回春(愛人のオットリンと第一次世界大戦)

Ottoline_Seymour 1910年から1914年までの期間は,(私にとって)過渡期であった。私の人生は,1910年以前と1914年以後とでは,メフィストフェレスに会う前と後のファゥストの生涯(人生)と同様,はっきり区別されるものであった。私は,オットリン・モレル夫人によって始められ,第一次世界大戦によって継続された,若返り(回春)の過程’を経験した。’戦争が人を若返らせる’とは奇妙に思われるかもしれないが,事実,第一次世界大戦は,私の偏見を振り落とし,多くの根本的な問題についてあらためて考え直させてくれた。第一次大戦は,また,私に新しい種類の活動も与えてくれた。この新しい活動に対しては,数理論理学の世界に戻ろうとするときに何時も私につきまとった,あの新鮮みのなさ(味気なさ)を感じなかった。それゆえ私は,いつも自分自身を,超自然的存在でないファウスト博士であり,(ファウスト博士にとっての)メフィストフェレスに相当するものは(自分にとっては)第一次世界犬戦である,と考える習癖(習償)が身に付いた。

The period from 1910 to 1914 was a time of transition. My life before 1910 and my life after 1914 were as sharply separated as Faust’s life before and after he met Mephistopheles. I underwent a process of rejuvenation, inaugurated by Ottoline Morrell and continued by the War. It may seem curious that the War should rejuvenate anybody, but in fact it shook me out of my prejudices and made me think afresh on a number of fundamental questions. It also provided me with a new kind of activity, for which I did not feel the staleness that beset me whenever I tried to return to mathematical logic. I have therefore got into the habit of thinking of myself as a non-supernatural Faust for whom Mephistopheles was represented by the Great War.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 1:Tje First War, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB21-010.HTM

[寸言}
ラッセルとオットリン夫人との恋愛をオットリンの伝記(『オットリン、ある貴婦人の破天荒な生涯』)から見ると・・・。
http://russell-j.com/cool/kankei-bunken_shokai2013.html#br2013-3

若い時に、帝国主義者(ボーア戦争支持)から平和主義者に転向

Boer-War_Churchill 1899年の秋,ボーア戦争が勃発した。当時私は,自由主義的帝国主義者(a Liberal Imperialist)であり,当初はまったくボーア人(ブール人)に味方しなかった(注:Liberal Imperialism:19世紀イギリスの’自由主義的帝国主義’。市場を開かない国は,力によって開国させ,自由と文明を世界に広める。ブッシュ大統領とブレア首相は,現代における新自由主義的帝国主義者と揶揄されていた)。英国の敗戦が大変心配であり,そのために,戦争のニュース以外は何も考えることができなかった。私たち(注:ラッセル夫妻)は,ミルハンガー(注:英国の田舎)で碁らしていたので,大ていの午後,夕刊を手に入れるために,私はいつも4マイルの距離を駅まで歩いた。アリス(注:初婚の相手)は,アメリカ人であったので,この問題について,私と同じ感情を共有しておらず,私が夢中になっているのでかなりいらいらしていた。ボーア人が負けはじめると,私の関心はしだいに薄くなっていき,そうして1901年の初め(ラッセル28歳の時)には,私は,ボーア人の味方になっていた(注:つまり、帝国主義者ではなく、平和主義者に変わっていた)。

In the autumn of 1899 the Boer War broke out. I was at that time a Liberal Imperialist, and at first by no means a pro-Boer. British defeats caused me much anxiety, and I could think of nothing else but the war news. We were living at The Millhanger, and I used most afternoons to walk the four miles to the station in order to get an evening paper. Alys, being American, did not have the same feelings in the matter, and was rather annoyed by my absorption in it. When the Boers began to be defeated, my interest grew less, and early in 1901 I became a pro-Boer.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 5: First marriage, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB15-220.HTM

[寸言}
* Bore War, 1899-1902:ブール戦争とも言う.アフリカ大陸南部にあったトランスヴァール共和国とオレンジ自由国に対するイギリスの侵略戦争後にイギリス首相となるウィンストン・チャーチル(1874-1965)も捕虜となったが脱走(添付写真参照)。英国はボーア人の住む両国を占領して植民地とし, 1910年に,’南アフリカ連邦’を建国

