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子どもが嘘をつくのは大人のまね -この親(政治家)にしてこの子(国民)あり

恐怖(心)なしに育てられた子供は,正直であるはずであるが,それは,道徳的に努力しているからではなく,誠実(正直)である以外の考えが頭に浮かんでこないだけのことであろう。賢明に,かつ親切に取り扱われてきた子供は,卒直なまなざしをしており,知らない人に対しても,ものおじしない態度をとる。
Orwell_Speak-Truth 一方,うるさく小言を言われたり,厳格な扱いをされたりしてきた子供,しかられはせぬかと絶えず恐れており,自然にふるまったときには,いつも,何かルールに違反したのではないかとおびえている。嘘をついてもよいという考えは、幼い子供には,最初は浮かんでこない嘘をつくことができるというのは,一つの発見であり,それは,恐怖にかられておとなの顔色を窺うことから生じるものである。子供は,おとなが彼に嘘をつくことや,おとなに本当のことを言うのは危険だということ,を発見する。このような事情のもとに,子供は嘘をつくようになる。こうした誘因をなくしてやれば,子供は嘘をつこうとは思わないだろう。

The child brought up without fear will be truthful, not in virtue of a moral effort, but because it will never occur to him to be otherwise. The child who has been treated wisely and kindly has a frank look in the eyes, and a fearless demeanour even with strangers; whereas the child that has been subject to nagging or severity is in perpetual terror of incurring reproof, and terrified of having transgressed some rule whenever he has behaved in a natural manner. It does not at first occur to a young child that it is possible to lie. The possibility of lying is a discovery, due to observation of grown-ups quickened by terror. The child discovers that grown-ups lie to him, and that it is dangerous to tell them the truth ; under these circumstances he takes to lying. Avoid these incentives, and he will not think of lying.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 8: Truthfulness
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE08-020.HTM

[寸言]
良きにつけ悪きにつけ、子どもは親に似てしまう。良い点が似るのはよいが、往々にして、悪いことでも、親がやっているのだからと、「免罪符」を得たかのように思ってやってしまう。
子どもが嘘をよくつくのも、やはり親が何らかの形で嘘をつくのを子どもが目撃した結果であることが多いであろう。

sidehara_shougen-kaizan 二世や三世の政治家であれば、親や祖父が(嘘も方便ということで)何度も国民に対し嘘をつくのを目撃すると、「不必要に事を荒立たせないほうがよい」ということで、自分もよく嘘をつくようになってしまう。本当のことを言えば落選してしまうと思っている者も少なくない。どこの国でも「嘘は政治家の始まり」というのが諺になっているようであるが、政治家がよく嘘をつくのは、国民も「心地良い嘘」に騙されたいと、無意識的に思っているのかも知れない。嘘はいやだと真剣に思うようになるのは、戦争中か、世界大恐慌が起こった後とか、原発事故のような大惨事が起こった時であろう。
幸か不幸か、再度の原発事故、大地震、アベノミクス崩壊、年金資金の株運用による蒸発、海外での紛争(小規模な戦争)、その他、政治家や支配層の嘘に気づく機会が、今後けっこうありそうである。(安倍首相が嘘をついた事例は、道徳の副読本の材料に大量採用できそう。)

ものを考えること(思考)においても誠実(正直)であることは重要

ohkawa-getemno 誠実(正直)であるという習慣を身につけることは,道徳教育(倫理教育)の主な目的の一つでなければならない。私が言っているのは,発言(in speech)の上で誠実(正直)であることだけではなく,ものを考えること(思考)においても誠実(正直)であることも含んでいる。事実,両者のうち,後者のほうが私には一段と重要であるように思われる。私は,最初無意識的に自分をあざむいているうちに,やがて自分は道徳的であり誠実(正直)であると思いこむような人よりも,自分が何をしているかを十分意識しながら嘘をつく人のほうを,むしろ好む。

