第18章 権力を手懐けること, n.37

【ラッセル『権力』(1938年)の最後のところです。長いので英文は省略します。英文を見たい方は次のページにあります。https://russell-j.com/beginner/POWER18_370.HTM

(以上の)フィヒテが言っていることの全ては,自由主義教育家が達成したいと望んでいることの正反対のもの(アンチテーゼ)を表わしていると取ってよいであろう(注:みすず書房版の東宮訳では「liberal educator」を「紳士養成の教育者」と訳している。財務省の大田理財局長ではないが「それは何でも,それは何でも・・・」と言いたいところ。liberal arts の教育を想像してのことあろうが,東工大の英語・英文学の教師をしていた東宮氏が・・・!?)。,自由主義教育者は,「(フィヒテが主張するように)意志の自由を絶滅させる」どころか,個人の判断(力)を強固なものにすることを目指す。彼は,知識の追求に向かう科学的態度について可能なことを(全て)教え込む(instil)であろう。彼は信念を暫定的なものかつ証拠に応じて変わりうるものとするであろう。彼は,生徒の前で博識(何でも知っている)のポーズをとらず(pose 自動詞),何らかの絶対的な善を追求をしているようなふりをして,権力愛に屈する(yeild to 従う/服従する)ようなことはしないであろう。権力愛は,政治家にとってと同じく,教育者にとって一番大きな危険である。教育において信頼できる人は,生徒自身のために(自分の)生徒に関心を持つべき(care for大事にすべき)であって,単に将来におけるある大義のための多数の宣伝掛りとして,関心を持つようではいけない。フィヒテ及びフィヒテの理想を受け継いだ権力者たちは,子供を見る場合,次のように考える。 「ここに私が操ることのできる材料がある。私は自分の目的を推進する機械のように行動せよと教えこむことができる(材料だ)。しばらくの間,人生の喜びや,自発性や,遊びたい衝動や,外側から強いられたのではなく内側から湧いてくる目的のために生きたいいう欲求によって邪魔されるかも知れない。しかし,こういったものは全て,私が強いる数年の学校教育(schooling)を受けた後は死んでしまうであろう。幻想,想像,芸術及び思考力は,服従によって破壊されてしまうであろう。(また)喜びが死に絶えれば,狂信主義に対する受容性(受容する傾向)を育むであろう。そして,最後には,私の材料としての人間たちは,採石場(quarry 石切場)からとってきた石や鉱山から採掘した石炭同様に,受動的なものになるであろう。彼ら(生徒)を導く戦場において,死ぬ者もあり,生き続ける者もあろう。死ぬものは勝ち誇って(注:die exultantly 戦場で万歳を叫んで)英雄のように死ぬであろうし,生き続ける者は,私の学校が彼らに慣れさせたあの深い精神的奴隷状態で,私の奴隷として生き続けるであろう。」  このようなことは全て,若者に対して自然な愛情を抱いている人々にとっては,身の毛のよだつことである。我々が子供たちにできるなら自動車によって殺さるのを避けるように教えるのと同様に,我々はまた子供たちが残酷な狂信主義者たちによって殺されないように教えるべきであり,この目的を達成するために,精神の独立 -それはいくらか懐疑的であると同時に全く科学的なものー を生み出そうと(努力)すべきであり,健康な子供にとって自然である,生きることの本能的な喜びをできるかぎり保持するように(努力)すべきである。これこそ自由主義教育の任務(務め)である。(即ち,)支配以外のものに価値があるという感覚を(生徒に)与えること,自由な社会の賢明な市民を創り出す助けになること,また,市民たることと個人の創造性における自由とを結びあわせることを通して,人生に(かつて)少数の者がそれが成就しうることを示したあの輝きを添えるようにさせることが(自由主義教育の)任務である。(完/終わり)