戦争犯罪国際法廷(ラッセル法廷)の準備-資本主義と共産主義の違いを越えて

DOKUSH49 1966年の夏,広範囲にわたる調査研究及び企画立案のもと,私は全世界の多くの人々に手紙を書き,ヴェトナム戦争犯罪国際法廷への参加を要請した。私はその反応に元気づけられ,間もなく18人前後の人々から受諾の返事をもらった。特にうれしかったのは,ジャンポール・サルトルが参加してくれたことであった。なぜならば,哲学上の問題では私たちは意見を異にしていたけれども,私は彼の勇気を大いに称賛していたからである。ユーゴースラヴィアの作家,ヴラディミル・デディイエル(Vladimir Dedijer, 1914-1990.11.30:ユーゴスラビアの政治家,歴史家/ウラジミール・デディエ(?))はだいぶ前に,ウェールズに私を訪ねて来たことがあった。彼の西側世界と共産世界との両方の世界に関する幅広い知識から,彼は貴重な盟友であることがわかった。私はまた,随筆家で政治関係の著作家でもあるアイザック・ドイッチャー(Isaac Deutscher,1907-1967.8.19:イギリスの歴史学者,ジャーナリストで,トロツキー伝で有名) -彼とは10年間会っていなかった- をかなり頼みとするようになっていた。国際法廷に関してあまりに多くのテレビやテレビ以外のインタービューの申し込みがあるときはいつも,ロンドンにいるドイッチャーに頼んで記者会見を開いてもらい,世界的な問題やわれわれ自身の活動について,詳しい情報に基づいた,説得力のある評価を与えてもらうことができた。
私は1966年11月,国際法廷のメンバー全員を予備的な議論をするためにロンドンに招き,そして(ラッセル『ベトナムにおける戦争犯罪』の)章末に掲げてあるスピーチをかわきりに議事を開始した。ヴェトナムで現に起こっていることを細心の注意を払って調査することは不可欠のことであると思われた。それで私は,疑いもなく’誠実だと思われる人たちだけを招聘した。その会合は大成功であった。そして私たちは,翌年に何週間も長期にわたって国際法廷の公開セッションを開催する準備を行った。

In the summer of 1966, after extensive study and planning, I wrote to a number of people around the world, inviting them to join an International War Crimes Tribunal. The response heartened me, and soon I had received about eighteen acceptances. I was especially pleased to be joined by Jean-Paul Sartre, for despite our differences on philosophical questions I much admired his courage. Vladimir Dedijer, the Yugoslav writer, had visited me earlier in Wales, and through his wide knowledge of both the Western and Communist worlds proved a valuable ally. I also came to rely heavily on Isaac Deutscher, the essayist and political writers whom I had not seen for ten years. Whenever there were too many requests for television and other interviews about the Tribunal, I could rely on Deutscher in London to meet the press and give an informed and convincing assessment of world affairs and of our own work. I invited all the members to London for preliminary discussions in November, 1966, and opened the proceedings with a speech to be found at the end of this chapter. It seemed to me essential that what happening in Vietnam should be examined with scrupulous care, and I had invited only people whose integrity was beyond question. The meeting was highly successful, and we arranged to hold the public sessions of the Tribunal over many weeks in the following year, after first sending a series of international teams to Indo-China on behalf of the Tribunal itself.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap4:The Foundation,(1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB34-280.HTM

[寸言}
「戦争犯罪」を政治的に扱うのではなく,あくまでも「人道的な見地」から扱うことから,ラッセル法廷の各メンバーの政治的立場によって、自分たちの都合のよい事実だけをつなぎあわせることがあってはならない。従って、審理にはかなり時間がかかることになり、忍耐心が必要になる。そのような努力を払ってたとしても、被告となっている戦争当事国や関係者は必ず,法廷メンバーは「彼らは共産主義者だ」とか、」事実誤認だ」とか言って、裁判を行う権利や資格などないと言って侮蔑した上で無視する(無視することを国民に訴える)であろうが・・・。