【訳注:岩波文庫版の安藤訳では,「真実を語る習慣を養うことは,道徳教育の主な目的の一つでなければならない。私が言っているのは、言葉の上で真実を語ることだけではなく,思考の中でも真実を語るこでとある。」となっている。ラッセルは「思考や思想においても」と言っているのであるから,ここは「真実を語る習慣」ではなく,「誠実(正直)であるという習慣」と考えたほうがよいと思われる。また,安藤氏は「ことばの上で真実を語ること」と訳しているが,in speech (発言の上で)と書かれており,文章(としての言葉)は含まれていないことにも注意を払うべきであろう。】

To produce the habit of truthfulness should be one of the major aims of moral education. I do not mean truthfulness in speech only, but also in thought; indeed, of the two, the latter seems to me the more important. I prefer a person who lies with full consciousness of what he is doing to a person who first sub-consciously deceives himself and then imagines that he is being virtuous and truthful.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 8: Truthfulness
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE08-010.HTM

[寸言]
nipponkaigi_abenaikaku-members 安部政権の関係者のなかには、「無意識的に自分をあざむいているうちに,やがて自分は道徳的であり誠実(正直)であると思いこむような人たち」が、掃いて捨てるほどいます。そういった人たちを支持する人たちは、騙されやすい人か、あるいは安部政権関係者同様に「ものを考えること(思考)において誠実(正直)でない知性を軽視する」人たちが多いように思われます。

子供は,苦しみを通してではなく,幸福と健康を通して美徳を学ぶ

A3_Poster_out 幸福な子供にあっては,寛大な気持ちを刺激するのは困難ではないはずである。しかし,子供が楽しいことに飢えている場合は,自分が手にすることができる楽しみに頑固にしがみつくのは当然であろう。子供が美徳を学ぶのは,苦しみを通してではなく,幸福と健康を通してなのである。

In a happy child, it should not be difficult to stimulate a generous disposition ; but if the child is starved of pleasures, he will, of course, cling tenaciously to those that are attainable. It is not through suffering that children learn virtue, but through happiness and health.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 7: Selfishness and property.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE07-060.HTM

[寸言]
carrot-and-stick 子どもを厳しくしつけるという名目で,ねたみ,嫉妬,憎悪を身につけさせるような行為を大人はしてはならない。逆効果となる可能性が非常に大きい。
また、子どもの幸せを二の次にして、飴と鞭によって、国家のために役立つ「人間づくり」などしてはならない。

子どもの「所有欲」を上手にコントロールし,創造衝動へと導きたい

公平と密接に結びついているものに,自分の所有物であるという感覚がある。これは,むずかしい問題であり,厳格な規則によって扱うのではなく,融通のきく機転で(臨機応変に)扱わなければならない。実際,(この問題については)相対立する考慮すべき事項がいろいろあるので,はっきりした方針を打ち出すことは難しい。
possessiveness-dolls 一方では,所有欲は,後年多くの恐ろしい弊害を生み出す。即ち,貴重な物質的な所有物を失いはしないかという恐れは,★政治的及び経済的な残酷さの主な原因の一つである。 男性も女性も,できるだけ,個人的(私的な)な所有権に左右されない仕方で,即ち,防御的な活動よりも,むしろ創造的な活動に幸福を見いだすことが望ましい。それゆえ,できるだけ,子供たちに所有の感覚を養わせないほうが賢明である。
しかし,この見解に基づいて行動しようとする前に,他方に,無視すると危険な,非常に強力な議論がいくつかある。まず第一に,子供にあっては所有の(自分のものという)感覚が非常に強い。この感覚は,子供が目に見えるものを手でつかむこと(手と目の整合=共同作業)ができるようになるとすぐに発達する。子供は,つかんだものは’自分のもの’だと感じるので,それを取りあげるとびどく怒る。私たちは,いまでも所有物を「持つ」(holding)と言っているし,「保持」(maintenance)とは「手に持つ」(注:ラテン語で,manu =手で,tenaere = 持つこと)という意味である。これらの語は,所有することと手で握ることの間に原始的な関係があることを示している。「貪欲な(grasping)」という語も,同様である。自分のおもちゃを持っていない子供は,棒ぎれや,こわれた積み木や,あるいは,自分が見つけたいかなるがらくたも,拾い上げて,自分が所有する宝として大切にする。
所有欲は,非常に根深いものであるので,それを妨げようとすれば,必ず危険が伴う。その上,所有は用心深さを養い,破壊の衝動を抑制する特に有益なのは,何であれ,子供が自分で作ったものを所有することである。もしも,これが許さなければ,子供の建設的な衝動は阻止されてしまう。

