イド語をしゃべる人は ‘Idiot’?

louiscouturat 彼(フランスの論理学者クーチェラ)の晩年には--彼は’国際語の問題’に没頭するようになったため--彼との接触は無くなった。彼はエスペラントよりもイド語(注:エスペラント語を一層簡易化したもの)を擁護した。彼の話によれば,人類の全歴史を通して,エスペランティストほど堕落した人間はなかった。彼は,イド語が,エスペランティスト同様の言葉の形成に向かわなかったこと(注:即ち,エスペラント語を使う人を’エスペランティスト‘というように,ido 語を使う人を呼称する言葉が造語されなかったこと)を嘆き悲しんだ
私は,’idiot(ばか,まぬけ)’ という言葉を提案したが,彼は余り喜ばなかった(注:もちろん冗談)。

In the last years I had lost contact with him, because he became absorbed in the question of an international language. He advocated Ido rather than Esperanto. According to his conversation, no human beings in the whole previous history of the human race had ever been quite so depraved as the Esperantists. He lamented that the word Ido did not lend itself to the formation of a word similar to Esperantist. I suggested ‘idiot’, but he was not quite pleased.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 5:First marriage, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB15-170.HTM

[寸言]
esperantisto 気の置けない(=気心の知れた)相手でないと、下手に冗談を言えば、相手を激怒させる危険性がある。その点,クーチェラはラッセルの論理学思想を支持・信奉していたのでその心配はなかったが,それでもこちらが真面目に言っている時にちゃかされると,どうしても不愉快になってしまう。「イド語(Ido))をしゃべる人は ‘Idiot’というのは、idiotに馬鹿(間抜け)という意味がなければ(Esperanto 語をしゃべる人は Esperantist でよいように)全然問題ないどころか適切であるが,残念ながら「馬鹿(間抜け)」という意味があった。

‘刑務所は罰を受けるところだ・・・”と言われてしまったラッセル

brixton 因習的な(伝統的な)学校に入れるのにはあまりに繊細すぎるリットン(Lytton Strachey、1880-1932)は,彼の母の眼には聡明と映り,献身的な雰囲気のもと,著作家の生涯を送るよう育てられた。彼の著作は,当時の私には,楽しくかつ面白く思われた。私は,彼の『著名なヴィクトリア朝時代人』を,出版前に,彼が声に出して読んでいるのを聞いたが,私は獄中(注:ラッセルは第一次世界大戦時に反戦運動をしたために約5ケ月間ブリクストン監獄に投獄された。/写真はそのブリクストン刑務所)で再び黙読した。大変面白く,大声で笑ってしまったので,看守が私の独房にやって来て,’刑務所は罰を受けるところだということを忘れてはならない’と言った。

Lytton, who was too delicate to be sent to a conventional school, was seen by his mother to be brilliant, and was brought up to the career of a writer in an atmosphere of dedication. His writing appeared to me in those days hilariously amusing. I heard him read Eminent Victorians before it was published, and I read it again to myself in prison. It caused me to laugh so loud that the officer came round to my cell, saying I must remember that prison is a place of punishment.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 3:Cambridge, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB13-310.HTM

[寸言]
brains-b 刑務所の外に対してメッセージを送ったりしなければ、刑務所内で何をしてもよいといわれたため、ラッセルは投獄されていた約5ケ月間1918年5月始めに入獄し9月に出獄/囚人番号2917番)、多くの読書をし、執筆活動を行った。獄中で執筆したラッセルの An Introduction to Mathematical Philosophy も出獄した翌年の1919年に出版されている。(また,The Analysis of Mind の執筆も開始しており,それは1921年に出版されている。勁草書房から出ている邦訳書名は『心の分析』。)

なお,兄フランクの尽力等により,絨毯が敷きつめられた,普通の独房より広い特別室(ただし週2シリング6ペンスの室料の支払いが必要)に入ることができた。机,椅子,ベット付。毎週3人だけ面会が許された。普通は午後8時消灯であるが,特別に午後10時消灯が許された。

