絶えず自我を膨張させる必要のある人たち

3baka_ryotewohirogete 自己欺瞞に支えられているときにしか仕事のできない人たちは,自分の職業を続ける前に,まず最初に,真実に耐えることを学習したほうがよい。なぜなら,神話にささえられる必要があるようでは,おそかれ早かれ,彼らの仕事は,有益どころか,有害なものになってしまうだろうからである。
有害な行為をするよりも(するくらいならば),何もしないほうがいい。界における有益な仕事の半分は,有害な仕事と闘うことから成り立っている。事実を正当に評価する’ことを学ぶために少し時間を費やしても,それは時間の無駄とはならない。その後(学習後)になされる仕事は,活力を刺激するために絶えず自我を膨張させる必要のある人たちがする仕事よりも,ずっと有害でなくなる傾向がある。自分自身についての真実の姿に進んで向き合おうとする態度には,ある種の’諦め’が伴っている。この種の’諦め’は,初めのうちは苦痛を伴うかもしれないが,最後には,自己欺瞞に陥っている人が陥りやすい‘失望と幻滅’に対する防御--事実,唯一可能な防御--を与えてくれる。日毎に信じがたくなる事柄を日毎信じようとする努力ほど,疲れるものはないし,長い眼でみれば,苦痛をつのらせるものはない。こうした努力をなくすることは,確実かつ永続的な幸福の不可欠の条件である。

Those who can only do their work when upheld by self-deception had better first take a course in learning to endure the truth before
continuing their career, since sooner or later the need of being sustained by myths will cause their work to become harmful instead of beneficial. It is better to do nothing than to do harm. Half the useful work in the world consists of combating the harmful work.
A little time spent in learning to appreciate facts is not time  wasted, and the work that will be done afterwards is far less likely to be harmful than the work done by those who need a continual inflation of their ego as a stimulant to their energy. A certain kind of resignation is involved in willingness to face the truth about
ourselves; this kind, though it may involve pain in the first moments,
affords ultimately a protection – indeed the only possible protection – against the disappointments and disillusionments to which the self-deceiver is liable. Nothing is more fatiguing nor, in the long run, more exasperating than the daily effort to believe things which daily become more incredible. To be done with this effort is an indispensable condition of secure and lasting happiness.
出典:The Conquest of Happiness, 1930, chap.16:Effort and
resignation.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/HA27-060.HTM

[寸言]
建前と本音の使い分け;饒舌なだけで中身のない二枚舌 表立って本音を言うと失職するので,公に対しては,あくまでも建前やあいまいな言葉を使う。
abe_sanakunin どこかの首相や職業的宗教家や御用評論家のように,「美しい日本」を標語に,子供や国民一般には,自分のメルマガなどで,道徳的に悪いことをしてはいけないとか,国を愛することの大切さを説きながら,身内の大臣がおかしなことをやって国民に説明しなくても,(自分の内閣がガタガタになるといけないので)’法律的には問題ない’と,批判を無視してしまう。
二枚舌や自己欺瞞は,子供の教育や躾に甚だよろしくない。そのような為政者に,「美しい日本」などと言った標語を使う資格はないだろう。

事件を待ち望む気持ち-退屈の犠牲者にとってはたとえ不幸な出来事でも・・

keio_syudan-boko 退屈の本質的要素の一つは,現在の状況と,想像せずにはいられない他のもっと快適な状況とを対比することにある。また,自分の能力を十分に発揮できない(状態にある)ということも,退屈の本質的要素の一つである。命を奪おうとしている敵から逃げ去るのは,さぞかし不愉快だろうが,退屈でないことは確かだろうと思う。自分が処刑されようとしているときには,ほとんど超人的な勇気がある場合は別として,退屈を感じないだろう。同様に,だれ一人として,上院で処女演説中にあくびをしたものはいない。ただし,今は亡きデヴォンシャー公爵だけは例外であり,その結果,英国貴族たちから尊敬されることになった。
退屈’は,本質的には,事件を望む気持ちのくじかれた状態をいい,事件は必ずしも愉快なものでなくてもよく,’倦怠の犠牲者’にとっては,今日と昨日を区別してくれるような事件であればよい。