simple-lifeClosely connected with justice is the sense of property. This is a difficult matter, which must be dealt with by adaptable tact, not by any rigid set of rules. There are, in fact, conflicting considerations, which make it difficult to take a clear line. On the one hand, the love of property produces many terrible evils in later years ; the fear of losing valued material possessions is one of the main sources of political and economic cruelty. It is desirable that men and women should, as far as possible, find their happiness in ways which are not subject to private ownership, i.e. in creative rather than defensive activities. For this reason, it is unwise to cultivate the sense of property in children if it can be helped. But before proceeding to act upon this view, there are some very strong arguments on the other side, which it would be dangerous to neglect. In the first place, the sense of property is very strong in children ; it develops as soon as they can grasp objects which they see (the hand-eye co-ordination). What they grasp, they feel is theirs, and they are indignant if it is taken away. We still speak of a property as a “holding”, and “maintenance” means “holding in the hand”. These words show the primitive connection between property and grasp ; so does the word “grasping”. A child which has no toys of its own will pick up sticks or broken bricks or any odds and ends it may find, and will treasure them as its very own. The desire for property is so deep-seated that it cannot be thwarted without danger. Moreover, property cultivates carefulness and curbs the impulse of destruction. Especially useful is property in anything that the child has made himself ; if this is not permitted, his constructive impulses are checked.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 7: Selfishness and property.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE07-040.HTM

[寸言]
子どもにおける所有欲の好ましくない点と尊重すべき点

子どもの欲しいものを何でも買い与えることは所有欲や物欲を刺激しすぎることになり良くない。それは多くの親が気づいていてそうしないように気をつけても、親以外の者(たとえば、おじいちゃんやおばあちゃん)が甘やかして、親の努力が無駄になったり効果がなくなったりすることはよくある。

isansozoku_arasoi所有欲や物欲が強い場合には、それを失うことに対する恐怖心から過度な反応を引き起こしやすい。先祖から一生遊んで暮らせる遺産を受け継いだ場合には、(生活の心配をすることなく)それを活かして世の中のためにつくせば、社会のためにもよいが、実際は遺産を食いつぶすだけで、世の中に何もよいものをもたらさない場合が多い。(そう強く思う場合は、「子孫に美田を残さず」という格言を実行することになる。)

自分が努力して築き上げた財産や創造物(作品、建築物、その他いろいろ)に対する愛着や所有欲は尊重すべきものであるが、そういったものでも、どんどん他人に与え、たえず新しいものを生み出していくことに喜びを見いだせる(創造性を発揮し続けることができる)ことが、その人にとっても社会とっても一番良いであろう。(そのためには、子どもの時から建設的な衝動を養う必要がある。)

 