・刑務所での日課:
 4時間の哲学に関する著述
 4時間の哲学関係の読書
 4時間の一般的読書

まあ、読書好きでないと、自由にしてよいと言われても大部分の人にとっては刑務所は退屈で苦痛だと想像されます。ラッセルにとっては、責任感から解放されてかなり快適だったそうです。(ただし、愛人=恋人のコレットが他に恋人をつくったことを聞いて嫉妬に苦しんだと告白しています。ラッセル『幸福論』の中の「嫉妬」の章は、その時の経験が役立っています。

ケインズさん、休息のつもりが余計に疲れることになり・・・

alys1895 1904年のある時、私が道もない広大な荒地(ムーア)の中の一軒家(小さなコテージ風の家)に住んでいた時のことであるが、彼(経済学者ケインズ,1883-1946)は手紙で私の家で週末の休息をとってもいいか尋ねて来た。私ははっきりとどうぞと返事したところ、彼は(週末を過ごすために)やってきた。(注;ケインズの生没年から考えると、ケインズはこの時21歳頃です。)
彼が着いて5分たつかたたないうちに、ケンブリッジ大学の副総長(松下注:英国の大学では、総長は名誉職であり、副総長が実際上の総長=学長にあたる。)が大学の仕事をいっぱいかかえてひょっこりやってきた。他の連中も何の連絡もなしに --日曜日に朝食にやってきた6人も含め-- 食事ごとにやって来た。月曜の朝までに、予期せぬ客の数は26人に達した。多分、ケインズは、私の家に来た時よりももっと疲れて帰って行ったと思われる

Once in the year 1904, when I was living in an isolated cottage in a vast moor without roads, he wrote and asked if I could promise him a restful weekend. I replied confidently in the affirmative, and he came. Within five minutes of his arrival the Vice Chancellor turned up full of University business. Other people came unexpectedly to every meal, including six to Sunday breakfast. By Monday morning we had had twenty-six unexpected guests, and Keynes, I fear, went away more tired than he came.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 3:Cambridge, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB13-280.HTM

[寸言]
russell-keynes-strachey ケインズは、1883年生まれなので、ラッセルから見れば11歳年下
「ラッセルとケインズとストレイチー(著名な文芸評論家)の3人が写っている写真」はとても有名でよく引用されています。ケインズもストレイチーも両性愛(バイ・セクシュアル)ということで有名ですが、この写真も影響しているためか、ラッセルも同じだと断定している人も散見されます。特にひどい決めつけは、慶応大学教授で文芸評論家の福田和也氏です。いかにひどい決めつけ誤解・曲解・下衆の勘繰り)であるかは、次のページに詳しく書いてありますので、興味のある方はお読みになってください。
http://365d-24h.jp/turezure_2011-2014.html#2014-05

ラッセルは,感情の上ではどうしても同性愛者に嫌悪感を持ってしまいそうであったようですが、理論の上ではどのような趣味・嗜好をもとうと尊重しないといけないという気持ちが強かったために、嫌悪感を言葉にあらわすことはなく、それどころか、そういった人たちを擁護する発言を何度もしています
しかし,愛人のオットリンに対しては、嫌悪感をもらしており、オットリンからたしなめられていました。その証言が記録されている、オットリン・モレルの非常に興味深い生涯については、『オットリン,ある貴婦人の破天荒な生涯』からの抜書で次のページで詳しく紹介していますので、興味のある方はお読みになってください。
https://russell-j.com/cool/kankei-bunken_shokai2013.html#br2013-3