強国はどこも過去に大量破壊兵器を使用していた

731butai_bookcover この国際法廷(ラッセル法廷)は, --これについてはヴェトナムに関する私の著書に書いてあるが--, 全世界にわたって広く一般の関心をひきつけた。南ヴェトナムを服従させようとするその不当な(不正な)企てにおける米国の信じられないほどの残酷さを広く世界に知らせる助けとなる何らかの効果的な手段はないか,私は4年間にわたって探し求めていた。朝鮮戦争当時,私は,アメリカ人が大量破壊の新しい生物・化学兵器の試験場(実験場)として朝鮮戦争を利用したといって米国を非難したジョセフ・ニーダム教授(Joseph Terence Montgomery Needham, 1900-1995:英国の生化学者で中国科学史の権威)やその他の人々の主張(申し立て)を信ずることができなかった。私は,そのような非難を極端すぎると考えていたことに対して,ジョセフ・ニーダム教授およびその他の方々に心からお詫びをしなければならない。1963年にいたって,私はそれらの主張が正しかったことを確信するようになった。というのは,それと同様の主張(申し立て)が,ヴェトナム(戦争)における米国(の行為)に対してなされなければならないことが明らかだったからである。

The Tribunal, of which my Vietnam book told, caught the imagination of a wide public the world over. For four years I had been searching for some effective means to help make known to the world the unbelievable cruelty of the United States in its unjust attempt to subjugate South Vietnam. At the time of the Korean War I had been unable to believe in the allegations brought by Professor Joseph Needham and others charging the Americans with having used that war as a proving-ground for new biological and chemical weapons of mass destruction. I owe Professor Neednam and the others my sincere apologies for thinking these charges too extreme. By 1963, I had become convinced of the justice of these allegations since it was clear that similar ones must be brought against the United States in Vietnam.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap4:The Foundation,(1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB34-270.HTM

[寸言}
いかなる国も(民主主義/自由主義国も)戦争になると戦争犯罪を犯す。しかし、自国だけは、そのような残虐行為はしない(したとしても一部の、上官の命令に従わない不良軍人だけだ)と言い張る。
日本の石井中将が率いる731部隊による大規模な人体事件などは、証拠がそろいすぎているので否定しようがないが、米ソが石井部隊の実験結果を入手したくて、いわゆる司法取引をもちかけ、極東軍事裁判でも裁かれないことになってしまった。最近では、極東軍事裁判は「戦勝国が敗戦国を裁いた一方的な裁判であった」という取り上げ方はよくされるが、戦勝国の立場からではない、人類の立場から見なおした、本来裁かれるべき戦争犯罪人のことをなぜもっと取り上げないのだろうか?
「戦後レジュームからの脱却」を(仲間内にさかんに)言う安倍総理に取り上げてもらいたいものだが・・・。え? 「未来志向」だからそんなことはしないって・・・!?
https://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A

米国政府を批判したためにピューリッツァー賞を得る機会を逃す!?

TPJ-WCV 時々私は,北ヴェトナムの人々から,ヴェトナム戦争における多様な展開について意見を言うよう求められてきた。彼らは,ニューヨーク・タイムズ紙の副主幹であるハリソン・ソールズベリー氏(Harrison Evans Salisbury,1908-1993)が新聞記者としてハノイを訪問することを許可することは好ましいかどうか,私の助言を求めてきた。
ソールズベリー氏はかつて,ウォーレン委員会報告書(注:ケネディ暗殺に関する調査委員会の報告書)の紹介記事のなかで私を攻撃したことがあり,彼はその紹介記事の中で,同委員会は「委員会が発見し得るあらゆる微細な証拠をも網羅的に調べあげた」と書いていた。これらのコメントはその後間もなく馬鹿げたものであることがわかった。
しかし,北ヴェトムの一般市民に対する広範にわたる爆撃の証拠を無視することには相当な困難を彼は感じているのではないかと疑った。(そこで)私は,彼のハノイ訪問は引き受ける価値のあるリスクである,と勧めた。そうして,それから何週間かして彼のハノイ報告(記事)を読んでうれしく思った。彼のハノイからの報告はワシントン政府(当局)を狼狽させた。多分それは彼がピューリッツァー賞を得る機会を失わせたであろう.