独りっ子(中国では「小皇帝」)に公平(正義)を教える難しさ

little-emperors 独りっ子に公平(正義)を教えることは,不可能ではないにせよ,大変むずかしい。
おとなの権利や欲求は,子供たちの権利や欲求とはかなり異なっているので,子供たちの想像力に訴えるところがない。(即ち,両者の間には)まったく同じ喜びを求めて直接競いあう機会も,ほとんどない。そのうえ,おとなは,自分の要求に従うように強要できる立場にあるため,自分が裁かれる場合にも裁判官になるほかなく,公正な裁きの結果を子供に提示することはできない。
もちろん,おとなは,明確な教訓をたれて,大人にとって都合の良いふるまいを教えこむことはできる。たとえば,母親が洗濯物を数えているときにはじゃまをしてはいけない,父親が忙しくしているときには大声を出してはいけない,お客がいるときには自分の関心事を無理強いしてはいけない,とかである。
kohei-akushu しかし,これらは,(子供に)理解させがたい要求であり,確かに,子供は日ごろ(そういう特別な状況でない場合には)優しく扱われていれば快く従いはするものの,子供の道理の感覚に訴えるわけではない。
子供にこういった規則に従わせることは正しい。なぜなら,子供は,暴君にならせてはいけないし,また,他の人たちが求めているものがどんなに奇妙であったとしても,その人たちにとっては重要なのだということを子供に理解させなければならないからである。しかし,そういう方法では,せいぜい,外面的に良いふるまいをさせる以上のものは得られない。
公平(正義)を教える真の教育は,他の子供のいるところではじめて可能になる。れは,なぜ子供を長いこと独りのままにしておいてはいけないかという多くの理由のなかの一つである。運悪く子供がひとりしかいない親は,できるだけ努力して子供のために仲間を見つけてあげなければならない。ほかに方法をとることができない場合には,長い間家を離れさせるという犠牲さえも払わなければならない。独りっ子は,押えつけられているか,それとも,わがままになっているかのどちらかである。おそらく,かわるがわるその両方になっているかもしれない。行儀のよい独りっ子は痛ましく,行儀の悪い独りっ子はやっかいものである。

It is difficult, if not impossible, to teach justice to a solitary child. The rights and desires of grown-up people are so different from those of children that they make no imaginative appeal ; there is hardly ever direct competition for exactly the same pleasure. Moreover, as the grown-up people are in a position to exact obedience to their own demands, they have to be judges in their own case, and do not produce upon the child the effect of an impartial tribunal. They can, of course, give definite precepts inculcating this or that form of convenient behaviour : not to interrupt when their mother is counting the wash, not to shout when their father is busy, not to obtrude their concerns when there are visitors. But these are inexplicable requirements, to which, it is true, the child submits willingly enough if otherwise kindly treated, but which make no appeal to his own sense of what is reasonable. It is right that the child should be made to obey such rules, because he must not be allowed to be a tyrant, and because he must understand that other people attach importance to their own pursuits, however odd those pursuits may be. But not much more than external good behaviour is to be got by such methods; the real education in justice can only come where there are other children. This is one of many reasons why no child should long be solitary. Parents who have the misfortune to have an only child should do all that they can to secure companionship for it, even at the cost of a good deal of separation from home, if no other way is possible. A solitary child must be either suppressed or selfish–perhaps both by turns. A well-behaved only child is pathetic, and an ill-behaved one is a nuisance.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 7: Selfishness and property.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE07-020.HTM

[寸言]
義務教育の小学校、特に貧富の差がなく誰でも入学できる「公立の」小学校は、様々な家庭環境の子どもが入学してくるので、「公平」とか「正義」という観念を教えるのに最適な環境であろう。しかし、「裕福な子弟が通う」「私立の」小学校の場合は、自分は他の貧しい子どもとは違うのだという意識や先入観を与えがちである。