One of the essentials of boredom consists in the contrast between present circumstances and some other more agreeable circumstances which force themselves irresistibly upon the imagination. It is also one of the essentials of boredom that one’s faculties must not be fully occupied. Running away from enemies who are trying to take one’s life is, I imagine, unpleasant, but certainly not boring. A man would not feel bored while he was being executed, unless he had almost superhuman courage. In like manner no one has ever yawned during his maiden speech in the House of Lords, with the exception of the late Duke of Devonshire, who was reverenced by their Lordships in consequence. Boredom is essentially a thwarted desire for events, not necessarily pleasant ones, but just occurrences such as will enable the victim of ennui to know one day from another.
出典:The Conquest of Happiness, 1930, chap.4:Boredom and excitement.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/HA14-010.HTM

[寸言]
人の不幸を喜ぶ人間性/それは「退屈」が原因の1つ/戦争さえも戦闘地域が海外であれば・・・;しかし戦争が長引くと厭戦気分が大きくなり,早く戦争が終わってほしいと願うようになるという人間の身勝手さ,思慮のなさ/退屈と興奮の意味合い

「事件を待ち望む心」っていうのは恐ろしい。
退屈をまぎらすためには大事件が起こってほしい。戦争でさえも。ただし,あとから後悔することになる
この少し後のところで,ラッセルは次のように言う。

hitler_seiji-senden 「戦争、虐殺、迫害は、すべて退屈からの逃避の一部(逃避から生まれたもの)であり、隣人とのけんかさえ、何もないよりはましだと感じられてきた(経験して知る)。それゆえ退屈は、人類の罪の少なくとも半分は退屈を恐れることに起因していることから、モラリスト(道徳家)にとってきわめて重要な問題である。」
(Wars, pogroms, and persecutions have all been part of the flight from boredom; even quarrels with neighbours have been found better than nothing. Boredom is therefore a vital problem for the moralist, since at least half the sins of mankind are caused by the fear of it.)
出典:ラッセル『幸福論』第4章「退屈と興奮」
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/HA14-030.HTM

象にはジャーナリストがいないので根拠なき扇動にはひっかからない

hitler_seiji-senden 大衆ヒステリアは,人間だけに限られていない現象である。それはいかなる群居性の種にも見られるであろう。わたくしはかつて中央アフリカの野生の象の大群が,はじめて飛行機を見て,みな激しい集団的恐慌の状態におちいっている写真をみたことがある。象はたいがいの場合,落ち着いた賢い動物である。しかしこの前古未曽有(ぜん こみぞう)の,騒々しい未知の空の動物という現象は,群れ全体を完全にあわてさせたのである。すべての象はそれぞれ,みな恐怖にとらえられた。そして一匹一匹の恐怖は他の象に伝わり,ひどく増大した恐慌を引き起こした。しかしながら,彼らのなかにはジャーナリストはいなかったので,その恐怖は飛行機が見えなくなったとき消滅した

Mass hysteria is a phenomenon not confined to human beings; it may be seen in any gregarious species. I once saw a photograph of a large herd of wild elephants in Central Africa Seeing an airplane for the first time, and all in a state of wild collective terror. The elephant, at most times, is calm and sagacious beast, but this unprecedented phenomenon of a noisy, unknown animal in the sky, had thrown the whole herd completely off its balance. Each separate animal was terrifies, and its terror communicated itself to the others, creating a vast multiplication of panic. As, however, there were no journalists among them, the terror died down when the airplane was out of sight.
出典: To Face Danger without Hysteria .In: New York Times Magazine, 21 Jan. 1951, pp.7, 42, 44-45.)
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/KAMI-43.HTM

[寸言]
abe_yarase_sodachi-hakusyu ヒトラーも大衆ヒステリアを利用(活用)しましたが,日本も戦時中の軍部や政府は大いに利用しました。麻生副総理(元総理大臣)も半分冗談で(つまり半分は「本気で」)「ナチスの手口」を使うとよいと正直に言っています。
政権があぶない場面になれば、攻撃する野党を静かにさせるために,野党に不都合な情報を流して,「与党も野党も同じだ」と国民に思わせることができれば「一安心」ということになります。そういった不都合な真実を、政権与党は公安調査庁などを使って(また内閣機密費を使って)集めたり、リークしたりできますので、最初からハンディがあり,普通のやり方では野党は勝てるはずもありません。