Occasionally I have been invited by the North Vietnamese to give my opinion about various developments in the war. They asked my advice as to the desirability of permitting Mr Harrison Salisbury, Assistant Managing Editor of the New York Times, to visit Hanoi as a journalist. Mr Salisbury had previously attacked me in his introduction to the Warren Commission’s Report, in which he wrote of the Commission’s ‘exhaustive examination of every particle of evidence it could discover’. These comments were soon seen to be ridiculous, but I suspected that he would have great difficulty in ignoring the evidence of widespread bombardment of civilians in North Vietnam. I recommended that his visit was a risk worth taking, and was pleased to read, some weeks later, his reports from Hanoi, which caused consternation in Washington and probably lost him a Pulitzer Prize.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap4:The Foundation,(1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB34-250.HTM

[寸言}
(注)ソールズベリー(報告)が2回目のピューリッツァー賞の受賞を逃したのは,北ヴェトムの一般市民に対するアメリカによる無差別の爆撃について新聞に書いてアメリカ政府を批判したため(またアメリカの愛国者たちを刺激したため)であろう,という意味。
なお,ソールズベリーは,1955年に1回目のピューリッツァー賞を,1963年にジョージ・ポーク賞を受賞している。

戦争犯罪-爆撃の巻き添え死した人からみれば爆撃はテロ

TP-WCV2・・・。私がヴェトナム戦争に関する自分の態度や声明の根拠としたのは,他の専門の調査員たちの報告書と同様,一部はこうしたシェーンマン(ラッセルの秘書)の報告書や,また1964年11月に現地で直接の印象を得るために平和財団(=ラッセル平和財団)のメンバーとして最初にヴェトナムに赴いたクリストファー・ファーレ(後に、ラッセルの秘書)の報告書のような,いくつかの報告書であった。
けれども,私が自分の意見の主たる根拠としているのは,日々の新聞,特に米国の新聞に報道されてきた事実である。これらの報道(記事)は,新聞の編集方針に影響を与えないように見えたということで,たまたま公表されてきたように思われる。

lt was in part upon such reports as Schoenman’s and of those of Christopher Farley who, in November, 1964, was the first member of the foundation to go to Vietnam to obtain first-hand impressions, that I base my attitude and statements in regard to the Vietnam war, as well as upon reports of other special investigators. Chiefly, however, I base my opinions upon the facts reported in the daily newspapers, especially those of the United States. These reports seem to have been published almost by chance since they appear not to have affected editorial policy.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3:1944-1969 ,chap4:The Foundation,(1969)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB34-240.HTM

[寸言}
つまり、他国のマスコミの情報であれば、米国は「偏見に満ちている」とか「事実ではない(客観的な報道ではない)」といって無視するであろうが、米国の「信頼できる」報道機関による記事を積み上げたものであれば、簡単には反論できないであろう、との思いから、米国の報道機関によるベトナム戦争報道をラッセルは重視したのである。

現在のイラクやシリアにおける米軍やイラク軍や有志連合による爆撃によって巻き添えで死んだ民間人は膨大な数に登っている。
たとえば、これはアメリカの報道機関ではないが、日々の死亡者数が記載されている下記のページによれば、2014年1月10日から2015年5月11日までの間に、イラク軍による爆撃等によって死亡した民間人は少なくとも2,156人(負傷者は3,747人)いると言われている。イラクやシリアにおいて、米軍やロシア軍を含めた有志連合の兵士によって巻き添えで殺害された民間人は膨大な数に登ることが容易に想像される。
http://web.econ.keio.ac.jp/staff/nobu/iraq/chrono/chrono15/indiscriminate_attack_iraq.htm

第一次世界大戦の時、「非国民」となり入獄したラッセル

BRAINS-B だが私は,第一次世界大戦が勃発した時のことをはっきり覚えている。その時の世間の人の気分(心理状態)は,まさにひどい霧に見舞われた時と同じであり,おたがい浮かれ騒ぎ,はしゃぎ合う気分(心理状態)であった。大戦勃発直後の何日かは,せまり来る恐怖を予想して悲しんだ人はほとんどいなかった。気楽な自信が,戦争関係国全てにおいて,時代の風潮であった。

But I do remember the beginning of the Great War, and everybody’s mood then was almost exactly what it is in a bad fog – one of hilarious and excited friendliness. In the first days there were very few who were saddened by the prospect of horrors to come. Light-hearted confidence was the order of the day in all the countries concerned.
* hilarious (形):大変陽気な;浮かれ騒ぐ/order of the day 当時の風潮(流行)
出典:http://russell-j.com/MISHAPS.HTM
詳細情報:http://russell-j.com/MISHAPS.HTM