第18章 権力を手懐けること n.36

 これは自由主義的なものの見方と全体主義的なものの見方との間にある本質的な相違であり,前者(自由主義の世界観)は国家の福祉は究極的には個人の福祉(幸福)にあると見なす一方,後者(全体主義の世界観)は国家を目的と見なすとともに個人を単に欠くべからざる国家の成分と見なし,個人の福祉(幸福)は神秘主義的な全体(性) -それは支配者たちの利益を覆いかくすものであるが- に従属しなければならないと考える。古代ローマには国家崇拝の教義がいくらかあったが,しかし,キリスト教は(代々の)皇帝と戦い,ついには勝利を納めた。自由主義は,個人の価値を評価する際に,キリスト教の伝統を引き継いでいる。(また)自由主義の敵は,ある種のキリスト教以前の教義を復活しつつある。当初から国家崇拝者は,教育を成功するための鍵と考えてきた。このことは,たとえば,フィヒテ(注:国家主義者として有名)の『ドイツ国民に告ぐ』のなかに現れており,この本のなかで教育(の問題)を詳細に取り扱っている。フィヒテの望んでいるものは,次の一節に記載されている。 「誰かが次のように言ったする。『生徒に正しいことを示し,強くそれを勧めること以上のものを,誰がどのようにして教育に要求できるであろうか? 生徒がその勧めに従うか否かは生徒自身の問題である。もし生徒がこれに従わないとすれば,それは生徒自身の責任(fault)である。(また)生徒には自由意志があり,教育によってそれをとりさることはまったくできない。』 私(=フィヒテ)が熟考する教育についてより明確にその特徴を述べるために、私は次のように答えよう。即ち,まさに生徒の自由意志を認めること及び自由意志を頼りにすることの中に,今日までの(hither to)教育の第一の誤りがあるのであり,教育の無能と空虚についての明白な認識がある(lie 存在している/横たわっている)のである。というのは,教育がその最も強力な働きを及ぼすにもかかわらず,意志は依然として自由である,つまり意志は善悪の間を優柔不断に揺れ動いていることを認める以上,教育には,意志を形成する力がないことを,あるいは、意志が人間の不可欠の根元であることからいえば人間そのものを形づくる力もなければ望みもないということを認めることになる。また教育にはそのようなことは全く不可能だと認めることになる。これに反し,新しい教育は,自己(教育)の扱おうとする領域に関しては,意志の自由を絶滅させるということになければならないであろう。」  フィヒテが「善良な」人間を創り出したいと望む理由(根拠)は,善人がそれ自体として「悪人」よりもよいということではない。フィヒテの理由(根拠)は,そのような「善良な」人間があって初めてドイツ国家は持続することができるが,悪人を通しては(through によっては),ドイツ国家は必然的に外国と妥協することになるだろうということである。

Chapter 18: The taming of Power, n.36
 Ⅳ
This is the essential difference between the liberal outlook and that of the totalitarian State, that the former regards the welfare of the State as residing ultimately in the welfare of the individual, while the latter regards the State as the end and individuals merely as indispensable ingredients, whose welfare must be subordinated to a mystical totality which is a cloak for the interest of the rulers. Ancient Rome had something of the doctrine of State-worship, but Christianity fought the Emperors and ultimately won. Liberalism, in valuing the individual, is carrying on the Christian tradition; its opponents are reviving certain pre-Christian doctrines. From the first, the idolators of the State have regarded education as the key to success. This appears, for example, in Fichte’s Addresses to the German Nation, which deal at length with education. What Fichte desires is set forth in the following passage: ‘If any one were to say: “how could any one demand more of an education than that it should show the pupil the right and strongly recommend it to him; whether he follows these recommendations is his own affair, and if he does not do it, his own fault; he has free will, which no education can take from him” : I should answer, in order to characterize more sharply the education I contemplate, that just in this recognition of and counting on the free will of the pupil lies the first error of education hither to and the distinct acknowledgment of its impotence and emptiness. For inasmuch as it admits that, after all its strongest operation, the will remains free, that is oscillating undecidedly between good and bad, it admits that it neither can nor wishes to mould the will, or, since will is the essential root of man, man himself; and that it holds this to be altogether impossible. The new education, on the contrary, would have to consist in a complete annihilation of the freedom of the will in the territory that it undertook to deal with.’ His reason for desiring to create ‘good’ men is not that they are in themselves better than ‘bad’ men; his reason is that ‘only in such ‘good men’ – the German nation persist, but through bad men it will necessarily coalesce with foreign countries.’
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER18_360.HTM