国や国民性が異なれば,皮肉(や冗談)は皮肉(や冗談)でなくなる

irene-and-frederic-joliot パリ滞在中,この計画(注:ラッセル=アインシュタイン宣言の発表)についてフレデリック・ジョリオ=キュリー(Frederic Joliot-Curie, 1900年-1958年8月14日:フランスの原子物理学者で,1935年に妻イレーヌ・ジョリオ=キュリーとともにノーベル’化学賞’受賞。イレーヌとは1926年に結婚したが,その際,姓を2人の旧姓を組み合わせ「ジョリオ=キュリー」とした。晩年はパグウォッシュ会議の設立にも尽力) と長時間に渡って語り合った。
fukushimaunderground2fzz1 彼は,心からこの計画を歓迎してくれるとともに,ただ一句を除いて,この声明(文)に賛成してくれた。(その一句というのは,)私が次のように書いたところであった。「もしも多数の原爆が使用されるならば,全人類の死(全体的破滅)に到る恐れがある。それは,少数の者だけにとっては幸運にも一瞬の出来事(即死)であるが,大多数の者にとっては徐々に進行する病気と人間崩解の責め苦である」。
キュリーは,私がその少数者を’幸運にも’と表現したところを好まなかった。「死ぬことは幸運なことではない」と彼は言った。おそらく,彼の言うことは正しかったであろう。 ‘皮肉’というものは,国を越えると,’悪ふざけ’ととられる場合がある(から注意が必要である)。ともかく私は,その句を削除することに同意した。英国に帰国してしばらくの間,彼から何のたよりも来なかった。後に知ったことであるが,その時彼は病気をしていたとのことであった。

While I was in Paris I had a long discussion about my plan with Frederic Joliot-Curie. He warmly welcomed the plan and approved of the statement except for one phrase: I had written, ‘It is feared that if many bombs are used there will be universal death – sudden only for a fortunate minority, but for the majority a slow torture of disease and disintegration’. He did not like my calling the minority ‘fortunate’. ‘To die is not fortunate’, he said. Perhaps he was right. Irony, taken internationally, is tricky. In any case, I agreed to delete it. For some time after I returned to England, I heard nothing from him. He was ill, I learned later.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 2: At home and abroad, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB32-200.HTM

[寸言]
皮肉(や冗談)が皮肉(や冗談)ととられずに,批判されたり,誤解されたりすることは少なくない。国(や国民性)が同じでも,生まれ育った環境や背景的知識が大きく異なると,感性が異なり,お互いの意図や感覚が伝わらないことがたまにある。facebook 上でもそのようなことがたまにあるが,後から,書き方の工夫で誤解を招かなかっただろうと反省することもある。と同時に,言葉尻をとらえてほしくないなあ,と思うことも時々ある。

なお,フレデリック・ジョリオ=キュリーは,3年後の1958年8月14日に死亡。妻のイレーヌは長年の放射能研究により1956年白血病で死亡しているが,夫のフレデリックも同様と思われる。