[寸言}
第一次世界大戦直前まで,ラッセルの反戦運動に対しケンブリッジ大学(トリニティ・コレッジ)の関係者の多くはラッセルらの反戦署名運動理解をしめし,協力していました。しかし,戦争が始まるやいなや,一夜にして主戦論一色になってしまいました。(そして、「非国民」ということで、約5ケ月間、ロンドンのブリクストン刑務所に入れられてしまいました。
ところが,戦争による犠牲者が膨大な数になるにつれて,厭戦気分が広がり,ついには終戦となりましたが,(世界であわせて)数千万人の犠牲者が出てしまいました。
戦争指導者は後ろ(銃後)から命令を出しているだけであり,最前線の兵隊として戦う必要がないため,勇ましいことを言っていられます。

偏見がないということと無知であるということとの取り違え(戦争犯罪)

TPJ-WCV2 本書(ラッセル『ベトナムの戦争犯罪』)は,1966年秋に印刷に回された。ちょうど,本書の中で述べている国際戦争犯罪法廷(注:ラッセル法廷)を準備していた時である。かつてニュールンベルグ戦争犯罪裁判において,その首席検事をつとめていた米国最高裁判所のジャクソン判事は,以下のように,宣告した。

ある特定の行為や条約違反が犯罪であるとするならば,それをアメリカ合衆国が行おうと,ドイツが行おうと,等しく犯罪です。我々に対して起こされたくない,他者に対する犯罪行為(だけ)について規則を定めるつもりはありません。」

けれども,ニュールンベルグ裁判の性質と,ジャクソン判事の役割には,倫理上矛盾する要素(相反する価値)が深く根をおろしていた。ニュールンベルグ裁判は,勝者が敗者を裁くという裁判であった。ニュールンベルグ裁判は,(理想からではなく)現実政策の立場から連合した列強国が行ったものであり,しかも,不可抗力についての法律尊重主義を通して(注:あくまでも法律を尊重すべきであり,権力に抵抗できなかったという言い訳は成り立たないという主張?),人間性を求める声,即ち,ナチスの恐怖という,非良心的な犯罪行為に抗議する叫び声が,徐々に増していった。

私は,国際戦争犯罪法廷を1967年に開廷するよう要請した。それは,またもや,重大な犯罪が行なわれたからである。これは特に銘記されなければならないが,この法廷は,いかなる国家権力も率いていない。戦勝軍に支えられてもいない。倫理的権威以外の者は主張しない。

1つの巨大な工業国が,長年に渡って,1つの小さな(国民の大部分が小作人である)農業国を攻撃してきたのである。ヴェトナムの革命も,ヴェトナムの歴史的な発展の一部であり,その発展を通して,搾取され,飢えた民衆が,人間としての生活のために最低限必要なものの要求を確立しようとしているのである。アメリカ合衆国は,ヴェトナム国民のこの生きるための闘いを,残忍な力で圧倒してしまおうと決意していることを自ら示してきた。アメリカ当局の発表によると,週平均650回の出撃が行われ,300万ポンドの爆弾が毎日北ヴェトナムに投下されており,第2次世界大戦と朝鮮戦争の間に使われた総トン数をはるかに上まわる爆弾が投入された,という事実を我々は知っている。さらにそれに加えて,米軍は,化学兵器,毒ガス兵器,ナパーム弾,燐爆弾,レイジー・ドッグという破砕兵器,生物兵器(注:細菌兵器など)といったような実験兵器を使ってきたのである。

