宗教と科学』第1章 闘争の原因 n.1

【本日より、ラッセル『宗教と科学』(Religion and Science, 1935 の連載を開始します。) 本日は長文ですので、英文を省略します。英文をは下記にあります。
 https://russell-j.com/beginner/RS1935_01-010.HTM 】

 第1章 闘争(衝突)の原因  宗教と科学は,社会生活の二つの側面であり,宗教(前者)が人類の精神史について我々が何らかのことを知っている最も昔の時代から重要で(important as far back as)あり続けてきたのに対し,科学(後者)はギリシア人とアラビア人の間で断続的に盛んになった後(after a fitful flickerling),16世紀になって突如として重要なものになり,それ以来,次第に我々(人間)の思想や我々がその中で生きている(諸)制度を形成してきた宗教と科学との間には,長きに渡る闘争が続けられてきており,この数年前まで,科学が常に勝利してきた(勝利したことを証明してきた)。しかし,ロシアやドイツにおける新しい宗教(注:ラッセルはロシア共産主義及びドイツのナチズムを新しい宗教と断定本書は1935年に出版されたことに注意)の台頭は,科学によって供給(提供)される新しい布教活動の手段を備えて(身につけて),科学の時代の初期においてそうであったように,再びこの論点(科学が宗教との闘い)を疑問にふすとともに(put the issue in question),今日まで科学的知識に敵対する伝統宗教によって行われた闘争(warfare)の理由(原因)及び闘争の歴史について検討することを再び重要なものにしている。  科学は,(種々の)観察手段やそれに基づいた推論によって,まず世界に関する個々の事実を発見し,その後,事実相互を結びつけ(運が良ければ)未来に起きる出来事を予測することを可能にする法則を発見しようとする試みである。このような科学の理論的側面に結びついたものとして,科学技術が存在しており,それ(科学技術)は,かつては不可能であったか,あるいは,少なくとも科学以前の時代にはとても高価であった(ところの)慰みとなる品々や贅沢品を生産するのに,科学的知識を利用する。科学者以外の人々に対しても科学が極めて重要な意味をもつのは,このような技術的側面である。  宗教は,社会的にみると,科学より複雑な現象である。いずれの歴史上の偉大な宗教も,(次の)三つの側面を持っている。(即ち,)(1)教会,(2)教義,(3)個人道徳の掟,である。これらの三つの要素の重要性は,時代や場所の違いによって,大いに変化してきている。ギリシアやローマの古代宗教は,ストア学派により倫理的なものにされるまで,個人道徳に関しては言うべきことはあまりなかった。(また)イスラムにおいては,教会は世俗の君主と比較して(聖職ではない君主ほど)重要ではなかった。近代のプロテスタンティズム(清教徒主義)には,教義の厳しさを緩やかにする傾向がある。それにもかかわらず,これらの三つの要素は全て,その比重には差があるが,社会現象としての宗教には欠くことができないものであり,それは(その社会現象)は,科学との闘争に主に関わりをもっているものである。純粋に個人的な宗教は,科学が反証があげることができる(反駁しうる)主張を避けることに満足する限り(科学的な主張に異議をたててやりあわない限り),科学が最も進歩した時代にも邪魔されずに生き続けるにちがいない。 (宗教の)教義は,宗教と科学との間の闘争(争い)の(起こる)知的源泉であるが,その(宗教と科学の両者の)対立が激しいのは,教義の教会や道徳律との関連のせいである。教義を疑った者は(教会の)権威を弱め,聖職者(教会関係者)の収入を減少させた可能性がある。さらに,その者は道徳を壊していると考えられた。というのは,道徳的義務は聖職者によって教義から導き出されたからである。従って,世俗の支配者は,聖職者同様,科学者たちの革命的な教えを恐れるに足る充分な理由があると思った(感じた)のである。