経験が生きる時と邪魔になる時 - 「確信」は「過信」に通ずる

若者は’想像(空想)‘と’推論‘によって影響され、老人経験に導かれる(経験に頼って生きる)、とよく言われる。私自身、若い頃、この顕著な実例を経験した。
私はデヴォンシャー州のクロヴリーにある古びた村からブリストル海峡の入口にあるランディ島が見える’ハートランド・ポイントと呼ばれる岬’まで歩いた。そこで、私は沿岸警備隊員と会話をした。彼は、(ハートランド・ポイントから)クロヴリーまでの距離は8マイルで、ランディ島までは10マイルと語った「それでは、クロヴリーからランディ島までの距離はどれくらいですか」と私は尋ねた。彼の答は22マイルだった。これを聞いて私は、三角形の二辺の和は他の一辺よりも常に長いはずであり、(彼の言うとおりだとすると)ハートランド・ポイント経由でも(クロヴリーからランディ島まで)距離は18マイルにすぎない(ことになり、2辺の和18マイルよりももう1辺の方が長いことになりそんなことはないはずである)と主張し、彼と激論をした。しかし、沿岸警備隊員はまったく動じなかった。「私が言えることは・・・、先日ジョーズ船長とこのことについて話をしたが、船長は、”子供のころから30年間もこの沿岸のことを知っているが、クロヴリーからランディ島までの距離は、22マイルだ” と言っていましたよ」と彼は答えた。子供のころからの話という議論の前には、幾何学の出る幕はなかった。
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It is a commonplace that the young are influenced by imagination and reasoning while the old are guided by experience. When I myself was young I had once a remarkable illustration of this fact. I had walked from the old-world village of Clovelly, in Devonshire, to a cape called Hartland Point, from which I could see Lundy Island at the mouth of the Bristol Channel. I got into conversation with a coast guard, who told me that the distance to Clovelly was eight miles, and to Lundy Island ten miles. ‘And how far is it from Clovelly to Lundy Island ?’ I asked. The answer was twenty-two miles. At this I burst out into argument to the effect that two sides of a triangle are always greater than the third side, and that if one went by way of Hartland Point the distance would only be eighteen miles. The coast guard, however, was quite unmoved. ‘All I can say, sir,’ he replied, ‘is that I was speaking with Captain Jones the other day, and he said: “I’ve known this coast, man and boy, for thirty years, and I make it twenty-two miles.” ‘ Before the man-and-boy argument, geometry had to retire abashed.
出典: The lessons of experience (written in Sept. 23, 1931 and pub. in Mortals and Others, v.1, 1975.)]
詳細情報:http://russell-j.com/EXPERIEN.HTM

[寸言]
Google の衛星地図で実測してみると、クロヴリーからハートランド・ポイントまで約8マイル、ハートランドからランディ島まで約16マイル、クロヴリーからランディ島まで直線で約21マイルあった。ということは、ハートランド・ポイントからランディ島までの距離のみが沿岸警備隊員の誤解あるいは言い間違いということになりそうである。また,非常に長いロープを張って2点間の距離を測っているわけではなく,海には潮流があり船は流されるので、「実際に船が走行した距離」が増えても不思議ではない。潮流がはげしいところではかなり航行距離がのびるであろう。)

「資本主義制度の長所」-米国での必修科目?

1939年の夏,ジョン(長男)とケイト(長女)は,学校の休暇期間中に,私たちのところにやってきた。彼らが到着して2,3日すると,第二次世界大戦が勃発した。そのため,彼らを英国に戻すことが不可能になった。そこですぐさま私は,二人のそれ以後の教育の手配をしなければならなかった。ジョンは17歳だったので,カリフォルニア大学に入学させた。しかしケイトの方はまだ15歳だったので,大学に入れるのは若すぎるように思われた。私は,ロサンゼルスでは,どの学校が一番学力水準の高い学校かということを友人たちに尋ねたところ,彼らが全部一致して推薦してくれたところが一校あった。そこでケイトをその学校に入れた。しかしその学校で教えられている科目でケイトがまだ知っていないものはたった一つしかなく,それは「資本主義制度の長所」というものであった。そのため私は,彼女は年齢が若すぎたが,大学にやらざるえなかった。
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In the summer of 1939, John and Kate came to visit us for the period of the school holidays. A few days after they arrived the War broke out, and it became impossible to send them back to England. I had to provide for their further education at a moment’s notice. John was seventeen, and I entered him at the University of California, but Kate was only fifteen, and this seemed young for the University. I made enquiries among friends as to which school in Los Angeles had the highest academic standard, and there was one that they all concurred in recommending, so I sent her there. But I found that there was only one subject taught that she did not already know, and that was the virtues of the capitalist system. I was therefore compelled, in spite of her youth, to send her to the University.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 6:America, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB26-020.HTM

