ラッセル『結婚論』第四章「男根崇拝,禁欲主義および罪」n.7

第四章 男根崇拝,禁欲主義および罪 n.7:キリストの花嫁

よくあることであるが,嫉妬と性的疲労が同時に働くときには,性を否定する情熱の強度がとても大きくなる可能性がある禁欲主義が(性的行動が)非常に放縦な社会において成長し易い主要な原因はそのためである,と私は考える。

 けれども,歴史的現象として見た場合の(修道士の)独身主義には,(同様に重要な as well)他の原因もある。神々への奉仕に身をささげている男女の司祭は,これらの神々と結婚したとみなされ,それゆえ,生きている人間(mortals 俗人)との性交はすべて控える義務があると見なされる(のである)。彼らは,当然,例外的に神聖であると考えられるようになり,そのようにして,神聖性と独身主義とが結びつく。カトリック教会では,今日にいたるまで,修道女(尼僧)はキリストの花嫁とみなされている。そして,これこそ,修道女が生きている人間(俗人)と交わるのは邪悪であるとされる理由の一つであることは確かである(確実である)。

Chapter IV Phallic Worship, Asceticism and Sin, n.7

Where jealousy and sexual fatigue co-operate, as they often do, the strength of the anti-sexual passion may become very great. I think this is the main reason why asceticism is apt to grow up in very licentious societies.
Celibacy as an historical phenomenon has, however, other sources as well. Priests and priestesses dedicated to the service of divinities may be regarded as married to these divinities, and as therefore obliged to abstain from all intercourse with mortals. They will naturally be considered exceptionally holy, and thus an association is brought about between holiness and celibacy. Up to our own day in the Catholic Church, nuns are regarded as the brides of Christ. And this is certainly one of the reasons why it is thought wicked for them to have intercourse with mortals
出典: Marriage and Morals, 1929.
詳細情報:http://russell-j.com/beginner/MM04-070.HTM

 <寸言>
 新興宗教では教祖が神と同一視されるため、神の花嫁である女性信者(ただし、美人か性的魅力のある女性)が教祖様に性的奉仕することは神聖なる「奉仕活動」となる。
教祖様が女性信者に「手をつけた」ことが週刊誌などで時々報じられている。たとえば、・・・。