第18章 権力を手懐けること n.35

 けれども,私は純粋に消極的な(否定的な))情緒的態度(をとること))を説きたい(preach 伝導する)とは望んでいない。(即ち)私は強い感情(emotions (複数形の場合) 喜怒哀楽の感情)は(よくないので)全て打ち壊すような分析(注:desctructive analysis 建設的な意図のない破壊主義的な分析)にさらすべきだ,と示唆しているわけではない。私はただこのような態度を集団ヒステリーの基礎(土台)となる(種々の)感情との関係においてのみ主張している(擁護している)のである。というのは,戦争や独裁制を助長(促進)するのは集団ヒステリーだからである。しかし,知恵は「単に」知的なものであるだけではない。(つまり,)知性は,行動(行為)に導く力(強制力)を導き,指示するかもしれないが,しかし,(その力を)生み出すことはない(注:みすず書房版の東宮訳では、「知性は指針となり指導役となるかもしれないが,しかし,行動に導く力(強制力)を生み出さない(Intellect may guide and direct, but does not generate the force that leads to action)」と guide と direct を自動詞であるかのように訳している。しかし,自動詞はなく他動詞であることから,目的語があるはずである。即ち,目的語である “the force (that leads to action)”を明示的に約すべきであろう)。その力は(喜怒哀楽の)感情から出てくるものであるに違いない。望ましい社会的な結果をもたらすような感情は,憎悪や激怒や恐怖のような感情ほどに,そう簡単に生み出されるものではない(注:憎悪や激怒や恐怖といった感情を生み出すのは容易だということ)。そういった感情を創造するにあたっては,多くのことが(人間の)幼児期に依存している(かかっている)。経済的な状況もまた大いに依存している。けれども,通常の教育課程において(も),より良い(喜怒哀楽の)感情を育むことができる養分を供給し,そうして人生を価値あるものにしてくれるものの実現をもたらす,何らかの物事を行うことが可能である。  これは(このことは),過去においては,宗教の目的の一つであった。けれども,(カトリック)教会には他にもまた種々の目的があったし,それらの目的の独断的な基礎(土台)は種々の困難(な問題)の原因となっている(独断的な基礎から困難がもたらされている)。伝統的な宗教をもはや信ずることのできなくなっている人々に対しては,(宗教以外の)他の方法が(いろいろ)ある。自分に必要なものを音楽に見出すものもいるし,詩に見出す者もいる。それ以外に、天文学が同様の目的として役立っている人たちもいる。われわれが宇宙(この世 universe ではなく,星宇宙 stellar universe)の規模(の大きさ)や(人間にとってとてつもない)古さを静かに思う時(沈思黙考する時),[★このどちらかというとあまり重要でない惑星(注:地球)についてのいろいろな論争(controversies 長談義)はその重要性はいくらか失われ,論争(disputes 口論)の激しさはばかばかしいつまらないことに思われる,また,我々は,そうした消極的な(否定的な)情緒から自由になると(解放されると)★],音楽や詩を通して,歴史や科学を通して,美あるいは苦痛を通して,人間にとって真に価値があるものは(社会的なものではなく)個人的なものであって、戦場や政治の衝突や外部から押し付けられた目標に向かう人間集団の連隊行進において起こるようなものではない,ということをより十全に理解することができるのである。(注:みすず書房版の東宮訳では,どういうわけか,[★~★]で囲まれた部分が訳出されていない)。 社会の組織化された生活は必要であるが,それはメカニズム(機構)として必要なのであって,それ自体が価値あるものとしてではない。人生において最も価値あるものは,偉大なる宗教家たちが語ってきたものにより似ている。全体主義国家」(注:corporate state 法人国家;経済の大部分を政府が統制管理する国家のこと)を信ずる人々は,我々の最高の活動は集団的なものであると主張するが,私としては,我々は各自異なった方法で最上のものに到達するし,また,群衆の情緒的な統一はより低い水準でのみ達成できる(レベルを下げないと達成できない)ということを主張したい。

Chapter 18: The taming of Power, n.35  Ⅳ I do not wish, however, to preach a purely negative emotional attitude; I am not suggesting that all strong feeling should be subjected to destructive analysis. I am advocating this attitude only in relation to those emotions which are the basis of collective hysteria, for it is collective hysteria that facilitates wars and dictatorships. But wisdom is not merely intellectual: intellect may guide and direct, but does not generate the force that leads to action. The force must be derived from the emotions. Emotions that have desirable social consequences are not so easily generated as hate and rage and fear. In their creation, much depends upon early childhood; much, also, upon economic circumstances. Something, however, can be done, in the course of ordinary education, to provide the nourishment upon which the better emotions can grow, and to bring about the realization of what may give value to human life. This has been, in the past, one of the purposes of religion. The Churches, however, have also had other purposes, and their dogmatic basis causes difficulties. For those to whom traditional religion is no longer possible, there are other ways. Some find what they need in music, some in poetry. For some others, astronomy serves the same purpose. When we reflect upon the size and antiquity of the stellar universe, the controversies on this rather insignificant planet lose some of their importance, and the acerbity of our disputes seems a trifle ridiculous. And when we are liberated by this negative emotion, we are able to realize more fully, through music or poetry, through history or science, through beauty or through pain, that the really valuable things in human life are individual, not such things as happen on a battlefield or in the clash of politics or in the regimented march of masses of men towards an externally imposed goal. The organized life of the community is necessary, but it is necessary as mechanism, not something to be valued on its own account. What is of most value in human life is more analogous to what all the great religious teachers have spoken of. Those who believe in the Corporate State maintain that our highest activities are collective, whereas I should maintain that we all reach our best in different ways, and that the emotional unity of a crowd can only be achieved on a lower level.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER18_350.HTM

