これらの(上記の)章節の中に述べられているのは,ユダヤ人(注:children of Israel :イスラエルの子どもたち=ヘブライ人、ユダヤ人)の利益と異邦人の利益(注: Gentiles ユダヤ人から見た場合の異邦人)が衝突する場合には,彼ら(ユダヤ人)の利益が完全に勝るべき(優先すべき)べきであったこと,しかし,ユダヤ人の内部においては(internally),宗教の利益,即ち聖職者(僧侶)の利益は一般信徒(俗人)の経済的な利益に対して勝るべき(優先すべき)であったことは,明らかである。主(エホバ)の言葉はサムエルに下されたが,サウルに下されたのは(主の言葉ではなく)サムエルの言葉であり,しかもそのサムエルの言葉はこうであった。「(それならば),私の耳に入る,この羊の声と,私の聞く牛の声は,いったい,なんですか?」 この言葉に対してサウルはただ自分の罪を告白することで応えることしかできなかった。 ユダヤ人は偶像崇拝を恐れたことから -彼らの場合この偶像崇拝の片鱗(microbes)が羊や牝牛にも潜んでいたことは明らかであるが- 被征服者の絶滅における異常な徹底ぶりへと導かれた。しかし,古代の国家は戦いに敗れた人々の処置について,いかなる法的制限あるいは道徳的制限を認めなかった。(戦いに勝利した方が)敗者のうちの一定数を根絶し,他の者を奴隷に売りとばすのが慣例であった。ギリシア人の中には,たとえば「トロイの女(たち)」(Trojan Women)を書いたエウリビデス(注:Euripides 古代アテナイの三大悲劇詩人の一人)のように,このような行為に反対する感情を創生しようとしたが,(いずれも)うまくいかなかった。征服された者は,権力をもっていないので,慈悲を要求する権利をまったくもっていなかった。こうした見方(注:敗者に慈悲を要求する権利なしという見方)は,キリスト教の到来まで,理論上でさえ,捨てられたことはなかった(注:キリスト教の到来によってこうした見方はなくなっていった)。
Chapter 15: Power and Moral Codes, n.14
It is obvious in these passages that the interests of the children of Israel were to prevail completely when they came into conflict with those of the Gentiles, but that internally the interests of religion, i.e. of the priests, were to prevail over the economic interests of the laity. The word of the Lord came unto Samuel, but it was the word of Samuel that came unto Saul, and the word was : “What meaneth then this bleating of sheep in mine ears, and the lowing of oxen which I hear?” To which Saul could only reply by confessing his sin. The Jews, from their horror of idolatry – of which the microbes apparently lurked even in sheep and cows – were led to exceptional thoroughness in the extermination of the vanquished. But no nation of antiquity recognized any legal or moral limits to what might be done with defeated populations. It was customary to exterminate some and sell the rest into slavery. Some Greeks -for instance, Euripides in the Trojan Women – tried to create a sentiment against this practice, but without success. The vanquished, having no power, had no claim to mercy. This view was not abandoned, even in theory, until the coming of Christianity.
出典: Power, 1938.