そのような意味で、慶応の幼稚舎のような、小さい時から「選民意識」を与えるような学校に自分の子どもを入学させることは、小さい時に「公平」とか「正義」とかいう観念を体得させる重要性から考えると、あまり賢明なこととは思われない。

nipponkaigi_abenaikaku-members 将来、そういったエリート意識をもった人間が政治家になった場合には、口では「国民のため」、「国益のため」とかいう言葉を常套句にように連発しても、頭の中だけの表面的な理解であり、心からそのようなことを思っておらず、国民に災難をもたらす可能性が大きい。
現代の日本の国会議員は二世あるいは三世の議員だらけであり、憂うべき状況にある。2012年の自由民主党総裁選挙(注:安部氏を総裁に選出)においては、5人の総裁候補(安部、石橋、石原、町村、林)が立候補したが、全員が世襲議員であった。「自由」と「民主」を看板にする「自民党」の他の国会議員や自民党の支持者はその状況を見て、危機感を抱いた人はほとんどいなかったのだろうか!?(「民主」の部分は実態とあわないし、「自由」も一般国民のための自由ではなく、支配層のための「自由」となっている。従って、「保守党」に名称変を更されたし。)

「自己犠牲」の心理(真理にあらず!)と論理-「美徳」ではなく「嘘」

self-sacrifice 自己犠牲を教える場合の考え方は,完全に(自己犠牲が)実行されることはないだろうから,実際の結果はほぼ妥当なものになるだろう,というものであるように思われる。しかし,実際のところは,人びとは,この教訓を学びそこなうか,単なる公平を要求するときに後ろめたい気持ちを感じるか,あるいは,ばかばかしいほど極端な自己犠牲をするか、いずれかである。最後の場合には,自制をしなければならない相手に対し漠然とした恨みをいだき,おそらくは,感謝の要求という裏口から,わがままが立ち戻るのを許すことになるであろう。
いずれにせよ,自己犠牲は,普遍的になりえないので,真の教義にはなりえない。また,美徳への手段として嘘を教えることは,嘘が見破られれば,美徳は消え失せるので,最も望ましくないものである。一方,公平は,普遍的なものにすることができる。したがって,公平こそ,私たちが子供の思考と習慣の中に埋め込まなければならない概念である。

sekf-sacrifice_bernard_shawWhen self-sacrifice is taught, the idea seems to be that it will not be fully practised, and that the practical result will be about right. But in fact people either fail to learn the lesson, or feel sinful when they demand mere justice, or carry self-sacrifice to ridiculous extremes. In the last case, they feel an obscure resentment against the people to whom they make renunciations, and probably allow selfishness to return by the backdoor of a demand for gratitude. In any case, self-sacrifice cannot be true doctrine, because it cannot be universal ; and it is most undesirable to teach falsehood as a means to virtue, because when the falsehood is perceived the virtue evaporates. Justice, on the contrary, can be universal. Therefore justice is the conception that we ought to try to instil into the child’s thoughts and habits.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 7: Selfishness and property.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE07-010.HTM

[寸言]
子どもに教えないといけないのは「公平」(の観念)であり「自己犠牲」の観念(や信念)ではない。
人間は生まれつき「善くも悪くもない」が,自己犠牲の精神を子どもに教えたいと思っている者は、「人間は生まれつき悪に走りやすい」という人間観を持っているのであろう。 また、「国家(社会)のために尽くす」,「国民の命を守るために自分の命をかける」,「一億総活躍を!」といったスローガンは,為政者には都合がよいが、権力や圧政の犠牲者にとっては,一人では抗しきれない言論抑圧の一種であり、集団で抵抗しないと、いつの間にか人間の自由も個人の基本的人権もないがしろになってしまうであろう。

人間や社会制度を、機械や鋳型をモデルにするか、生物をモデルにするか?

社会制度を樹木として想像する人は,異なる政治的見解を抱いているだろう。
beech-tree 悪い機械は,スクラップにして,別の機械と取り替えることが可能である。しかし,木は切り倒してしまえば,新しい木が前の木と同じ強さと高さに達するまでには,長い時間がかかる。
機械や鋳型は,その製作者が選ぶものである。(だが)木はそれぞれ特有の性質があり,(機械や鋳型のように同一製品でなく)その木の種類のすぐれた見本か劣った見本に育てあげることしかできない。
生物に適用される建設性は,機械に適用される建設性とはまったく異なっている。前者の場合は,より地味な機能があり,ある種の思いやりを必要とする。それゆえ,幼い子供に建設的な心を教えるときには,それを積み木や機械に対してだけではなく,植物や動物に対しても働かせる機会を用意してあげなければならない.