第18章 権力を手懐けること, n.34

 歴史の授業も同様の精神で行われなければならない。過去には,偉大な知恵を持った者であるかのような風貌で(外見によって),今日では誰も保持していない(ような)地位を守った著名な雄弁家や著作家が存在していた。(たとえば)魔術の真実性(魔術は本当/実際に存在していること)や奴隷制度の恩恵とかいったもの(について雄弁をふるった者や執筆した者)である。私は,そういった雄弁の達人を知らせ,そうして彼らの修辞とともに彼らの頑迷さを十分味わせてあげたい(認識させたい)。私は徐々に時事問題へと進ませたい。歴史(の授業を面白くするため)の一種のごちそう(bonne bouche ボンヌブーシュ)として,私はスペインの話(あるいは,その時最も論争になっているものならば何でもよい)を,最初は「デイリー・メイル」紙を読み,次に「デイリー・ワーカー」紙を読んで聞かせたい。そうして,その次に,実際にスペインで起こったこと推論するように求めたい。というのは,民主主義国の市民にとって,(いろいろな)新聞を読んで,実際に起こったとが何であるかを探索する技術(技能)以上に有益なものはほとんどない,というのは疑いないことであるからである。この目的ためには,第一次大戦中の危機的時期における新聞(の記事)と,その後になって正史(注:official history 主に国家によって公式に編纂された歴史)に記述されていることとを比較することは,教育的(為になる)であろう。そうして,戦時ヒステリーの狂気が -当時の新聞に示されているように- あなた(=教師)の生徒の心を打つ時に(苦しみを与えた時に),生徒たちがバランスのとれた,また非常に用心深い判断(力)を養うように気をつけないと,君たち全員が,政府が恐怖と血に対する渇きをちょっと焚きつけただけで,一夜にして,当時(第一次大戦時)と同じような狂気に陥る可能性があるということを,あなたは警告してあげるべきである。

Chapter 18: The taming of Power, n.34 IV The teaching of history ought to be conducted in a similar spirit. There have been in the past eminent orators and writers who defended, with an appearance of great wisdom, positions which no one now holds: the reality of witchcraft, the beneficence of slavery, and so on. I should cause the young to know such masters of eloquence, and to appreciate at once their rhetoric and their wrong-headedness. Gradually I should pass on to current questions. As a sort of bonne bouche to their history, I should read to them what is said about Spain (or whatever at the moment is most controversial) first by the Daily Mail, and then by the Daily Worker; and I should then ask them to infer what really happened. For undoubtedly few things are more useful to a citizen of a democracy than skill in detecting, by reading newspapers, what it was that took place. For this purpose, it would be instructive to compare the newspapers at crucial moments during the Great War with what subsequently appeared in the official history. And when the madness of war hysteria, as shown in the newspapers of the time, strikes your pupils as incredible, you should warn them that all of them, unless they are very careful to cultivate a balanced and cautious judgment, may fall overnight into a similar madness at the first touch of government incitement to terror and blood lust.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER18_340.HTM

第18章 権力を手懐けること, n.33 

 もし仮に私が教育を統制管理しているとしたら,私は子供たち(生徒児童)を,あらゆる時事問題について,あらゆる立場の,最も熱心かつ最も雄弁に擁護(主張)する人々 に触れさせ(expose to ~にさらし),その人たちにBBC(英国放送協会)から学校に向けて話をさせたい(放送させたい)。教師は,その後で(生徒に放送を聞かせた後,生徒に,そこで使われている論拠(arguments)を要約させ,雄弁(であること)は明確な理由(があること)とは逆此例するという見方(見解)を穏やかにほのめかすべきであろう(注:明確な理由や根拠があることについては雄弁は必要ないということ)。雄弁に対する免疫を獲得することは,民主政治(a democracy 民主主義国)の市民にとって最も重要なことである。  現代の宣伝家たちは広告業者(advertiser )から学んできており,広告業者は非合理的な信念を生みだす技術において先頭に立ってきた。教育は,教育のない人々の生来の信じやすさ(軽信性)及び生来の疑い深さを中和するように意図されるべきである。(即ち)理由(根拠)なしに強く主張されることを信じる習慣と,最上の理由が伴っている時でさえ弱々しく言われたことは信じようとしない習慣を中和するように意図されなければならない。私ならば,まず幼稚園では,二種類のお菓子を幼児に与えて選ばせることから始めるであろう。一方はとても美味なものを,そのお菓子の成分について冷静かつ正確な説明をつけて勧め,もう一方はとても食べにくいものを最良の広告主の最上級の宣伝技術を使ってこれを勧める(こととする)。しばらくしてから,彼らに国の祭日に行くべき場所を二つ与えて選択させたい。良い場所の方は,等高線地図(込み入った地図)で薦め,良くない方の場所は,立派なポスターで薦めたい。