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第15章 権力と道徳律 n.13
敵に対する道徳律(道徳規範)は、時代の違いにより非常に異なっていた問題であるが,その(道徳律が異なっていた)理由は主として時代によって利益生むことができる権力の使用(法)が異なっていたからである(注:権力をどのようにふるえば利益を得られるかは時代によってかなり異なっていた)。この問題について,最初に,旧約聖書が言っているところを聞いてみよう。(旧約聖書からの引用の訳は、日本聖書教会の訳(1971年刊)から拝借しました。) 「あなたの神,主が,あなたの行って取る地にあなたを導き入れ,多くの国々の民,ヘテびと、ギルガシびと、アモリびと、カナンびと、ベリジびと、ヒビびと、及びエブスびと、即ち,あなたよりも数多く,また力のある七つの民を、あなたの前から追い払われる時,即ち,あなたの神,主が彼らをあなたに渡して,これを撃たせられる時は,あなたは彼らをまったく滅ぼさなければならない。彼らと何の契約もしてはならない。彼らに何の憐れみを示してはならない。また彼らと婚姻してはならない。あなたの娘を彼の息子に与えてはならない。彼の娘をあなたの息子にめとってはならない。それは彼らがあなたの息子を惑わして私に従わせず,他の神々に仕えさせ,そのため主はあなたがたに向かって怒りを発し、すみやかにあなたがたを滅ぼされることとなるからである。」 もし彼らがこれら(上記)の事柄を全て行うならば、「あなた方の間やあなた方の家畜には,不妊な者や家畜はないであろう」と記されている。(「申命記」第七章,1~四節及びおよび一四節。)
これら七つの民に関しては、後の章で、もっと明確にのべられている。 「あなた方は,これらの民の町々では,息のあるものをひとりも生かしておいてはならない。・・・。(そうするのは)彼らが(その神々を拝んで)行った全ての憎むべきことを、あなた方に教えて,それを行わさせ,あなた方の神,主に罪を侵させることのないためである。」(同、第二〇章、一六節、一八節) しかし,「遠くはなれている町々,即ちこれらの国々に属さない町々」に対しては、もっと慈悲深く有ることは許される。 「剣(つるぎ)をもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない。ただし,女、こども、家畜、及びすべてその町のうちにあるもの,即ちぶんどり物はみな、戦利品としてとることができる。」(同章、第一三節-一五節) (ここで)我々は、サウルがアマレク人を撃った際、その処置が徹底を欠いていたために、後に至って,トラブル(面倒)を起こしたこと(に関する記述)を思い出すであろう。(即ち): (そしてサウルは)アマレク人の王アガグを生けどり、剣(つるぎ)をもってその民をことごとく滅ぼした。しかしサウルと民はアガグを許し、また羊と牛の最もよきもの、および肥えたもの、ならびに小羊と、すべての良いものを残し、それらを滅ぼし尽くすことを好まず,ただ値打ちのない,つまらない物を滅ぼし尽くした。 その時,主の言葉がサムエルに臨んだ(のぞんだ)、 「私はサウルを王としたことを悔いる。彼が背いて私に従わず,私の言葉を行わなかったからである。」(「サムエル記上」第一五章、八-一一節)
Chapter 15: Power and Moral Codes, n.13 The moral code towards enemies is a matter as to which different ages have differed greatly, largely because the profitable uses of power have differed. On this subject, let us first hear the Old Testament. When the Lord thy God shall bring thee into the land whither thou goest to possess it, and hath cast out many nations before thee, the Hittites, and the Girgashites, and the Amorites, and the Canaanites, and the Perizzites, and the Hivites, and the Jebusites, seven nations greater and mightier than thou ; And when the Lord thy God shall deliver them before thee; thou shalt smite them, and utterly destroy them; thou shalt make no covenant with them, nor show mercy unto them : Neither shalt thou make marriages with them; thy daughter shalt thou not give unto his son, nor his daughter shalt thou take unto thy son. For they will turn away thy son from following me, that they may serve other gods: so will the anger of the Lord be kindled against you, and destroy thee suddenly. If they do all this, “there shall not be male or female barren among you, or among your cattle. “(note: Deuteronomy vii. 1-4 and 14.) As regards these seven nations, we are told in a later chapter even more explicitly: Thou shalt save alive nothing that breatheth… that they teach you not to do after all their abominations (xx.16,18). But towards “cities which are very far off from thee, and which are not of these nations” it is permissible to be more merciful : Thou shall smite every male thereof with the edge of the sword: but the women, and the little ones, and the cattle, and all that is in the city, even all the spoil thereof, shalt thou take unto thyself (ibid.,13-I5). It will be remembered that when Saul smote the Amalekites he got into trouble for being insufficiently thorough : And he took Agag the king of the Amalekites alive, and utterly destroyed all the people with the edge of the sword. But Saul and the people spared Agag, and the best of the sheep, and of the oxen, and of the fatlings, and the lambs, and all that was good, and would not utterly destroy them : but everything that was vile and refuse, that they destroyed utterly. Then came the word of the Lord unto Samuel, saying, It repenteth me that I have set up Saul to be king: for he is turned back from following me, and hath not performed my commandments. (I Samuel xv. 8-11)
出典: Power, 1938.