不都合な真実?-トリニティ・コレッジにおけるスキャンダル

kingedwardvii 以上の3人(注:学寮長,副学寮長,下級学監)に次いで,(ケンブリッジ大学の)トリニティ・コレッジ(下のイラスト・マップ参照)における最重要人物は,守衛長であったが,彼は王族のような威厳をもった堂々とした風貌をしていたので,学部生からは将来のエドワード七世(注:Edward the 7th, 在位1901~1910/ラッセルが学部生の時は,皇太子であったため,「将来の」という形容詞がついていると思われる。右写真参照)の私生児だろうと想像されたほどであった。
私がフェローになった以後のある時,連続して5日間,極秘の評議会が開催されたことを私は知った。非常に困難ではあったが,私は,彼らの相談事がなんであったかがわかった。彼らはその守衛長が5人の寝室係(の女性)(松下注:コレッジにおける寮生のベッドメイキング役 --『トリニティ・コレッジ規則』(Statutes)により,彼女たちは’若くも美しくもなかった)  と不適切な(みだらな)関係を結んだという痛ましい事実を立証することに従事していた。

学部生として私は,トリニティ・コレッジ(学寮)の教師達は,大学には全く不要であると確信していた。彼らの講義は,何の役にもたたなかった。それゆえ私は,いずれ自分が講師になった時には,講義をすることが何かの役に立つものだとは思わないようにしようと自分自身に誓った。そして私はこの誓いを守った。

trinitycollege-mapNext to these three the most important person in the College was the Senior Porter, a magnificent figure of a man, with such royal dignity that he was supposed by undergraduates to be a natural son of the future Edward the Seventh. After I was a Fellow I found that on one occasion the Council met on five successive days with the utmost secrecy. With great difficulty I discovered what their business had been. They had been engaged in establishing the painful fact that the Senior Porter had had improper relations with five bedmakers, in spite of the fact that all of them, by Statute, were ‘nec juvenis, nec pulchra’.
As an undergraduate I was persuaded that the Dons were a wholly unnecessary part of the university. I derived no benefits from lectures, and I made a vow to myself that when in due course I became a lecturer I would not suppose that lecturing did any good. I have kept this vow.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 1, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB13-220.HTM

[寸言]
学生と問題を起こすといけないので,『トリニティ・コレッジ規則』では,寝室係(ベッド・メイキングや掃除をする担当者)の女性は若い女性や美人は雇用しないことになっているようですね。

因みに,’nec juvenis, nec pulchra‘ですが,英語の junior はラテン語 juvenis 「若い」の比較級で,junior 「より若い」に由来しており,ラテン語 juvenis を語源とする英語には,他に juvenile 「少年少女の,若い」があります。また,pulchra は,ラテン語で’美しい’の意。

「私には知的な孫は一人もいません」

lady-stanley 私(ラッセル)が12歳頃のある時,彼女(注:ラッセルの母方の祖母 Lady Stanley of Alderley)は私を部屋いっぱいの訪問客の前に立たせ,彼女が列挙した通俗科学の一連の本を読んだかどうかを私に質問した。私はそのうちの一冊も読んでいなかった。彼女は最後に嘆息をついた。そして来客の方を向いて言った。

私には知的な孫は一人もいません

彼女(祖母)は18世紀タイプの人であり,合理主義的で,想像力に乏しく,啓蒙(活動)に熱心で,ヴィクトリア朝時代の’善良ぶった口やかましさ’を軽蔑していた。彼女は(ケンブリッジ大学の)ガートン・コレッジ(Girton College)の創設に関係した主要人物の一人であり,彼女の肖像写真はガートン・ホールに掲げられているが,彼女の方針は彼女の死とともに顧みられなくなった。(松下注:因みに,ラッセルの2番目の妻ドーラは,ガートンを卒業している。)
girton-college_chapel
彼女はいつもこう言っていた

私が生きている限り,ガートンには決して礼拝堂を建てさせません。

現在の礼拝堂は,彼女が亡くなったその日に建設が始められた。
 (写真は Girton College のチャペル)