Chapter 18: The taming of Power, n.33 IV If I had control of education, I should expose children to the most vehement and eloquent advocates on all sides of every topical question, who should speak to the schools from the BBC. The teacher should afterwards invite the children to summarize the arguments used, and should gently insinuate the view that eloquence is inversely proportional to solid reason. To acquire immunity to eloquence is of the utmost importance to the citizens of a democracy. Modern propagandists have learnt from advertisers, who led the way in the technique of producing irrational belief. Education should be designed to counteract the natural credulity and the natural incredulity of the uneducated : the habit of believing an emphatic statement without reasons, and of disbelieving an unemphatic statement even when accompanied by the best of reasons. I should begin in the infant school, with two classes of sweets between which the children should choose: one very nice, recommended by a coldly accurate statement as to its ingredients ; the other very nasty, recommended by the utmost skill of the best advertisers. A little later I should give them a choice of two places for a country holiday: a nice place recommended by a contour map, and an ugly place recommended by magnificent posters.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER18_330.HTM

第18章 権力を手懐けること, n.32

 実生活において民主主義を成功に導くのに必要な気質は,知的生活において(必要な)科学的な気質とまさに同じである。それは懐疑主義と独断主義の折衷案(注:a half-way house :2つのものの中間にある宿屋;刑務所・精神病院などから出たあとの更生訓練施設;折衷案,中間形態)のようなものである。真理は完全に到達可能なものでもないし、完全に到達不可能なものでもない,と折衷案は考える。(即ち)真理はある程度まで到達可能であるが、苦労して初めて到達しうるものである。  独裁制は -近代の形態においては- 常に信条と結びついている。(たとえば)ヒトラーの信条、ムッソリーニの信条、あるいはスターリンの信条である。独裁制が存在しているところでは、若者はまだ自分で考えられるようになる前に、ひとそろいの信念が精神に注入され、また、これらの信念は生徒たちが後に(成人した後に)早期の教訓(授業)の催眠効果から決して逃れることができないであろうことが期待されるように(期待できるように),絶えず執拗に教えられるのである。こうした信念は、その信念が真実だと想えるような理由を与えることによってではなく、オウムのような繰返しや集団ヒステリーや集団的な暗示によって注入されるのである。こういうやり方で、二つの相反する信条が教え込まれ続けると、それらの信条は、議論を行う二つの政党ではなく、衝突する二つの軍隊を生み出す。催眠をかけられたどちらの自動人形(ロボット化した人間)も、最も神聖なものは全て味方側(自分たちの側)の勝利と密接に結びついており、最も恐るべきものは全て敵側(反対側)の勝利によって例証されると感じる。そういった狂信的な党派の者たちは、議会に集まって「どちらの側が多数派を占めるか(競い合って)やってみよう」というようなわけにはいかない。このようなことは全くあまりにも平凡なことに見えるであろう。なぜなら、どちらの側もそれぞれ聖なる大義名分を代表しているからである。こういった独断主義は、もし独裁政治は避けられなければならないとすれば、予防されなければならず、またこれを防ぐ方策(措置)は,教育の不可欠の部分を形作らなければならない(不可欠な部分にならなければならない)。

Chapter 18: The taming of Power, n.32

The temper required to make a success of democracy is, in the practical life, exactly what the scientific temper is in the intellectual life; it is a half-way house between scepticism and dogmatism. Truth, it holds, is neither completely attainable nor completely unattainable; it is attainable to a certain degree, and that only with difficulty. Autocracy, in its modern forms, is always combined with a creed: that of Hitler, that of Mussolini, or that of Stalin. Wherever there is autocracy, a set of beliefs is instilled into the minds of the young before they are capable of thinking, and these beliefs are taught so constantly and so persistently that it is hoped the pupils will never afterwards be able to escape from the hypnotic effect of their early lessons. The beliefs are instilled, not by giving any reason for supposing them true, but by parrot-like repetition, by mass hysteria and mass suggestion. When two opposite creeds have been taught in this fashion, they produce two amies which clash, not two parties that can discuss. Each hypnotized automaton feels that everything most sacred is bound up with the victory of his side, everything most horrible exemplified by the other side. Such fanatical factions cannot meet in Parliament and say ‘let us see which side has the majority’ ; that would be altogether too pedestrian, since each side stands for a sacred cause. This sort of dogmatism must be prevented if dictatorships are to be avoided, and measures for preventing it ought to form an essential part of education.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER18_320.HTM