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第15章 権力と道徳律 n.12
道徳律(道徳規範)は権力の表現(注:権力の意向や意志が反映されたもの)であるというテーゼ(thesis 論題,命題)は,すでに見てきたように,全面的に正しいというわけではない。未開人の族外結婚(他の部族の者との結婚)の規則に始まって,文明の全段階において,権力とまったく関係のない倫理原則が存在している。我々現代人の間における同性愛(行為)に対する非難攻撃はこの一例となるかも知れない(みすず書房刊の東宮訳では、homosexuality を「近親結婚」と誤訳されている。)。道徳律(道徳規範)は「経済的」権力の表現である(注:経済的権力の意向や意志が反映されたもの)とするマルクス主義のテーゼは,道徳律(道徳規範)は権力一般の表現である(権力者一般の意向や意志が繁栄されたものである)というテーゼよりさえも、もっと不十分なもの(テーゼ)である。にもかかわらず,マルクス主義のテーゼは,非常に多くの例において真実である。たとえば,次のような例である。中世においては,世俗の信者たち(laity)の中で最も権力を持っている者が土地所有者であった時,司教職及び修道会(bishoprics and moranstic orders)が土地(保有)から収入を引き出していた時,また,お金を投資する者は唯一ユダヤ人であった時,教会(キリスト教会)は「高利貸し(”usury)”」を,即ち,利息をつけて金を貸すことを,躊躇することなく,非難した。これは,債務者の道徳(債務者寄りの道徳)であった。裕福な商人(階級)の勃興とともに,このような古い禁令を維持することは困難になった。その禁制は,最初,カルヴィンによって緩められたが,彼の顧客(彼に弁護を依頼した人々)は主として都市の住民や富裕者であった。そうして,次にこの禁制を緩めたのは他の新教徒であり最後に緩めたのはカトリック教会であった。(原注:この問題についてはトーネイ『資本主義の勃興と宗教』(Religion and the Rise of Capitalism を参照) (債務者の道徳が)債権者の道徳が流行となり,借金を返さないことは憎むべき大罪(極悪なこと)となった(のである)。(たとえば)(キリスト教の一派の)フレンド教会(友愛会)など,理論上はそうでなくても,実際上は,つい最近まで破産者を締め出していた(注:信者であっても破産した者は教会から追放していたということか?)。
Chapter 15: Power and Moral Codes, n.12
The thesis that the moral code is an expression of power is, as we have seen, not wholly true. From the exogamous rules of savages onward, there are, at all stages of civilization, ethical principles which have no visible relation to power–among ourselves, the condemnation of homosexuality may serve as an example. The Marxist thesis, that the moral code is an expression of economic power, is even less adequate than the thesis that it is an expression of power in general. Nevertheless, the Marxist thesis is true in a very great many instances. For example : in the Middle Ages, when the most powerful of the laity were landowners, when bishoprics and monastic orders derived their income from land, and when the only investors of money were Jews, the Church unhesitatingly condemned “usury,” i.e. all lending of money at interest. This was a debtor’s morality. With the rise of the rich merchant class, it became impossible to maintain the old prohibition : it was relaxed first by Calvin, whose clientele was mainly urban and prosperous, then by the other Protestants, and last of all by the Catholic Church. (note: On this subject, cf. Tawney, Religion and the Rise of Capitalism.) Creditor’s morality became the fashion, and non-payment of debts a heinous sin. The Society of Friends, practically if not theoretically, excluded bankrupts until very recently.
出典: Power, 1938.