[寸言]
戦前の日本だったら、教育勅語であり,神話の時代も含め代々の天皇の名前を暗唱することでしょうか? そのうち、代々の総理大臣の名前を暗記させることが義務教育にはいってきたりして・・・、まさかね。

無神論者(反キリスト教徒)のラッセル,やむなく全能の神に誓う

br1923_election (1921年)9月27日,私たちは結婚した。国王代訴人(注:離婚裁判所において不正がある際に法廷に異議を申し立てる者)に離婚手続きを早めさせることに成功したが,そのためには,チャリング・クロス駅のプラットホームで,ドーラは私が公然と姦通した女性であると,全能の神の御名にかけて宣誓する必要があった。
11月16日に長男ジョンが生まれ,その瞬間から長年の間,子供たちが私の人生の主要関心事となった。(写真は1923年に労働党候補として立候補した時の写真。だっこしているのは、長男ジョン)

On September 27th we were married, having succeeded in hurrying up the King’s Proctor, though this required that I should swear by Almighty God on Charing Cross platform that Dora was the woman with whom I had committed the official adultery. On November 16th, my son John was born, and from that moment my children were for many years my main interest in life.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 3:China, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB23-160.HTM

[寸言]

ottolin3 ラッセルは、1910年(38歳の時)自由党から立候補しようとしましたが、無神論者で英国国教徒でなく,(「神に誓う」という)宣誓を拒否したため,下院議員選挙に立候補できませんでした(現在では考えられないことです)。
そのため、P. Morrell のために応援演説にまわります。(これをきっかけに,後に愛人となるオットリン・モレル夫人(写真)と急速に親しくなっていきます。)

ラッセルも少し大人になったのか、それともドーラと再婚したいという気持ちが強かったのか、いや多分,生まれてくる子供のために「全能の神に誓って、ドーラと不倫をしたことを宣誓」しました。

「思想界の巨星,ラッセル氏逝く」

r-goho ドーラが私の看病をしたいと望んでいた時,日本の新聞記者は,彼女にインタビューに応じるよう求めてたえず彼女を困らせていた。ついには,彼女が彼らにぶっきらぼうな態度をとったので,新聞記者たちは勘違いをし,日本の各新聞に,私が死亡したと報道させることとなった。
dora このニュースは,郵便で日本からアメリカヘ,そしてアメリカから英国へと送られた。英国の新聞には,私の離婚のニュースと同日に発表された。幸いにも,(英国の)裁判所は私が死亡したとの報道を信用しなかった。さもないと,(アリスとの)離婚は延期されたかもしれなかったであろう。その誤報は私に,(生きながら)自分の死亡記事を読むという楽しみを与えてくれた。それは,--そのような望みがかなえられるとは思ってもいなかったけれども--,私がずっと望んでいたことである。
キリスト教系の(布教のための)ある新聞が,次のような一行の私の死亡記事を載せていたのを記憶している。

宣教師は,バートランド・ラッセル氏死去の報に接し,安堵から胸をなでおろしても(ほっとしてため息をついても)許されるであろう。

結局は私が死ななかったことを聞き,彼らは別の種類の’ため息’をついたにちがいない。

The Japanese journalists were continually worrying Dora to give them interviews when she wanted to be nursing me. At last she became a little curt with them, so they caused the Japanese newspapers to say that I was dead. This news was forwarded by mail from Japan to America and from America to England. It appeared in the English newspapers on the same day as the news of my divorce. Fortunately, the Court did not believe it, or the divorce might have been postponed. It provided me with the pleasure of reading my obituary notices, which I had always desired without expecting my wishes to be fulfilled. One missionary paper, I remember, had an obituary notice of one sentence: ‘Missionaries may be pardoned for heaving a sigh of relief at the news of Mr. Bertrand Russell’s death. I fear they must have heaved a sigh of a different sort when they found that I was not dead after all…
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 3: China, 1968].
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB23-110.HTM

[寸言]
(注:『大阪毎日新聞』1921年3月29日朝刊第2面」「思想界の巨星,ラッセル氏逝く」)