第18章 権力を手懐けること, n.31

 民主主義体制下における男女は、奴隷でも反逆者でもあってはならず、一市民、即ち、統治(政治)に対する態度(governmental mentality)を正当な割合だけその分だけ(自ら)持ちまた他の人々も持つことを認める(ような)人間でなくてはならない。民主主義が存在しない場合には,統治に対する態度は、従属者に対する支配者の態度になる。しかし,民主主義が存在する場合には、それは対等な協力の精神であり、自分自身の意見をある点までは主張するがそれ以上は主張しない,ということを意味する。  これは,多くの民主主義者に対するトラブルのもと(a source of trouble やっかいなことを生じさせる原因/種)を(我々に)もたらす。いわゆる「原理原則」の問題である。原理原則や自己犠牲や大義名分に対する英雄的献身等々に関する大部分の話(おしゃべり)は、いくらか懐疑的によく調べてみるべきである。少し精神分析をしてみればしばしばわかることであるが、こういった美名によって進むものは、実際は,たとえば自負心や憎悪や復讐心というようなまったく異なったものであり、それらは理想主義の気高い形態として,理想化され、共有化され(collectivized 集団化され)、人格化されてきたものである。好戦的な愛国者は -祖国のために進んで戦おうとする(あるいは)戦いたくてしかたがない者であり- 殺人に一定の喜びを持っている(のではないか)と疑われるのももっともである。思いやりのある人々や、子供の頃に親切を受け,幸福に暮してきた人々や、若い時に世の中(世間/世界)を友好的な場所だと考えてきた人々は、愛国心や階級闘争等々と呼ばれるような,大量に殺人を行うために人々を結合すること(joining together)で成り立っている特殊な理想主義を展開しないであろう。残酷な形態の理想主義に向う傾向は、幼年時代における不幸によって増大されるものであり、幼少の頃の教育が情緒においてそのあるべき姿であったのであれば、軽減されるだろう、と私は考える。狂信主義は、一部は情緒的な欠陥であり,一部は知的な欠陥である。狂信主義は、人々を親切にするような種類の幸福と科学的な精神の習慣を生みだす種類の知性とによって除去しようと努力が行われる必要がある。

Chapter 18: The taming of Power, n.31 IV Every man and woman in a democracy should be neither a slave nor a rebel, but a citizen, that is, a person who has, and allows to others, a due proportion, but no more, of the governmental mentality. Where democracy does not exist, the governmental mentality is that of masters towards dependents; but where there is democracy it is that of equal co-operation, which involves the assertion of one’s own opinion up to a certain point, but no further. This brings us to a source of trouble to many democrats, namely what is called ‘principle’. Most talk about principle, Self-sacrifice, heroic devotion to a cause, and so on, should be scanned somewhat sceptically. A little psycho-analysis will often show that what goes by these fine names is really something quite different, such as pride, or hatred, or desire for revenge, that has become idealized and collectivized and personified as a noble form of idealism. The warlike patriot, who is willing and even anxious to fight for his country, may reasonably be suspected of a certain pleasure in killing. A kindly population, a population who in their childhood had received kindness and been made happy, and who in youth had found the world a friendly place, would not develop that particular sort of idealism called patriotism, or class-war, or what not, which consists in joining together to kill people in large numbers. I think the tendency to cruel forms of idealism is increased by unhappiness in childhood, and would be lessened if early education were emotionally what it ought to be. Fanaticism is a defect which is partly emotional, partly intellectual; it needs to be combatted by the kind of happiness that makes men kindly, and the kind of intelligence that produces a scientific habit of mind.
 出典: Power, 1938.
 詳細情報:https://russell-j.com/beginner/POWER18_310.HTM