The man who imagines a social system as a tree will have a different political outlook. A bad machine can be scrapped, and another put in its place. But if a tree is cut down, it is a long time before a new tree achieves the same strength and size. A machine or a mould is what its maker chooses ; a tree has its specific nature, and can only be made into a better or worse example of the species. Constructiveness applied to living things is quite different from constructiveness applied to machines ; it has humbler functions, and requires a sort of sympathy. For that reason, in teaching constructiveness to the young, they should have opportunities of exercising it upon plants and animals, not only upon bricks and machines.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 6: Constructiveness.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE06-080.HTM

[寸言]
多くの人間(国民や社員など)を相手にする場合、それぞれが皆(かけがえのない)異なる個性をもっていると考えると、どう扱ってよいかわからなくなるということで、個々人や集団を何らかの種類別に分類し、それぞれにレッテルを貼り、わかったことにしていろいろな政策を実行していく。
教育行政(学校教育など)もそのような視点で行われることが少なくなく、文部官僚と現場の教師の考え方との意識や考え方によくずれが生じる。
VIRTUE 現場の教師も生徒を鋳型にはめてよいというおすみつき(文科省や教育委員会の通達など)をもらえれば、教室の運営に余り困らず、生徒に気を使わなくてもよいので、負担を減らすことができる。受験期の生徒を担当している場合には、有名な大学にできるだけ多く入れるだけで評価してもらえる。
 しかし、良心的な教師は、生徒を機械や歯車の一つとして眺めることができず、できるだけ一人ひとりの個性を尊重して教育にあたろうとする。結局はそのほうが生徒自身からも、長い目で見れば親からも感謝されることになるはずである。

親であろうが、教師であろうが、生身の一人の人間の教育や躾をする者にとって、生徒を機械や鋳型をモデルとしてみるのがよいか、生物(個性をもった生命体)をモデルとしてみるのがよいかは、明らかなはずであるが、短期的成果を求める「指導者」や「為政者」には前者のタイプが少なくない。

理想社会を実現するために必要なステップを考え出す論理的思考能力の重要性

 高学年の教育においては,社会的な建設性が刺激されなければならない。つまり,十分な知能を持っている者(生徒)は,想像力を駆使して,既存の社会的な力を活用したり,新しい社会的な力を創り出したりするための,よりいっそう生産的な方法を考え出すように,奨励されなければならない。
Platon-Republic_BR-Quote プラトンの『国家篇(Republic)』を読む人はいるが,彼らは,それをどこかで現在の政治に結びつけようとはしない(注: Republic はここでは「共和国」ではなく、「国家」)1920年のロシアは(プラトンの)『国家篇』の理想とほぼ同じような理想を抱いていたと,私が述べたとき,より大きなショックを受けたのはプラトン主義者であったか,それとも,ボルシェビ-キ(注:ロシア共産主義者)であったかは,言い難いものであった。
utopia_creating 人びとは,文学の古典を読むとき,それがブラウン,ジョーンズ,ロビンソンといった一般庶民の生活から見て,どういう意味あいを持つかは,考えてみようとはしない。これは,ユートピア文学を読むとき特によく起こる。なぜなら,現在の社会制度からユートピアヘ至る道(道程)については何も語られていないからである。
ういう事柄において価値ある能力は,次にどんな手を打つべきかについて正しく判断する能力である。