DOKUSH37-2このような事実は,西欧において,映画,テレビ,それからほとんど毎日のように新聞紙上にあらわれているのに,それでも気がつかなかったという人間がいるだろうか。我々の間で,それらの写真を見なかったり,それらの統計を読まなかったりしたものがいるであろうか。民族自決と社会改造のための,この信じがたいヴェトナム人の闘いの性格が,羊飼いダビテがペリシテの巨人ゴリアテを殺したあの闘いの性格と同じであることを,誰が否定することができようか。
このような自覚こそが,私が戦争犯罪法廷を招請した正しい背景となっているのである。私は,この法廷の構成メンバーとして招聘されている人々が,この戦争について,何の意見も持っていないなどとは思わない。それどころか逆に,これらの人々は,まさに,恐ろしい犯罪行為が行なわれてきたことを確信しているために,ヴェトナムにおけるアメリカの行動を徹底的にまた決定的に評価するために,良心の「法廷」の一員になることを自分の道義的責務であると感じているのである。私は,偏見がないということと無知であるということとを取り違えた(混同した)ことはない。また,正しくあるためには,信念をもってはならないなどというふうに信じたこともない。この「戦争犯罪法廷」の権威と,公正であるとの評価は,まさに,法廷を構成している構成員の性格と,その審理手続きの正しさから出ているのである。

This book went to press in the autumn of 1966, as I was preparing the International War Crimes Tribunal mentioned in it. At the Nuremberg War Crimes Trials, Chief Prosecutor Justice Jackson of the United States Supreme Court declared:

‘If certain acts and violations of treaties are crimes, they are crimes whether the United States does them or whether Germany does them. We are not prepared to lay down a rule of criminal conduct against others which we would not be willing to have invoked against us.’

There was, however, a moral ambivalence rooted in the nature of the Nuremberg trials and in the role of Justice Jackson. Nuremberg was a trial conducted by the victorious party over the defeated. Nuremberg was carried by a real-politik alliance of powers and yet, through the legalisms of force majeure, crept the voice of humanity, a voice crying out against the unconscionable criminality of the Nazi terror.

I have called for an International War Crimes Tribunal to be held in 1967 because, once again, crimes of great magnitude have been taking place. Our tribunal, it must be noted, commands no State power. It rests on no victorious army. It claims no other than a moral authority.

Over a period of years, an industrial colossus has attacked a small peasant nation. The Vietnamese revolution is part of an historical development through which exploited and hungry peoples are establishing their claim to the basic necessities of human life. The United States has shown itself determined to overwhelm with brute force this struggle for life. We have, on American authority, the fact that three million pounds of bombs have been falling daily on North Vietnam, involving an average of 650 sorties per week and tonnages in excess of those used during World War II and the Korean war. Beyond this, the armies of the United States have been using experimental weapons such as chemicals, gas, napalm, phosphorous, ‘lazy dog’ fragmentation weapons and bacteriological devices.

Who, in the West, is unaware of these facts, as they have been presented on film, on television and almost daily in our newspapers? Who among us has not seen the photographs, or read the statistics? Who among us can deny the David-and-Goliath character of this incredible Vietnamese struggle for national autonomy and social transformation?
It is this awareness which provides the proper background to my call for a War Crimes Tribunal. I do not maintain that those who have been invited to serve as members of the Tribunal are without opinions about the war. On the contrary, it is precisely because of their passionate conviction that terrible crimes have been occurring that they feel the moral obligation to form themselves into a Tribunal of conscience, for the purpose of assessing exhaustively and definitively the actions of the United States in Vietnam. I have not confused an open mind with an empty one. I have not believed that to be just one must be without conviction. The authority of the Tribunal and its reputation for fairness follows from the character of its membership and the correctness of its procedures.

出典: War Crimes in Vietnam, 1967,Postscript.
詳細情報:http://russell-j.com/cool/61T-POST01.HTM

[寸言]
勝者が敗者を裁くことの限界。
「偏見がない」ということと「無知である」ということとの取り違え。

中印国境紛争解決のために行ったラッセルの努力-武器なき勝利

[ラッセル『武器なき勝利 (Unarmed Victory, 1963)』より引用]

TP-UV(中国とインドとの国境の)紛争地区において戦闘が始まった時(注:1962年10月20日に始まった中印国境紛争のこと),私は,最初,西欧においてほとんど全ての人々が考えたように,中国が全面的に悪く,疑いもなく中国は侵略者だと考えた。(そこで)私は長年の間友好的な関係にあったネール首相に(1962年)11月8日に打電し,次のように伝えた。