不倫行為が証明されないと離婚できない(当時の)英国、そこで・・・

br-db20・・・。全てがこのような状態であったにもかかわらず,私たち(ラッセルとドーラ/写真は中国での二人)は,一年間中国に一緒に滞在するために必要な一切の手続きをとっていた(のに気づいた)。言葉以上の,即ち意識的な思考以上の,何らかのより強い力が,私たちを結びつけていた。そのため,私たちのどちらも,行動において,一瞬たりとも,ためらわなかった。私たちは,文字通り昼夜,動き回らなければならなかった。彼女(ドーラ)がロンドンに到着してから二人で中国に向かって出発するまで,たった5日間しかなかった。長旅に出かける時の通常のせわしい活動に加えて,衣服を買ったり,パスポートを入手したり,友人や親戚に別れを告げなければならなかった。そうして私は,中国滞在中に(初婚相手のアリスと)離婚したかったので,幾夜も公娼のところに泊る必要があった。探偵連中がとても間抜けだったために,何度も繰り返さなければならなかったのである。

In spite of all this, we found ourselves taking all the necessary steps required for going off together for a year in China. Some force stronger than words, or even than our conscious thoughts, kept us together, so that in action neither of us wavered for a moment. We had to work literally night and day. From the time of her arrival to the time of our departure for China was only five days. It was necessary to buy clothes, to get passports in order, to say goodbye to friends and relations, in addition to all the usual bustle of a long journey; and as I wished to be divorced while in China, it was necessary to spend the nights in official adultery. The detectives were so stupid that this had to be done again and again.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 2: Russia, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB22-230.HTM

[寸言]
r-goho 当時の英国(の法律)では,いずれかの方に不倫行為がなければ離婚できなかった。そこで,形だけであるが,刑事に見つけてもらうように、何度も公娼のところに通ったが,「残念ながら」努力のかいなく,あまり成功しなかった。
ラッセルは、1921年3月初旬,北京において肺炎にかかり,3月下旬危篤に陥ってしまった。それを早とちりの日本の新聞記者が日本へ「ラッセル死す」と知らせた。そのニュースは世界中に打電され,ラッセルはこのニュースで迷惑を被った。

ウィトゲンシュタインの弱点

wittgenstein-l すべての偉大な人間がそうであるように,ウィトゲンシュタインにも弱点があった。1922年,彼の神秘主義的な情熱が最高度に達していた時,彼が,’善良であるということ’は’利口であること’よりもいっそうよいというのは確かだと,きわめて真面目に私に言ったのと同じ時に,スズメバチを怖がり,南京虫のせいで,私たちが(オーストリアの)インスブルックで見付けた宿舎に翌日も泊ることができない彼を目撃した。私は,ロシアや中国を旅行した以後は,そのような些細な事には慣れてしまったが(注:当時の中国のホテルでは,南京虫がでるのは日常的なことであった。),彼は,この世のことは取るに足らないと確信しているにもかかわらず,昆虫に対しては忍耐できなかった。けれども,そのような(愛嬌のある)些細な弱点はあったが,彼はきわめて印象深い人間であった。

suzumebachiLike all great men he had his weaknesses. At the height of his mystic ardour in 1922, at a time when he assured me with great earnestness that it is better to be good than clever, I found him terrified of wasps, and, because of bugs, unable to stay another night in lodgings we had found in Innsbruck. After my travels in Russia and China, I was inured to small matters of that sort, but not all his conviction that the things of this world are of no account could enable him to endure insects with patience. In spite of such slight foibles, however, he was an impressive human being.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.2 chap. 2: Russia, 1968]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB22-100.HTM

[寸言]
astor_house_hotel 南京虫の話は,北京大学の客員教授になるために,ラッセルが1920年の夏に,上海にまずいって泊まったホテルでの体験を言っていると思われる(それ以外はないはず)。最初の5日間を中国式の旅館に泊り,次に中国最古のホテル Aster House Hotel (現在の浦江飯店)に泊まっているが(写真は)ラッセルが泊まった310号室,多分、前者のホテルで南京虫に悩まされたと想像される。後者のホテルでは 50平方メートルの広い(当時としては近代的なホテル)の客室に泊まっているので多分南京虫はでていないであろう。

2022年はラッセル生誕150年