Once when I was about twelve years old, she had me before a roomful of visitors, and asked me whether I had read a whole string of books on popular science which she enumerated. I had read none of them. At the end she sighed, and turning to the visitors, said :
‘I have no intelligent grandchildren.’
She was an eighteenth-century type, rationalistic and unimaginative, keen on enlightenment, and contemptuous of Victorian goody-goody priggery. She was one of the principal people concerned in the foundation of Girton College, and her portrait hangs in Girton Hall, but her policies were abandoned at her death.
‘So long as I live’, she used to say, ‘there shall be no chapel at Girton.’
The present chapel began to be built the day she died.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 1, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB11-250.HTM

[寸言]
実権を握っている政治家や起業家の皆さん。気をつけてください。実権を失えばあっという間に人は去って行ってしまいます。

隠せば隠すほど知りたくなる/見たくなる - 祖母の浅知恵

いろんなことを私(幼少年期のラッセル)に知らせまいとする祖母の試みはめったに成功しなかった。その後少したって,チャールス・ディルク卿(1843-1911)のとてもスキャンダラスな離婚問題の渦中,祖母は私に知らせないように,毎日,新聞を焼くという予防対策をとったが,しかし私は,リッチモンド・パーク(下の地図参照)の門まで,祖母のために新聞をとりにゆく習慣があったので,新聞を祖母に渡すまでの間に,この離婚問題の記事を一語も残らず読んでしまった。私は一度彼と一緒に教会に行ったことがあるため,それだけこの離婚問題は私の興味をよりいっそう引くこととなり,彼が(教会で)モーゼの十戒の7番目(松下注:汝,姦淫することなかれ)を聞くときどんな感情を抱いただろうかと思案し続けた。
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Her attempts to prevent me from knowing things were seldom successful. At a somewhat later date, during Sir Charles Dilke’s very scandalous divorce case, she took the precaution of burning the newspapers every day, but I used to go to the Park gates to fetch them for her, and read every word of the divorce case before the papers reached her. The case interested me the more because I had once been to church with him, and I kept wondering what his feelings had been when he heard the Seventh Commandment.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 1, 1967]
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/AB11-190.HTM

[寸言]
日高一輝(氏)は, the Park を「ハイドパーク」と勝手に思い込み、「私は,祖母のために★ハイドパークの入り口まで新聞をとりにいくのがならわしであった。」と誤訳されている(理想社刊の『ラッセル自叙伝』第一巻)。
しかし, 、ラッセルが住んでいた Pembroke Lodge は ロンドン郊外にある Richmond Park の端にあり, the Park は「リッチモンド・パーク」のこと(上の地図参照。ラッセルの住んでいた Pembroke Lodge は左側の真ん中に楕円で囲んだところにある。)。ロンドン市内のハイドパークまで幼いラッセルが新聞を毎日とりにいくなどということはありえず,少し論理的に考えればすぐにわかるはず。

黄色(黄色い色)は見えても「黄色」という言葉を知らなければ・・・?

agatha アガサおばさんは,ペンブローク・ロッジ(注:ラッセルが18歳まで住んでいた祖父母の屋敷)に住んでいた大人のなかで一番若かった(写真はラッセルとアガサおばさん)。事実,彼女は私より19歳年上であるにすぎず,私が1876年2月,ラッセル3歳9ケ月の時に)ペンブローク・ロッジに(来たとき,彼女は22歳であった。(訳注:それだけ年寄りに囲まれて暮らしていたという wit) 私がペンブローク・ロッジに来た最初の数年,彼女は私を教育しようとして,さまざまの試みをしたが,大きな成果はあげられなかった。
彼女は色鮮やかなボールを3つ-赤色のもの1つ,黄色のもの1つ,青色のもの1つ-持っていた。彼女は赤色のボールを持ち上げ,「何色をしていますか?」と私によく聞いたものである。私は「黄色!」といつも答えた。すると彼女は,そのボールをカナリアのすぐ近くにもっていき,「このボール(の色)はカナリアと同じ色だと思いますか?」と言った。私は「いいえ」といつも答えたが,私はカナリアの色は黄色だということを知らなかったので,おばのこの方法もたいして役立たなかった。そのうち私も色(の概念)について理解するようになったにちがいないが,私は(当時)全く色のことはわからなかったということだけしか記憶に残っていない。