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第15章 権力と道徳律 n.11
個人道徳(個人的な道徳)は,一般的に言って,(それが)聖職者の公式の道徳よりも厳しくない場合でさえも,公式の聖職者の道徳よりも悪いと想定してはならない。その証拠はいくつかあり,(たとえば)西暦紀元前六世紀に,ギリシア人(一般)の感情が人身御供に強く反対するようになりつつあった時,デルファイの(神託を司る)神官はこの人道主義的な改革を阻止し,そうして旧い厳格な慣習を存続させようとした(という証拠が存在している)。(また)今日,国家や世論が(ある男性が)亡くなった妻の妹と結婚(再婚)するのを許容できると考える時に,教会は,権力を持っている限り,旧来の禁令を維持しようとする(のである)。 教会が権力を失ったところでは,道徳は,ごく少数の例外的な(傑出した)人々を除いて,純粋に個人的なもの(道徳)にはなってこなかった。大多数の人々にとって,道徳は,世論によって,(つまり)隣人一般の道徳と使用者(雇用者)のような力を持ったグループの道徳の両方の,世論によって表わされる(注:その人個人の道徳ではないということ)。罪人(キリスト教の?)の観点から見れば,(教会が権力を失った後の)そのような変化は微々たるものかも知れず,同時により悪いということであるかも知れない。そこでは(教会の権力が失墜している所では),個人が得るものは,罪人としてではなく,判事(裁判官)としてのものである。(即ち)(教会権力失墜後の)人間は,非公式な民主法廷の一部になる(のである)。しかるに,教会が強力な場合には,人間は権威の支配を受け入れなくてはならない。道徳感情の強い新教徒(プロテスタント)は,聖職者(僧侶)の倫理的機能(役割)を奪いとり,他人の美徳と悪徳,特に後者(悪徳)に対し、準政府的な態度を獲得している。 汝,隣人の欠点や愚行を見つけて, 人に告げる以外 他にやることなし これは無政府状態ではない。これは民主主義である。 (注:つまり、民主主義の基礎は他人に対する嫉妬心である、ということ Envy is the basis of democracy. )
Chapter 15: Power and Moral Codes, n.11 It must not be supposed that personal morality is in general worse than official priestly morality, even when it is less severe. There is some evidence that when, in the sixth century B.C., Greek sentiment was becoming strongly averse from human sacrifice, the oracle at Delphi tried to retard this humanitarian reform, and to keep alive the old rigid practices. Similarly in our own day, when the State and public opinion consider it permissible to marry one’s deceased wife’s sister, the Church, in so far as it has power, maintains the old prohibition. Morality, where the Church has lost power, has not become genuinely personal except for a few exceptional people. For the majority, it is represented by public opinion, both that of neighbours in general, and that of powerful groups such as employers. From the point of view of the sinner, the change may be slight, and may also be for the worse. Where the individual gains is not as sinner, but as judge : he becomes part of an informal democratic tribunal, whereas, where the Church is strong, he must accept the rulings of Authority. The Protestant whose moral feelings are strong usurps the ethical functions of the priest, and acquires a quasi-governmental attitude towards other people’s virtues and vices, especially the latter : Ye’ve naught to do but mark and tell Your neighbours’ faults and folly. This is not anarchy; it is democracy. (Namely, Envy is the basis of democracy. )
出典: Power, 1938.
