の要素は,性ではなく,権力(志向)であった。
ある日,散歩からの帰りみち,私はまったくの冗談として,ひょっとすると,ティドリーウィンクスさん(Tiddleywinks)という人がわが家を占領して,中に入れてくれないかもしれないよ,と息子に言った。それからというもの,長い間,息子は自分はティドリーウィンクスだと言って玄関の前に立ち,私に向かってよその家へ行くように,と言ったものである。このゲームをするときの息子の喜びようは,際限がないものであり,息子が楽しんでいたのは,明らかに,自分に権力があるかのようなまねをすることであった。

Jack-to-mamenokiIn play, we have two forms of the will to power : the form which consists in learning to do things, and the form which consists in fantasy. Just as the balked adult may indulge in day-dreams that have a sexual significance, so the normal child indulges in pretences that have a power-significance. He likes to be a giant, or a lion, or a train ; in his make-believe, he inspires terror. When I told my boy the story of Jack the Giant-Killer, I tried to make him identify himself with Jack, but he firmly chose the giant. When his mother told him the story of Bluebeard, he insisted on being Bluebeard, and regarded the wife as justly punished for insubordination. In his play, there was a sanguinary outbreak of cutting off ladies’ heads. Sadism, Freudians would say ; but he enjoyed just as much being a giant who ate little boys, or an engine that could pull a heavy load. Power, not sex, was the common element in these pretences. One day, when we were returning from a walk, I told him, as an obvious joke, that perhaps we should find a certain Mr. Tiddliewinks (Tiddleywinks) in possession of our house, and he might refuse to let us in. After that, for a long time, he would stand on the porch being Mr. Tiddliewinks and telling me to go to another house. His delight in this game was unbounded, and obviously the pretence of power was what he enjoyed.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 5: Play and fancy.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE05-030.HTM

[寸言]
大人に比べていかに自分は非力なことか、また、早く大人のようにいろいろできるようになりたいと思う。従って、自分を強者に見立て、強者の真似をしたがる。乱暴なこともする。しかしそれは、人間(子ども)における残酷性(サディズム)の現れではなく、あくまでも、強いもの(大人、ウルトラマン、百獣の王ライオン、その他)になりたいという、生物の子ども共通の願いや衝動であろう。