第18章 権力を手懐けること, n.30

 教育この事柄(問題)でなさなければならないことは,二つの見出し(heads)のもとに考察できる。第一は、(人間の)性格と感情とに関連してであり、第二は、教育的指導(instruction)に関連してである。前者から始めよう。  民主主義が機能できるものであるべきだとすれば、人々(the population 国民/住民)は,できるだけ,憎悪や破壊性(destructiveness 破壊したい気持ち)を持たない(囚われていない)とともに,恐怖(心)や卑屈さも持たない(囚われていない)ということでなければならない。こうした感情は政治的あるいは経済的状況によって引き起こされるかも知れない。しかし,私は(ここでは),人々(人間)をそのような感情に多少なりともなりがちになることにおいて教育が果たしている役割について考察したい。 (親や学校の)なかには、まず、子供に完全な服従を教える試みや奴隷あるいは反逆者のいずれかをほぼ生む運命にある試みから始める親や学校があるが,そのような試みはどちらも民主主義において望まれるものではない。厳しい訓練中心の教育(disciplinary education 躾が中心で厳しく指導する教育)の効果に関しては、私の懐いている見解は、ヨーロッパの全ての独裁者によって懐かれている見解である(と同じである)(注:効果についての理解は同じであるが、評価は逆であることい注意)。戦後(第一次大戦後),ほぼ全てのヨーロッパ諸国は多数のフリー・スクール(自由学校)を創設しており、それらの学校は,訓練が多すぎることも、教師に対する過剰な敬意を示すこともない。しかし,一つまた一つというふうに(徐々に)軍事的独裁制は -ソヴュト(連邦)共和国もそのうちの一つであるが- 学校におけるあらゆる自由はすぺてこれを抑圧し、古い(旧式の)訓練にもどり、また、教師を小型フューラーあるいは小型ドゥーチェ(注:フューラ(総統)はヒトラーを,ドゥーチェ(国家指導者/首領)はムッソリーニのこと) として扱う慣行に後戻ってしまっている。全ての独裁者は、学校におけるある程度の自由は民主主義のための訓練として適切なものであり、学校における独裁制は国家における独裁制の当然の前奏(序曲 prelude)をなすものと見なしている、と我々は推測してよいだろう(注:つまり,独裁政権にとっては学校における自由は不適切だと独裁者は考えているということ).

Chapter 18: The taming of Power, n.30 IV What education has to do in this matter may be considered under two heads : first, in relation to character and the emotions ; secondly, in relation to instruction. Let us begin with the former. If democracy is to be workable, the population must be as far as possible free from hatred and destructiveness, and also from fear and subservience. These feelings may be caused by political or economic circumstances, but what I want to consider is the part that education plays in making men more or less prone to them. Some parents and some schools begin with the attempt to teach children complete obedience, an attempt which is almost bound to produce either a slave or a rebel, neither of which is what is wanted in a democracy. As to the effects of a severely disciplinary education, the view that I hold is held by all the dictators of Europe. After the war, almost all the countries of Europe had a number of free schools, without too much discipline or too much show of respect for the teachers; but one by one, the military autocracies, including the Soviet Republic, have suppressed all freedom in schools and have gone back to the old drill, and to the practice of treating the teacher as a miniature Führer or Duce. The dictators, we may infer, all regard a certain degree of freedom in school as the proper training for democracy, and autocracy in school as the natural prelude to autocracy in the State.
 出典: Power, 1938.
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第18章 権力を手懐けること, n.29

 戦争は専制政治(独裁)を促進する主要なものであり,無責任な権力を可能な限りさける体制(制度)を確立しようとする際の最大の障害物である。従って,戦争を防止することは我々の問題の不可欠な一部であり,私としては,最も不可欠のものであると言いたい。もしひとたび世界が戦争の恐怖から解放されるならば,いかなる統治形態のもとであろうと,いかなる経済体制のもとであろうと,いずれは,世界は(自分たちの)支配者の兇暴性を抑制する方法(curbing the ferocity )を発見するであろう。一方(これに反して),あらゆる戦争は,しかし特に(注:but especially : but の使い方に要注意)近代の戦争は,臆病な人たちに指導者を求めさせ,大胆な精神(の人々)を,一つの(まとまりのある)社会から烏合の衆(群れ a pack)に変えてしまうことによって,独裁政治を助長するのである。  戦争の危険(リスク)は,ある種の群集心理を引きおこし,こんどは逆に(reciprocally 相互的に),この種の群集心理が -それが存在する場合- 専制政治の可能性(likelihood)や戦争の危険を増大させる。従って,我々は社会を最も集団ヒステリーにかからないようにする教育を,また社会を最もうまく民主主義を行わせるようにする教育を熟考しなければならない。  民主主義は - 成功をおさめるべきだとすれば - 一見相反する方向に向かうように見える二つの性質が広く行き渡ることが必要である。(即ち)一方では,人はある程度の自立(self-aliance 独立独歩)がなければいけないし,自分の判断をある程度具体的に示さなければならない。(また,)正反対の方向の政治的宣伝が行われて,多くの人たちが(いずれかに)参加しなければならない。しかし,他方では,多数者の決定が自分と反対の方向にある場合は(場合でも),進んでその決定に従わなければならない。これら二つの条件のどちらかが欠けていても(民主主義は)失敗する。(即ち)人々(the population 国民;住民)は従属的過ぎるかも知れないし,勇敢な指導者に従って独裁政治(独裁)に陥ったりするかも知れないし,あるいはどの政党も自己主張をし過ぎるかも知れない。その結果,その国家(the nation 国民国家)は無政府状態に陥ることになる(であろう)。