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第15章 権力と道徳律 n.10
教会の場合,権力と道徳との関係は,ある程度まで,我々がこれまで考察してきた場合(cases いろいろな事例)(においてそうであること)と反対の関係である。実際的道徳(positive morality 実定道徳:社会全体で実際に受け入れられている道徳観やエチケット)は,両親に従え,夫に従え,王に従え,と命ずるのは,それら(両親,夫,王)に権力があるからである。しかし,教会に権力があるのは,教会が道徳的権威をもっているからである(注:「権力保有→道徳押し付け」(という関係の)の反対の「道徳体現→権力行使」)。けれども,これはある程度まで真実であるにすぎない。教会が安定している所においては,教会に対する服従の道徳は、ちょうど両親や夫や王に対する服従の道徳と同様に,成長する。そうして,そのような服従の道徳の革命的な拒絶(反応)も同様に成長する。(たとえば)異端や分派(注:schism : 分裂して別の宗派をつくること)は特に教会が忌みきらうもの(abhorrent 忌まわしいもの)であり,従ってそれはまた革命的な計画においては必須の要素である。けれども,聖職者(僧侶)の権力への抵抗にはもっと複雑な結果が存在している。(即ち)教会は道徳律(moral code 道徳規範)の公式の守護者であるので,教会に対する敵対者(敵)は,教義と(教会による)統治において敵対するのと同様に,道徳においても反抗しがちである。彼ら(そうした人々)は,清教徒のように,反逆し、より厳格の度を増してゆく者もいれば,フランス革命党員のようにより放縦の度を増してゆく者もいる。しかしいずれ(どちら)の場合においても,道徳は(次第に)私的な事柄となってゆき,以前のように,公的な団体が公式に決定した問題というようなものではなくなっていく(のである)。
Chapter 15: Power and Moral Codes, n.10
In the case of the Church, the relation between power and morals is, to some extent, the opposite of what it is in the cases we have hitherto considered. Positive morality enjoins submission to parents, husbands, and kings, because they are powerful; but the Church is powerful because of its moral authority. This, however, is only true up to a point. Where the Church is secure, a morality of submission to the Church grows up, just as a morality of submission to parents, husbands, and kings has grown up. And a revolutionary rejection of this morality of submission also grows up in the same way. Heresy and schism are specially abhorrent to the Church, and are therefore essential elements in revolutionary programmes. There are, however, more complicated results of opposition to priestly power. The Church being the official guardian of the moral code, its opponents are likely to revolt in morals as well as in doctrine and government. They may revolt, like the Puritans, into greater strictness, or, like the French Revolutionaries, into greater laxity; but in either case morals come to be a private matter, not, as before, the subject of official decisions by a public body.
出典: Power, 1938.
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第15章 権力と道徳律 n.9
聖職者(priests 僧侶)の権力が他のいかなる形態の権力よりも道徳とつながりをもっていたことは,明らかである。キリスト教諸国においては,美徳とは神の意志(御心)にかなうことにあり,神の命じたことが何であるかを誰よりもよく知っているのは聖職者(僧侶)である(ということになっている)。我々(人)は人間によりもむしろ神に従うべきだという教え(precept )は,我々が既に見たように,革命的なものになりうる。それは二つ(two sets of 二組)の状況でそうなる。一つは,国家が教会と対立している場合(状況)であり,もう一つは,神は個人の良心に直接に語りかけるという考えが抱かれる場合(状況)である。前者は,コンスタンティヌス帝以前に存在した状態(事態)であり,後者は,再洗礼派(注:Anabaptists 幼児洗礼を否定し、成人の信仰告白に基づく成人洗礼を認める立場)や独立教会派(注:Independents イギリスの清教徒革命の中心勢力となった宗教的・政治的一派で、個々の教会の自主性を主張)の間に存在した状態(事態)である。しかし,革命のきざしがまったくない時期,たとえば,確立した,伝統的な教会が存在している時には,その教えは,神と個人の良心とをつなぐ媒介物として実際的道徳によって受け入れられる(のである)。そのような受容が続くかぎり,その教えのカは非常に大きく,教会に対する坂逆は他のどのようなものよりも邪悪なことであると考えられる(のである)。それにもかかわらず,教会にはいろいろな難点(困難な問題)がある。というのは,教会が自らの権力をあまりひどいやり方で利用すると,人々が、神の意志(御心)について教会は間違って解釈しているかどうかと(間違って解釈しているのではないかと)疑うようになるからである,そうして,次には,このような疑いが一般的になると,宗教改革時にゲルマン民族の諸国においてそうであったように,教会に関する全体系が崩壊の止むなきに至るのである。
Chapter 15: Power and Moral Codes, n.9
The power of priests is more obviously connected with morals than any other form of power. In Christian countries, virtue consists in obedience to the will of God, and it is priests who know what the will of God commands. The precept that we ought to obey God rather than man is, as we saw, capable of being revolutionary; it is so in two sets of circumstances, one, when the State is in opposition to the Church, the other, when it held that God speaks directly to each individual conscience. The former state of affairs existed before Constantine, the latter among the Anabaptists and Independents. But in non-revolutionary periods, when there is an established and traditional Church, it is accepted by positive morality as the intermediary between God and the individual conscience. So long as this acceptance continues, its power is very great, and rebellion against the Church is thought more wicked than any other kind. The Church has its difficulties none the less, for if it uses its power too flagrantly men begin to doubt whether it is interpreting the will of God correctly; and then this doubt becomes common, the whole ecclesiastical edifice crumbles, as it did in Teutonic countries at the Reformation.
