ラッセル『権力-その歴史と心理』第4章 聖職者(僧侶)の権力 n.12

 (ローマ教皇)グレゴリウス七世の即位(1073年)に始まる教皇権(Papacy 教皇制)の盛んな時代(great days 栄光の日々)は,(ローマ教皇)クレメンス五世によるアヴィニョン(注:フランスの南東部に位置する都市)における教皇権(教皇制)の確立(1306)まで及ぶ(注:クレメンス五世は,1308年に,ローマにあった教皇庁をアヴィニョンに移したが,以後70年間,教皇庁はフランス王の強い影響下に置かれることとなった)。この期間の勝利は,武力によるものではなく,いわゆる「精神的な」武器,即ち,迷信によって勝ち取られたものであった。この全期間を通して,教皇たちは,外面的には(outwardly)ローマ(の都)の乱暴な貴族たちに導かれたローマ人暴徒のなすがままであった。というのは,ローマ以外のキリスト教徒がどう思おうが,ローマ(市民)がローマ教皇(Pontiff)に敬意を表したことは決してなかったからである。大ヒルデブランド(注:great Hildebrand = Ildebrand イルデブランド=教皇グレゴリウス七世)自身,ローマから逃れている地において,亡くなっている。しかるに,彼は,最大の君主(たち)の鼻をへし折るほどの権力を獲得し,(次の教皇に)手渡した(注:humble はここでは形容詞ではなく,動詞として使われていることに注意)。カノッサ(の屈辱)は,その直接の政治的結果は,アンリー四世(注:Henry IV みすず書房の東宮訳では,ヘンリ四世と訳されているが,これはもちろん英国のヘンリ4世ではなく,フランスのアンリ4世のこと)にとって好都合であったが,後の時代の一つの象徴となった。(ドイツ宰相)ビスマルクも「文化闘争」の間に,「我々はカノッサまで出向かない」(we will not go to Canossa)と言ったが,しかし,彼が自慢したのは時期尚早であった。アンリー四世は ー彼は破門の身であった(ので)- 自分の計画を進めるためには赦罪(absolution 赦免 しゃめん)が必要であったし,グレゴリウス七世は,告解者(注:a penitent 悔俊した者)に対する赦免を拒むわけにはいかなかったけれども,(カトリック)教会との和解の代償として(アンリ4世に)屈伏することを強要した。政治家として,教皇を罵る(注:rail against 罵倒する)ことができたかもしれない。しかし,異端者のみが教皇権(注:power of the keys 天国の門を開閉する鍵の力の意味から)を疑問視し,また,異端は,皇帝フリードリヒ二世が教皇権(教皇制)と争った一番激しい時でさえ,皇帝によって好意をもたれなかった(のである)。

Chapter IV: Priestly Power, n.12

The great days of the Papacy, which begin with the accession of Gregory VII (1073) , extend to Clement V’s establishment of the Papacy at Avignon (=306). Its victories during this period were won by what are called “spiritual” weapons, i.e., by superstition, not by force of arms. Throughout the whole period, the Popes were outwardly at the mercy of the Roman mob, led by the turbulent nobles of the City–for, whatever the rest of Christendom might think, Rome never had any reverence for its Pontiff. The great Hildebrand himself died in exile; yet he acquired and transmitted the power to humble even the greatest monarchs. Canossa, though its immediate political consequences were convenient for the Emperor Henry IV, became a symbol for subsequent ages. Bismarck, during the Kulturkampf, said “we will not go to Canossa” ; but he boasted prematurely. Henry IV, who had been excommunicated, needed absolution to further his schemes, and Gregory, though he could not refuse absolution to a penitent, exacted humiliation as the price of reconciliation with the Church. As politicians, men might rail against the Pope, but only heretics questioned the power of the keys, and heresy was not countenanced even by the Emperor Frederick II at the height of his struggle with the Papacy.
 出典: Power, 1938.
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