In the later years of education, there should be a stimulation of social constructiveness. I mean, that those whose intelligence is adequate should be encouraged in using their imaginations to think out more productive ways of utilizing existing social forces or creating new ones. Men read Plato’s Republic, but they do not attach it to current politics at any point. When I stated that the Russian State in 1920 had ideals which were almost exactly those of the Republic, it was hard to say whether the Platonists or the Bolsheviks were the more shocked. People read a literary classic without any attempt to see what it means in terms of the lives of Brown, Jones, and Robinson. This is particularly easy with a Utopia, because we are not told of any road which leads to it from our present social system. The valuable faculty, in these matters, is that of judging rightly as to the next step.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 6: Constructiveness.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE06-070.HTM

[寸言]
理想社会を夢見ることやイメージを述べることはそれほど難しいことではない。しかし、そういった理想社会をつくるために、現代社会に対してどのような手をうっていくべきか、その具体的な道筋を示すことは難しい。
即ち、それを可能にするためには、1)適格な現状認識(もちろんそのためには非常に幅広い分野に対する理解力)が必要であり、2)理想社会を思い浮かべる想像力、3)理想社会を実現するための具体的なステップを提案するための論理的推論能力、の3つの能力が必要である。
ラッセルにはこの3つの能力が備わっていたが、残念ながら、現代の日本の政治家や学者や知識人は、それぞれにおいて不十分であるだけでなく、3つの能力が備わっている者はほとんどいない。

古典(語)教育と科学の学習-時代が変われば教育内容も変わる

girisiago-latin 純粋に知的な事柄においても,建設的な傾向,あるいは破壊的な傾向を持つことはありそうなことである。古典教育(注:実質的には,ギリシア語及びラテン語の教育)は,ほとんどまったく批判的なものである。即ち,少年は,誤りを避けることと,誤りを犯す人びとを軽蔑することを学ぶ。これは,一種の冷淡な正確さを生み出す傾向があり、このような正確さにおいては,独創性は,権威に対する尊敬に取って代わられる。正しいラテン語は,きっぱりと決まっている。即ち,ヴェリギリウスとキケロのラテン語である。
(これに対し)正しい科学は絶えず変化しているので,有能な青年はこの過程を押し進めることを待ち望んでいるかもしれない。従って,科学教育によって生み出された態度は,死語の研究によって生み出された態度よりも,建設的である傾向がある。誤りを避けることを目指すべき主目的としている場合には,教育は,知的な面で生気のないタイプの人間を生み出しやすい。自分の知識活かして何か冒険的なことをやるという展望を,すべての有能な青年男女の前に示してあげなければならない。

Even in purely intellectual matters it is possible to have a constructive or a destructive bias. A classical education is almost entirely critical : a boy learns to avoid mistakes, and to despise those who commit them. This tends to produce a kind of cold correctness, in which originality is replaced by respect for authority. Correct Latin is fixed once for all.. it is that of Vergil and Cicero. Correct Science is continually changing, and an able youth may look forward to helping in this process. Consequently the attitude produced by a scientific education is likely to be more constructive than that produced by the study of dead languages. Wherever avoidance of error is the chief thing aimed at, education tends to produce an intellectually bloodless type. The prospect of doing something venturesome with one’s knowledge ought to be held before all the abler young men and young women.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 6: Constructiveness.
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/OE06-060.HTM

[寸言]
温故知新という意味で、過去の時代の人類の知的遺産を学ぶことは大変有益である。しかし、古典を学ぶといっても古語(欧米ではギリシア語やラテン語)を習うことが中心となって時間を費やすことになれば、新しい時代に必要な科学的知識及び論理的推論能力の要請が不十分になってしまう。
学ぶべきことは、時代の進歩とともにどんどん多くなっていく以上、古典に関する学習の比率は相対的に減らさざるをえなくなる。従って、古典の学習を益あるものにするためには、題材や学習方法(教育方法)の工夫が必要である。