出典: Power, 1938.
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第15章 権力と道徳律 n.8
王権の場合は,我々がすでに見てきたように,その宗教的要素は,しばしば権力に干渉しさえするほど,保持されてきた(has often been carried so far as to interfere with power. 携行して持ち運ばれてきた)。けれども,そうした時でもなお(even then),王権における宗教的な要素は,王を象徴とする社会制度(注:天皇制など)に安定をもたらすのを助けてきた(のである)。これは,多くの半開(注:文明と未開の中間)の国々に起こってきたことであり,(君主制を引いていた)日本や英国において,起こってきたことである。英国においては,王は過誤を犯すことができないという理論(教義)は,王から権力を奪う武器として利用されてきたが,それは(王の臣下である)大臣たちが,王がいない場合よりも,一そう大きな権力をもつことを可能にしてきた(注:日本における天皇の政治利用など)。伝統的な君主政体のあるところではどこでも,政府に対する反抗は王に対する攻撃(offence)であり,正統派(伝統主義者)の人々によって一つの罪でありかつ不敬であると見なされる。従って、王権は,おおざっぱに言って,それがどのようなものであれ,現状維持に味方する力として働く。王権の最も有用な機能は,歴史的に言って,社会の団結に都合の良い感情を国全体に幅広く拡散させること(そういう感情を創生すること)であった。人は生れつきそれほど群生的ではないので,無政府状態に陥る危険が常にあり,王権はその危険を防ぐために多くのことを(これまで)やってきた。けれども,このような長所に対抗するものとして,王権は古代からの悪徳を永続化し,望ましい変革に反対する(様々な)力を増大させるという短所(欠点)を置かなければならない(長短両面から考えないといけない)。このような短所(欠点)が,近代において,地球の表面の大部分にわたって,君主政体の消滅を引き起こしてきたのである。
Chapter 15: Power and Moral Codes, n.8
In the case of kingship, the religious element, as we have seen, has often been carried so far as to interfere with power. Even then, however, it has helped to give stability to the social system of which the king is a symbol. This has happened in many semi-civilized countries, in Japan, and in England. In England, the doctrine that the king can do no wrong has been used as a weapon for depriving him of power, but it has enabled his Ministers to have more power than they would have if he did not exist, Wherever there is a traditional monarchy, rebellion against the government is an offence against the king, and is regarded by the orthodox as a sin and an impiety. Kingship acts therefore, broadly speaking, as a force on the side of the status quo, whatever that may be. Its most useful function, historically, has been the creation of a widely diffused sentiment favourable to social cohesion. Men are so little gregarious by nature that anarchy is a constant danger, which kingship has done much to prevent. Against this merit, however, must be set the demerit of perpetuating ancient evils and increasing the forces opposed to desirable change. This demerit has, in modern times, caused monarchy to disappear over the greater part of the earth’s surface.
出典: Power, 1938.