sponge-balls_red-blue-yellowMy Aunt Agatha was the youngest of the grown-up people at Pembroke Lodge. She was, in fact, only nineteen years older than I was, so when I came there she was twenty-two. During my first years at Pembroke Lodge, she made various attempts to educate me, but without much success. She had three brightly coloured balls, one red, one yellow, and one blue. She would hold up the red ball and say : ‘What colour is that ?’ and I would say, ‘Yellow’. She would then hold it against her canary and say : ‘Do you think that it is the same colour as the canary ?’ I would say, ‘No’, but as I did not know the canary was yellow it did not help much. I suppose I must have learned the colours in time, but I can only remember not knowing them.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.1, chap. 1, 1967]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB11-100.HTM

[寸言]
大人と子供とを同一視してはいけないことはわかっているはずなのに、いつの間にかその違いを無視して、大人の常識や発想法で子供に対応してっしまいしやすい。

人間(子供)の認知能力や知識や思考の発達は,発達心理学児童心理学の知識がないと勘違いしやすい。

自分も同じような発達段階を経てきたはずなのに、そのことを反省しようともしないで子供に接することは、(大人と子供の)お互いのために、よくないだけでなく、もったいない。

島国根性?

garapagos 島(国)に住む人々は,大陸に住んでいる人々からこれまでずっと悪口を言われ続けてきた。そして大陸の住民は多数派であるため,彼等(大陸の住民)は自分たちの言い分を,少数派である島国の住民よりもずっと効果的に世の中に受け入れさせてきた。人が住むところとしては,世界最小の島の一つであるシリー諸島への船旅からもどってきたばかりの私としては,島の住民一般に味方して,彼等がそれ以外のことでどのようであれ,彼らは決して世間普通に言われている意味での「島国的」ではない,と立証したい衝動に駆られる。・・。
アメリカ大陸の中央部においても,これと同様ことが生ずる。大部分のアメリカ人は,アメリカの流儀は唯一自然なやり方であり,また,アメリカの統治形態は唯一自然な統治形態であると考え,(従って)アメリカ社会における弊害は,人間本性にとって不可避なものである,と感じている。同じようなことは,多分,中国大陸の中央部や,その他広大で均一な大陸の中央部ではどこでも見られるものであるだろう。 それゆえ,「島国根性」は,島(国)の住人の特徴ではなく,逆に,広大な内陸諸国の住民の間で最も普通に見られる特徴であると思われる。

Men who live on islands have been much maligned by those who live on continents, and as the latter are the majority they have made their case heard more effectually than has been possible for the minority. Having just returned from an excursion to the Scillies, which are among the smallest inhabited islands in the world, I feel impelled to take up the cause of islanders in general and to argue that, whatever else they may be, they are not ‘insular’ in the ordinarily accepted meaning of the term. …
In the centre of the American continent the same sort of thing happens. The bulk of the population feels that American ways are the only natural ways, American forms of government the natural forms of government, and American abuses only such as human nature makes inevitable. The same sort of thing would be found in the centre of China or of any large homogeneous continental area. It would seem, therefore, that ‘insularity’, so far from being a characteristic of islanders, is, on the contrary, most often to be found among the inhabitants of vast inland countries.
出典: On insularity (written in Sept. 21, 1932 and pub. in Mortals and Others, v.1, 1975.)]
詳細情報:https://russell-j.com/INSULAR.HTM