kentei_zettai-fgokaku-kobun 『検定不合格教科書』という本の紹介に次のような文章があった。面白そうなんで転載。

「もし、村上春樹でも、重松清でも、なんでも、小説などの文学作品を、すべての単語を品詞に分解し、助詞を識別し、わからない語句をしらみつぶしに辞書で調べ、意味を解釈していく授業をしたとしたら、どうだろう? 目を光らせて学ぶだろうか? するわきゃない。
しかし、古文の授業ではそれが当たり前に行われている。とくに高校では。
学校で教える古文が「古典文法の学習」に終始せざるを得ないのは、一つには「大人の事情」もあるのかもしれない。(田中貴子『検定絶対不合格教科書 古文』にはそれが慎重に論じられている)古典文学は、ちょっと深読みすると、その作品世界の根底には、性、宗教、差別などが広がっている。あらゆる社会的な禁忌に触れざるを得ない。(そしてそれこそが「文学」の本質でもある)
科書に収録された古文が、タブーなるものから無味脱臭された、抜け殻のような作品のみを扱い、かつ「文学として読むこと」が許されない現状である限り「古文嫌い」はこれからも量産されるだろう。」

子どもに対する親としての愛情及び親としての責任感

kosodate_zeninsanka 教育のないメイドを雇ったことのある文筆家はみな知っていることであるが,主人の原稿を燃やして暖炉に火をつけたいというメイドの情熱を抑えることは困難である(抑えることができなければよいのに,と読者は望むかもしれないが)。文筆家仲間なら,たとえねたみ深い敵であっても,そんなことをしようとは思わないだろう。原稿というものの価値を,経験からよく理解しているからである。
同様に,庭(の持ち分)を持っている子供は,他人の花壇を踏み荒らすようなことはしないだろうし,ペットを飼っている子供には,動物の生命を尊重することを教えることができる
我が子を苦労して育てたことのある人の心には,おそらく,人命を尊重する気持ちがあるであろう。わが子のことで苦労すればするほど,より強い親としての愛情が湧いてくるのである。こうした苦労を避けている親の場合,親の本能は多少とも萎縮してきて,ただ(親としての)責任感として残っているにすぎない。しかし,建設的な衝動が十分に発達している親ならば,おそらくよりいっそう子供の面倒を見ることだろう。そこで,こういう理由からしても,教育のこの面に注意を払うことは大いに望ましい。

Every author who has had uneducated housemaids knows that it is difficult (the public may wish it were impossible) to restrain their passion for lighting the fire with his manuscripts. A fellow-author, even if he were a jealous enemy, would not think of doing such a thing, because experience has taught him the value of manuscripts. Similarly the boy who has a garden will not trample on other people’s flower-beds, and the boy who has pets can be taught to respect animal life. Respect for human life is likely to exist in any one who has taken trouble over his or her own children. It is the trouble we take over our children that elicits the stronger forms of parental affection; in those who avoid this trouble the parental instinct becomes more or less atrophied, and remains only as a sense of responsibility. But parents are far more likely to take trouble over their children if their constructive impulses have been fully developed ; thus for this reason also it is very desirable to pay attention to this aspect of education.
出典: On Education, especially in early childhood, 1926, Pt. 2:Education of character, chap. 6: Constructiveness.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/OE06-050.HTM

[寸言]
abe-kisi_amayakasi 親が子どもをうまく躾れば,自分を尊重してもらうためには他人も尊重する必要があることに気づく。しかし、我儘ほうだいに育つとその必要がないので他人を尊重する気持ちが育たない。

安倍総理はおじいちゃん(故・岸総理)に甘やかされて育ったので、同じ二世や三世議員(特に麻生総理のようにおじいちゃんのいる政治家)の気持ちはよくわかるが、一般庶民の気持ちなど、頭で理解しようとしても実感できないので、すぐに忘れてしまい(=健忘症)、180度考えを変えても「新しい判断」(or「新しい決断」)をしたと言えば、それで世間で通ると思っている。それを許している国民も馬鹿だが・・・。