「中国との国境紛争について,あなたは全く正しいと私は考えますが,話し合いを始めるために,停戦を受け入れるように,私はあなたに嘆願します。停戦以外の代替案は,全面的な戦闘になれば交渉が不可能となりますので,インドと世界とにとって,悲惨なものとなります。私は生涯のインドの友として,機の熟している間に --さもないと,世界戦争になるかも知れません-- 周恩来(首相)の提案に同意することを懇願します。」

TPJ-UV 私が生涯のインドの友であったことは,全く事実だった。私のひいひいおじいさんはインド総督をしていた(また,彼の孫息子の息子はインドの太守だった)。私が幼い時,彼の話はロマンチックで興味深いものだった。(その時から)ずっと後になって,(私は)インド連盟総裁となり,そしてインドの自由のために働いた。他方,また,私が少年だった時,美しい支那服(中国服)を着た弁髪の中国人一行がペンブローク・ロッジに住む私の祖父を訪ねてきて,私の好奇心と興味・関心をかき立てた。そうして,また,それからずっと年月がたってから,私は中国哲学,特に荘子(Chuang-tse/Chuang-tzu/牧野氏は「老子」と誤訳)に甚だ興味を持ち,8ケ月間中国に滞在旅行した後,私は多くの共感を抱く中国人の友人たちを得て,中国国民に甚だ賞讃の念を抱いた。中国に共産主義革命が勃発した時 --蒋介石には支持に値するものは何もなかったが -- 私は寂しく感じた。私が本で読んだ洗脳や,古い伝統や学問の徹底的な破壊は,私が中国に見いだした喜ばしいものや称賛したいものを全て破壊するだろうと思った。先月以後現在も,私はこのことが確かだとはまったく実感していない。

とにかく,むなしい望みと思われたが --私は,当時,いかなる犠牲を払っても,平和を愛するがゆえの多くの抗議をするインド人に希望を託していた-- ネール氏(ネール首相)に電報をうち(うった後),周恩来首相と一種の接触を試みたほうがよいと思い,同日の(1962年)11月8日にまた,周恩来首相に次のように打電したのである。

「私はあなた(注:中国の周恩来首相)に対し,燃え上がった国民的情熱が,国境に関する意見の不一致を悲劇的な大規模の戦闘に移行させるのを防ぐように,訴えます。中国が停戦を(まず)開始し,大戦争が世界をひと呑みにする前に,話し合いを開始できるように,(先に停戦した中国の)先例に従うように,インドの同意を求めていただけないでしょうか。
敬 具
バートランド・ラッセル

THE DISPUTE
When fighting began in the disputed regions, I thought at first, as did almost everybody in the West, that China was wholly in the wrong and had undoubtedly been the aggressor. I telegraphed to Prime Minister Nehru, with whom I had for long been on friendly terms, on November 8th, saying:
‘While I think you are entirely in the right over the boundary dispute with China I plead with you to accept cease fire to permit talks to begin. Alternative may be disastrous for India and world as a full-scale conflict may make negotiations impossible. I appeal as a lifetime friend of India to agree to Chou En-lai’s offer while time permits otherwise world war may result.’
It was indeed true that I had been a life-long friend of India. My great-great-grandfather had been Governor General of India (and his great-grandson, Viceroy) and when I was a little boy tales of him had seemed to me romantic and interesting. Very many years later, I was the President of the India League and worked for her freedom. On the other hand, again when I was a small boy, a party of Chinese in beautiful robes and pig tails had come to see my grandfather at Pembroke Lodge and stirred my curiosity and interest; and again, many years later, I became much interested in Chinese philosophy, especially in Chuang-tse, and after living and travelling in China for eight months I felt that I had many sympathetic Chinese friends and I greatly admired the Chinese. When the Communist Revolution took place in China, I felt desolated, though I saw nothing good to uphold in Chiang Kai-shek. I thought that the brain-washing of which I read and the intensive destruction of old traditions and learning would destroy what I had found delightful and admirable in China. Now, after the last month, I do not feel at all sure of this. At any rate, though it seemed to me a forlorn hope – I then pinned my hope upon the Indians in whose many protestations of love of peace at any price I had largely believed – I felt that, having telegraphed to Mr Nehru, I had better try to get into some sort of touch with Prime Minister Chou En-lai, and I telegraphed to him, also, on November 8th:
‘May I appeal to you to prevent inflamed national passions from translating border disagreement into tragic major conflict. Could you begin cease fire and seek Indian agreement to follow suit so that talks may begin before major war engulfs the world. Respectfully, Bertrand Russell.
出典: Unarmed Victory, 1963, chap. 3
詳細情報:http://russell-j.com/cool/60T_3FUNSO-01.HTM

[寸言]
日本の知識人や政治家で,このような(ラッセルのような)国際的な努力を行った(あるいは行おうとしている)知識人や政治家が日本にいたか(あるいは,いるか)?