[寸言]
ラッセルがこのエッセイを書いたのは1932年のことであり、現在では大陸の中部においても世界中の情報が行き渡るようになってきて、だいぶ状況が変わってきています。しかし、たとえば、米国中部に住んでいる人たちは比較的保守的であり、米国以外の各国についての知識は現在でも乏しい人が多いようです。中国(大陸)では国家(指導層)に都合が悪い情報は閲覧できないという制限があります。

photo10d 島国(の国民)には違った意味での視野の狭さがあります。世界は多様化しており、国家を構成する国民がいろいろな人種からなっている国が増えてきています。日本では、移民を規制し、原則として難民を受け入れない方針をとっていますので、人種間の争いがおこならいという有利な点があるとともに、難民に対する理解のなさはなげかわしい状況です。日本人だって、最初のころは、大陸や南の島々など、いろんなところからやってきて、長い時間をかけて混血し、今の日本人が形成されたという事実をいつの間にか(半分理解していながら)忘れてしまっています。
ヨーロッパ難民問題で悩んでおり、難民を制限する方向にいっていますが、よく考えてみれば、現在のヨーロッパの住民は、ゲルマン民族の大移動で他から移ってきた移民であり、難民であったはずです。たとえば、ゲルマン民族が大陸からやってくることによって、イギリス(England地区)に当時住んでいた人がウェールズに(難民としてい)追いやられています。従って、ウェールズでは今でも「Brits out!」(添付写真参照 1972年8月松下撮影)といった落書きが散見されます。

北朝鮮だけでなく、日本の国会でも(自民党議員総立ちで安倍総理に拍手)

abe_susitomo01 高等動物は全て,喜びを表現する方法を持っている。しかし,喜びを実際に感じない時に,喜び表わすのは,人間のみである。これは「礼儀(politeness)」と呼ばれ,徳目の一つに数えられている。乳幼児の(人を)当惑させる特性の一つは,彼等は本当に喜びを感じた時だけ笑うという事実である。乳幼児は,来客を真剣なまなざしで(目を見開いて)みつめ,相手があやそうとすると,大人の愚かな滑稽な動作(仕草)に対し怪訝な表情を表す。しかし彼らの両親は,即座に乳幼児に,彼とはまったく無関係で無関心な人々が出現しても嬉しいような表情をするように教えこむ

All the higher animals have methods of expressing pleasure, but human beings alone express pleasure when they do not feel it. This is called politeness and is reckoned among the virtues. One of the most disconcerting things about infants is that they only smile when they are pleased. They stare at visitors with round grave eyes, and when the visitors try to amuse them, they display astonishment at the foolish antics of adults. But as soon as possible, their parents teach them to seem pleased by the company of people to whom they are utterly indifferent.
出典: On smiling (written in Aug. 17, 1932 and pub. in Mortals and Others, v.1, 1975.)]
詳細情報:https://russell-j.com/SMILING.HTM

[寸言]
abe_20160926-yorokobigumi 一昨日(9月26火)の国会における安倍総理の所信表明演説に対し、自民党議員が総立ちで拍手をしている姿は異様でした。まるで北朝鮮の金正恩主席に対するへつらいの拍手のように感じた人は少なくないのではないでしょうか? 小泉進次郎も立ち上がって拍手しないだろうと思いましたが、ニュースによれば、周囲につられてつい立ち上がってしまったと反省の弁を述べていました。

米国での議会でも議員総立ちの拍手が時々あり、日本でもそのような場面を私の演説の時につくってみたいと夢想する。そのご主人様の気持ちを忖度して、自民党議員の20~30人くらいに、演説のよいタイミングでたちあがって大きな拍手をするように依頼する。人は近くの力をもっている者が立って大きな拍手をすれば釣られる人間がけっこういるものである。そういった人間がどんどん増えていけば、それに抵抗できる人は少ない。そうして、目立たくも(北朝鮮の)「喜び組」のような態度を多くの自民党議員がするようなことになってしまった。

abe_yarase_sodachi-hakusyu そのような拍手が起こり始めると、安倍総理は少し演説をとめ、周囲を見渡す。すると、その視線を感じた議員諸君は、立って拍手をしていないところを安倍総理がみたら、自分は委員会の議長や大臣など、自分のつきたい役職を与えてくれないかも知れないという思いが一瞬よぎり、立ち上がって拍手することになる。アベチルドレンはもちろん早い時期から立ち上がって拍手する。めでたし、めでたし?(ここは想像で書きましたが、添付写真のように「台本」がありました!!)