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第15章 権力と道徳律 n.7
これ(バジョットの述べていること)は,真理でありかつ重要である。君主政は社会の団結を容易にするものである。その理由の第一は,抽象的なものに対してよりも一個人に忠誠を感ずるほうが難しくないからである。理由の第二は,王権(kingship)は,その永い歴史の中で,新しい制度ではまったく起こさせることのできない崇拝の感情を徐々に蓄積してきたからである。世襲の君主政が廃止されたところでは,長期間たってからあるいは短期間後に,通例(君主制以外の)何らかの形のワンマン政治(独裁制)によって引き継がれてきた。(たとえば)古代ギリシアの僭主政治,ローマ帝国(の皇帝),英国(イングランド)のクロムウェル,フランスのナポレオン一族,今日のスターリンやヒトラー(による独裁制である)。こういった人たちは,以前(昔)王位(royalty)に付着していた(attached to 結合していた)様々な感情の一部を受け継いでいる(のである)。(たとえば)ロシアの裁判の被告の告白の中に,最も古めかしくかつ伝統的な絶対君主政にふさわしいだろうような,支配者に対する服従の道徳を受容していることに気づくと面白い(興味深い)。しかし,新しい独裁者は,よほど非凡な人間でもないかぎり,世襲の君主たちがかつて享受したのと同様の宗教的崇拝を(人民に)吹きこむことはほとんど不可能である。
Chapter 15: Power and Moral Codes, n.7
This is both true and important. Monarchy makes social cohesion easy, first, because it is not so difficult to feel loyalty to an individual as to an abstraction, and secondly, because kingship, in its long history, has accumulated sentiments of veneration which no new institution can inspire. Where hereditary monarchy has been abolished, it has usually been succeeded, after a longer or short time, by some other form of one-man rule : tyranny in Greece, the Empire in Rome, Cromwell in England, the Napoleons in France, Stalin and Hitler in our own day. Such men inherit a part of the feelings formerly attached to royalty. It is amusing to note, in the confessions of the accused in Russian trials, the acceptance of a morality of submission to the ruler such as would be appropriate in the most ancient and traditional of absolute monarchies. But a new dictator, unless he is a very extraordinary man, can hardly inspire quite the same religious veneration as hereditary monarchs enjoyed in the past.
出典: Power, 1938.
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第15章 権力と道徳律 n.6
王(国王)は,ジョージ一世に至るまで,宗教的な崇拝の対象であった。 王の周囲には神聖な垣根がはりめぐらされており 反逆者は中を覗いてみることだけで それ以上のことはほとんど何もできない (シェイクスピア『ハムレット』第三幕第五場) 「反逆」という言葉は,共和政体下においてさえ,やはり,少し不敬の香りがする。英国(イングランド)においては,政府は忠誠の伝統によって大いに利益を得ている。ヴィクトリア時代の政治家は,グラッドストーン氏(William Ewart Gladstone, 1809年-1898年:ヴィクトリア朝中期から後期にかけて,4度首相を務めた。)でさえ,ヴィクトリア女王を決して(1日でさえ)首相不在の状態に置かないように取り計らうことは政治家としての義務であると感じていた(注:see to it 取り計らう)。権威に従う義務は,いまだ,多くの者によって元首(sovereign 君主)に対する義務と感じられている。これは次第に衰えつつある感情であるが,その感情の衰えとともに,政府はより安定性を欠くようになり(不安定になり),右翼または左翼の独裁政権がより起こりそうになる。 バジョットの『英国憲法』は,いまだ一読の価値がある書物であり,以下のように,君主政治の議論を始めている。 「威厳のある地位にある女王の効用は測りがたいものである。女王がいなければ,現在の英国政府は失敗し,消え去ってしまうであろう。大部分の人々は,(ヴィクトリア)女王がウィンザー城の坂道を歩いた(散歩した)とかプリンス・オブ・ウェイルズ(皇太子=ウェールズ公)がダービーに出かけられたというようなこと(記事)を読む時,小さなつまらない事柄にあまりにも多すぎる思考や注目が与えられていると思い描いてきた(想像してきた)。しかし,彼らがそう考えてきたことは間違っている。それに,(退位した)皇太后の行動やいまだ職をもたない青年(プリンス)の行動がいかにして重要なものになるか(と)追跡することは気持ちのよいことである。君主政が強力な政体(政治体制)である最良の理由は,君主政が解り易い政体だということである。人類の大多数は,この政治体制を理解し,また,世界のいかなるところにおいても,これ以外の政体をほとんど理解できない(のである)。人は想像力によって支配されるとよく言われれる。しかし,人は想像力の弱さ(貧困)によって支配されると言ったほうが,より真実に近いであろう。」
Chapter 15: Power and Moral Codes, n.6