国家犯罪をあばくことの困難さ-クロウド・イーザリーの末路

Claude_Eatherly とにかく,アメリカにおいて,(米国の)体制(側)の権力を例証するとても興味深い事件は,クロウド・イーザリー(Claude Eatherly, 1918-1978)の事件である。彼は,広島に爆弾を投下するための信号を送った。彼の事件は,また,現代世界においては,法律を破ることによってのみ兇暴な罪を犯すことを免れることができるという事態が,しばしば起こることを例証している。彼は,その爆弾がどのような効果をもたらすか告げられていなかった。そうして,彼の行為の結果がわかった時,彼は全く恐れおののいた。彼は,核兵器の残酷さに注意を喚起するために,また,もし彼がそうしなかったら,彼を押しつぶしてしまうであろう罪を償うために,長年に渡り,多様な市民的不服従運動に献身した。米当局(政府・国防省その他)は,彼は気が狂った者として考えられるべきだと決定し,また,著しく政府(権力)に従順な精神病学者たちのグループが,その公式見解を裏書した(支持した)。イーザリーは,後悔したために,精神に異常があると証明された。(これに対し),トルーマン(大統領)は後悔しなかったので,精神に異常があるとは証明されなかった。私は,彼の動機を説明するかなり多数のイーザリーの声明文を読んできた。これらの声明文は,全く正常なものである。しかし,私自身を含めて,ほとんどすべての者が彼は気が狂ってしまったと信じたほど,虚偽の宣伝の力は大きかった。
かなり最近になって,イーザリーの事件が,一般に知れわたった結果,ワシントン(政府)の司法長官がこれに介在し(仲裁に入り),半年間,凶悪犯罪者用刑務所の監房(maximum security ward)に閉じこめられていたイーザリーは,その刑務所病院のある部門に移された。そこで,彼は,異例の特権を享受し,何ら新たな審問なしにまもなく放免されると告げられていた。彼は解放されなかったが,当面(注:1961年時点),彼は,監禁を免れている

An extraordinarily interesting case which illustrates the power of the Establishment, at any rate in America, is that of Claude Eatherly, who gave the signal for the dropping of the bomb at Hiroshima. His case also illustrates that in the modern world it often happens that only by breaking the law can a man escape from committing atrocious crimes. He was not told what the bomb would do and was utterly horrified when he discovered the consequences of his act. He devoted himself throughout many years to various kinds of civil disobedience with a view to calling attention to the atrocity of nuclear weapons and to expiating the sense of guilt which, if he did not act, would weigh him down. The Authorities decided that he was to be considered mad, and a board of remarkably conformist psychiatrists endorsed that official view. Eatherly was repentant and certified; Truman was unrepentant and uncertified. I have seen a number of Eatherly’s statements explaining his motives.
These statements are entirely sane. But such is the power of mendacious publicity that almost everyone, including myself, believed that he had become a lunatic.
Quite recently, as a result of publicity about Eatherly’s case, the Attorney General in Washington intervened, and Eatherly, who had been locked up in the maximum security ward for half a year, was transferred to a section of the hospital where he enjoyed unusual privileges and had been told that he would be released without any fresh hearing in the near future. He was not released, but for the moment has escaped.
出典: Has Man a Future? (1961),chap.4.
詳細情報:http://russell-j.com/cool/58T-0401.HTM

[寸言]
クロード・イーザリーの事件は,次のラッセルの危惧を例証する事例

我々の時代において新しいこと(の一つ)は,権力者たち(政府その他大きな権力を持っている人たち)が,自分たちの(様々な)偏見を民衆に押し付けることができる力が増したことである。
(What is new in our time is the increased power of the authorities to enforce their prejudices. Quoted on Who Said That? BBC TV, Aug. 8, 1958.)

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