「価値情緒説」に立つがそれで満足しているわけではない

tp-hsep 私は,倫理(道徳原理)は情熱に由来するという原理,及び,情熱から出発して何がなされるべきかということ(当為)に到達する論理的に妥当な方法はまったく存在しないという原理を自分の基本的な考え方(基本思想)として採用した。私は,デイヴィッド・ヒューム(David Hume, 1711-1776)の格言「理性は情熱の奴隷であり,またただそうあるべきである」を採用した。私はこれで満足しているわけではないが,採用することができるとすればこれが最善である。批評家たちは,私がまったく合理主義的であるといって私を責めたがるが,少なくともこの格言に私が同感していることをみれば,私が完全に合理主義的であるわけではないことの証拠となるだろう。様々な情熱の間の実際的な区別は,その情熱の結果(成功あるいは失敗)に関して生ずる。ある感情は欲求していることがらにおいて成功に導き,他の感情は失敗に導く。もし前者を追求すれば幸福になり,後者を追求すれば不幸になるだろう。おおざっぱに言えば,それが一般原則であろう。

「義務」,「自已否定」,「当為」(・・・すべし)などの高尚な概念の探求の結果としては,これは貧弱かつ卑俗だと思われるかもしれない。しかし私は,ある一点を除けば,それが正当な結果の全てであると確信している。その例外の一点とは,自分自身の不幸という代償において広く一般に幸福をもたらす人々は,他人に不幸をもたらして自分にだけ幸福を求める人々よりも善人である,と我々は感じるということである。(しかし)こういった見方を支持する合理的な根拠を私はまったく知らない(見つけていない)。あるいは,多分,何であれ多数の人々の求めるものは少数の人々が求めるものよりも好ましいという見解の方が幾らかより理屈にかなった見方であるが,そういった見方に対する合理的な根拠さえ,私はまったく知らない。これらはまったく倫理的な問題であるが,それらの問題が,政治や戦争以外のいかなる方法で解決し得るのか,私にはまったくわからない。この問題について私が言えることは,倫理的な意見は,ただ倫理学上の公理(注:それ以上証明できない命題)によってのみ擁護することができるということだけである。しかし,もしその公理が容認できないものとすれば,もはや合理的な結論に到達する方法はまったくない。(松下注:いわゆる emotive theory of value 価値情緒説/ラッセルは倫理の問題はあくまで知識論の対象にならず,論理的に導きださるものではないと考える。)

(ただ)ある程度根拠をもつ倫理的結論に到達するためのほぼ合理的と思われる方法がある。それは,両立可能性の説(原則)と名づけてもよいだろう。すなわち次のような原則である。人が,自分が持っていると気づいている欲望の中には種々のグループがあり,いずれも,’同時に満たされることのできる欲望’から成り立っているグループと,’互いに反発しあう欲望’でなりたっているグループがある。たとえば,あなたがたが民主党の熱心な支持者であるのにたまたまその民主党の大統領候補は嫌いだということがあり得る。そのような場合,党を愛するということと,その個人は嫌いだということとは,両立可能ではないのである。あるいはまたある人間は嫌いだがその息子は愛しているという場合もあるかもしれない。そのような場合,もし彼らがいつも一緒に旅行しているとすると,あなたがたは,彼らを親子一対の組み合わせは両立可能とは考えないであろう。政治の手腕は,できるだけ多数の両立可能な人々の集団をきわめて沢山発見しうるということに存する。幸福になりたいと望む人間は,できるだけ大きな集団の共存可能な欲望を’自分の人生の支配者’にしようと努力することであろう。けれども理論的な観点から見れば,その様な信条はすこしも’究極の解決’にはならない。幸福であるということは幸福でないということよりもいいことだと想定している。これは別に(論理的に)立証することのできない倫理上の原則(原理)である。そうした理由から私は,両立可能性を倫理学の基盤(支えとなるもの)とは考えなかったのである。