Kings, until George I, were objects of religious veneration. There’s such divinity doth hedge a king, That treason can but peep the thing it would, Acts little of his will. The word “treason,” even in republics, has still a flavour of impiety. In England, government profits much by the tradition of royalty. Victorian statesmen, even Mr. Gladstone, felt it their duty to the queen to see to it that she was never left without a Prime Minister. The duty of obedience to authority is still felt by many as a duty towards the sovereign. This is a decaying sentiment, but as it decays government becomes less stable, and dictatorships of the Right or the Left become more possible. Bagehot’s English Constitution – a book still well worth reading – begins the discussion of the monarchy as follows : The use of the queen, in a dignified capacity, is incalculable. Without her in England, the present English Government would fail and pass away. Most people when they read that the queen walked on the slopes at Windsor – that the Prince of Wales went to the Derby – have imagined that too much thought and prominence were given to little things. But they have been in error; and it is nice to trace how the actions of a retired widow and an unemployed youth become of such importance. The best reason why Monarchy is a strong government is, that it is an intelligible government. The mass of mankind understand it, and they hardly anywhere in the world understand any other. It is often said that men are ruled by their imaginations; but it would be truer to say that they are governed by the weakness of their imaginations.
出典: Power, 1938.
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第15章 権力と道徳律 n.5
男性のための道徳(男性用の道徳)と女性のための道徳(女性用の道徳)との違い(差異)の基礎となっているものは,男性の(女性に対する)腕力の優越性であることは明らかである。もともとは,その(男性の)優越性は肉体的な優越性だけであったが,そこから次第に,経済や政治や宗教における優越性へと拡大していった(のである)。この場合(事例)においては,道徳の警察(力)に対する長所(強み)は非常にはっきりしているように見える。というのは,女性は,つい最近に至るまで,男性支配を具現化(具体化)した道徳的教えを心から信じていたのであり,従って,そうした道徳が無かったならば必要であったであろう(女性に対する)強制が,はるかに少なくてすんだからである。 ハムラビ法典は,(法典の)制定者(立法者)の目から見れば女性は重要ではないことを示す一つの興味深い例を与えている。(即ち)ある男が,ある紳士の妊娠中の娘をなぐり,その結果その娘が死んだ場合には,なぐった男の娘が死刑に処せられなければならない,と(ハンムラビ)法典に定められている(注:いわゆる「目には目を歯には歯を」の原則」)。その紳士と殴った男の間においては,これは正当である。(つまり)処刑される娘は,後者(殴った父親)の単なる所有物に過ぎないのであり,自分の利益のために自分の命(の保持)を主張する権利をまったく持っていない。また,その紳士の娘の殺害において,殴った男は,紳士が法律違反の罪があるのは,その殴られた娘に対してでなく,その紳士に対してなのである。(つまり)娘たちにまったく権利がなかったのは,彼女たちがまったく権力を持っていなかったからである。
Chapter 15: Power and Moral Codes, n.5
The basis of the difference between morality for men and morality for women was obviously the superior power of men. Originally the superiority was only physical, but from this basis it gradually extended to economics, politics, and religion. The great advantage of morality over the police appears very clearly in this case, for women, until quite recently, genuinely believed the moral precepts which embodied male domination, and therefore required much less compulsion than would otherwise have been necessary. The code of Hammurabi gives an interesting illustration of the unimportance of women in the eyes of the legislator. If a man strikes the daughter of a gentleman when she is pregnant, and she dies in consequence, it is decreed that the daughter of the striker shall be put to death. As between the gentleman and the striker, this is just; the daughter who is executed is merely a possession of the latter, and has no claim to life on her own account. And in killing the gentleman’s daughter the striker is guilty of an offence, not against her, but against the gentleman. The daughters had no rights because they had no power.
出典: Power, 1938.
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