Chapter 18: The taming of Power, n.29 IV War is the chief promoter of despotism, and the greatest obstacle to the establishment of a system in which irresponsible power is avoided as far as possible. The prevention of war is therefore an essential part of our problem – I should say, the most essential. I believe that, if once the world were freed from the fear of war, under no matter what form of government or what economic system, it would in time find ways of curbing the ferocity of its rulers. On the other hand, all war, but especially modern war, promotes dictatorship by causing the timid to seek a leader and by converting the bolder spirits from a society into a pack. The risk of war causes a certain kind of mass psychology, and reciprocally this kind, where it exists, increases the risk of war, as well as the likelihood of despotism. We have therefore to consider the kind of education which will make societies least prone to collective hysteria, and most capable of successfully practising democracy. Democracy, if it is to succeed, needs a wide diffusion of two qualities which seem, at first sight, to tend in opposite directions. On the one hand, men must have a certain degree of self-reliance and a certain willingness to back their own judgment; there must be political propaganda in opposite directions, in which many people take part. But on the other hand men must be willing to submit to the decision of the majority when it goes against them. Either of these conditions may fail: the population may be too submissive, and may follow a vigorous leader into dictatorship; or each party may be too self-assertive, with the result that the nation falls into anarchy.  出典: Power, 1938.
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第18章 権力を手懐けること, n.28

 信仰復興論者(Revivalist: 昔の習慣や思想を復活させようとする人)のもつ熱狂は,たとえばナチスの熱狂のように,それが生じさせるエネルギーと自己犠牲らしきものを通して,多くの人々に称賛(の念)を引き起こす。集団的な興奮は,苦痛に対して,また死に対してさえ,無関心を伴っており,歴史上において珍しいもの(稀なもの)ではない。信仰復興論者のもつ熱狂が存在するところでは,自由は存在しない。熱狂家は力(強制力)によってのみ抑制(抑止)することができ,また,熱狂家は抑制(抑止)されなければ,彼らは他の人々に力(強制力)をふるうであろう。私は1920年に北京で出会ったあるボルシェビイキ(ソビエト共産主義者)のことを覚えているが,彼は次のような(彼らにとっての)完全な真理を声高に言いながら,部屋の中をいったりきたりしていた。(即ち)「もし我々が彼ら(旧体制の人々)を殺さなければ,彼らが我々を殺すであろう」と(’If vee do not keel zem, zey vill keel us!’ = 「If we do not kill them, they will kill us!」のロシアなまりの英語)。こういった気分が一方の側にあれば,当然のこと,相手側(敵対側)にも同様の気分を生み出す。その結果,最後まで戦うということになり,あらゆることが勝利のために二の次にされる(軽視される)。その戦いの間,政府は,軍事的な理由から,独裁的な権力を獲得する。戦いの最後に,もし勝利すれば,政府はその権力をまず敵の残党を掃討するためにふるい,次に政府の支持者たちに対する独裁権の継続を確保するために権力をふるう。その結果は,当初熱狂家たちが闘ったもの(目的や大義)からはかなり異なったものである。熱狂は,一定の結果を達成することができる一方,それが望んだものをほとんど達成することはできない。集団的熱狂を讃美することは,無謀であり無責任である。というのは,熱狂の結果として得られるもの(成果)は,凶暴さであり,戦争であり,死であり,奴隷状態だからである。

Chapter 18: The taming of Power, n.28 IV Revivalist enthusiasm, such as that of the Nazis, rouses admiration in many through the energy and apparent self-abnegation that it generates. Collective excitement, involving indifference to pain and even to death, is historically not uncommon. Where it exists, liberty is impossible. The enthusiasts can only be restrained by force, and if they are not restrained they will use force against others. I remember a Bolshevik whom I met in Peking in I920, who marched up and down the room exclaiming with complete truth: ‘If vee do not keel zem, zey vill keel us!’ The existence of this mood on one side of course generates the same mood on the other side; the consequence is a fight to a finish, in which everything is subordinated to victory. During the fight, the government acquires despotic power for military reasons; at the end, if victorious, it uses its power first to crush what remains of the enemy, and then to secure the continuance of its dictatorship over its own supporters. The result is something quite different from what was fought for by the enthusiasts. Enthusiasm, while it can achieve certain results, can hardly ever achieve those that it desires. To admire collective enthusiasm is reckless and irresponsible, for its fruits are fierceness, war, death, and slavery.
 出典: Power, 1938.
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