I adopted as my guiding thought the principle that ethics is derived from passions and that there is no valid method of travelling from passion to what ought to be done. I adopted David Hume’s maxim that ‘Reason is, and ought only to be, the slave of the passions’. I am not satisfied with this, but it is the best that I can do. Critics are fond of charging me with being wholly rational and this, at least, proves that I am not entirely so: The practical distinction among passions comes as regards their success: some passions lead to success in what is desired; others, to failure. If you pursue the former, you will be happy; if the latter, unhappy. Such, at least, will be the broad general rule. This may seem a poor and tawdry result of researches into such sublime concepts as ‘duty’, ‘self-denial’, ‘ought’, and so forth, but I am persuaded that it is the total of the valid outcome, except in one particular: we feel that the man who brings widespread happiness at the expense of misery to himself is a better man than the man who brings unhappiness to others and happiness to himself. I do not know any rational ground for this view, or perhaps, for the somewhat more rational view that whatever the majority desires is preferable to what the minority desires . These are truly ethical problems, but I do not know of any way in which they can be solved except by politics or war. All that I can find to say on this subject is that an ethical opinion can only be defended by an ethical axiom, but, if the axiom is not accepted, there is no way of reaching a rational conclusion. There is one approximately rational approach to ethical conclusions which has a certain validity. It may be called the doctrine of compossibility. This doctlrne is as follows: among the desires that a man finds himself to possess, there are various groups, each consisting of desires which may be gratified together and others which conflict. You may, for example, be a passionate adherent of the Democratic Party, but it may happen that you hate the presidential candidate. In that case, your love of the Party and your dislike of the individual are not compossible. Or you may hate a man and love his son. In that case, if they always travel about together, you will find them, as a pair, not compossible. The art of politics consists very largely in finding as numerous a group of compossible people as you can. The man who wishes to be happy will endeavour to make as large groups as he can of compossible desires the rulers of his life. Viewed theoretically, such a doctrine affords no ultimate solution. It assumes that happiness is better than unhappiness. This is an ethical principle incapable of proof. For that reason. I did not consider compossibility a basis for ethics.
出典: The Autobiography of Bertrand Russell, v.3 chap. 1: Return to England, 1969]
詳細情報:https://russell-j.com/beginner/AB31-260.HTM

[寸言]
「倫理学」は客観的な科学としてはたして成立するかどうか? 数学や論理学や物理学などは,科学的かつ合理的な説明によって大部分の人が納得する結論を得ることができる。しかし,倫理学はそのような学問にはなりえない。人間がこの地球上で繁栄したほうがよいかどうかなど、自然科学的な、人間以外の(どこかの天体にいる/いるかも知れない)高等生命も同意するような厳密な学問になりえないであろう。

ラッセルは,価値情緒説に立つ。即ち,「(倫理(道徳原理)は情熱に由来するという原理,及び,情熱から出発して何がなされるべきかということ(当為)に到達する論理的に妥当な方法はまったく存在しないという原理」を出発点にしている。科学的に証明はできないとしても,人間の一員である以上、「人間の生命は尊い」とか「人類の繁栄は善である」とかいった基本原理を設定しなければ、倫理学は先に進むことはできないからである。しかし、ラッセルは、(他に納得できる原理がないので)その基本原理を不承不承受け入れているのであり、満足しているわけではない。

これに対し、価値情緒説にたてば、「一人ひとりの人権を重視する理論」は「国家や公共のためには国民の命は二の次にしてもよいというような理論」よりもすぐれていることを、理論的に説明できなってしまうと、ラッセルは非難される。
そこで、ラッセルは価値情緒説にたった上で、倫理の諸問題について、いかにして多くの人が納得できる説明ができるか、本書(『倫理と政治における人間社会』)において、自分(ラッセ)ルの考え方を体系的に紹介していく。

2022年はラッセル生誕150年